加斗(かど)
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福井県小浜市加斗 福井県大飯郡加斗村本所 |
加斗の概要《加斗の概要》 JR加斗駅、舞鶴若狭自動車道の加斗パーキングがあるあたり。加斗地区の中心であり、中央を東西に走る国道27号を境に南側の上加斗と北側の下加斗の2集落からなる。加斗は広域地名で、当地は元は本所といったところである。 中世の加斗庄の地で、鎌倉期~戦国期に見える荘園。若狭国大飯郡のうち。 東隣の現飯盛(はんせい)・加斗を含む地域に比定される荘園。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に本庄の一として「賀斗庄四十町」がみえる。同帳は別に国衙領の応輸田として「加斗加納廿四町二反二百歩」をあげ、除田四町三〇〇歩は不作二町三〇〇歩・下司給一町・公文給一町、定田は二一町一反二六〇歩と記す。これには「領家国衙与円満院雑掌相論、当時雑掌沙汰」の朱注、末尾にも「下司御家人虫生五郎跡、永重二郎太郎伝領之、公文御家人同小二郎弥九郎伝領」の朱注がある。この注は鎌倉末期の状況を示すとされるが、これより推測すると加斗庄は近江国園城寺円満院領で、新たに出作で開かれた加納田二四町余の領有をめぐって国衙と円満院が争っていたと見れられる。当庄は室町後期には半済の結果、下地中分されており、天文9年(1540)3月11日付の武田信豊加判右京(粟屋カ)進奉下知状に「加斗庄本所之内」「半済之内」とみえる。 加斗村は、明治22年~昭和30年の大飯郡の自治体。東勢・西勢・飯盛・本所・岡津・鯉川・長井の7か村が合併して成立した。旧村名を継承した7大字を編成。役場を本所に設置。村名は、古来加斗組と総称し、かつ中世の荘園名によるという。 大正9年国鉄小浜線が開通し、勢浜・加斗の2駅が設置された。昭和30年小浜市・本郷村の各一部となり、長井は本郷村の大字、本所は加斗と改称し、他の5大字とともに小浜市の大字に継承された。 加斗は、昭和30年~現在の小浜市の大字名。もとは加斗村本所。 《加斗の人口・世帯数》 284・106 《加斗の主な社寺など》 蒼島 加斗の松原より海上沖合1キロの小浜湾内にある小島。 面積0.02km2、標高44m。島名は冬も緑濃い暖帯林によるという。砂岩と粘板岩の互層からなる基盤岩露出。弁財天を祀る蒼島明神があり、東側に洞穴がある。タブ・スダジイ・ヤブツバキなど暖帯性広葉樹林の優先する40科77種の植物が自生し、蒼島暖地性植物群落として国天然記念物に指定される。なかでもナタオレノキは日本海側の北限である。伴信友は「白浪に独りさわがぬ蒼島を夜はいさりの大影にぞ見る」と詠んでいる。 『新わかさ探訪』 小浜湾に浮かぶ蒼島 若狭のふれあい第71号掲載(平成3年)8月12日発行) やきもち焼きの 弁天様が守つた緑の島 小浜市加斗の沖合約1㎞余り、波静かな小浜湾にぽっかりと浮かぶ緑の島「蒼島」は、周囲約400m、高さ約39mの小さな無人島です。 島の浜辺にある赤い鳥居をくぐって坂道を上っていくと、一番上の台地に社があり、弁財天がまつられています。七福神の一人である弁財天は、音楽・弁才・財福などをつかさどる女神で、蒼島の弁天様はとりわけ美しい神様だそうです。昔は、下加斗地区からこの弁天様よりもきれいな娘がでると祟るといわれ、病気になったり不幸になったとか。今でも「アベックで蒼島に近づくと、弁天様が焼きもちをやく」とか「弁天様が祟るから加斗からは美人がでない」などと地元の人たちは言います。 毎年7月15日は蒼島の弁天様のお祭りで、下加斗地区の人たちは舟を出して蒼島に渡ります。昔は男衆だけだったようですが、今では女の人も加わり、弁天様の清掃をしたあと、お神酒や餅、米、鯛、野菜などを供えて、お参りします。 この弁天様は、昔、上加斗の長者土肥勘太夫がまつったもので、蒼島も勘太夫の島だったといいます。あるとき勘太夫は、薪にするため蒼島の木を人夫たちに切らせました。ところが、舟に積んで運ぼうとしたとき、突然、海が荒れ出して転覆、大勢の死人がでました。それからというもの、勘太夫の家には次々と不幸が続き、家はさびれ、一族の者はみな死に絶えたのだそうです。人々は弁天様の怒りにふれたのだとうわさし、このことを語り伝えました。以来、蒼島の木は切られたことがありません。今も「蒼島のものは、石も土も何一つ持ち帰ってはいけない」とされています。 蒼島は、島全体が照葉樹林に覆われ、本州ではここと高浜町の鷹島だけに分布するナタオレノキの巨木や、蒼島が北限とされるムサシアブミ(サトイモ科の多年草)など70種を超す暖地性の植物が茂っています。この自然のままの一大植物園「蒼島暖地性植物群落」は、国の天然記念物に指定されています。 暖流に乗って流れ着いたとみられるこれらの植物を、弁天様の祟り伝説が数百年にわたって保護してきました。そして今、蒼島の自然を大切にしようという地区の人たちの思いが、緑の島をしっかりと守っています。 黒駒神社 『大飯郡誌』 村社黒駒神社 祭神素盞嗚命外四神(合祀) 本所字明谷に在り 社地三百十八坪 氏子七十八戸 社殿〔〕拝殿〔〕拝所〔〕神樂殿〔〕鳥居一基 由緒〔明細帳〕阻谷而飯盛村にあり寛延四年八月有事故勧請此地 〔寛永四年國中高附〕以前は飯盛寺宮所壹所にて有中古は本庄へ勧請して宮有能不仕候。 境内社熊野神社 祭神橡樟日命 社殿〔〕鳥居一基 由緒〔明細帳〕昔時之氏神也年代不詳。 大正九年三月十九日左の四社を合併せり。 無格社熊野神社 祭紳同前 本所 字庵谷 同 天満社 同 菅原道真公 同 字間所 同 秋葉社 同 味耜高彦根命 天和元年勧請 同 字秋葉山 同 青島神社 同 不詳 同 字青島 〔明細帳〕土肥弾正在康創立年代不詳(按に元應年間の頃なるべき乎) 飯盛の黒駒神社を寛延4年(1751)勧請したものという。 臨済宗妙心寺派松源寺 『大飯郡誌』 松源寺 同(臨済宗) 本所字開所に在り 寺地二百八十三坪 境外所有地六反三畝二十八歩 檀徒四十九戸 本尊觀世音菩薩 堂宇〔〕鐘楼〔〕佛堂〔〕門〔〕土蔵〔〕小屋〔〕 由緒〔明細帳〕天正九年五月伊崎義康入道構持菴以居焉寛文元年八月伊崎子孫請精光座元無寺文化七年八月朔類焼(再建) 臨済宗妙心寺派円通寺 『大飯郡誌』 圓通寺 臨済宗妙心寺派常高寺末 本所字伊屋橋に在り 寺地三百一坪 境外所有地三町八反五畝二十四歩 檀徒十八戸 本尊観世音 堂宇〔〕鐘楼〔〕物置〔〕門〔〕 由緒〔明細帳〕元応元年之度寳首座創立大檀那土肥弾正在康。 〔若狭郡縣志〕 號法幢山…斯寺在十景… 稲葉山城 飯盛との境に、武藤彦右衛門尉友賢が天文9年に築城した稲葉山城跡がある。高速が通るに先だって発掘調査されていたと記憶する。 『大飯郡誌』 加計城址 飯盛本所の境なる秋葉山上に城址あり武藤彦左衛門友慶此所に城を築きて加計城と名づけ支城を岡津區海坂山に構へ長井區の山上(長井に太鼓谷と称する所あり陣太鼓を鳴らして味方に策応したるものなりと此の辺の山麓に古墳塚文等今尚散在す)に砦を設けて敵の襲来に備へ西の方なる佐分利霞ゲ城と相応ず然るに天正八年八月本郷治部少輔と長井濱に戰ひ軍利あらず漸次退却し遂に白旗を掲げたり(若狭郡縣志の意をとる)。 砲台跡 『大飯郡誌』 (加斗の砲臺) 大字本所字高岸にありしが今は壞ちて畑となれり此の砲臺は嘉永六年に亞米利加合衆国の使節[ぺルリ]が浦賀に來りてより俄に海防の議論喧かりし時に當り本所の富豪伊崎源六が獨力之を造り藩主酒井氏に献上したるものなり藩主大に之を喜び伊崎家に帯刀を許したりと。 《交通》 JR「加斗駅」がある。 《産業》 《姓氏・人物》 加斗の主な歴史記録加斗の伝説加斗の小字一覧加斗 高岸 下藪 東山 大藪 塩屋 出口 町田 池ノ尻 中浜 弐反田 片江 片江鼻 蟹田 向山 破田 藏之下 間処 西野 墓之口 野ガ 椎ノ木 伏本 笠屋ノ上 見ノ越 川戸 笠屋下 砂田 溝奇 東半坂 末道 柴崎 西半坂 石ケ作佐古 馬谷 岡津坂 クレ秡 田中繩手 溝中佐 二又 狭間 堂ノ下 堂ノ脇 堂ノ上 稲葉 稲葉坂 稲葉奥 岡谷 古屋 竹花 山鳥尾 茶屋下 茶屋前 境之森 西川原 山崎 梅ノ木 畔高 大門 権現 井上 明谷 野気上 中村 細橋 大坪 西山 西山苅 堂ノ森 鯉寄口 鯉寄 西中田 東中田 三梨子 中村東 壱方 壱方苅 森之下 伊屋橋 滝谷 迎道 広倉 渦 上村 上之奥 勘大苅 片岡境 西谷 丈夫谷 森写 鷹尾谷 野賀多部 大谷 箸谷 団谷 団口 流谷 蜂ケ窪 鶯谷 菴谷 破林 秋葉山 東谷 蒼嶋 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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