丹後の地名 若狭版

若狭

府中(ふちゅう)
福井県小浜市府中


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福井県小浜市府中

福井県遠敷郡今富村府中

府中の概要




《府中の概要》
舞鶴若狭自動車道の小浜インターがあるところ。集落は南川、多田川と北川に挟まれた中央部に立地する。地名の由来は、古代国府が所在したことによると思われる。北川南岸には川を利用した市があったことを思わせる市ヶ淵などの地名がある。条里制遺構が残る。
府中は戦国期から見える地名で、南北朝期の文和4年3月28日に太良荘真村半名の文書を去り渡した「すけかた」に「府中馬四郎」という注記があり、この府中は若狭国衙所在地を示していると考えられる。地名としては、長禄2年11月13日の弥四郎田地売寄進状に「売主若州府中住人弥四郎」と見え、「在所若州府中基本之下大之分」の田地1反が長源寺へ売寄進されている。天文23年4月14日に幕府奉行人松田頼隆は「若狭国府中下四原雑職名内」田地1反を神宮寺に寄進している。この雑職名とは国衙雑職のための雑職名のことで、四原とは北川左岸の小字志原のことであろう。当地の小字には東町・西町・南町・北町のように町場に関連するかと思われるもの、捨物田・瓦毛田・土器田など職大給田に関するものが見える。これらの田地は国衙直属の手工業者に給され、一括して細工(さいく)保とよばれた。同帳に載る織手(おりて)名の名残と考えられる折手(おりて)の地名もあり、これらの地名は当地と国衙の深いかかわりを示している。
中世には今富(いまとみ)名に含まれるが、「若狭郡県志」は「下中郡府中村ニ有二武田五郎出城之旧趾一、伝言五郎従臣小島紀伊守守レ之矣」と記す。室町末期には若狭守護武田氏の一族宮川新保山城主武田信方の支配地であった。
弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「三百卅七文 府中」と見える。天正16年7月21日の伏原村検地帳写には名請人として「府中紺屋新九郎」が見える。
近世の府中村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数94・人数456。
嘉永7年の請書帳(東野家文書)によれば、当村は天応元年(781)12家によって立村され、はじめ興村(こうそん)と称したが、のち府中村にかわったという。12家は天応家と呼ばれ、江戸期では十二家衆ともいったとの伝承がある。十二家衆はイサザ(白魚)漁の権利を有し、網12張が許された。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。
府中は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北2町余、戸数92、人口は男231 ・ 女240、学校1,小船13。

古く国衙(国府)の置かれた地を府中といったし、その国衙の近くに置かれたであろう総社もあるから、この辺りこそが古代の若狭国府の地であろう。しかしその遺跡などはいまだ未発見という。今は民家があるあたりかも知れないから、発掘はできない。
古代から中世にかけてはかなり長い期間があるから、その期間ずっと替わらずに当地にあったかはわからないが、こうした地名である以上は、ほとんど当地に置かれていたとみるのがよいのではなかろうか。


《府中の人口・世帯数》 245・71


《府中の主な社寺など》

府中遺跡
府中遺跡

国府跡
『小浜市史』
若狭の国府
その国府域はどこにあったのだろうか。若狭の国府域は従来、小浜市府中(米倉説)、和久里の東で、木崎の北方、ないしは、東小浜の西北付近(藤岡説、木下説)に推定されていた。これらの地域の内、木崎の北方には檜物田、瓦毛田、土器田など中世の府中に関連する府中の免田に系譜をひく小字名を残しており、また和久里の西北には府中の字名を残しているなどからみて、府中が中世の府中の所在地であって、その東に接して、府中城とでも呼びうる地域があったことはまちがいない。しかし、古代国府は中世の府中とは場所を異にする場合も多く、この府中を中心とする地域に国府を推定してよいかどうかは疑問が残る。ことに、昭和六十一年(一九八六)の小浜市教育委員会の遠敷遺跡発掘調査では、同地域には顕著な奈良時代の遺跡の存在を確認することができず、むしろこの地域の東端小字石田で掘立柱建物跡を見つけており、その付近には奈良時代の土器がかなり散布しているし、国府域の南側で表面採集だが神功開宝も発見されている。この点からみると、国府は小字石田から東で、遠敷にかけての地域に推定したほうがよさそうである。
 したがって、これまでの推定地では東小浜の西北の地域が一番近いことになる。一方、さらに東では、遠敷川の氾濫源にあたっていて国府域の所在地としては不適切になるから、一つの仮説として、石田から下?(門カマエに隹)原あたりまでのところで方一キロメートルの地域に想定しておきたい。このことは、石田より西では旧地形が一段低くなっていること、また上?原の付近で水田の畦が直角にまがっていることなどを一つの手がかりにしたが、もちろん発掘調査で確かめたものでないから、一つの仮説に留まるものである。
 もちろん、その中には国の行政を執行する国庁と、その付辺で国の役人やその関係者が居住していた国府域とに分けられるが、その厳密な位置や構造は、今後の発掘調査に待たざるをえない。国庁は方五〇〇メートルほどの区域をもっているのが通例であるが、若狭の場合には、遠敷の南辺の扇状地の上あたりが最もふさわしいが、なお、その詳細については、今後の調査をまたざるをえない。また、この国府が、字府中に移転して中世の府中となるのがいつごろのことなのかはよくわかっていない。ただ、この府中の所在地は南川と北川にはさまれた低湿地で、決して耕作にも居住にも適切な土地ではない。そのような土地に府中が営まれたのは、北川、南川と小浜湾との水運の要地であったことが一つの要因になっているものとみられる。


『今富村誌』
国府の沿革
 今富莊(古の遠敷郷今の今富、小濱及び口名田、雲浜、国富の一部の地なり、藩政時代の府中組と稱するは今の今富村府中、和久里、木崎、多田、生守、野代、尾崎、湯岡、伏原、青井、口名田村須縄、口田繩、奥田縄、雲浜邑上竹原の十四箇村より成る)は若狭國の中央に位し古昔國府を此の地に置く今の今富村府中是なり。遠飛鳥朝(允恭)荒礪命國造を賜りてより以来(景行御代に磐鹿六雁命に之れを賜ひ子孫世襲す履中御代膳臣余磯に賜ふ)國司國守守護代官等の諸官舎及び各公吏の私邸等あり以て税所を置き本國の租庸を調す
 文武の御代若狭王ありて土地人民を私有せしことあるも、孝徳の御代大化の改新を施し給ひ公地公民となし政務を統一し国司の處る所となる。蓋し當時の国司は地を領するに非ずして唯正税を領するのみ



総社神社

国府の総社が残っている。
『遠敷郡誌』
惣神社 村社にして同村府中字南町にあり、元総社権現相社權現又は熊野大権現と稱す、祭神は五十猛神なり、山神社祭神大山祗命は字北町より天神社祭神菅原道真公は字西ノ町より共に明治四十一年合併す。


広峰神社
『遠敷郡誌』
廣峰神社 同村府中字山ノ越にあり、祭神は素盞鳴命なり。


曹洞宗興府山福泉寺

『今富村誌』
福泉寺(府中にあり)
 府中総社の附近一小禪寺あり福泉寺といふ、曹洞宗に属す。此の寺もと太良莊意足寺の平僧地たりしが、意足寺の大飯郡へ退転以來加茂長泉寺の客末となる。今より八十餘年前祝融の災に罹り古記の存するものなし。明治九年大然和尚法地開闢阿彌陀如來あり、元西念寺にありしものにして行基の作なりと傳ふ。堂宇宏壯ならず林泉の美なしと雖坦々たる平野は一樹の遮ぎるなく、多田の高峯は遙に雲際に聳え、後瀬の春望亦双眸に入る。傳へ曰ふ、境内は往古國分寺十王堂のありし地なりと。

『遠敷郡誌』
福泉寺 曹洞宗長泉寺来にして本尊は十一面観世音なり、同村府中字田ノ越に在り、元意足寺末後に長泉寺末となる、明治九年大然法地開闢す。


府中城趾
『今富村誌』
府中城趾 府中城趾は武田五郎元實(元光の孫)天文年間茲に城き永禄二年以後從臣小嶋紀伊守之れを守る城趾今開墾畑地となる


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


府中の主な歴史記録


『今富村誌』
府中區
 府中は本村の東海部を占め南北両川の間にあり。戸敷八十五、人口四百五十八を有し藩政時代草高九百三十四石七斗九升五合、全區平坦にして山林なし、田畑段別八十三町歩餘農を以て生業とす、米は其の主要産物なり府中の大根は隣區和久里と共に美味を以て賞せらる
此地往古國府の所在地にして、今尚総社を存す(昔国府の地必ず総社と国分寺とを置けり区内東野甚太夫家は古来国分寺因みある舊家なりとか)
天王社、天神社、山ノ神社ありしかと維新後之れを合祀す。天神ノ森は区の入口にあり 郡縣誌に『府中村は上竹原村の東いあり此邉國の中央なり相傳ふ上古の國府此處にあり今に至るも或は国府と稱す』又曰『総社権現は下中郡府中村にあり二月二十五日は祭日にして神事の能あり伊佐々祭と稱す』と
松畷 南川府中堤防六町を柳畷といふ。昔川柳の多くありし故ならんか、今は百餘の老松枝を交へて清流に映す雪景殊に佳なり。今より二百五十餘年前國守酒井家三代忠直軍事と風致とを兼ね若狭三道に松を植ゆ今其の一部を僧す
祇園祭 隣村雲濱村に天王社あり廣峯神社といふ。素盞嗚命尊(午頭天王)八王子(五男三女)稲田姫(小将井天王)を合祀す。貞観年中の勧請にして氏子は今富(府中)雲濱(上竹原)西津(下竹原)國富(丸山)の四ヶ村内にあり蓋し府中上竹原は古の所謂今富莊の地(丸山は上竹原の移住地)下竹原は國守京極氏築城の時雲濱より西津の濱へ移転を命ぜられたる故なり。毎年六月七日(現今陽暦七月七日)を祭日とす。其の祭禮實に勇壮活溌にして他に其り類を見ず今尚古式を存す
 七日未明下竹原の漁夫裸體白褌神船三隻を西津濱に艤し分乗し終るや鼓聲一撃三船並び発し海波を蹴って河口に入る其の第一着を勝者となすを以て各船相爭ふの状巳に父子兄弟なし定刻に至れば茲に御輿を迎へて船中に奉し咄嗟船を驅り再び相競ふて南川を遡ること十数町市中の壮者数百軽衣徒跣其の綱を曳きて之れを助く淺が瀬に上陸し府中天王社に着御鎌取りの式あり神鎌は木製にして竹竿に数本の鎌を具ふ(昔より府中に十人衆あり此式を行ふ今六家を存す)神鎌一たび倒るゝや群衆爭ふて之れを折り取るなり午後動座して小濱町八幡神社境内御旅所に遷座一週日此の間を俗に竹宮といひ近村の男女老幼陸続として参拝す(小濱遷座は中古よりのことにして昔は府中に七日間御旅あり府中踊をなす)十四日午後御輿還幸再び鎌取の式あり藩政時代にありては當日小濱市中は山鉾神樂太鼓獅子舞等を出して奉送せしと聞けど今は唯甲胄武者二十四騎神輿を護衛するのみ
御衣掛石  本區横山奥太夫氏庭園に一つの石あり。傳へ曰ふ昔僧空海廻國の砌り本郡府中の一庭園に休憩ありしに南の山中より光明遙に身を射る空海奇瑞の相をなし直に山中に攀ぢ登り観音の像(行基作)を發見し云々の御衣掛石なりと、
府中のいさざ いさざ形白魚に似たり背に紋あり大さ寸許毎春河口に遡る美味賞すべし 昔時里人之れを漁し朝廷に献せしもの十二家ありしと。 其の目を貫きて乾したるものを目刺といふ若狭灣以外之れを産せず。現時漁法の進歩と乱獲との爲めに南北両川とも上流に遡らず惜むべし。或人の歌に『しさざとる古府のさと人佗ぬらし河瀨の波の沍へかへりつゝ』と
古城趾あり俗に築山といふ今畑地となれり
寺あり福泉寺といふ曹洞宗なり、維新前西念寺十輪寺の二ありしと聞けど今はなし
煮扱苧  郡縣誌に『府中和久里湯岡伏原等の村人多く之れを造る始め青井村の造る所良しとす今は然らず凡そ麻皮之れを剥ぎ取り灰を加へて、釜中に煮其の後河流に臨み之れを扱濯く故に煮扱の名あるなり』と


府中の伝説


『越前若狭の伝説』
大亀橋              (府  中)
 府中に大亀(おおかめ)橋という石橋がある。石は長径一二〇センチ、短径九〇センチ。厚さ三〇センチ、重さ七五〇キロほどある。むかし和久里の太平次(たへいじ)という大力の者が、多田の祭りに招かれたとき、この石を見つけ、その形がくつぬぎ石に適しているので、所望したところ、ひとりで持って帰るなら与えるといった。それでただちにこれを背負って持ち帰った。その後転々として、現在の橋になった。        (福井県の伝説)

笈掛け石           (府 中)
 弘法大師の笈(おい)掛け石がある。  (寺社什物記)

きぬかけ石             (府 中)
 横山与太夫の庭に、ひとつの石がある。むかし空海が諸国をめぐって、この村へきて、庭で休けいをしていると、南の山から光明がさすのを発見した。空海は不思議なものを見たと喜び、すぐにその山へ登り、観音像を発見した。この時空海か、衣をかけたといわれる石である。               (今富村誌)





府中の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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