丹後の地名 若狭版

若狭

金屋(かなや)
福井県小浜市金屋


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福井県小浜市金屋

福井県金屋郡遠敷村金屋

金屋の概要




《金屋の概要》

遠敷川右岸の集落で、金屋というのは一般にかつての鋳物師村で、当地もそうであった。中世後期以来当地は若狭地方における鋳物師(鍋屋仲間)の活動の拠点を形成していた。江戸期以前は遠敷村に属し小名を小南といったが、通称金屋とも呼ばれていた。鎌倉初期に河内国狭山より移住したと伝える鋳物師の居住地で、鎌倉時代は松永保に属した。
金屋は、室町期から見える地名で、小浜八幡神社旧蔵梵鐘銘に「大願主三河刺史 浄鎮 大工下金屋 来阿 応永四年(1397)丑六月十一日銘丁焉」とあるのが初見。次いで応永11年9月9日の紀年銘をもつ大飯町伊射奈伎神社鰐口に「大工遠敷下金屋左近」とあって、いずれも「下金屋」と称している。長禄4年(1460)8月18日の銘をもつ秋田県鹿角市大日堂旧蔵梵鐘に「冶工若州遠敷郡小南金屋鋳是」と見え、室町期以降当地に鋳物師が居住していたことが知られる。天文9年(1540)には守護武田信豊が袖判をすえた判物が発給され、他国の鋳物師が若狭国内に入ってきて商売することを禁止する特権を保証し、これに違反する者に対しては「金屋中」として成敗することを認めている。永禄7年(1564)には武田義統が、天正2年(1574)には丹羽長秀がこの旨を受けた安堵状を「金屋中」宛に下している。戦国期には若狭国内の鋳物師が増加し、当地に集住して「金屋中」と呼ばれる自治的組織を形成し、その商圏が「金屋職」として守護から保証されていたことが知られる。なお,現在の金屋村の万徳寺周辺は中世小南村と呼ばれており、「金屋」「下金屋」とはその北側の地域を指したと考えられる。小南村をも含めた地域を「金屋」と称するようになるのは永禄年間以降と推測される。
近世の金屋村は、江戸期~明治22年の村。寛永11年(1634)京極氏に代わって酒井氏が小浜藩主となった際に遠敷村から分村して成立したという。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数67・人数296。集落は下と上とに大きく分かれ、下には鍋屋仲間が、上には脇百姓がそれぞれ居住していた。当村は江戸期を通じて若狭地方における鋳物の生産・販売の中心をなして、明和元年(1764)には藩主酒井家より他国からの鋳物の流入を禁ずる判物を下付されている。当時全国の鋳物師を統轄していた真継家へもたびたび伺いをたて、その地位を保証してもらっている。しかしこうした努力にもかかわらず他国からの鋳物師の来住や鋳物の流入はかなりあったようで、文政年間から天保年間にかけては近江国粟田郡辻村からやってきた鋳物師との間に争論が起こっている。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年遠敷村の大字となる。
近代の金屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ遠敷村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北6町余、戸数65、人口は男160 ・ 女154。江戸期に25人いた鍋屋仲間は大正末期にはわずか8人となり、それぞれ縄張りを持ちながら東は三方郡方面、西は大飯郡方面へ出かけ商売を続けていた。しかし昭和5年7人が廃業し、ただ1人営業を続けていた芝田孫太郎も同35年廃業したという。
昭和50年一部が遠敷1~10丁目となった。


《金屋の人口・世帯数》 458・155


《金屋の主な社寺など》

小浴神社裏山古墳群
また円墳六基からなる小浴神社裏山古墳群がある。

小浴神社(式内社)

小字惣社谷に式内社・小浴(こみなみ・こなみ)神社(小南大明神とも、祭神彦火火出見尊)が鎮座する。石柱に「末社 小浴神社」とあるが、若狭彦神社の末社でのことで、惣社明神とも呼ばれるが、これは天正年間に若狭彦神社の末社10社を1つに統合したことによるという。

『遠敷郷土誌』
小浴(こみなみ)神社(金屋)
 金屋惣社谷にある。伴信友は「当社のことすべて書どもに見あたらず」と「神社私考」で言っている。さらに「当郡金屋村、古は小南として遠敷村の部内なりしを、天正の頃より別に一村と定れりと云伝へたり」とある。何行かあとに「其金屋村に、総社大明神と称して坐すを、むかしは小南大明神と申して、遠敷大明神と同神に坐ませり。鎮座されてより千年に余れり。遠敷明神に属たる社なりと、遠敷神主の家の伝説なり」又そのあとに「これ決て小浴神社なり、浴字は水あむる義にて、美奈美(みなあみの約)とよむべき書たり」で終る。
 つまり浴の字は水をあびるという意味だが、みなみと読むべき字だといっている。
 全国各地の古くからの神への信仰を政府が統制する目的で、平安時代中期、延喜式という法令を作った(九〇七)。遠敷村の神社は若狭比古神社と小浴神社である。
 延宝三年(一六七五)九月小浜藩は各社寺の内容を報告させている。それを記した「若州管内社寺由緒記」によると「金屋村氏神」として「惣社と申宮一社御座候、是は上下宮末社の由申候」又、「若狭郡県志」(一六八〇)には「惣社御前社」として「金屋村にあり上下宮の末社なり」とある。何れも小浴神社とは記していない。
 小浜市史諸家文書編四の村方文書によると、わかり易く表現すれば「惣社明神は上下宮鎮座の昔は十杜あり、その頃は上下宮社領が沢山あったが、天正年中に社領が没収された。そのために大破したので十社を一社にした。」
 それで惣社大明神とした。太閤検地により社領がなくなったのであろう。
 平安時代には国司(地方の役人)は赴任すると国内の主な神社には参拝していたが、あとになると簡便化をはかって、それらの神社の霊を国衙(地方官庁)の傍に集めて参ることとなった。これが惣社である。金屋ではコミアミとは言いにくいし、江戸時代はずっと「ソーザさん」といわれていたのだろう。
 若狭彦神社に毎月一日、国司が重要な神社に奉幣する祝詞が残っている。詔戸(ノツト)といって、乾元二年(一三〇二)南北朝時代のものである。貴重な文献である。それらは十社あり、「若狭国神名帳」に見えるもので、小浴神社の十社であろう。
 若狭彦大明神(竜前) 若狭姫大明神(遠敷) 八幡三所大神(男山)
 賀茂下上(加茂) 多田大明神(多田) 久須夜大明神(堅海)
 天満大自在天神(千種) 於瀬大明神(気山) 常神大菩薩(常神)
 日吉三所
 小浴神社は「惣社御前社」として十社が合祀されたのだが、それ自体、上下宮末社として彦火火出見尊、豊玉姫尊を祀る延喜式(九〇七)に登録された千百年以上前からの格式ある神社である。


『遠敷郡誌』
小浴(コナミ)神社 同村金屋字惣社谷にあり、若狭彦附屬社にして國帳に正五位小谷明神あり、當地方小南と稱す、小南大明神又惣社大明神と稱す、祭神は彦火々出見尊・豊玉姫命なり。神名帳考證に木靈 伊勢國和鹿木太御神社とあり。

『大日本地名辞書』
補【小浴ヲアミ神社】○神祇志料〔重出〕今金屋村にあり、小南大明神(また総社明神)と云ふ、凡九月九日祭礼を行ふ(官社私考)
 按、今金屋村に小南と云名あり、また若狭神階記に小浴を小谷と作るは謬れり、小浴は小南と音相近し、姑附て考にそなふ。



熊野神社

村のなかほど、当地の鋳物師の守護神という。
『遠敷郷土誌』
熊野神社(金屋)
 金屋の熊野神社は当地の鋳物師中の守護神として尊崇されてきた。金屋の字牛ノ首にある。
 熊野神社は全国で三一三五社あり福井県でも二八社あるとされる。主神は出雲、伯耆の最良の砂鉄地帯にあるといわれる。
 小浜藩ではそれぞれの社寺の由来を延宝三年(一六七五)九月に提出させているが、その記載がある「若州管内社寺山緒記」には金屋村氏神として、その冒頭に「熊野若一王字人権現社二十年以前辰年炎焼仕昔勧請時代等の証文無之候」とあっさり書いている。ただ若狭遠敷郡誌には「元熊野権現社と称し祭神は伊弉諾尊(天照大神の父親)なり、古くは若王子を祀り嘉暦三年再建す」とある。その年は一三二八年で南北朝時代である。ついで「応安元年(一三六八)の頃より萬徳寺社務掌る」となっている。
 萬徳寺縁起(元禄十年・一六九七)によると安藝(広島県)から覚応法印が来られて以前極楽寺と号したのを応安年中に正照院と改めている。そして慶長七年(一六○二)に大覚寺末寺となり萬徳寺の額を貰っている。
 つまり熊野神社は正照院に社務をしてもらっていた。正照院に時代は大永四年(一五二四)になるが鋳物師とみられる、従って熊野神社の氏子である人が正照院に土地を寄進している。
 神社神事の月日は次のようになっている。
 十二月三十一日から一月一日まで袮宜、神社で宿る
 四月五日(今は第一日曜日とする)神事まつり、神主お祓い
 十二月五日(今は第一日曜日とする)神事まつり、神主お祓い、袮宜交替
 江戸時代よりと思われる能舞台があり、昭和二十七年(一九九二)能が行われたが、その後は使われることもなく、平成十三年(二〇〇一)に撤去された。


『遠敷郡誌』
熊野神社 同村金屋字牛ノ首にあり、元熊野権現社と稱し祭神は伊弉諾尊なり、古は若王子を祀り嘉暦三年再建す、応安の頃より萬徳寺社務を掌る、元来當村鋳物師中の守護神として尊崇し来れり、境内に八幡社・貴布禰神社・山神社あり、共に祭神不詳なり。


高野山真言宗延宝山万徳寺


万徳寺庭園(国名勝)でよく知られている。紅葉が多いようだから、その季節がいいかも。「日本の紅葉名所百選」に選ばれている。
しおりをマル写しすれば、(これは少し以前のしおり)
萬徳寺略記
 高徳寺は、応安年中(一三七〇頃)安芸国円明寺の僧覚応が廻国し、この地に以前からあった極楽寺(文永二年若狭惣田数帳に極楽寺の記載ある)にとどまり、寺号を正照院と改め真言宗を広める。
 戦国時代若狭国を領した守護大名武田氏が、当寺を祈願所として国中の真言宗本寺たりとし、特に守護大名武田信豊が天文十三牛(一五四四)に、当寺を若狭国における駆け込み寺とする旨の文書を記している。
 元亀年間兵火により焼失したが後再建し、慶長七年(一六〇二)城主京極高次の寄進をうけ、空性法親王の直筆の萬徳寺の額面を賜わり寺号萬徳寺と改めた。
 江戸時代、寛永十一年(一六三四)酒井忠勝が小浜藩主となった以後も真言宗本寺としての庇護をうけ、代々の祈願所として尊崇が深い。また若狭国西国三十三観音順礼第七番の古記を残す。
 書院庭園を設け、国指定名勝庭園となっている。庫裡は書院造り、上段の間等をとり、藩主の休憩所に供したという。いずれも江戸初期のものである。


名勝萬徳寺庭園
 本庭園は延宝五年当寺か移築されたとき藩主の命によって築造される書院の南面山畔を築山風に利用した面積約千五百平方メートルで、前山樹林と大山もみじ(天然記念物指定)を背景にした埋石式庭園で北国庭園として地方色濃厚な蓬莱式枯山水風で悠揚な趣きをもち、書院前は白砂の広場によって幽邃の感がさらに深い。
 千五百平方メートルの庭風は、金剛界曼荼羅の庭園といわれ、中央に約三メートルの巨石を主護石としてすえ、両わきに四個の小石を添えて王者の風格をみせる。主護石は真言密教の本尊大日如来を表わし、諸仏を統一する最高の地位を象徴している。両わきの四個の庭石は、阿閃如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四仏を意味して斜面にある多数の小石組みは、諸仏が座る小さな蓮台で小刈り込みのつつじ、さつきの郡落は、大日如来のきらびやかな五彩を示す。春はもみじの新緑の中につつじ、さつきの満開と秋はもみじの紅葉が見事である。
 この庭園は、大日如来を中心に諸仏が平和共存している真言密教の心の庭である。

大山もみじ(天然記念物)
 本庭の背景となっている大山もみじは、樹令五百年、幹廻り約四メートル、枝下十五メートルで天然記念物に指定されており、もみじの木ではわが国最大の指定木である。うっそうたる景観をみせる。


阿弥陀如来坐像(重要文化財)
 藤原時代初期(約千年前)の彫刻で桧の一木造りである。
 半丈六(約一・三メートル)の坐像で面貌も姿態も雄大であり、衣のひだは浅く流麗で翻波式の彫法を伝えている。彩色のない桧の素地仏として素朴でおだやかなほほ笑みをもつ仏像である。
 台座は、衣の垂れた部分でおおわれ、いわゆる裳懸坐でそのひだの曲線に現われた総合統一の美は特に優れている。作者不詳。
 阿弥陀如来は浄土の本尊にして、平安時代来世の浄土安住を悲願する熱心な信仰によって作られた仏像で当初のものは坐像が多い。
 しかし平安時代後期から鎌倉時代へと戦乱の件とともに、姿勢も坐像から立像へと変化し信仰も熱烈となる。こうした歴史の流れとともに仏像の姿からも当時の民衆の心をみることができる。


絹本着色弥勒菩薩像(重要文化財)
 円相中に合掌する弥勒坐像で光背、蓮弁などに暈繝彩色を施した精密な図像で鎌倉時代の作である。
 弥勒菩薩は、未来の仏像といわれる、数多い仏像の中で未来の仏像は弥勒だけである。
 五十六億七千万年の未来に、釈迦のごとくこの世に現われ、乱れた世の民衆を教化するといわれ、弥勒如来ともいう。
 姿態は、思惟像(ものおもいにふける様子)のものがかなりあり、現在は卜卒天に住して、遠い未来での教化を思惟しているという。


坐像と図像だが、いずれも旧国宝(今は重文)である。本堂に納められている。

万徳寺は、金屋集落の南側山裾にある、本尊阿弥陀如来。「若狭郡県志」に「古謂極楽寺、未詳其宗門」と記され、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に「極楽寺壱町二反百八十歩」の記載があり、鎌倉時代にすでにあったようである。若狭観音霊場十六番札所で、馬頭観音を祀っている。馬頭観音を祀る古い寺院であったのかも知れない。駆込寺であったというし、興味引かれる古寺である。
応安年中(1368-75)安芸国円明寺の僧覚応が若狭へ廻国し、極楽寺で真言宗を広め、正照院(正昭院とも)と改めたという(「万徳寺正照院縁起」万徳寺文書)。大永4年(1524)若狭守護武田元光は正照院領の諸役を免除し、享禄5年(1532)3月21日には「当寺依為無縁所、以思案之旨、寺法之儀条々相定畢、於向後専此旨、弥国家御祈念肝要候」という文言をもつ書状を正照院宛に出している。また同年、当寺の掟書を定めて一国真言宗の本寺の地位を与えた。その子信豊は天文13年(1544)に祈願所とし、
   正昭院事、当国真言衆為本寺条、祈願所仁相定置之
  間、或闘諍喧花、或殺害刃傷、或山海之両賊、其外
  雖為如何様之重科人、正昭院并宝聚院江走入就憑儀
  者、子細申届為扶助、若彼主人及違乱欲遂誅罰者、
  堅申付可令成安堵候、恐々謹言
   天文十三
     十二月七日         信豊(花押)
     正昭院御坊
の書状を出し、当寺を若狭国唯一の駆込寺として認めている。元亀年中(1570-73)兵乱で堂舎を焼かれ衰微したが、慶長7年(1602)大覚寺(京都市右京区)直末となり万徳寺と改称した。
小浜藩主京極高次は慶長7年9月、金屋村の内で高10石を寄進し、以後酒井氏の時も継続された。酒井忠勝は万徳寺の僧覚海に小浜城内の弁才天社を祀らせ、当寺を別当として歴代藩主は別当料蔵米5俵を扶持した。
本尊の木造阿弥陀如来座像のほか絹本着色阿弥陀菩薩像・同不動明王三童子像(以上国重文)、絹本着色童子経曼荼羅・紙本墨書中阿□(金篇に含)梵志品婆羅姿堂経(以上県文化財)、絹本着色文珠曼荼羅図・同千手観音像・同愛染明王像・同十三仏図・銅造孔雀文磐・金屋鋳物師用具付文書(以上市文化財)と多くの文化財を所蔵する。また、埋石式枯山水庭園の同寺庭園(国名勝)や樹齢約500年の同寺ヤマモミジ(国天然記念物)もある。

『遠敷郷土誌』
金谷山 葛徳寺(金屋)
宗派 真言宗(高野山派)
本尊 阿弥陀如来 国指定重要文化財
 創建は平安時代来、極楽寺を起源とする。文永二年(一二六五)若狭国惣田数帳写に「極楽寺。町二反百八十歩」記載があり、この時代以前に存在した。また現在の本尊阿弥陀如来は平安来の造像で極楽寺本尊とされており創建は平安末年を定説とする。
 応安年中(一三六八~七五)安芸国圓明寺の僧覚応廻国し、この地に留まり寺号を正照院と改め真言宗を広めた。
 戦国時代若狭国を領した守護大名武田元光が当寺を祈願所として国中の真言宗本寺たりとする地位を与えた。天正十年(一五八三)武田氏滅亡、元亀年中(一五七〇~七三)兵乱で堂舎を焼失、慶長五年(一六〇〇)京極高次が若狭へ入部後も祈願所となり、同七年に京極高次の寄進を得て、堂宇再建、同年空性法親王の直額を賜り寺号を萬徳寺と改める。
 寛永十年(一六三四)酒井忠勝が川越より入部後も藩主祈願所として庇護を受ける。延宝五年(一六七七)藩主の命により遠敷川畔にあった同寺を水害を避けるため現在地に再建、本堂、書院、諸堂、庭園の築造に藩主の寄進を受ける。以来藩主参詣の折々休暇に供した。庭園は昭和七年(一九三二)国指定名勝書院庭園となった。


『遠敷郡誌』
萬徳寺 眞言宗古義派大覺寺末にして本尊は大日如来なり、同村金屋字南谷に在り。
 元極樂寺と稱す、文永二年惣田數帳に極樂寺あり、壹丁二反を領せるを見る、音無川の岸に在りしが應安年中芸州の僧覺應来りて再興し寺號を正照院と改め盛んに眞言宗を弘ひ、武田家國主たるに及び其一國の僧

 元龜の兵燹に罹りしも後再興して慶長七年特旨を以て大覚寺の直末に属し、若狭城内眞言宗の本寺の資格を得空性法親王自筆の額面を賜ひ萬徳寺と改稱し、京極酒井代々の藩主尊崇淺からず、近世伽藍を今の地に移す。
 寺傳弘法大師筆彌勒像一幅は明治三十四年に、木像阿彌陀佛は大正二年に國寶となる、境内に聖天堂あり。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


金屋の主な歴史記録


『遠敷郷土誌』
若狭金屋鋳物史
若狭金屋の最後の鋳物師、芝田孫左衛門は昭和三十五年(一九六〇)鋳物師作業場、吹屋(ふきや)の火を消すこととなったが、九十二才の逝去まで一生を通じて「金屋の源は河内国丹南郡狭山郷日置庄」を繰返していた。
河内国は大阪府の南部、前方後円墳の多いところ、特にエジプトのピラミッドより大きい仁徳天皇陵を西、応神天皇陵を東に控え、日置庄はその真中ぐらいに位置するが、今は鋳物の町の跡はない。
金屋の庄屋になれる家柄は限られていたようで、今でも主要な家には朝廷から下されたという薄墨の御綸旨(天皇からの仰せをうけて出た文書)が宝物として大切に保管されている。
諸国の鋳物師に文書を発給していたのは真継家というもともとは下級役人の家がらであった。鋳物師はいくらかの田畠を持って、雑役を免除され、鍋、釜、農具の販売で広範囲に移動し、行商を行うために諸国の自由通行権を求め、交通路に対する支配権をもつ天皇につながっていた。
孫左衛門家に伝わる真継家からの最古の古文書は仁安二年(一一六七)の蔵人所牒(天皇に仕え雑事を司る役所の公文書)で平清盛が太政大臣になった年であるが、これは実際は戦国時代に出されたものと考えられている。真継家が旧書の写しを地方鋳物師に与えることにより統制をはかったのである。
 丹南郡日置庄から鋳物師百九人が地方へ散在したという伝説が生れていた。戦乱のためその古文書を大部分が失っていたので真継家がとりつぎ、朝廷の名において与えることにしたのである。
金屋という地名と製作物が最初に古文書として現われるのは、応永四年(一三九七)六月十一日の銘がある小浜八幡神社(小浜市男山)にあった梵鐘である。「大願主三河刺史淨鎮大工下金屋来阿」とある。当時の若狭守護一色診範の代官小笠原淨鎮の発願により金屋鋳物師が鋳造したことを示している。この梵鐘は明治維新前後に大砲鋳造の材料として破壊され現在はない。
 現存のものではおおい町福谷の伊射奈伎神社の鰐口(社殿等の軒下につるし金属製の音を出す道具)が一番古い。応永十一年(一四〇四)の銘がある。室町時代の初期で応永十五年(一四〇八)には日本で初めてと思われる象をのせた南蛮船が小浜に入港している。
それ以後の金屋で吹いた(製作した)江戸時代以前の作品と太平洋戦争以後の芝田孫左衛門の作品を別掲する。(略)
又、吹屋の最後、西勢妙巌寺の撞初の祝詞を左に記す。
 祝 詞
 本日法布山妙巌寺様には大梵鐘の撞初式を最も盛大に厳修される。省みれば此大業に着手するや不肖始め職人一同協力一致精励努力以って鋳造す。希わくは大鐘よ幾千年の久し
きに亘り当山の什宝物として奉福たらん事を
   昭和三十五年三月廿八曰
   若狭国金屋  鋳匠
    藤原朝臣    芝田孫左衛門
(戦後間もなく鋳造された西光寺の梵鐘についても吹初の状況を詳しく書いた。なお全国に鋳物師の系統は三つほどあるが、日置庄系統は藤原朝臣を名のるらしい、この系統は文政年間(十九世紀初め)「諸国鋳物師名寄記」によると六十三ヵ国四百七十二名(内若狭金屋二十五名)となっている)
(江戸時代以前で現存のものは、伊射奈伎神社鰐口、羽賀寺鰐口、妙楽寺梵鐘(推定)、日枝神社梵鐘、証明寺梵鐘。
 戦後孫左衛門作は落ちているものがあるかもしれない


金屋の伝説






金屋の小字一覧


金屋 上柴垣 口鎌田 上藺蓆 下藺蓆 中大溝 大溝 上奥田 下猪ノ子 中猪ノ子 下狐塚 中狐塚 上狐塚 南柳原 彼岸田 下郷境 郷境 上検見坂 上一丁田 一丁田 下一丁田 下石清水 上石清水 下見定 上外輪渕 外輪渕 下川原 下長塚 上蒲田 下清水川 中大鷺 上大鷺 下瓜割 上三丁一 中三丁一 下中溝 下大鳥居 中大鳥居 下松塚 上川向 中村 根来道 掛川 向下川原 下貴船 上松塚 国分道 下山 惣社谷 惣社前 中貴船 上貴船 大将軍 向中河原 向川原 大井根 下樋田 中樋田 倉谷 上ノ山 岸ケ谷 上樋田 向上川原 古屋敷 下牛ノ首 牛ノ首 上牛首 南谷 上南谷 吉野御前 戸倉鼻 今谷 牛ノ首谷 牛ノ首越 上ケ谷 下ケ谷 奥鎌田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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