旧・今富村(いまとみむら)
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福井県小浜市多田・木崎・和久里・府中・湯岡・伏原・生守・野代・尾崎・青井 福井県遠敷郡今富村 |
旧・今富村の概要《旧・今富村の概要》 今富は、鎌倉期から見える地名で、国衙税所(さいしよ)領今富名があり、同名は遠敷郡・大飯郡・三方郡に散在したが、今富荘が成立して室町期以降には遠敷郡のうちとなった。 名(みょう)の「今富」の名称は若狭国衙在庁官人の仮名に由来すると思われるが未詳という。若狭国衙の租税を扱う税所の職にある者が下司職(のち地頭職)を有する別名であり、この下司職(地頭職)を有する者を「領主」と称し、室町前期までの歴代の今富名領主とその代官の名は「若狭国税所今富名領主代々次第」によって知ることができる。 それによると鎌倉期初頭の領主は最有力在庁官人で同時に御家人となっていた稲庭時定であったが、彼が建久7年に当名をはじめとする所領を源頼朝に没収されたあとは守護若狭忠季が今富名領主となり、安貞2年から北条時氏・経時が、寛元4年4月から鎌倉幕府滅亡時までは北条氏得宗家が領した。文永2年の若狭国惣田数帳案には今富名55町100歩は、遠敷郡富田郷に37町5反120歩あるのが中心をなし、その他三方郡三方郷に3町3反180歩、大飯郡青郷に6反あると見える。 元弘3年~建武3年には国司の洞院公賢・伊賀兼光が領主となったが、元弘3年には国司代の山徒多門坊らが「国衙御領今富名内」に乱入したため、悪党として討たれている。室町幕府の成立とともに今富名は幕府守護の所領とされ、「守護人領」と記されている。従って守護の交代に伴い領主も頻繁に交代した。観応2年2月足利直義方の守護山名時氏の時、足利尊氏は当名を佐々木(京極)道誉に与えており、これ以降守護職と当名領主職が分離する場合が生じた。 「太平記」巻32には山名師氏が「若狭国ノ斎所今積」を懇望したにもかかわらず佐々木道誉がこれを無視したため師氏は敵方になったと記している。また貞治5年からの一色氏の守護支配下において、山名氏が領主として今富名を支配していた。明徳2年の明徳の乱で山名氏清が討たれたのち、守護の一色詮範は小国よりは「大庄」を賜りたいとして「税所今富庄」を軍功の賞として将軍より与えられたという。南北朝期の文和3年~康安元年の間守護であった細川清氏は今富名内8か所に給人を付したこと、同じく名内の一部を大飯郡大島八幡宮に寄進したことが知られる。一色氏支配下では守護代小笠原浄鎮・明錬が代官として支配したが、応永6年6月に地下人の訴訟や逃散によって代官を改替されていることが領主次第に見える。太良荘の永享5年分の地頭方算用状に「守護代今ツミノ政所両使人足」に宛てた333文が記されており、上記のように今富が今積とも称されることがあるので、これは今富名政所を指すのであろう。 室町期には北川と南川の合流点を中心とする地を今富荘と称するようになり、地名としての今富が成立する。例えば長禄4年9月に太良荘の農民たちは、今富は太良荘の「親名」であると述べている。ただし散在していた今富名がすべて今富荘となることはできないことから天文9年6月に「遠敷郡国富庄今富之内」とあるように散在田のうちには近くの荘園に包摂される場合もあった。 近代の今富村は、明治22年~昭和26年の遠敷郡の自治体名。多田・木崎・和久里・府中・湯岡・伏原・生守・野代・尾崎・青井の10か村が合併して成立した。旧村名を継承した10大字を編成。役場を和久里に設置。村名は、鎌倉初期に成立した税所今富名に由来する。大正7年国鉄小浜線が開通し小浜駅が設置された。昭和26年小浜市の一部となり当村の10大字は同市の大字に継承された。 旧・今富村の主な歴史記録『今富村誌』 村名の由来 今富は舊莊名なり。和名抄に『遠敷郷』とあり今富小濱及び口名田、雲濱、國富の一部の地にして今の遠敷松永邊は神戸郷といひしならん。 守護職次第記に『右大將頼朝御代津々見右衛門次郎忠季(島津忠久の弟)當國の守護たり。承久三年宇治川に戦死しければ忠時は跡職を賜り今富名の代官職は忠季後家若狹尼に賜はる忠時寛喜元年罪ありて没収』云々とあり、又太平記に『山名右衞門佐師氏は今度八幡の軍に功ありて忠賞我に勝る人あらじこ思はれける間先年拝領して沫當知行なるばかりなる若狭國の齊所今積を本の如く充て給ふ』云々。當時今富莊を以て當団の府邑に代へ守護下向を小濱入部といひしなり。守護職次第記に『應永二年九月十九目将軍家當国高濱當濱御成ありて玉華院に入御』云々。又『應永九年五月に西御所一色殿父子の御臺相與に九世戸の御次に當國に御下向高濱其後當濱御一見栖雲寺御座』云々とあり(栖雲寺古文書縁起の章及び大字誌青井の條参照)荘園、下屋敷なり。所謂湯沫料なり。中古藤原氏の盛なるや一門皆顕官に上り宏壮なる第宅を構え豪奢を極め別に下屋敷を所有す、其の下屋敷には始めは唯莱園等に供するの地を領せしを以て朝庭之れを公認し租税を免じたりしが、終には天下至る所に莊圜を爲すに至る。源頼朝地頭を置きて其の制を破りしと雖尚ほ莊名を歴史上に止む 若狭國府は和名抄に『國府在遠敷郡行程上三日下二日』延喜式に『中近國管三郡』とあり舊事考に『東寺なる和文延喜の頃の若狭國の文書に、國人國府右馬四郎と云ふがありて之れを府中の右馬四郎とも書く古府の此地なること疑なし』とあり。地志提要に若狭古へ國府を遠敷郡に置く、鎌府の時惟宗忠季に今富莊を賜ひ州守に任じ其の餘郡邑を以て藤原行光中條家長等に分與す寛喜の初め將軍藤原頼経惟宗氏の邑を収め北條経時に賜ふ爾後北條氏世本州を領して京畿を控制す國府の政治衰へ武門続柄以後に至るも在廰の世官尚存したり税所某が勅使代として國内大社の遷宮に臨める如き其の證とすべし、太平記に『齋所今積とありて地名に轉用せるも税所なり』云々 『遠敷郡誌』 今富村 北は小濱町雲濱村及國富村に境し、東は遠敷村に接し、南は口名田村に、西は大飯郡加斗村及小濱灣に接す、灣に接する所は地形奇勝に富み小濱公園をなし、衣岩及龍鬚菜濱は名高し、南部は山地にして多田岳は口名田村との境界に聳え後瀬山・熊野山及青井山は村の西端に連亘し、名田庄より出でたる南川は村の中央を流れて小濱町に入り、国富村との村境を西流せる北川との間に平野を成し府中・和久里等の村落を點綴す、生業は農業を主とし林業を副とす。 青井 地形上小濱に接続して港湾の西端に位すると以て、古来小濱町に包含して政治的の統轄を受けたることあり、今富莊の一部なり、小濱町より後瀬山麓に沿ひて此區に入りたる丹後街道は青井山麓に到りて分岐し、本通は西に向って勢井坂を越えて大飯郡に入り、一道は南に向って谷田部坂を越ふて口名田村に出づ、青井山は北西山麓は急峻なる断崖を遶らして直ちに海に接し、西南は山地に接し東は小濱町の一角を距てて後瀬山に對し、中世戰亂の時代に於ては要害の地點たりしを以て山城の遺跡あり、今は景勝の地として之れに公園を設け梅田雲濱の碑、佐久間大尉の銅像を建設し又遊覧の設備をなせり、高成寺は公園と地を接して青井山の東麓にあり、それより南方に到って慱説に名ある船留岩あり。 傳説 古へ筑紫に王孫なる者あり其の女伊勢大神宮に詣で神託に隨ひ船に?じて海上に浮び其到る處を以て居となさんと欲す時に其船熊野山麓に到る則ち斯岩に船を繋ぎ上陸して山腹に居り十二子を石上に産む其岩を産岩と名づけ後代に存す云云。 庚申社は慶安二年二月國守酒井家の族臣都筑秀久母(酒井忠勝の女)祈願あるにより之れを創建すと云ふ、神明社は古へ交通の要路に當りて廣き地域を有し、其社地に住する者一小部落をなしたり、境内に俳句の碑多し、西福寺境内には小野鶴山・西依墨山・大澤鼎齊・大澤領吉・西依孝鐸・西依孝博等の墓あり。 府中 村の東南部を占め北川南川に介在して平野を占ひ、往古國府の所在地にして總社の名を存する神社あり、雲濱村贋峰神社の祭禮には神輿一度此村の天王社に渡御す、横山氏宅に昔僧空海廻国の際休憩せしと傳ふる御衣掛石あり、築山と稱する畑地は古城址なりと傳ふ、西念寺・十輪寺等維新前にありしと云ふ。 和久里 西方寺の松は藩政時代より有名にして、寺内にある市の塔は延文三年朝阿彌が小濱の市場町に建立せし寶篋印塔にして後八幡小路に移轉し後更に此所に移せり、字才向田の地は藩政時代刑場のありし地にして、維新後荒廃に歸せしが今は本村小學校農業實習地となる。 木崎 和久里に隣り元和久里村の一部たり。 多田 多太岳の麓にありて山を境として東は遠敷村に境し、多田川の渓谷にあり、多田神社・多田寺の外昔宗傳寺、西光寺、正樂寺、正光寺等の諸寺あり、就中正光寺は字正光寺畷より西字池町にかけて廣き寺址を存す、又性興寺と記し古へ興言宗にして十二坊ありしと云ふ、近世迄淨土宗心光寺来にして本尊は阿彌陀如来なりしが今は廃す、文永二年太田文にある性興寺は之れなるか、寺址の北邊に曾我兄弟の墓と傳ふる五輪の石塔三基あり、字小山に三つの圓塚あり、石室を存す、近年刀剣土器を發掘せり。 生守 木崎の南にあり、廃寺西福寺ありたり、洞源寺境内壹灣守備及日露戦役殉難者の招魂碑あり。 野代 木崎の南に連る、妙樂寺は山麓の高地にあり。 尾崎 野代の西に接し尾崎の鼻を以て郡道は口名田村に入る、此村昔時は南川の對岸谷田部の北にありしと傳ふ。 湯岡 丹後街道に當り古くは稻岡とも書す、後瀬山の東端此区に於て一小山となり頂に湯岡城址あり。 伏原 西直ちに小濱町に接し南に後瀬山を負ひ、北に南川を控へ一區劃をなす、武田氏居館の趾と傳へらるゝ所あり。 青井区は小濱町の西に接し小濱灣の海岸より勢坂・谷田部坂一帯の山地を包含す、其人家ある所は昔時小濱と稱せしこと西福寺文書等によりて知られ、又現今の小繽町青井より公園一帯を青井村と稱せし時代あり、藩政時代に於ては神明社下は勢坂と谷田部坂との分れ道にして二三の茶店等ありて旅客に便せし地なり、現今の鐡道線路は勢坂の舊道の地鮎に当る。 今富名 現今の今富村地名は此に據りしものにして、古へに於ける地籍とは別なり、今富村小濱町雲濱村の一帯を今富と稱し、今富名は此地名を取りで庄園に名づけたるものにして、税所今富名或は齊所今積ともなせり、府中は元國分のありし所にして大化の新政に國郡を更定して國司を任命し、班田法によりて口分田を人毎に給され、若狭一國の國司の役所ありしを以て税所の名を冠せり、國衙の領する所たりしと雖も班田收受の制度は後に至りて行はれず、私田次第に増し国衙領は次第に縮少せり、頼朝諸國に守護を置くに到り、土地の主権は多く武門に歸し、今富名の大部は守護領収移されたり、今富名の地域及び創始は之を詳かにする能はずと雖鎌倉時代に入りては守護稻庭時定所領として知行し、税所代並びに公文等の代官を置きて管せしめ、後北條經時之れを領してより代々北條氏之れを領して高時に到る。 文永二年総田數帳によれば、国領今富名五十五町百歩とあり、而して其今富名が皇室御領たりし事に關しては、羽賀寺年中行事に享祿三庚寅年秋、大裏段銭を今富の寺社百姓等計に懸けられたる事見え、滋賀縣葛川村明王院文書に若州今富より供御料を京都へ送る途中葛川に於て紛失したる件につき賢行、國高より林河内守に宛てたるものあり。 從若州今富 供御料運上之處去十三日於葛川内坂下落取候毎々如此儀候之間迷惑通注進仕候一々被仰付爲在所致糺返之様御下知肝要存候於不然者自今已後彌路次不可有正躰候子細猶使者可中入候云云、曩に元弘三年王政復古して大化の舊制に復するや、藤原公賢を若狭國司に任命し、其下に目代、小目代、税所を置き鎌倉時代以前の制度を暫時設けられしも建武の政変によりて室町幕府の勢力範圍に歸し、守護領となり一色氏武田氏傳領して織田氏の統一に到る。. 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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