小浜神田(かんだ)
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福井県小浜市小浜神田 福井県遠敷郡小浜町神田 |
小浜神田の概要《小浜神田の概要》 市街地のなかほど、西は小浜男山に接する。後瀬山の北麓旧丹後街道沿いにある。 旧城下にあたる小浜24区の各町名はいずれも有名神社名から名付けたといわれ、神田は東京神田明神にちなんだものかという。 近代の神田町は、明治7~22年の町名。小浜町のうち。明治7年区割改定により広小路と東宮前町・今町・薬師小路の各一部が合併して成立。合併畤の戸数101。明治19年の戸数61、人口314。同22年小浜町の大字となる。 近代の神田は、明治22年~現在の大字名。小浜を冠称。はじめ小浜町、昭和26年からは小浜市の大字。毎年9月14・15日に行われる八幡神社祭礼放生会には、明治末期頃から神楽太鼓を出している。 《小浜神田の人口・世帯数》 101・35 《小浜神田の主な社寺など》 浄土真宗本願寺派南谷山妙光寺 国道27号から市街地へ入る県道14号が小浜線を越える陸橋があるが、その東側にある。本尊阿弥陀如来。貞和3年(1347)比叡山南谷の僧蓮智法印が本願寺覚如に帰依して改宗、当寺を建立したと伝える。観応2年(1351)三月日付足利尊氏禁制写がある。大永5年(1525)8月12日付武田元光判物によれば、この頃には瀬木(せぎ)の地にあったらしく、瀬木の大野外記屋敷と相替したことを記す。現在地への移転時期は不明。 創建当初より足利尊氏の祈願所であったといわれ、天文16年(1547)3月8日付武田信豊禁制に「右、等持院殿為 御祈祷所之上者、於当寺、軍勢并甲乙人等寄宿、乱妨狼籍竹木剪取事、堅致停止、若有違犯之輩者、可処罪科之状依仰執達如件」とあってその事実をうかがうことができる。近世にも代々の領主に保護され、文化7年(1810)の妙光寺領年貢等収納控帳には、水溜・漕・畠年貢や蔵地代など商人による年貢納入が認められる。 『遠敷郡誌』 妙光寺 眞宗本願寺派にして同町神田に在り、貞和三年比叡山南谷妙光坊蓮智法印改宗して若州に此寺を建つ、足利尊氏此寺を以て所願所となし、代々領主より寺領三百石を賜りしが、京極家の時代課役を兔れんが爲め此寺領を獻じ爾来若州東西兩派の觸頭となりしと云ふ。 『小浜町誌』 妙光寺 蓮興寺ノ東ニ在リ。大同元年ノ創建ニシテ、法印信空ノ開基ナリ。旧江州阪本比叡山南谷ニアリテ天台宗タリ。本國守護山名時氏ノ子、僧蓮智此寺ニ住ス。貞和年中、父時氏ノ命ニ依り南谷ヨリ小濱ニ移シ、天台宗ヲ改メテー向宗ニ入リ、西本願寺綽如上人ノ門徒トナル。堂号ヲ他力ト稱ス。綽如ノ命名スル所ナリ。堂中ニ太子ノ像ヲ安ス。足利尊氏、曾テ祈願所卜為ス。尊氏・義詮・直義及守護一色義貫・武田信条等、観応・文和・応永・嘉吉年間ニ告ボウシ、又武田元光以降代々ノ国主賜復及寺域禁令数章ヲ授ク。今猶之ヲ寺庫ニ蔵ス。慶長以前ハ市ノ中位ニ在リテ、瀬木町、突抜町邉ハ其境内ナリシト云フ。 浄土真宗本願寺派向島山蓮興寺 旧丹後街道沿いにある。家康が陣所としたという。 『遠敷郡誌』 蓮興寺 眞宗本願寺派にして同所に在り、本尊は阿彌陀如来なり、元向島に在り、文明年中逹如當國に来り守護武田國信に寺地を乞ひ此寺を立て弟子妙觀をして之れに居らしむ、又元龜元年家康此寺に入りしことありと傳ふ。 『小浜町誌』 蓮興寺 旧向島ニ在リ。向島ハ湯川下流西畔下陣屋敷ノ地ナリ。文明七年蓮如上人越前吉崎ヨリ来リテ此寺ヲ創建シ、向島山蓮興寺ト号ス。時ノ守護武田國信東西九十九間、南北四十八間ノ敷地ヲ寄附ス。後蓮如之ヲ弟子妙観ニ附與シテ去レリ。京極時代ニ至リ、今ノ處ニ移転ス。元亀元年、徳川家康、織田信長ニ従ヒテ越前朝倉義景ヲ征セシ歸途、軍ニ殿シテ小濱ニ宿シ、此寺ヲ陣所トナシ、其翌日針畑越ヨリ歸洛ス。當時ノ住僧徳嚴嚮導ノ功アリ。京師大徳寺ノ僧一休蓮如ト親交アリ、嘗テ来遊シテ境内ノ十景ヲ咏ス。後瀬峯・紅楓橋・鳥宿林・白鴎洲・落月門・蓮船巌・龍梅池・八卦田・東江村・蘆雪岸是ナリ。其詩今傳ハラス。蓮如ノ真筆波除ノ名號及家康ノ贈品馬上杯等ノ什物ヲ蔵ス。 浄土宗無量山誓願寺 放生祭の八幡神社のすぐ東側にある。本尊阿弥陀如来。もと金高山と号した。永享元年(1429僧頼順によって創建されたといわれ、寺地は若狭守護一色義貫の寄進と伝える。永禄11年(1568)越前朝倉氏の小浜侵攻のときには、若狭守護武田氏被官小原帯刀・野田甚太夫らが当寺前で防戦したという。慶長9年(1604)3月26日付京極高次書状によると寺地寄進、諸役免除があったと思われ、酒井氏も寺内地子諸役の免除をした。 『遠敷郡誌』 誓願寺 淨土宗鎮西派百萬遍智恩寺末にして同所に在り、本尊は阿彌陀如末大坐像にして永享元年頼順開基と傳ふ、一色義貫の建つる所にして今の寺地は京極氏に賜はりて移轉せしものなり、以前の寺地と詳かにせず、京極家士の墓多し。 『小浜町誌』 誓願寺 後瀬山麓心光寺ノ西ニ在リ。亦浄土宗ナリ。永享元年僧頼順阿彌陀佛ノ像ヲ大和國ヨリ携へ来リテ、地ヲ當時ノ守護一色義貫ニ請フテ堂宇ヲ創建シ、其像ヲ安置シ名ケテ無量山誓願寺ト号シ、院ヲ護念ト稱ス。國主京極高次及忠高、寺院ノ徭役ヲ免ス。酒井忠直・忠囿公モ亦旧例ニ従ツテ免除ノ状ヲ授ク。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 小浜神田の主な歴史記録小浜神田の伝説『越前若狭の伝説』 誓願寺 (大 宮) 永享元年(一四二九)の造立である。むかし頼順上人か奈良を回っていたとき、眉目山のあたりに堂があり、阿弥陀仏の尊像があったので、上人はそこに泊った。その夜夢の中でかの仏が告げていうに、「わたしは年来お前か来るのを今や遅しと待っていた。わたしは北国の衆生を救いたいという誓願かある。わたしを北地に安置し。一切の部類を護念させ、来世の平安を得させよ。」とあった。 この霊夢が三夜に及んだので、上人はこの仏を奉持して若耶溪に来た。小浜の東北のあたりに沢べがある。そこを大守から請い受け寺を建てた。上人が説法のときこの霊夢の話をすると、聞く者はみな歓喜した。よってこの寺を無量山誓願寺護念院という。 (社寺由緒記) 小浜神田の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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