伏原(ふしはら)
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福井県小浜市伏原 福井県遠敷郡今富村伏原 |
伏原の概要《伏原の概要》 今の国道27号、東から来れば「後瀬山トンネル」の入り口手前、山手側の集落。旧丹後街道沿いに街村をなしている。北端を東西にJR小浜線が通り、その南を国道が並走する。その南に旧丹後街道が残されている。 伏原は、戦国期に見える地名。享禄4年(1531)12月27日の地蔵丸名田畠坪付注文(妙楽寺文書)のうち1反180歩は「在所津田 伏原たは田孫大夫」と見える。これより先文亀2年(1502)武田元信は当地に曹洞宗寺院仏国寺を創建したが、永正14年・天文3年の仏国寺領として「小石丸名あさかせ(浅ケ瀬)」が見える(仏国寺文書)。この地は天正16年7月21日の伏原村検地帳写にも小字「浅か瀬」とあり、当地内にあった。年未詳だが戦国期の本境寺領目録のうちにも「フシハラ」1反がある(本境寺文書)。また大永元年(1521)には当地内の別野谷にあった武田元光の別荘の地に曹洞宗発心寺が建てられたという。弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百卅文 ふし原栖雲寺分」「百六十文 ふし原村」と見える。 近世の伏原村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数59 ・ 人数357。村内をほぼ東西に丹後街道が通り、小浜城下の入口である欠脇御門((現大宮))へと続く。このため当村は寛永11年酒井忠勝の初入部以来歴代藩主の国入りには伏原縄手の普請手伝いを命じられた。城下町に直結する村のため、集落は直角に屈曲する鈎手をつくり両側に家並みを配している。中世は今富名に属して、集落のほぼ中心地に荘名の名残と思われる小字今富がある。また町場の形成をうかがわせる中町(なかんじよ)・下町(しもんじよ)の字名も残る。城下に隣接するため、すでに天正16年検地帳の名請人の中に町方商人の名もある。 江戸時代、集落東側山裾に鍛冶在所があり、藤原を名乗る鍛冶がいた。「若狭郡県志」によれば南北朝期に藤原吉広、永享年中(1429-41)に広次などの刀工がおり、広次の子宗次は寛正四年(1463)左衛門少尉に任じられ、その後宗重・宗清・宗吉と続き、天文年中(1532-55)の宗長に至る。小字別所では江戸時代に別所焼と称して日用雑器・染付などがつくられ、谷あいの斜面には窯跡が残り、別所焼の名で知られた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。 伏原は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北3町、戸数59、人口は男134 ・ 女151、学校1、小船3。明治44年火力発電所が建設され初めて電灯がついたが、翌45年大災で焼失し青井に移転した。大正7年国鉄小浜線十村~小浜間が開通し小浜駅が設置され、駅前道路が整備された。昭和42年国道27号が開通。同46年一部が南川町・駅前町・後瀬町・四谷町・千種1~2丁目となった。 《伏原の人口・世帯数》 449・189 《伏原の主な社寺など》 後瀬山 小浜市街地の西側、伏原の西。国道27号の「後瀬山トンネル」の山である。標高168メートル。小浜湾からの山姿は端麗だそうで、小浜の象徴として親しまれる。山裾北側を通る丹後街道を見下ろす要害の地で中世後期には山頂に若狭守護武田氏の本城が築かれた。山裾には妙興寺・八幡神社・発心寺などの中世以来の社寺がある。「若狭郡県志」は武田元光築城により御城山と俗称、その後愛宕神社を建てたので愛宕山とも称するという。古くから都にも知られていた。 『万葉集巻四』 同じ大嬢の、家持に贈りし歌二首 かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山ののちも逢はむ君 また家持の、坂上大嬢に和せし歌二首 後瀬山のちも逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ 『枕草子一〇段』 山は おぐら山。かせ山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。わすれずの山。すゑの松山。かたさり山こそ、いかならんとをかしけれ。いつはた山。かへる山。のちせの山。あさくら山、よそに見るぞおかしき。おほひれ山もをかし。臨時の祭の舞人などのおもひ出らるゝなるべし。三輪の山おかし。たむけ山。まちかね山。たまさか山。みみなし山。 謡曲「氷室」には「我此度丹後の九世の戸に参り、既に下向道なれば、これより若狭路にかかり、津田の入江青葉後瀬の山をも一見し、それより都に帰らばやと存じ候」とある。歌学書「奥義抄」などに載る歌枕。 うつろはむ物とやひとの契り置きし後瀬の山の秋の 夕暮 知家(続後拾遺集) 山の椎の実は後瀬山の代名詞にもなる名産で、「御湯殿上日記」に武田氏より椎の実を献上する記事が散見される。 をうかなる跡も後せの山におふるしゐて千とせのか たみとをみよ 三条西実隆(桂宮本叢書私家集 『遠敷郡誌』 後瀬山は古来若狭の名所として知られ、歌人の間に膾炙され此山を詠ぜし和歌は甚だ多し、萬葉集以後歌枕として櫻花椎實、契後後會の吟味多し、地籍は主に今富村に屬すと雖、其風致は小濱雲濱の物たり、中間の較高き所を琴ヶ峯と稱す小濱に近き山上に愛宕祠あり、急阪を登れば小濱の市街は脚下に展開し、一灣の風光指呼の間にあり其西麓に八幡神社、空印寺、妙興寺等の著名社寺あり。 八百比丘尼の巖洞は、空印寺境内後瀨山麓にあり、八百比丘尼の入定せる所と傳ふ其洞窟は今は少さきものなれ共、古は大なりしが次第に崩壊せりと傳ふ。 傳説 八百比丘尼は當郡西津村小松原(一説大飯郡高橋長者の娘)にして幼時奇魚(一説人魚)を食し八百歳に及びて容色少しも衰へず肌膚雪の如きを以て白比丘尼とも名けらるよく源平の盛衰の状況を自身に見聞して記臆し義經などをも見知ると云ふ。 瀧の清水は一名龍瀧と名け後瀬山の西麓にあり、水質純良にして醸酒點茶の料に適す、傳へ云ふ天龍寺の僧策彦入唐に際して携帶せし食料の内此水を以て作りし酒のみ變味せざりきと。 雲井の瀑は妙典寺の境内にあり、妙趣を以て古来有名なり。 常高寺には常高院の墓あり、室町時代に将軍義滿の入りし玉花院栖雲寺等は此寺の地點にありしものなり。 瀧の天神は淨土寺境内にあり、菅亟相の自刻と傳ふ。 正法寺観世音は佛谷浦の庄屋脇左衛門が海中より得たりと傳ふる牛伽趺座の如意輪観世音にして、其作優秀にして平家が西海に亡ぶ迄船中に安置せしが、一船に乘じて當地に漂着せるものをうと云ふ傳説あり。 小濱公園は町の西端今富村の地籍に跨り、梅田雲濱先生の碑、佐久間大尉の銅像あり、青井山の一部にして山上よりの眺望佳絶なり。 『今富村誌』 後瀬山 後瀬山は又後湍山ともいふ、伏原區に属す。滿山樹林鬱蒼として翠を含み頗る幽邃なり。山上武田氏の城趾に愛宕神を祀る故に又愛宕山と稱す、後瀬の春望は雲濱八景の一、萬葉集新拾遺和歌集其他古今の吟詠少からず南に接する一峯を琴ヶ峯と稱す俗に伏原山といふ風景甚だ佳なり、海水と河流とを前後に見る十三故に名づくと。後瀬山麓に發心寺、心光寺八幡神社、空印寺、八百比丘尼の碑、常高寺、妙興寺、瀧の清水、雲井の瀑等古社寺名勝多きも今は小濱町に屬す 『小浜町誌』 後瀨山 小濱町ノ南方ニ聳へ、四時蔚然トシテ翠ヲ含ミ、山色ノ幽静明爽ナルヲ後瀬山トナス。近古頂上ニ愛宕神ヲ祀ルヲ以テ又愛宕山卜稱ス。此山ハ武田氏ノ旧城址ニシテ今猶石垣ノー部ヲ存セリ。登臨スレハ城市海湾一望、遠近ノ諸勝目睫ノ間ニ在リテ風色絶佳ナリ。小濱八景中ニ收ム。清少納言ノ枕ノ草紙ニ曰ク、山ハ三笠山小倉山後瀬山云々、是レ其名高キ所以ナリ。万葉集及新拾遺和歌集、其他古今ノ歌枕ニ載スル所櫻花椎實、或ハ観雪聴鵑等ノ吟詠少ナカラス。又脈中別ニ峯アリ。琴ケ嶺卜稱ス。矚望海水卜河流トヲ前後ニ見ル十三ケ所、故ニ琴ノ十三絃ニ擬シテ斯ク名クト。 瀧ノ清水 一名龍瀑 後瀬山ノ西麓天神社ノ邊リニ在リ。旱魃霖雨卜雖モ増減セス。人其水源ヲ知ルモノナシ。水質清淡汲ミテ以テ醸酒ノ料、煎茶ノ資ニ供スルノミナラス、近傍数百家日常ノ飲料皆之ニ頼ル。往古洛西天龍寺ノ僧策彦唐ニ入リシ時、本邦ノ土産数品ヲ携ヘシニ、歳ヲ経テ味ノ変セサリシモノハ、只此清水ノ醸酒ノミナリキ。策彦深ク之ヲ称美シ、龍瀑醸酒之記ヲ作ルト云フ。是ヨリ其名更ニ高シ、京畿女 児ノ鞠歌ニ、筆ハ三對硯ハ二對水ハ若狭ノ瀧ノ水云々卜歌フト即チコレナリ。 雲井ノ瀑 後瀬山西麓、妙興寺ノ境内ニアリ。飛流数十尺、遙ニ巌頭ヨリ落チ、所謂銀河九天ヨリ落ツルモノ雲井瀑ト袮スル所以ナリ。近時樹木乱伐ノ為メ源泉痩セ水勢衰ヘテ大ニ風致ヲ損セリ。 今富神社 『遠敷郡誌』 今富神社 村社にして同村伏原字向山にあり、元二十八社神社と稱し伊弉諾尊・伊弉册尊を祀る、長暦元年の創立と傳ふ、境内神社に稲荷神社、祭神倉稲魂命、山ノ神社祭神不詳あり、若宮八幡神託祭神応神天皇は明治四十二年字神森より合併す。 愛宕神社 『遠敷郡誌』 愛宕神社 同村伏原字秋ノ月にあり、祭神は伊弉冊尊・軻遇突智命にして元後瀬山北西の頂上にあり、元和元年國守京極忠高公の勧請と傳ふ、境内神社に淺井神社祭神不詳及び秋葉神社祭神火産霊神あり。 『小浜町誌』 愛宕神社 後瀬山上武田氏ノ城址ニ在リ。元和元年八月神明社菊池某之ヲ創建ス。初メ熊野山神明社邊ニ在リ、後国主京極若狭守ノ女神社ヲ後瀬山上ニ建テ之ヲ移ス、今ノ所在地是ナリ。毎歳六月二十三日ノ夜、市民及傍近村民等、一大松明ヲ作リ之ヲ山上ニ搬運シテ、以テ燃焼スルヲ例トナス。此宵老幼群集ス。 以社挙クル所ノ四社(八幡、神明、天、愛宕)ハ、従来小濱市民ノ尊信最モ厚クシテ、祈願ノ亊アルトキハ必ス此ニ参拝ス。且又、何時ノ頃ヨリカ、毎年春秋二回、各町挙テ老幼男女相携へ西郊寺院等ニ相集リ、置酒シテ懇親ヲ結フノ慣例アリ。其時二ハ必先ツ右四社ニ参詣シ、家内安全ヲ祈願スルヲ以テ、終ニ此ノニ回ノ會合ヲ目シテ四社参リト稱スルニ至レリ。此風今猶行ハル。 曹洞宗霊松山発心寺 後瀬山の東側山裾にある大きな寺院。本尊聖観音。大永元年(1521)若狭守護武田元光の創建と伝える。周辺は元光別業の地で、晩年この地に居住して別所殿様と称された。寺の北・東側は巨大な石垣で囲われ、後瀬山城北東の要害的役割を果したと考えられている。 「神宮寺日記抜書」に「発心寺炎上天文十九戌年五月廿五日夜也、御本尊薬師ハ取出申由也、此時別所殿様御館之諸屋禰損候間、竹方々へ被仰出候」とある。武田氏の衰退した永禄年中(一五五八ー七〇)より無住となって荒廃した。元和2年(1616)小浜藩主京極忠高の帰依する三方郡臥竜院の天厳が再建したという、慶長年中に京極高次が寺回り山の下刈を安堵しているので、再建はその頃と考えられる。京極氏に代わった酒井氏も「発心寺廻山林并下刈事、任先例相違有之間敷者也」との安堵判物を出している。近世には禅道場として栄え、多くの雲水が修行したという。 境内には元光が一枝を手折って後柏原天皇に献じたと伝える綸旨の梅があり、同天皇の「待つ人の手折の梅は若狭なる後瀬の花の色し古計礼波」の歌碑がある。裏山には元光の墓(宝篋印塔)、国学者伴信友、歌人山川登美子の墓もある。 墓地は広大で、どこにそうした墓があるのかわからない。 『今富村誌』 發心寺(伏原にあり) 發心寺は後瀬出麓青山圍繞し景致深邃の地にあり、曹洞禪宗にして霊松山と號す、大永二年武田元光の創建する所にして開山は中岩禅師なり。?壁石垣相圍みさながら城郭の如く武田氏以て別邸を構へし昔を語る 榧の間あり昔は用材皆榧木を以て之れを造る、是れ元光後瀬城より時々來遊の處なりと、元光自作の像を安んず。元光の墓は低き五倫の塔なり。寺内に一老梅の蟠屈せるは所謂綸旨の梅なり、花時紅辱笑を含み清香馥郁たり創建者武田元光曾て此の花を 後柏原天皇に献じたりと 御 製 待つ人の手折の梅は若狹なる 後瀨の花の色しこければ 綸 旨 梅 伴 信 友 伏原に世をふる寺の紅梅は 今も昔の香ににほひつゝ 天皇の綸旨、竺菴讃十六羅漢及ひ元光の画像あり、元光の画像は季欽の晝く所なり 高成寺の歴代建長雲渓和尚の賛あり 季欽若は若狭國多田村の人なり畫技を以て名あり大像を畫くに長ず甞で明國に遊び名を顕し終に其の地に死せりといふ其の畫く所武田元光の像あり多蓋し永正頃の人 元和二年、京極忠高天岩和尚を招き中興の祖となし寺境の徭役を赦す。酒井忠直及び忠囿も亦此の例に依り免除の状を賜ふ。傳へ曰ふ、發心寺往古の本尊薬師如来は高成寺にありて別墅薬師といふ、今の本尊は十一面観世音にして愁覺大師の作なりと 伴信友翁の墓碑亦此の寺にあり 『遠敷郡誌』 發心寺 曹洞宗臥龍院末にして本尊は十一面観世音なり、同村伏原字蘭頭に在り、大永元年武田元光の創建する所にして開山は中岩なり、境内佛堂に禪堂あり本尊は文珠菩薩なり、武田氏及伴信友等の墓あり。 曹洞宗福応山仏国寺 本尊は釈迦如来。文亀2年(1502)若狭守護武田元信の創建と伝える(当寺旧記写)。 永正14年(1517)12月20日付仏国寺買得田畠山林等目録(寺蔵文書)に寺領として田地一町三反・山林二ヵ所・三宅八幡田禰宜職・勢井村山手一〇貫文が記される。年不詳8月12日付武田元光書状に 仏国寺者、伊豆守殿依為牌所、甲乙人等濫妨狼籍、 山林竹木伐採并懸諸公事諸役事、令停止訖、若於違 背輩者、可処罪科候、此趣筌翁仁可被申聞候、(下略) とあり、元光は当寺を父元信の牌所として庇護している。元信は伊豆守・大膳大夫を歴任、従三位となり、大永元年(1521)没。三条西実隆・飛鳥井雅親など京都の公家との交流もあり、能書家としても知られ若狭二楽軒と称した。境内には元信の墓(五輪塔)があるそう。 『今富村誌』 佛國寺 (伏原にあり) 佛國寺は福応山と號し曹洞宗の禪刹なり。武田元信の開基にして文亀二年の創建に係る。開山は順応慶随大和尚(大永五年八月二十日寂)なり、天明八年三月再建す。境内に元信の墓あり形五倫、元信畫像、武田氏系圖一巻、元信自の書を蔵す其の他面山和尚讚十六羅漢同白衣観音画像及び三尊彌陀畫像等あり彌陀画像は惠心僧都の筆なりと傳ふ 『遠敷郡誌』 佛國寺 曹洞宗發心寺来にして本尊は阿彌陀如来なり、同村伏原字片山に在り、文龜二年武田元信の開基にして開山は慶隨、順愚中興は天岩にして寛永二十年なり、境内に禪堂あり、本尊は十一面観世音なり、武田元信の墓あり。 入口にある案内板 後瀬山城 「後瀬山城」 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 伴信友 『遠敷郡誌』 伴信友 小濱藩士にして安永二年生る、鋭五郎と號し後に州五郎と改む、同藩士山岸惟智の第四子にして件信當の養子となる、幼にして藩主忠貫に仕ふ、文化三年忠貫卒し忠進に歴仕す、父信當の祿を襲ぎ本知九十石を賜はり、後百五十石を食む、文政四年九月病を以て職を辭し隱居す、幼にして學を好み殊に件家に入りては養父信當に國學の素養ありて其教化を受け諸書を渉猟し、本居宣長の著書に接するに及びて其學風を欽慕し、江戸に於て其門下を尋ね村田春門に遇ひ具に高風を聞き終に此人を介して名簿を送りしと雖も宣長既に没して後なりしかば没後の門人となる。國史古典の外考證の國學に長じ其論證適確にして穏健當代斯學の第一人者たり、平田篤胤、本居大平、黒川春村、東條義門藤井高尚等數多の學者と交り、長柄山風、中外経緯傳、残櫻記、宇知都志麻武邊叢書、神名帳考、神社私考、瀬見の小川、驗の杉、蕃神考、伊勢物語雑考、比古婆衣等の著書多し、弘化三年十月京郡に卒す、明治廿四年正四位を贈らる。. 『今富村誌』 件信友翁の慕碑 件信友翁の墓は伏原發心寺内にあり。墓誌に 善岳院道林信友居士 安永二癸已年二月二十五日於若州少濱生 弘化三丙午年十月十四日於京都逝于時七 十四歳同十八日葬 生父山岸次郎太夫源惟智 養父伴平右衛門源信當 碑は其の附近別墅谷にあり、琴柱が岡といふ。明治三十五年十二月有志相謀り碑を建て翁の偉績を不朽に傳へんと欲し廣く義捐金を募る。宮内省特に壹百金を賜はり舊藩主亦參百金を贈らる。明治三十五歳十二月建磚除幕式を挙行す、題字は久我建通公の執筆する所なり。毎年五月十七日を以て祭祀日と定む 伴信友翁小傳 伴信友小字鋭後に州五郎と稱し立入と號す若州小濱の藩士山岸惟智の第四子にして安永二年二月二十五日を以て生る、出でゝ同藩士伴信富の嗣となる文政四年病を以て到仕し専心和漢の學を修む深く本居宜長の卓識に服し其の遺志を継ぎ國典の研究を以で生涯の務となし著述考訂する所の書實に千有餘巻人となり温厚篤實博文にして強記僅に一瑣事を論するも旁引考證至らざるなし平生一室に端坐し外遊を喜ばす一日友人長澤伴雄来りて共に嵐山の花を賞せんことを勤む 信友歌を作りて辞して曰く 行きて見ぬ人は嵐の山桜 花と文とはいづれ勝れる と然れども居常意を攝生に用ひ朝夕弓を彎き刀を揮ひて身体を健かにす其の子弟を教ふる懇篤にして諄々倦まず又性謙退彼の六國史の如きは畢生の力を盡して對照校正し朱批紙に滿てりと雖も上木して世に傳ふるをなさず是れ其の著書の誤謬あらんことを慮りてなり明治十八年宮内省之れを騰寫せりといふ弘化三年十月十四日京都所司代屋敷に卒す辭世の歌に曰く いまはには何をかいはんよの常に 言ひし言葉?我が心なる と享年七十四若狭國遠敷郡伏原村發心寺に葬る明治二十四年十二月朝廷其の功を追賞して特に正四位を贈らる同三十五年十二月後進翁を仰慕するもの相謀りて碑を寺畔風景の地に建て永く其の偉績を不朽に傳ふ 明治四十四辛亥年夏六月郷土史料蒐集に際し翁の小傳を記し以て教授の参考に資す 雪外誌 『小浜市史』 伴信友は、平田篤胤・橘守部・小山田与清とともに国学天保の四大家と呼ばれた人物である。信友は、安永二年(一七七三)二月二十五日に小浜藩士山岸二郎太夫の子として生まれ、名を鋭、のち州五郎といい、事負と号した。天明六年(一七八六)一四歳のとき伴平右衛門の養子となり、文化三年(一八〇六)家督を相続した。同五年に御側御記録認御用となり、同十五年には御文庫預となるが、文政四年(一八二一)健康を理由に致仕し隠居した。 それに先立ち享和元年(一八〇一)、信友は村田春門を介して本居宣長の門に入ろうとするが果たせず、宣長の霊前に名簿を捧げて没後の門人となった。同じ没後の門人であった平田篤胤と交を深め、宣長死去後の国学の発展に寄与したが、篤胤とは後に絶交した。 信友は、賀茂真淵・宣長以来の文学的・考証的学風を受け継ぎ、歴史書・古典の考証に努めた。その正確緻密な考証は、当時としては最高水準のものであった。著述には、「長等の山風」「神名帳考証」「東寺古文零聚」「比古婆衣」など、全体では著述三〇〇巻、収録古典一五〇巻、校訂した古典二六〇巻におよんだ。なかでも東寺に残された古文書を書き抜いた「東寺古文零聚」や稲葉正義の『若狭国志』に加えた詳細な校訂は、若狭の歴史を見ていくうえで見落としえないものである。これらの仕事は、主として致仕したのちになされたものである。弘化元年(一八四四)には藩主の酒井忠義の所司代就任に従い京都の所司代屋敷に入るが、同三年四月十四日に七四歳の生涯をその地で閉じた。 伏原の主な歴史記録『大日本地名辞書』 伏原。小浜の向島に近接する地にして、往昔は刀剣鍜冶の家ありしと。小浜住広吉と銘するは貞和頃の人にて、蓋小浜鍜冶の祖か、永正三年小浜住宗次と銘するは、其孫裔とす、近代まで其流をのこせり。伏原発心寺は曹洞宗、大永年中守護武田元光の創始と伝へ元光の木主を置く、武田氏は永享十二年武田大膳大夫信栄安芸若狭両国の守護を賜り、其子信賢智略あり、嘉吉応仁の乱に干与す、弟国信を養子し、其子信親、其子元信、其子信豊、其子義統、其子元明、(一書元次)以上九代とす。 『今富村誌』 伏原區 伏原は湯岡區の西に隣り小濱町に接す。南の山は有名なる後瀬山なり、清少納言の枕草子に山は三笠山小倉山後瀬山云々と。田圃の一部は印ち津田の入江の地共に雲濱八景の一なり。古へ伏原村以西は鹽葦茂り河水海水と相連る。郡縣志に小濱は今富莊の濱なり昔阿納尻浦に市屋ありて諸國の商船此の處に來リね云々爾後市店を小濱に移す云々。又上古は後瀨山麓に至るまで悉く海濱にして處々茅屋あり民人漁塩を業とす後市屋となる云々。湯川は長源寺の東北より今の市場町に流れて海に入り其の北の海畔處々は寺院ありしを京極高次領國の時城を雲濱に築き湯川の水を城外に導く云々。 戸数五十三、人口二百五十八、田畑段別四十三町歩、山林四十二町餘歩。舊時の草高五百十四石六斗一升なり。 今富神社、愛宕神社、発心寺、佛國寺、武田城趾、伴信友翁の碑、武田元信元光の墓等あり 愛宕神社は後瀬山上武田城趾にあり。元和元年の創立にして京極忠高山城國葛野郡より勸請すと。郡縣志に 傳言元和元年八月三日有二白羽飛箭一止二熊野山神明社邊一神明社司爲二奇異之思一供二神楽一 于レ時神託而示爲愛宕神於レ是營二假殿一以二飛箭一爲二神體一而祭レ之其後京極若狹守女建二社于一 後瀬山上一移レ之今社是也毎年六月二十三日夜衆人執二松明一而詣二斯社一 今富神社の入口に山伏塚あり。昔此の村に住し山伏の墓ならな、此の頃は發心寺村といひしとや同神社境内に大欅一樹あり周圍五間幾百年前の古木なり 昔此の村に小濱住廣吉といふ刀釼鍛冶あり。貞和年間の人にして其の後裔に永正三年小濱住宗次と銘するあり小濱鍛冶の祖なりとか傳ふ 發心寺谷より出づる一溪流を杓川といふ。嘉永六丑年三月小濱に大火あり後安政五午年八月再火災あり時の町奉行武久權十郎氏杓川の水を延きて新に川を堀り防火の用に供す。本區幸に洪水の時排水の一助となる 西光寺 康永三年まで無量山西光寺といふものあり。此の國兵亂の節堂宇退轉と古記に見ゆ、康永三年は後村上天皇興國六年に當る。尚ほ吉祥院といふものありしと年代詳かならず。 別墅谷 伏原村發心寺境は武田元光別墅の地なり。元光榧木を以て一亭を造り?此?来遊す、榧木座敷と稱す今に至って在り、茲により此の邊を別墅谷と稱す後世土器を製せしを以て別所谷といひしなうとか 椎實 庭訓往米に所謂『若狭椎』樛」と、蓋し後瀬山の産する所なりと、木下長嘯子後瀨山に登のーりて椎實を拾ひ其詞に擧白集を見る。嘯子は若狹守勝俊なり。 三十八所明神社 伏原村に在り産神たり。二月十六日祭あり斯日蕪を竹串に貫きて之れを供すと古書に見ゆ 伏原の伝説『越前若狭の伝説』 愛宕権現 (伏 原) 元和元年(一六一五)八月三日熊野山の神明宮の地に白羽の矢があった。神明の神主が不思議に思い、かぐらを奏して祈念したところ、託宣があって「わたしは愛宕(あたご)大権現である。後瀬山に社を建てるならば、国家の守護神となろう。」と告げた。神主はそこに草庵を建て、この矢を納めた。その後京極若狭守様のお姫様が、今の所に社を建てた。 権現の別当(社寺の管理者)は長寿という。がの矢を初めて見つけたので別当と定められた。延宝のころまでに四代である。 (社寺由緒記) 註 「若狭守護代年数並旧記」にも同じ内容のことが書いてある。神明神社の神主菊地は、神のお告げを受け、湯岡村の三郎右衛門、小浜町の染物屋山田掃部(かもん)、筆師河野豊後などの協力により、後瀬山にアタゴさんを祭った。(杉原丈夫) りんじの梅 (伏 原) 後瀬山の東のふもとに発心寺という寺がある。武田元光の創建である。寺中に紅梅の古い大樹がある。開花時の美しさは世の尋常の梅と異なっている。よって元光はこの花を後柏原天皇に献じた。天皇は感じられて、次の御製(ぎよせい)の歌とりんじ(綸旨、任官の勅)とを賜わった。 待人の手折の梅は若狭なる 後瀬の花の色しこければ (小浜のみなと) 伏原の小字一覧伏原 中向イ 新田 下向イ 依藤 荒堀 上向井 赤池 伊原 甲前 盤上 称丸 流田 柳原 茶木 大津 羽哉 千軒 豊 樋詰 細田 四反 村下夕 極田 大島 落雁 汐入 入江 下町 中町 津田 覚知 谷口 山崎 向山 神森 今富 稲葉 片山 別所 杓川 後瀬 夜雨 櫛笥 宮ノ道 蘭頭 武田 清水 平林 長岬 小谷 南 水越 琴ケ嶺 扁平 秋月 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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