丹後の地名 若狭版

若狭

加茂(かも)
福井県小浜市加茂


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福井県小浜市加茂

福井県遠敷郡宮川村加茂

加茂の概要




《加茂の概要》
小浜市の東の端になり、南、東は上中町に接する。宮川谷と呼ばれる地域の南に位置する。高屋川流域で、西に野木山がそびえる。北より由里谷・神良(ごうら)・加茂・高屋(たかや)・小北(こぎた)・高森(たかもり)の各字がある。
中世の賀茂荘の地で、寛治4年上・下賀茂社にそれぞれ不輸田600町が寄進された時(百錬抄寛治4年(1090)7月13日条)、当荘も賀茂別雷社(上賀茂社)の荘園として成立したものと思われる。その後仁安3年(1168)8月には矢代浦も当荘に付属され、当荘に北接する宮川保のうちに「賀茂出作田」を広げていき、平安末期にはこれら出作田をも含めた地を宮河荘と賀茂社側は称し、朝廷や幕府もこの荘名を用いた。しかし出作分をも荘と称することに反対する国衙は賀茂荘は認めても宮河荘は認めず、南北朝以降は現地の人々も賀茂荘と呼んで宮河荘という呼びかたをしなかった。従って出作田分を除けば同じ荘園が賀茂荘とも宮河荘とも称されるのである。こうした理由から宮河荘は平安末期から見えるが、賀茂荘は国衙側の文書である文永2年(1445)11月の若狭国惣田数帳案の本荘のうちに35町の荘園として初めて現れる。次いで康安2年(1362)5月頃現地の報告によって若狭国内で半済とされた荘園を注した覚え書きのうちに「賀茂社領賀茂庄」と見える。これ以後、荘は本所分と半済分に分けられたと判断される。すでに鎌倉末期の文保元年(1317)4月29日に領家より「宮河御庄」宛の下文で宗金が別当職となっていた当荘内の為生寺は、応永5年(1398)5月16日に一色右馬助詮之を檀那として御厨子を造ったという。戦国期に当荘半済分を支配したのは武田氏家臣の白井氏であった。永正13年頃武田氏は当荘の本所分・半済分のほかに闕所分を設定したため、荘は「三方」と称されるようになった。白井氏は大永7年11月27日に陣夫役徴発の時には荘全体を支配することを武田元光から認められ、さらに弘治元年(1555)12月13日には武田信豊から段銭については本所分・半済分ともに知行することを認められている。この頃になると賀茂荘出作田に対する賀茂別雷社の支配権が失われたものとみえて、賀茂別雷社側でも実態に合わせて宮河荘の呼称を用いなくなり、賀茂荘と称することが天文12年12月から見えはじめる。ただし同19年にはまだ宮河荘とも称され、同22年には「賀茂庄と号す」と注記し、賀茂荘が現地の呼称であることをことわっている。永禄10年(1567)7月29日白井光胤は宮川保の武田信方に同意しなかったことを武田氏当主から賞されて本家分の支配も認められたが、翌11年11月本所分を支配する賀茂別雷社嗣官森尊久や代官十如院が幕府に訴えたため争いとなった。この時の訴訟で森尊久の権利は「加茂庄本家分」と表現されており宮河荘の呼称は用いられていない。武田氏滅亡後の天正2年閠11月19日には白井孫七郎が本家分の代官として見えるが、間もなく白井氏もこの地を離れた。天文5年(1536)8月23日の賀茂荘惣公田田数注文によれば、荘には61町3反180歩の公田があり、本家方・領家方の区分や土豪・有力農民・寺社の持ち分が記されており、また猿楽田3反・大工給1反もある。この注文には時恒半名・安清6分1・次良丸名8分1・久次名8分1など8反120歩の地が記されているが、この地は賀茂荘惣百姓が惣分として年貢を負担しており、惣結合の存在が確認される。荘内の寺院として文安5年に常徳寺が、大永5年に竜通寺が見える。
近世の加茂村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」に、家数61 ・人数279。寛文10年の反別は田69町8反余・畑11町8反余。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年宮川村の大字となる。
近代の加茂は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮川村、昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西15町・南北12町、戸数80、人口は男202 ・ 女205、学校1。猿陪鼻(さるべのはな)は字大戸南端の小丘陵先端を流れる野木川のほとりをいう。「若狭郡県志」は賀茂大明神が白猿を伴ってここに現れたが、淵底の小石は冠の化したもので冠石といい、旱魃の年にこの石を抱上げて祈ると必ず験があると記し、神聖視されていた。


《加茂の人口・世帯数》 337・87


《加茂の主な社寺など》

野木山
『みやがわの歴史』
神体山信仰の標型
中世に祈雨の霊山として信仰され神験の記録を止めるものに、多田ヶ岳(若狭守護代記他)・野木ヶ岳(明通寺文書)の両岳があります。ここ宮川谷の喉首を扼して聳える野木山(三四三・六メートル)はその後者で、惜しくも既に霊山の信仰と、神山禁忌の古伝を失って久しい神山です。
 この山を東南方(写真49)及び東方から遠望しますと秀麗な笠形の容姿を示し、神体山で知られる大和の三輪山を髣髴させるものがあります。
 この山が古来より神山として崇祀されたことは、前触の祈雨の霊山としての神験の他、神奈備型神体山の特徴として指摘される①山容が笠形または円錐形の秀麗な二〇〇メートル前後の山。②山中に磐座、山麓に古墳群がある。③集落に近い平野に面して聳える。④山麓に古来の大社が鎮座する。⑤霊山としての古伝承や記録をもつ。などの諸項目を満たしているのをみても容易に想像することができます。
 この神体山信仰は、神威の高まりに伴って原初信仰の原点となった山中の奥宮から、恒常祭祀のために神霊を山麓に分遷した里宮え、さらに信仰圈の拡がりに対応して望拝可能な田宮(野宮)の祭祀えと、自然な発展の段階を辿ります。本項はこうした神体山信仰の発展過程を、ここ宮川の地に求めたものです。
野木山の磐座
野木山の山頂平担部には、泉岡一言神社の奥院(奥宮)とされ太平洋戦争時に護国の神威発揚を熱祷して鎮祭された木製玉垣をめぐらす磐座(高さ〇・八メートル。幅最大〇・七メートル。正中線は泉岡一言神社に向はず、弥和神社を指向する)が鎮まり、周辺にも巨巌の露頭がみられます。この山上磐座の鎮祭以前は同地に植生する樹形の神異な常盤木を神籬とする奥宮祭祀の遺風を伝えています。また山腹には今なお祭祀をうけられる巨大磐座(俗称・石の唐櫃(からと))、磐座の連想を誘う屹立する巨岩、飛瀑と修験の練行を伝える巨巌群などの他、周辺を限っても東麓に弥和神社後背地古墳群、南麓に中・下野木古墳群などが所在し、また神社では東麓に後触の弥和(延喜式所載)、北麓に宮河狭野。南麓に泉岡一言(以上の両社は国内神名帳所載)の各社をはじめ三宅・八幡・稲荷その他の諸社が鎮座されます。



加茂遺跡
弥生中期・後期の遺跡
『みやがわの歴史』
田の神(田宮)遺跡
この遺跡は、加茂平野のほぼ中心部に近い田圃の一角(付近は埋蔵文化財包蔵地)に所在し、往年の土地改良事業に際して弥生式土器など多くの土器が出土したところであります。本遺跡は当該事業によって相当の変改をうけましたが、田の神の鎮座地として順厚な里の信仰に守られ、大部の破壊を免れ得たことは誠に幸いであります。
 遺跡(写真51。手前に見える方形状の堆積地)は、四・七メートル×六・七メートル(墳丘部は四・七メートル角)。高さ一・二メートルを計測する小墳丘で、あぜ道の上表面まで石垣積となっていますが、これらは当該事業の際の整備によるもので、それ以前は数倍の面積を有し、繁茂する老樹の中に鳥居のみがあったと記憶を伝えています。
 本遺跡は写真の通り、神体山・野木山頂の奥宮と里宮(弥和神社、山麓手前にみえる森の右側)を正しく結んだ延長線上に位置しており、たとえ古伝の残留を全く欠いたとしても、「遺跡は語る」との諺どおり、古代に神体山望拝郊祀の田宮(或は野宮)として、綿密に選定された神地であることを雄弁に物語っています。


野木山の山頂と弥和神社を結ぶ線上はだいたいこのあたりになるが、何も見当たらない。


加茂古墳群(若狭の石舞台古墳)
加茂神社の北の山麓一帯にある6世紀後半から7世紀初頭の古墳24基。俗に「づかな」と称される、塚穴の意味か。いずれも横穴式石室の円墳とみられるが、封土の消失したものも多い。このうち南古墳・北古墳の2基は県指定史跡。
北古墳は「若狭の石舞台」とよばれ、若狭現存の横穴式石室では最大である。石室の主軸はほぼ南北で、玄室の幅約2・6メートル、長さ約4・7メートル、高さ約4メートルで天井石は4枚。玄室と羨道の境に立石を配し、羨道の天井石は玄室の天井より約1メートル低い。羨道部は幅約1・6メートル、長さ約9メートル、高さ約2・3メートルで4枚の天井石がある。両袖式の石室である。石室内部は盗掘されたものか、副葬品など出土遺物は皆無である。
『小浜市史』
加茂・南古墳は若干の封土が残り現状で径三〇メートル余の円墳と推測でき、二段築成の形跡がある。内部主体は横穴式石室だが、かなり荒らされている。石室は、一見片袖式と思われるが、両袖式と考えた方がよい。玄室(墓室)の長さ四・二メードル幅三・一メートル高さは奥壁部分で三・七六メートルとなる。羨道は長さ八・二八メートル、幅は入口付近で一・六メートルが計測された。全長では一二・四メートルとなる。石室の構築状況は奥壁でみると上部をせばめたいわゆる持送り手法を用いており、後述の北古墳に先行する六世紀代中葉頃に築造されたと考えられよう。
一方、加茂・北古墳は、俗に若狭の石舞台といわれる巨大な横穴式石室を持っており、現存では福井県最大の規模を誇る。すでに古墳の盛土は流出し、かつての外形を知ることはできないが、南古墳との対比から径三〇メートルを越える円墳と推定されよう。現在、天井石は露出し、石室内は床面まで盗掘をうけている。石室の主軸は南北で南に開口するが、典型的な両袖式を構成し、完成された横穴式石室の形態をみることができる。玄室は長さ四・七メートル、幅二・八メートル、高さ二・九メートルと大きく、この奥壁では南古墳とは異なり大きな一枚石をたてに置して鏡石とし、その上部は三段積みとなる。しかし、さほど上部はせばめられておらず、構築に変化がみられる。したがって、北古墳は六世紀後半~七世紀初頭頃と推測され、南古墳につぐこの地域一帯に大きな勢力を持っていた一族の墳墓とみることができる。加茂集落北方の神良・由里谷にも一〇数基の古墳が存在したが、その殆んどが石材を抜かれ、一部をのぞき消滅した。由里谷古墳の破壊された古墳から採集された須恵器は六世紀末の時期を示しており、この地区の古墳造成期の一端が窺える。


『みやがわの歴史』
加茂古墳群
加茂地域の中心的集落を形成するところであり、もっとも多くの古墳が密集してつくられています。これらは下図にみられるとおり、ブロック状に群集して所在し、いくつかの結縁集団が存在したことを示しています。これらの人々はグループ毎に生産活動をおこなっていたと考えられますが、古墳は加茂山(仮称・二三二メートル)の南に伸びた稜線の山裾に分布し、破壊された古墳も含めて三一基が確認されています。前図には一部神良(こうら)地区も入っていますがこの谷間は、中世では加茂城主白井氏の居館があったとする地区であり、古墳の痕跡は残るもののすべてが破壊されていました。もっとも近代に入って住宅の庭石などに利用された場合が多く、一部出土遺物も民家に残されています。


 最も東側の一群は谷間の奥(堤の西側)にあって一基は破壊、一基が現存しています。図の中央部分は二つのブロックに別れており、東側では稜線先端の谷間に向って四基が固まってつくられ、他の五基はそれより上昇する稜線上に順列して営なまれているのです。この群集墳より東側やや離れたところにも一基みられます。
 西側ブロックでは現状で一一基が認められ、これも海抜七〇メートルラインを頂点にして階段状に山裾まで並んでいて、中央部分の一基は破壊されています。このうち、最も集落に近い山裾に造営されている二基が特に巨大な石室を持つものとして有名であり、俗に若狭の石舞台ともいわれています。図で明らかなように、西側に独立した形であるものを加茂北古墳、それより約七、八〇メートル東側のものを加茂南古墳と呼びいずれも福井県史蹟指定となっています。
 高森ではやや張り出した丘陵上に二基が認められ、石室の一部が露出しています。おそらく盗掘されたのでしょう。しかし、古墳の盛土はよく残されており、径一〇メートル程度の円墳であったことが伺えます。これら古墳群のつくられた年代については発掘調査がなされていないため明らかにすることはできませんが、多分六世紀代から七世紀の初め頃と推定されるのです。加茂古墳群の内、加茂北・南古墳は昭和五〇年冬に約一ヶ月かけて実測し、石室の構造を知ることができました。
加茂北古墳
本古墳は杉村義行氏宅の裏山にあり、現状は巨大な天井石が露出、石室も開口しており内部の全容をみることができます。古墳の盛土(封土)は永い年月の間に削られ、造成された当時の姿をとどめていません。現在残されている部分では径約二〇メートルほどですが、南古墳の状況と対比してみると少なくとも三〇メートル以上の盛土をした古墳であったと思われます。現状はすでに盗掘されており、床面までも堀り下げられていてかつでの姿をとどめてはいません。しかし、石室はよく保存されその規模を知ることができます。
 北古墳の石室は主軸をほぼ南北にして南側へ開口、玄室(埋葬するところ)から羨道部(墓室への通路)先端まで一三・七メートルとなっており、玄室(墓室)の長さは四・七メートル、幅はもっとも広いところで二・八メートル、高さは三・九六メートルと異常に大きい。加えて羨道部の長さは九メートル、幅は玄室との接点で一・六四メートル、入口部分では二・三メートルとやや広くなり長大な内部主体となります。奥壁は左の下の写真にみられるとおり、基底部の幅二・八メートル、高さ二・七メートルの巨石をたてて鏡石とし、その上部は三段に積みあげています。上段に使用されている石材はさほど大きいものではなく、またこれらはすべて横積みとなっています。
 玄室の側壁は東・西ともに長径一メートル~二ニメートル内外の石を四段及至五段に積み、部分的には径四・五〇センチの石材をくさび状に置き合込め石として利用しています。
 玄室の上を覆っている天井石は二枚の巨岩を使っており、まさに磐石と表現される状況を見ることができます。玄室の最下段は石を立てて使用し、二段目より上はすべて横積みをしているようです。また、玄室と羨道部の境界は、左・右ともに立石して幅をせばめており、前図のとおり、典型的な両袖型石室となっています。羨道部に使用されている石材は玄室部分のものより小型だがやはり三~四段に積みあげており、玄室では縱・横の配石がみられますが、羨道部の場令はすべて横積みであり異なった形を見せていますが、入口の部分は立石し押えとしています。玄室と羨道部の境目石の立石は通常多くの横穴式石室にみられるもので、この古墳では前記のように入口にも巨石を立石していることが注目されます。これは閉塞に必要であったのか、あるいは羨道部石積みの押えとして使用したものか、二つの疑問があります。というのは、こうした配石は、当地方で開口する石室には管見できないからで、今後さらに検討を加えなければなりません。なお、羨道部はラッパ状に開いておりこの部分の天井石は三枚の巨石を使用しています。因みに、北古墳の玄室内には小学生ならば二学級約八〇人も入ることができます。
加茂南古墳
南古墳は北古墳の東側、約七、八〇メートルの地点にあり、同じく山裾につくられています。北古墳同様南に向って開口していますが、古墳本来の盛上(封土)はかなり残されていて、現状で径約三〇メートルを計ることができます。これは上部盛土が若干減少しているもののほぼ原形に近いと考えられましょう。古墳の盛上は二段になっていたらしくその痕跡が認められます。北古墳と同じく盗掘されており、玄室内部はかなりあらされています。しかし、北古墳ほどではなく基底部まで掘り下げられてはいません。
 石室の主軸はほぼ南北となっていて南に開口し、全長一二・四八メートルと北古墳よりやや短くなっています。玄室は長さ四・二メートル、幅は奥壁付近で三・一メートル、玄鬥部(羨道部との接点)で二・七メートルが計測されます。羨道部は長さ八・二メートル、幅は玄室付迄で二メートル、中央よりやや南側で一・一メートル、入口では一・六メートルとやや開きます。もっとも羨道部分は盗掘したときに玄案の土砂をかき出したものか、かなりの堆積で埋没しており、したがって以上は現状での計測であって本来の基底部ではありません。
 玄室の高さは奥壁部分で三・七六メートルと北古墳より二〇センチほど低くなっています。羨道部は北古墳の場合玄室天井石より一・六メートル下るのにくらべて二・一メートルも下っており、玄室と羨道部の差は非常に大きい。石積みは奥壁の最下段に高さ一・二メートルの一枚石を据え、その上に四段積み上げています。図で明らかなように左側ではさほど目立ちませんが、右側は上部が極端にせばめられ持送りの手法が用いられており、北古墳の石積みとはまったく違う積み方をしています。側壁は最下段より平均して一メートル内外の石材を使用し、すべてが横積みとなっているのです。玄室と羨道部との境にはやはり立石して区別をしていますが、北古墳にみられる入口での立石は認められません。
 南古墳は以上のように石室の全長は北古墳より若干短いものの全体規模としてはほとんど変らず、むしろ玄室では幅広い数値を示しています。石の積み方も同じように巨石を用いていますがやや小型となっています。また平面的にみた場合、同じく両袖型を示すものの、羨道部左側では鈍角な石材を使用し確たる隔てがみられません。しかし、右側ははっきりと区別され、見方によっては変形の片袖型ともいえます。
 北・南古墳の概要は右のとおりですが、双方の石室構造にはかなりの相違があって、つくられた年代の異なることを伺わせています。もっとも出土遺物が残されていないため、また、若狭地方での横穴石室発掘例が少ないのではっきりとした造成年代を位置づけることはできませんが、南古墳が古く六世紀中頃と考えられます。これは当地方で横穴式石室が盛行する時期のもっとも大きな石室であり、加茂地域に強大な勢力を持っていた族長の所在したことを示しています。さらに、北古墳はこれにつづくものと考えられ六世紀末~七世紀初頭の時期につくられたと推測されます。終末期に近い年代にこのような巨大な石室が構築されたことは余程大きな経済力と支配権を持たなければ不可能であり、今のところ、若狭一帯でこの時期に加茂南・北古墳ほどの巨大石室はありません。現状では福井県最大の石室といえるでしょう。加茂地区が六世紀代の終り頃、若狭で有数の政治力を保持していたことが伺えます。



条里制遺構
南の玉置(上中町)と接して東より西へ一の坪から五の坪まで条里制の坪付配列があり、一辺109メートルの区画をもっていたが、現在は消滅している。


加茂神社

加茂集落の谷の一番奥に鎮座。当地一帯は中世、賀茂別雷社(上賀茂神社)領賀茂庄の地であったため、それが勧請されたものであろう。旧郷社。「若狭国神階記」に正一位賀茂大明神とあり、祭神は事代主尊とする。社蔵の賀茂大明神縁起は「当社之濫觴山城国賀茂上宮別雷神也、御祖者号玉依姫、公事根源曰、下賀茂是也」と、山城賀茂社より勧請したことを伝える。しかし伴信友は「若狭国神社私考」のなかで「山城の賀茂は、上社は別雷神、下社は御祖賀茂建角身命、玉依日売二座を祭れる社なるに、事代主命を祭れるこの賀茂社に、山城の賀茂の社司預るべき由縁なきを」として山城の賀茂社と関係はないとし、もとの祭神事代主尊の伝承を「社記にもしるしおけるはめでたし」と記す。
若州賀茂社記録(社蔵文書)によると正月16日に御棚会、2月18日に武射神事があり、また同書4月1日「神前御供葵の花かざり、氏人不残早朝出仕、白飯御供頂戴、当人御幣を振、神楽あり、日中御神前赤飯御酒瓶子御肴かさり物あり、王の舞式三番能、御能の内禰宜ハ神前乃縁に座す」と山城の賀茂社に類似する神事・年中行事が記されている。当社の宮座は、前座・中井座・畠中座・孫大夫座を左座、由里座・小地座・滝座を右座とする7座があって、七家・七座と称し氏子百家は皆この流れとする(若州賀茂社記録)。村人と神社のつながりは非常に深く、村に生れた者はすべて氏子となり、五穀成就、天変のなきよう惣氏子らが願文を奉じ祈っている(「賀茂明神惣氏子中願文案」社蔵文書)。しかしこうした神事も明治2年廃され(「御一新ニ付廃止先例記録帳」)、現在は祭日も4月5日・12月4日の春秋2回となった。
神社の奥には元宮と称する杜があって石垣積みの礎台が残るという。また、室町中期の作と推定される翁・父尉二面の能面(市指定文化財)が所蔵される。

『みやがわの歴史』
加茂神社
宮川谷の入口、東山麓に加茂集落があり、当社はそのほぼ中央谷間に鎮座します(旧郷社)。加茂地域は京都賀茂社の神領として存在し、北側に隣接して足利幕府御料所「宮川保」があります。宮川保の一部にも加茂出作田があり、山を越えた海岸部の矢代浦も加茂社領に含まれていたようです。
 当社について享禄五年(一五三二)の神名帳写(「小野寺文書」)には「正一位賀茂明神」と記し、祭神を事代主尊としています。一方、社蔵文書の「賀茂大明神縁起」は「当社の濫觴は山城国賀茂上宮別雷の神なり、御祖は玉依姫と号す。公事の根源にいわく、下賀茂これなり」と記し、下賀茂社より勧請されたことを伝えています。しかし、他の縁起には天津彦瓊々杵尊を祭神とするなど、確定されていません。
 伴信友は「若狭国神社私考」のなかで「山城の賀茂は上ノ社は別雷神、下ノ社は御祖賀茂連角身命、玉依姫を祭れるこの賀茂の社に山城の賀茂の社司の預るべき由縁なきを、社号を賀茂と云へるによりて、已が奉り仕れる方の賀茂の神と同神なりと誣言して村人を欺ものにしたりしなるべし」と付言し。もとの祭神事代主尊を社記にしるしたことを賞めています。
 祭神が事代主命とすれば、加茂社領成立以前から存在したことも考えられますが、延喜式神名帳には記載されていません。
 当社の宮座は前座・中井座・畠中座・孫大夫座の四座からなる左座と、由里座・小地声・滝森座の三座からなる右座の計七座で構成され、これを七家・七座と称して氏子はすべてこの末孫といわれています(『加茂社記録』)。
村人と当社のつながりは深く、村に生をうけた者すべてが二・三・五歳のいずれかのときに氏子となって烏帽子を冠し。惣氏子として五穀成就・村内安穏・天変無事の願文を奏上することになっていました。
 例祭は現在四月五日と十二月四日。拝殿前の能舞台では神事能が奉納されます。明治二年以前には「加茂大明神年中祭礼儀式帳」(前野家文書)によると次のような年中行事がおこなわれていました。
 一元日、丸御供、御菓子三つかん三十、御酒、御供米ハ弐斗四升、御赦免御供田ヨリ禰宜ヨリ、氏人不残社参仕候
 一六日、社人出賛ノ當日
 一七日、一六日御神事御口明 御酒ヲくミ献上仕候。昔は上七家之者ゆわひ申す候へ共、今ハ心次第ニ被成候、
 法印ヲ招キ
 ー九日夕、五穀成就牛玉ノ行、其年ノあき方ノ土を取牛玉おし申候。
 一十日、大般若惣祈祷。
   〔御〕
  来年同神事昔人ノ内改有之。
 一十一日、御神事御口明、右七日同前。
 一十三日、社人塩こりかき、其日ヨリ十六日迄禁足ニて相勤申候、社人之賄十六日神事當人ヨリさつせう相調送申

以上ですが、正月一六日の行事は現在も存続しており、前年に捧物とした生物を開いて拝見し、新たにその年の生物を納めます。納めものは近世まで二四種ありましたが、近・現代では山の芋・野老(のびる)・栗・推・柿の五種類に限定されました。これらを箱に入れ。餅で囲んで土中に埋めます。場所は上宮の境内にある巨大なムクの木の根元です。そして翌年の正月十六日に開きますが、一年の間に餅は土となって五種類の生物が芽と出し、それによってその年の五穀右凶を占うのが通例となっています。
 また四月一日には「神前御供の花かざり、氏子残らず早朝に出仕、白飯・御供頂戴、当人御幣を振、神楽アリ日中御神前赤飯・御飯・御酒・瓶子・御肴かざり物あり、王ノ舞・式三番・能・御能の内禰宜ハ神前の緑に座す」と「加茂社記録」(同社文書)にあるが、このような京都賀前社に類似する神事がおこなわれていました。年中行事の頭人は正月に二人、四月に二人を定め、これらの頭人が本座および嫡子・庶子の座改めもおこないました。
 当社の南の川向いには「元宮」に袮する森があり、現在も礎台が残されています(宮川の祭祀遺跡について参照)。なお加茂地区が神領であったためか、村内には死者を埋葬する場所は設置されず、墓地は常に隣接した玉置地籍(上中町玉置)にあって、寛文一二年(一六七二)の無常場扱状写(清水家文書)によると中世以前からとの推測がされます。かつては葬式に参加した者は川で身滌ぎをし、帰宅して家中を清めたがこの忌は一ヶ月間続けられました。近世では女性は月のものがあるとき、お産のときは家族とは別の火で炊事をし台所へは上れませんでした。炊事・食事はすべて土間でおこなったといいます。

『遠敷郡誌』
加茂神社 同村加茂字宮ノ内にあり、祭神は事代主命なり、傳言、靈龜二年命大和國葛上郡より當國根來谷を經て當邑の猿邊と稱する所にお移りあり、後今の地に鎮座あり、養老二年社殿を造營す云々、本國神階記に正一位とあり、正保二年酒井忠勝公祠殿を修補す、境内神社に貴船神社祭神高オカミ神あり。

賀茂神社勧請以前の当地の元々神社や祭神はあったのであろうが、境内社などに残されていないかと見てみたが、神額がなく社名が不明な社ばかりであった。
上賀茂の別雷命は鍜冶神であろうから、当地の元々の神は融合してしまったのかも知れない。


(式内社)彌和神社
ミワと呼ぶが、イワの訓が武本本にある。
加茂の西部、大戸区の南、野木山が最も東ヘ張り出した山裾、県道脇にある。これは拝殿というか遥拝所のようなものか、神体は背後の野木山そのもの。
祭神大歳彦明神。「延喜式」神名帳にみえる「弥和(イワノ)神社」に比定される。神籬の裏山は榊が群生し、野木山に通じており、大和国三輪(みわ)山の形姿に類似するとされる。



野木山遠景(長泉寺あたりから)↑彌和神社は中央あたりの麓に鎮座。

『みやがわの歴史』
弥和神社
当社は大戸区に鎮座し、野木山(三四三・六m)の東山麓にあって大歳彦明神を祀る(旧無格社)。
 「延喜式」神名帳に載る「弥和神社」に比定される古社。また享禄五年(一五三二)の神名帳写(『小野寺文書』)には「従三位御和明神」とあります。当社について伴信友は「若狭国神社私考」で
  上略-賀茂村の大戸と云処に、三輪大歳彦明神 大歳彦の唱意富登比古 と申て、山の麓に神籬(かみがき)の形ありて社なし。今其神籬を疱瘡の護神なりと称て、神名を識るものすくなし-中略-これ弥和神社なること決かるべし、今考ふるに、大和の大三輪神をこゝに祭れるなるべし
と述べており、大和(奈良県)の大神神社より勧請されたことを示唆しています。因に野木山南山麓には泉岡一言神社があり、この神社も同じく社殿を持ちません。
 野木山は東側から遠望すると大和の三輪山によく似ており、古くから神体山として尊敬されて来ました。山上付近には磐座もあります。また、軍事的にもよく利用され、応安四年(一三七一)の国一揆では守護方の城として使われています。霊山であるため山上では雨請祈願もしており、明応三年(一四四九)六月二六日付「頼尊。朝険連署状]に「能木がたけ雨ふる候間勤行候」あります。
 現在は三月六日が例祭で、大戸の全員が参詣し一堂に集って酒盛りをします。このとき、三歳児の親が長男ならば酒二升、女子と次男以下ならば酒一升を出します。かつては米二升と一升でしたが、近代になって酒にかわったといいます。
 当社は加茂村の人口に在り境界守護神としての要素も考えられ村人の強い信仰を集めています。社殿はなく石の玉垣に囲われた小聖域の背後に榊の群生林があって、これを伐ることはタブーとされているのです。また、村人は当社を「さえの神」と呼び、とくに疱瘡神として信仰しています。サンダワラに小さいダルマを二個乗せ、こわ飯を置いて麻がら二本を箸のかわりに立て、これを供えて疱瘡祈願をし、のち川に流して厄除けとします。
 かつては丈夫でない子を社前に捨てて大戸の人に拾ってもらうと健康に育つとの俗信からしばしば仮の捨子も行われていました。捨子はどの村の者でも良いのですが、拾うのは大戸の人でないと効力がないと信じられていたのです(宮川の祭祀遺跡について参照)。


『遠敷郡誌』
彌和神社 同村加茂内大戸にあり、山の麓に神籬の形のみありて社殿なし、國帳に從三位御和明神とあり、俗にさいの神と稱す、神名帳考證に彌和ノ神社、大巳貴命とあり。

『みやがわの歴史』
弥和神社の神籬
当社(写真50)は野木山東麓、加茂の小字大戸の県道路傍に鎮まり「延喜式神名帳」遠敷郡十六座の中の「弥和神社」に比定されます、この社は山裾に横幅一・八メートル、奥行きは神地で〇・七メートル、河原石を敷き詁めた供献台一、一メートルを石段上に築成し、神地の前面と両側に玉垣を廻らし、神地前面の玉垣中央に榊の小枝を献ずるほかは石灯篭一基をみるのみで、往古より社殿を設けず、狭小の神地に群生する榊を神籬として祭祀する神籬磐境の原形を示しますが、もともとは野木山を神体山に仰ぐ里宮として発祥した神社であります。神座の正中線は東東南で、野木山頂の奥宮と結んで後触の田の宮(田宮)遺跡に正対します、伴信友は「若狭国官社私考」で「上略賀茂村の内、大戸と云処に三輪大歳彦明神と中て、山の麓に神籬の形ありて社なし、今其神籬を疱瘡の護神なりと称て、神名を識るものすくなし、こは里の老人に質問定めたる処なり、これ弥和神社なる事決かるべし、今考ふるに、大和の大三輪神をここにも祭れるなるべし、その大三輪神は、大己貴神の和魂に坐て、大物主神と申す。帳に城上郡大神大物主神社と載せられたる御事なり。此神社、後世には御殿は無くして、拝殿より山に向ひて拝奉る事となれるはいかなる故にかあらむ」と述べ、大和の大神神社(奈良県桜井市所在)より分祀されたことを示唆する一方、無宝殿は後世の変改によるものかと疑問をなげていますが、大和志料は「別に宝殿の設けなきは、三輪山を神体とすればなり」と古代のままの祭儀の継承を強調しています。
 大神神社の祭神「大物主神」は護国の厳神として諸国に分祀され「延喜式神名帳」によっても二十五社を数えます。帝京の真北限に当り、三輪山と相似の山容を示すこの野木山が、北海の鎮護に任ずる大神大物主神の神座として特に鎮祀され、太古以来の野木山霊と融合された可能性は極めて高く、その里宮として発祥したこの弥和神社も、本社の古儀(古代は庭上祭祀。のち拝毆を設け三ッ鳥居を透して神体山を拝する)のままに、庭上の制を踏襲され、以後その改変をみることなく現在に至ったものと思われます。
 なお当社は、のち鎮座地の関係から旧加茂村の境界守護神的な神格を付与され「塞神」・「疫病神」・「疱瘡神」としての信仰の他、特殊な育児の呪法が永く伝承されてきました。



八幡神社

郵便局の近く「大戸ふれあい会館」の奥に鎮座。
『遠敷郡誌』
八幡神社 同村加茂字清水池にあり、祭神は應神天皇なり。


高森神社

長徳寺の隣にある、たぶんこの祠であろうか。
『みやがわの歴史』
高森明神 加茂区高森に鎮座する。延宝二年(一六七五)には認められますが祭神は不明。祭礼は一一月。このとき油あげを供える風習があるところから、或いは稲荷明神かも知れません。一説に大己貴命。

『遠敷郡誌』
高森神社 同村加茂字南神良にあり、祭神は大巳貴神にして元高森大明神と稱す。.


大戸明神社
『みやがわの歴史』
正五位上津知大戸自明神
当社も若狭国神名帳所収の古社で、「神社私考五」も、郡県志の例を引いて祈雨の呪法の神験を称え、賀茂大神との所縁を説いています。猿倍の巌の岩下に、河岸に面して建つ一基の鳥居は、この国の原始祭祀の古態を、余す所なく示しています。


『遠敷郡誌』
大戸明神社 同村加茂内大戸にあり、社殿なく元大戸明神と稱し、本國神階記に、正五位大戸明神とあり、信友説に上津知大戸自明神を祭ると云ふ、また加茂の雨乞宮と稱し猿邊の淵と云ふ小池は其龍神の坐す所なりと稱す。


銭藏山為星寺(為生寺)(いしょうじ)

加茂神社右手山裾の独立丘陵上にあり、100メートルばかり先にある。現在は観音堂のみ残り、加茂神社が管理する。「為生寺」「為星寺」とも記す。為星寺縁起(加茂神社文書)に「若狭国、遠敷郡賀茂邑、為星寺観音堂者、艸創不知何代、宗派亦不審、自古称当邑大鎮守之奥院也」とあり、堂舎はもと山上にあったが腐敗したため現在地へ移したといい、加茂神社の奥院として推移したことが知れる。草創・宗派とも不明だが、前野家文書に
  下 宮川御庄
   可早守下知旨、宗全当知行不可有相違為星寺別当職事
  右別当職事、印弁雖申子細、就作所居住人之訴訟難及改勤朝候、然者、宗全当知行受不可有相違候、殊可抽堂舎修造之忠節之状、所仰如件     文保元年四月廿九日   (花押)
とあり、鎌倉末期にはすでに存在した。観音堂には檜材一木彫で平安中期の作とされる十一面観音立像(重要文化財)が安置される。厨子は総檜造で、内側左支柱に「為生寺御厨子造営檀那 一色右馬助詮之 于時院主仏子宗海」「勧進?畢(ママ) 大工藤原宗次生年卅四歳 小工左衛門尉源貞弘」「応永五年戊寅五月十六日 □□□」の墨書銘があり、市指定文化財。

『若狭みやがわの歴史』
為生寺(いしょうじ)
為星寺ともいいます。加茂集落の東側山裾独立丘陵の上に所在し、現在は観音堂のみが残ります。かつての規模は不明で加茂神社氏子が管理しています。享保八年(一七二三)の「為星寺縁起」(加茂神社文書)に「上略・自古称当邑大鎮守之奥之院也、盖夫賀茂大明神社、養老年中影向之霊廟・中略・神廟東南之一峰曰筥嶽、古老伝言、往昔北斗之精降于北山、邑人埋筥、而以鎮焉、因為山名、又有銭蔵岩、築一堂於鎮筥之上、安置千手大悲之像、号銭蔵山為星寺、又称北斗院也・下略」とあり、箱ヶ嶽に降った北斗の精を祀っだのが始まりとの草創説話を記します。堂宇は山上にあったが朽ちたために中段へおろし、さらに現在地へ移転したと伝えられています。実際にはいつ創建されたかわかりませんが、「前野家文書」の宮河庄領家為生寺別当職安堵下文に「下 宮河御庄 可早守下知旨 宗金当知行不可有相違為生寺別当職事、下略」「文保元年四月廿九日」とあるところから一三一七年には確実に存在していたことがわかります。観音堂(現在は収蔵庫)には平安中期の十一面千手観音立像(重要文化財)が安置され、厨子(総桧造)内側左支柱には「為生寺御厨子造営檀那 一色左馬助詮之 于時院主仏子宗海 勧進?畢 大工藤原宗次生年卅四歳 小工左衛門尉源貞弘 応永五年戊寅五月十六日 □□□」(前頁写真)とあって、若狭守護一色氏一族が厨子(市指定)を造営しています。


『宮川村誌』
観音堂(銭倉山爲生寺)
 國志に曰く
佛?柱祀曰一色右馬助詮之造営應永五戊寅五月十六日とあり。加茂區にあり國西國の一番に數へらる。往古は山上に建てられしを中腹に移し後再び現今の地に移せりと云ふ其の遺趾尚存すと。今は加茂神社の東方約一町許の山麓に祭る。而して其の練札を寫せば
[加茂観音堂爲生寺と稱す]
爲生寺御厨司造営   大檀那
             一色右馬助詮之
        于時院主     佛子宗海
  勧進造移某     大工藤原宗次
            小工右衛門三耶尉源其弘
  應永五戊寅五月十六日
右は延享三丙寅年稻庭善藏殿御國中取調云々『下略』
 尚左の如き古文書あり。
下 宮河御庄
  可早守下知旨宋金當知行不可有相違爲生寺別當職事右別當職事印辨雖中子細依他所居住人之訴訟難及改動歟然者宋金當知行更不可有相違殊可抽堂舎修造之忠節之状所仰如件
  文保元年四月廿九日
 領家花押
 賣渡申候賀茂庄常徳寺堂職半分之事
  合半分者  坪付別紙在之
右件堂職者我々子孫に持傳候へ共依有要用直銭拾貳貫文に永代賣渡申候處實正也但堂之修理勤行等如先例可被勤候若我々子孫として違亂煩申者候□堅御成敗に可預者也仍爲後日明鏡状如件
  文安五戊辰年十二月廿六日     賣主賀茂庄
                     道法 (花押)
 右三通とも前野治郎太夫氏方所蔵の文書なり。而して後者即ち常徳寺に關するものは本項観音堂と何等関係なしと雖常徳寺なるものは聞きも及ばねばかゝる古文書あるに書くべき所なく、せめては同家の古文書の序を以て昔の賣渡証文の参考にもと茲に掲記せしなり。


案内板
木造十一面千手観音菩薩の由来
国西国第一番札所 加茂銭倉山為生寺の本堂所謂、観音堂に本尊として安置されている木造十一面千手観音菩薩立像は、若州管内社寺由緒記によれば「古く伝教大師の御作で、往昔は山の峯に堂御座候へ共、大雪に崩れ申候に付 文禄年中(一五九二-一五九五)谷に堂を建て候……寺領合二町三反、社二町六反、二口〆四町九反」とある。
 この立像は、檜材の一木彫で、頂上仏から台座までの像高は一一三・五センチメートルある。本体は平安中期の作と鑑定されており、漆金箔等の後補があるが、極めて逸品と称せられ、昭和四十六年十月東京国立博物館における平安彫刻展に出品、絶賛を浴ひだものである。
 昭和四十七年五月三十日国の重要文化財に指定され、昭和四十九年八月二十九日より京都国立博物館内美術院ににおいて修理され、昭和五十年三月三十一日修理完了、仝五十年九月十六日御帰堂された。             ・
 また厨子も、昭和四十五年二月二十日市の指定になっているもので、全体檜材で造られ内側左の支柱には「爲生寺御厨子造営檀那、一色右馬助詮之、于時院主仏子宗海」「勧進造?(禾+寸)畢、大工藤原宗次、生年三十四歳、小工左衛門三郎蔚慷真弘」「応永五年(一三九八年)戊寅五月
十六日□□□」と銘記があり、今から凡そ五百七十年余前のものである。
昭和五十年九月 管理者加茂神社



「銭藏山」というくらいだから金属器と深い関係がある地と思われる。それを掘り出し冶金した「星」たち「為」めの寺であろうか。北斗院の別称がある。


曹洞宗高森山長泉寺

加茂の南端で、上中町玉置に隣接した山裾にある。曹洞宗。本尊阿弥陀如来。長泉寺由緒記によれば応永14年(1407)若狭守護一色満範が加茂村字高森に創建し、一色氏に代わった武田氏の被官白井清胤が永正4年(1507)に賀茂庄半済給主となって館を建てるため現在地へ移して保護したと伝える。武田氏滅亡ののち天正年中に佐柿国吉城(美浜町)城主粟屋勝久の一族日昇本光を開祖として浄土宗の当寺を曹洞宗に改めたという。一時無住となったが慶長元年(1596)に日昇本光の嫡孫松山好椿が再興し、小浜藩主京極氏・酒井氏ともに境内山林を寺領として安堵したと伝える。
本堂の左側山裾に根回り約8・5メートルの広葉杉の大木があり(市指定天然記念物)、右側山麓には古墳群が分布する。

『みやがわの歴史』
長泉寺
加茂集落の最南端、玉置(上中町)に隣接する石梁山の西側山麓に所在する曹洞宗の寺院。山号は高森山、本尊阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)。当寺由緒書によれば応永一四年(一四〇七)若狭守護一色満範(修理大夫)の創建とあり、当初は山号に示される高森(加茂の北側)の地に建立されたといわれています。その後、一色氏に替って守護となった武田氏の被官白井清胤(石見守・加茂半済給主)が、その地に舘舎を建てるため永正年中(1504~21)に現在地へ移したとの伝承もあります(現長徳寺付近)か。
 さらに武田氏滅亡後の天正年中(一五七三~九二)、若狭国主の丹羽(惟住)長秀が佐柿国吉城(美浜町)城主粟屋勝久(越中守)の一族、日昇本光を招請し、もと天台か浄土宗だったらしい当寺を曹洞宗に改めたとあります。しかし、天正一一年(一五八三)長秀越前へ移封のとき、日昇本光も従ったため以後十数年当寺は無住になりました。そこで慶長三年(一五九八)日昇本光の孫弟了、松山好椿が入山し当寺を再興、現長泉寺の第一世となりました。因みに日昇本光が転移した北の庄(福井市)の総光寺は、臥龍院(三方町)の末寺で同和尚が開山となっています。同寺には昭和二五年福井市によって建てられた丹羽長秀墓誌があって、「勝家敗北ののち、秀吉によって越前に封ぜられた長秀は、当時三方郡にあった曹洞宗臥龍院日昇和尚に帰依し、此処に一宇を建て加茂庄北斗院と称した。後現在の総光寺に改めた。この墓は長秀の没後嗣子長重の手によって建立された」とあります。
 北斗院とは加茂の銭蔵山為星寺の別称で当地と深いかかおりのあったことを示しています。ところで、松山好椿以来、現住まで二八世におよびますが、近世を通して当寺は小浜藩(京極・酒井)歴代によって境内・山林を寺領として安堵されています。当寺世代のうち、二世耽室し、三世九山貫龍は長泉寺をはじめ発心寺(小浜市)・意足寺(大飯町)・臥龍院(三方町)・龍谷寺(敦賀市)・盛景寺(上中町)など九ケ寺を転移歴任しています。さらに正保二年(一六四五)には大戸に持福寺を建て、晩年はこの寺に退隠、慶安二年(一六四九)に入寂しました。四世古山宗膺は昌寿寺(上中町)を、五世松岩貫宅は長徳寺を整えて開山となり、七世萬端官国は耕雲寺を興すなど活発に動いています。
 この間、寛文年中(一六六一~七二)には東水良松が当寺に住し、二代藩主酒井忠直(修理大夫)の検地を受けるなど当寺の基礎を固めましたが、貞享元年(一六八三)臥龍院へ転住し同寺の第一二世となりました。臥龍院の一六世光山良謙(加茂・前野次郎大夫家出身)はこの人の弟子といわれています。
 伽藍は小川にかかる石橋を渡り、石段を登りつめたところに山門があります。これは四間×二間の楼門となっており、二階には梵鐘があって鐘楼の役割も果しています。この山門は天明四年(一七八七)一一世像巌弘鏡のとき、京都の北川嘉助によって寄進されたらしく北川庄太夫家位牌の裏面にそのことが記されています。山門の正面に野木山が秀麗な姿を見せ見事な景観といえます。
 本堂及び庫裡の建立年次は不明ですがさほど古くはなく江戸末期と推定されます。ともに茅葺きでしたが近年トタンで覆ったものの、前面への傾斜が著しく、これ以上の維持が困難との理由で昭和五六年に改築を決定、庫裡も同時に建立することになりました。規模は本堂二二六㎡、庫裡二六一㎡、計四八七㎡で、総工費九一九〇万円、その他の工事を含め総額一億二〇〇万円で施工されました。同五八年三月に落慶法要が営なまれています。
 開山堂は文政一〇年(一八二八)一六世祖関玉宗のとき造営され現在も残っています。ここには千手千眼観音菩薩立像(室町時代)が安置され、境内には広葉杉もあり、また丹羽長秀と伝えられる画像(江戸時代)も保管されて全虎は寛永五年(一六二七)盛雲寺(上中町上野木)を開創います。なお、弘化四年(一八四五)の加茂村宗旨人別帳控(竹中忠文書)には長泉寺檀家として三一軒が記され、内男八二人、女七一人となっています。現在は一二〇戸。
 二世九山貫龍の建立した大戸の持福寺は大正一〇年一二月に解体され、寺号は名古屋に移されました。寺は長泉寺に合併、跡地は整理され、各戸の墓地として利用されています。(現住職・漆崎清寛)。


『遠敷郡誌』
長泉寺 曹洞宗意足寺末にして本尊は阿彌陀如來なり、同村加茂字長泉寺に在り、應永十四年一色満範の創立と傳へ、天台宗或は浄土宗に屬せしとありと傳ふれども明かならず、丹羽五郎左衛門長秀本國を領せし時、曹洞宗に改め本好を請して開祖となす、天正十一年長秀越前に移るや本好亦随従して越前總光寺に入り。其後十餘年無住なりしが、慶長三年本好の孫好椿來りて再興せしも淺野長政儉地の際寺領を沒せらる、今の境外所有地は其後檀徒の寄附する所なり。

曹洞宗長徳寺

「高森ふれあい会館」となっているが、たぶんこれであろう。

『みやがわの歴史』
長徳寺
加茂集落の北側、加茂山の西山麓谷間に所在し、山号は元高森山か。元の木尊阿弥陀如来。曹洞宗長寺末。延宝三年(一六七五)の「若州管内社寺由緒記」には「本尊阿弥陀、由緒無之候」とあって、この当時本尊が阿弥陀如来であったことが伺えます。現在の本尊は薬師如来坐像。いつ本尊が替ったのかわかりませんが、このことは当寺と併設されて存在したらしい瑠璃寺の由緒に「本尊薬師如来、行基の御作也、寺領四反御座候へ共、天正御検地に召上げられ、大破に及び候、無住」とあります。しかし、享保六年(一七二一)の「寺内山林除地改帳」には瑠璃寺は記載されておらず、延宝以降、享保までの間に消滅したと推定され、その間に当寺へ合併されたものでしょうか。いつの頃かこの本尊が当寺の木尊になったらしく、昭和一七年の宗教法人法による寺院規則認可申請には薬師如来坐像を本尊としています。囚みに、この薬師はさほど古いものではなく江戸時代の作と推定されます。
 当寺は、長泉寺五世松岩貫宅によって貞享元年(一六八三)に創建されたと伝えられ、寛政五年(一七九四)東向きの本堂を西向きに改めたという記録が残ります。瑠璃寺の伝承に伴う薬師とは思われず、或いは別の地に瑠璃寺が存在したものかも知れません。
 この地は加茂下城の西北谷間に位置し、中世には城主白井氏の居舘が存在したと考えられ、当初長泉寺がこの地にあった可能性も考えられます。その縁で当寺が建立されたと推察されます。


『遠敷郡誌』
長徳寺 曹洞宗長泉寺末にして本尊は薬師如來なり。同村加茂字長徳寺に在り。


曹洞宗持福寺
『遠敷郡誌』
持福寺 右同寺末同本尊(曹洞宗長泉寺末、本尊は薬師如來)にして同村加茂字西ノ上に在り。


加茂城

高森の裏山、標高約232メートルの突出した山頂に主郭を配し、東南に下降する枝峰稜線上に断続して3つの郭をつくる。城郭の総延長は最下段から主郭まで700メートル、比高は180メートル。先端郭は標高50メートルの丘頂にあり、長径70メートル、最大幅35メートル。郭の最先端下辺の空堀上面に半円形の平場をつくり、さらに2メートル段切りして長方形の上郭とし、郭の北側終焉に幅4メートルの一文字土居を配する。その後方谷間に上面幅10メートル、深さ4メートルの空堀を設け、左右側面延長は竪堀とする。それよりさらに2段の空堀を掘って山腹斜面を上昇し中段郭へと続く。中段郭はさほど大きくはなく、ほぼ長方形の郭を中心に階段状に3段が連続し、その上段にも1郭をつくるが、急斜面を削平しているためきわめて小さい。
主郭は山頂平坦地を削平して築城され、起伏はあるが総郭はおおむね五角形である。地形を巧みに生かして死角をなくす構造となっており、若狭地方では他に類例のない型である。規模は東西・南北いずれも50メートル内外。山頂からの眺望はよく、宮川谷はもとより松永方面まで見通される。館は城の西側山麓に、現在も痕跡をとどめている。
城主は応仁の乱後、賀茂庄半済給主として入部した白井民部丞を初見とし、石見守清胤・同光胤・民部丞勝胤と続く。白井氏は安芸国仁保島周辺を本拠とした海賊衆で、同国守護武田氏に仕えた。その一族が移住したらしく、若狭白井氏は以後一貫して武田氏の戦闘集団として先陣を勤め、元信の丹後攻略では宮津山城に一番槍をつけている。一方、白井氏は賀茂別雷社領賀茂庄の半済給主でもあったが、同社領本家分をしばしば押領し、幕府の停止命令も効き目はなかった。幕府も、守護方代官白井氏を認めざるをえず、神官森氏の所職をめぐって相論も戦国期を通して絶えることがなかった。白井氏は元亀元年(1570)織田信長越前進発に熊川まで出迎え、以後信長の与力として丹羽長秀に従い、朝倉攻めや一向一揆攻めにも参加している。本能寺の変以後は豊臣秀吉に仕え、のち関白秀次に配属され、文禄4年(1595の秀次失脚で熊谷直之とともに処断された。城は天正12年(1584)丹羽長秀によって破壊されたと伝える。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


加茂の主な歴史記録


『みやがわの歴史』
宮川の条里制遺構
若狭国が律令体制の中にいち早く組込まれていたことは、七世紀末に造営された藤原宮跡から出土した木簡によって伺えます。当地域も奈良時代にはすでにその体制下に入っており、そのことは加茂地区に条里制遺構と思われる区画の残されていたことで証明されますが、残念ながら土地改良によって消滅し、現在、かつての様相を見ることはできません。
 平野部に一定の長さを長方形、或いは方形に区画して開拓された耕地、いわゆる古代の土地改良によって割付けられた土地制度が条里制なのです。現代ならばブルドーザーによっていとも簡単に整地できますが、古代は人の手による土地造成であり、大きな労力を必要としたことでしょう。したがって、短期間の造成は考えられずかなりの年月を要したと推考されるものです。
 条里制は水田耕作の生産向上と国家による公地公民法実施を目途としたもので、古くは六世紀代にさかのぼると考えられていますが、確実な資料がなくはっきりしません。しかし。条里制が施行されたことは間違いなく明治九年の地籍によれば、若狭各地にその痕跡が認められます。外見的には小浜平野の府中地籍がもっとも顕著ですが、この地域は明治九年の地籍図が作製される以前の明治五年にかなり区画を整理しており、道も幅広くするなどの手が加えられているようです。しかも、昭和六〇年度の府中地区発掘調査によって、現存する遺構は奈良時代のものではなく、むしろ中世の坪付に合致することが明らかになりました(『府中遺跡発掘調査概報』一九六〇・小浜市教育委員会)、このことは南山大学教授須磨千頴氏の論考(若狭国遠敷郡の条里について 『小浜市史紀要第5輯』)によっても知ることができ、鎌倉時代中期(一三世紀中頃)の遺構とも考えられます。
 宮川谷全体について言えば、加戊地区の一部を除いて条里制遺構は見当りません。かつては存在したのかも知れませんが、現状ではそれを思わせる痕跡は残されていないようです。
 下図は一ノ坪~五ノ坪の配列がみられる加茂地区の字切図ですが、ここでは一辺一〇九メートル方格が比較的よく残されており、条里制の施行されていたことがわかります。ただ、実施年代については明らかにすることができません。
 坪名の残る地籍は、上中町玉置に隣接しています。玉置は、藤原京の年代(六九四~七一〇)にすでに「手巻里」として存在し、さらに平城京遷都後間もない和銅六年(七一三)には「玉杵里」、神亀四年(七二七)、天平十九年(七四七)には「玉置郷」の表記で示されている古い地名を持つ集落です。このことは早くからこの地域が律令制の中に組込まれていたことを意味し、また主要幹道があったことを示す玉置駅家の存在も知られています。おそらく加茂地区もこうした歴史的環境と深いかかおりを持っていたのであろうことは充分考えられ、この地区が玉置郷に含まれていた可能性も当然推測されるでしょう。
 加茂の条里線は、府中地籍から仲びる線上には乗らず、南北線は三〇度東へ偏向して走っており、小浜平野とは別に区画されたことがわかります。宮川谷が玉置とのかかわりを持ったとすれば、七世紀代に上ることも考えられますが、気になることは北五代(きたごじろ)・南五代の字名が存在することです。この字名が、もし、名代・子代の名残りとすれば、大化前代までさかのぼることが考えられるのです。
 六世紀の中頃、集中的に設置されたとされる屯倉が(大和朝廷直接の支配地)とのかかわりや、地方豪族(加茂古墳の被葬者もその中に含まれる)の所有地とのつながりもまた考えねばなりません。これは「昔在天皇時、所立子代之民、処々屯倉、臣・連・伴造・国造・村首、所有部曲之民、処々田庄」を廃止した大化二年(六四六)の条文(『日本書紀』)にみられる子代であった可能性が強いとの見方ができます。京都大学名誉教授岸俊男氏は、
 「名代・子代の類にはその税を収納する屯倉が設けられていた」との見解を示されており(光明皇后の史的意義・ヒストリア二〇「日木古代政治史の研究」)。名代・子代が設けられたのち倉を主体とする屯倉が設定されたと述べられています。
 若狭国での屯倉は現表記では上中町の三宅が有名ですが、実際は若狭各地に設置されていたらしく、佐分郷(現大飯町)や小丹生郷(現小浜市遠敷)にも三家人の記載がみられます(「平城宮跡出土木簡」)。さらに高浜町青郷にも三宅田があり、玉置では天平四年(七三二)九月付前同木簡に「玉置駅家三家人黒万呂」とあって明らかに三家人の存在を示しているのです。このことからも、南・北五代が子代であった可能性を充分示唆しており、若狭でももっとも古い時期に中央とっながりを持っていたことが伺えます。
 もっとも条里制については、その施行に多くの論点があって具体的な成立年代を知ることはできませんが、加茂地区は一辺一〇九メートル方格を基準にして制定されており、少なくとも八世紀代には存在したものと思われます。また条里の基点についても判明せず、宮川谷での条里がどのような形で施工されたのからわかりません。
しかし、前述のように玉置郷に含まれていた可能性と、子代の関係からいえば、条里坪付一ノ坪から五ノ坪まで残る南側に五八字倉柱の存在することを無視できず、或いは倉を伴うミヤケがこの地区にも設けられたことが推測されるのです。
 現状では若狭の条里そのものが二、三の論文はあるものの充分解明されたとはいえず、今後の大きな課題となりますが、少なくとも、加茂地区には以上のような推論のできる要素を持った字名が残されていて、大変重要な地域であるといえるでしょう。


加茂の伝説


『みやがわの歴史』
さいの神
加茂村の大戸の入り口にひもろぎ(神垣)だけあって社殿のない神社がある。弥和(みわ)神社というが、村人はさい(歳)の神とよんでいる。大歳彦明神を祭るため、この名の文字をとって、さいの神と呼ぶのだろう。
 このさいの神の祭日に子どもを境内に捨てて、大戸の人に拾われると、めでたいといって、子どもを捨てる人が多い。拾われた子どもは、その家の子と称し、毎年この神社の祭には、必らず米二升(三・六リットル)と野菜を持って、拾ってくれた家へ行くことになっている。今もこの風俗が行なわれている。(宮川村誌)

加茂明神
当社の加茂大明神は、霊亀二年(七一六)山城国(京都府)から当国根来(ねごり)谷に踏み分けて来られ、白石という所でお休みになった。それからこの庄の猿辺(さるべ)へ降臨された。岩の上に冠をぬぎ、腰をかけて、鎮座の地を遠見された。
 ご休息のところへさるが走り出て、「これより東の方に好地があります。」と告げたので、大明神は猿辺前(さるべさき)を踏み分け、今の地に降臨された。養老元年(七一七)にお社を建立した。
 岩の上にぬいでおかれた冠は、石に化して水底に沈んだ。干ばつのときこの石を取り上げて雨ごいをすると効験がある。 (社寺由緒記)
 加茂村の大戸と上野木(上中町)との間に、山のつき出たところがある。これを猿陪(さるべ)の鼻という。ふち(淵)があり、その底に小石がある。冠(かむり)石と名づけている。加茂大明神が降臨のとき、白いさるがお供して、ここに現われた。その時、神の冠が池の石と化したといわれ、干ばつの時、この石をかかえ上げて祈ると雨が降るという。 (若狭郡県志)
付近に猿子(さるこ)谷という所がある。賀茂大明神が降臨のとき、この小山(さるべ鼻)に白いさるが出て霊地を指示してから、この谷に隠れたので、この名がある。  (福井県の伝説)

宮川の力持ち
むかし宮川村の入口にある猿部(さるべ)の山に、ねこほどもある大あり(蟻)がいた。このありがいるために、昔から宮川村には力の強い達者な(丈夫な)人が多く生まれた。
あるとき、宮川村の加茂の力持ちの男の所へ、よそから大きな男が力くらべにやって米た。宮川の男が見るととても強そうで、自分が負けるかも知れないと心配になって来た。ふと見ると、家の屋根裏に一匹の大きなへびがいた。それを棒でたたき落としその首根をつかんでがりっとかみ、「さあ、これをさかなにして酒を飯んでから力くらべをしよう」といった。よその男は、どぎもを抜かれて逃げ帰りてしまりた。
 そののち、猿部の山を切りくずして道を作るとき、だれかがこのねこほどの大ありを殺してしまった。それから、宮川村には昔ほどの力の強い者が生まれなくなったという。    (永江秀雄)



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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