丹後の地名 若狭版

若狭

堅海(かつみ)
福井県小浜市堅海


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福井県小浜市堅海

福井県遠敷郡内外海村堅海

堅海の概要





《堅海の概要》
勝海とも書く。内外海半島の久須夜ヶ岳南西麓に位置し、西は小浜湾に面する。
堅海村は、鎌倉期~戦国期に見える村。文永2年(1265)11月日の若狭国惣田数帳案に、上下宮(若狭一宮・二宮)領46町余のうち20町余が当村にあり、志万郷に属した。また久須夜宮領1町も当村にあった。元徳2年(1330)11月日の平知基の注進する西津荘地頭年貢目録写に、西津荘の惣田数20町4反余のうち除田以外の田地16町7反余のなかで「七反半卅歩已八斗代 堅海支申之」とあり、当村の一部は西津荘に所属したものらしい。「康正二年造内裏段銭并国役引付」によれば、足利氏一門とみられる上野与三郎に「若州堅海村」の段銭が賦課されている。「政所賦銘引付」によれば、文明7年(1476)に松平修理亮親長から預かった銭20貫文余を上野与三郎が返済しないので、上野氏の知行する「若州堅海年貢」を給与してほしいと松平親長が同11年閠9月幕府に訴えている。この頃まで上野氏は当村を知行し続けたものと思われる。なお,米良文書に収める畠山氏系図によれば、畠山氏支流とみられる中村氏に「わかさの国かつミのしゃう二」と注記されているが、これは当村のことかという。文永2年11月日の若狭国惣田数帳案にある元亨年間頃の朱注に若狭上下宮領に「地頭小林二郎跡」と見え、前記の畠山氏系図に記される同氏支流小林氏が地頭であったらしい。戦国期には当村は若狭守護武田氏の所領となったと考えられる。年未詳3月5日の武田元信書状によれば、武田氏は家臣の粟屋式部丞を下して「堅海」から上米を出させようとしたが、地下人らが難渋したという。また天文9年(1540)3月11日の武田信豊の袖判のある飯盛寺上坊乗憲僧都相抱別当職并買得等目録に「堅海村観音堂別当職田畠山林等」と見える。さらに弘治年間と推定される明通寺鐘鋳勧進時入目下行日記に「卅文かつみなとへ一とまり」とある。
近世の堅海浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。黄蓮が特産。慶長7年(1612)の若狭国浦々漁師船等取調帳では4人乗1艘だけであるが、慶応元年(1865)の堅海浦船改帳控には16艘。「雲浜鑑」によれば、小名として上町・下町がある。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
近代の堅海は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西5町・南北2町余、戸数55、人口は男154 ・ 女154、学校1、小船16。


《堅海の人口・世帯数》 151・45

古墳後期から奈良期にかけての土器製塩遺跡である堅海遺跡がある。


久須夜神社(式内社)


久須夜ヶ岳の南山麓に鎮座。祭神大己貴命。遠敷郡式内社「久頂夜神社」に比定される。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に「久須夜宮壱町 堅海村」とあり、享禄5年(1532)の神名帳写には「従二位久須夜大明神」とある。例祭は5月11日(現在10月11日)となっている。神社背後の久須夜ヶ岳中腹に巨岩があり、大神(おおかみ)岩という。大神が降臨したと伝え、土地では狼岩といって恐れる。また境内地には神の腰掛岩があり、鳥帽子の森と称する社叢がある。

あちこちに岩があるので、どれがそれなのかわからない、↑「神の腰掛岩」??
シイ・ヤブツバキ・ホソバカナワラビなどが群落をなす社叢は市文化財。
『内外海誌』
久須夜神社
所在 小浜市堅海10号4番地
祭神 大己貴命。例祭 5月11日(現行10月11日)
本殿 流レ造3坪及向拝1.7坪計4.7坪。拝殿 4坪。神饌所 3.75坪。手水舎0.5坪。長床 10坪。絵馬堂 2.25坪。鳥居石造一基
境内地 1233. 295坪(被譲与国有地)
境内神社 八幡社(祭神應神天皇)小玉社(祭神毘売大神)天満社(菅原道真公)山神社(大山祇命)。
境外地 山林16町3反3畝17歩
氏子数 52世帯
式内神社である。
境内山中に岩があり大神岩という。往古大神がこの岩上に鎮座されたという。里人は狼岩といって畏怖している。又常に御憩いされた御腰掛岩があり、このあたり一帯を烏帽子の森と称し現境内がその一部を占めている。今も尚堅く不浄を禁じている。若狭国の名山久須夜岳は久須夜神社と表裏一体の観をなす、久須の夜雨は若狭八景の一。
堅海の氏神。元内外海村指定村社。
 「国帳に云、従二位久須夜大明神○志に云、在二堅海浦(此地康正二年造内裏段銭引付帳には堅海村とあり、今の堅海浦といへり)久須夜以下一、相伝祭神大己貴命。(畧)祭日は二月と九月の十一日(畧)」伴信友全集巻二。
「久須夜宮一町堅海村」文永2年大田文神田表。
「楠祖屋船神、古事云、鳥之石楠船神」神名帳考証。
「久須夜大明神社 堅海浦久須夜嶽の下にあり、伝へ云ふ多太大明神と同体の神にして祭神は大己貴尊なり、二月十一日九月十一日は祭礼を行ふ、神階記に従二位久須夜大明神云々又延喜式に載する所の遠敷郡久須夜神社是なり」若狭郡県志。
「久須夜神社 在二堅海浦久須夜嶽下一 相伝祭神大己貴命本国神階記従二位」若狭国志。


『遠敷郡誌』
久須夜神社 指定村社にして同村堅海浦字宮ノ元にあり、祭神は大己貴命にして延喜式に久須夜神社とあり、國帳に從二位久須夜大明神とあり、文永二年大田文不輸田の條下神田の内に久須夜宮壹町堅海村とあり、國領志高郷の除田中神田二十三町三反の内久須夜廿一町堅海村とあり、此廿壹町は壹町の誤寫なるべし神名帳考證に楠祖、屋船神、古事記云、鳥之石楠船神とあり、境内神社に天満社あ、祭神菅原道眞公同浦宮の元より明治四十三年移轉し、山神社は祭神大山祗命にして萬治二年字高畑に鎮座ありしを右同時移轉す、八幡神社祭神應神天皇、小玉社祭神毘賣大神。.


広峰神社

『内外海誌』
広峰神社
所在 小浜市堅海24号20番地
祭神 素盞鳴命
本殿 流レ造3坪。鳥居石造一基。境内社 稲荷社(祭神倉稲魂神)
境内地 271.73坪(被譲与国有地)
境外地 山林7畝12歩
創建の年代は古くして不詳。氏子数 52世帯


『遠敷郡誌』
廣峰神社 同村同浦字下町にあり、祭神は素盞鳴尊にして境内社に稲荷社あり、祭神は倉稲魂神なり。


法華宗智光山海恵寺

『内外海誌』
海恵寺
所在 小浜市堅海36号8番地
本寺院ハ宗祖日蓮聖人奠定ノ久遠常住輪圓具足ノ南無妙法蓮華経ヲ以テ本尊トス
法華宗
本堂 45.64坪。庫裡 23.96坪。山門 1.85坪。仏堂 4.0坪。鐘楼 2.34坪他
境内地 419.01坪
堂内仏像 一塔両尊(3)菩薩像(4)不動明王(1)愛染明王(1)四大天王(4)日蓮大菩薩像(1)鬼子母神十羅刹女(11)大黒尊天(1)
檀徒 堅海32戸 他計34戸
本寺院ハ弘治年間ノ創立ニシテ禅宗タリシモ慶長4年頃本境寺ノ大檀徒タル組屋六良左ヱ門ノ慈恩ニ感激シ時ノ住職禅唱院日慶上人ヲ開基トシテ寺檀共ニ法華宗ニ改宗シ本境寺ノ末寺トナル時ニ天正六年七月六日総本山本隆寺十六代日宜上人ヨリ智光山海恵寺ト寺号ヲ授与セラル以来相統シテ今日ニ至ル。(寺記)
 「海恵寺は開基上野佐渡守草創ト申伝候
    九月廿三日 海恵寺 正行院」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
海惠寺 日蓮宗本隆寺派にして本尊は釋迦如来同村字上中町に在り、元正行院と號せしが天正十六年海惠寺と改め、改宗創立境内佛堂に番神堂あり。


臨済宗南禅寺派長慶寺

『内外海誌』
長慶院
所在 小浜市堅海23号8番地
本尊 十一面観世音菩薩
臨済宗南禅寺派
本堂 22.73坪。庫裡 17.75坪
境内地 241坪。山林 2畝17歩。墓地 1畝1歩
堂内仏像 本尊仏像の他阿弥陀如来(1)達磨大師像(1)誕生仏(1)毘沙門天像(1) 大黒天像(1)韋駄天像(1)
檀徒 18戸
本寺院ハ応安二年ノ創建ニシテ高成寺法孫槃山和尚ヲ請ジテ開山祖トナス、当時ハ茅屋ノ小院ナリシモ逐次面目ヲ改メ、万治年間四世室天和尚ニ依リ再建後七世心宗和尚ニ至リ全焼是レ明和2年2月26日也同年再建昭和11年4月十一世宗篤和尚ニ依リテ再建爾来今日ニ至ル(寺記)
「同(註堅海浦)村 長慶院 禅宗高成寺末若州遠敷郡堅海浦長慶院は天正二年上野佐渡守創草在レ之由昔より申伝候
    九月廿三日  長麈院」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
長慶院 右同前本尊は観世音にして同村堅海浦字上場に在り、應安二年高成寺繁山創建とす。


観音堂

たぶんこの建物
『内外海誌』
観音堂
所 在 小浜市堅海
管理者 小浜市堅海23号8番地 臨済宗南禅寺派長慶院。
本尊 観音菩薩座像。木造で檜材一木造。平安中期の作と云われる。重要文化財(昭和、12.3指定)像の高さ 101.9cm膝張 76cm。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


堅海の主な歴史記録




堅海の伝説


『越前若狭の伝説』
金の鳥               (堅  海)
 堅海にまるい塚がある。ここには金の鳥が埋めてあって、堅海区が、どうしても立てて行けなくなったとき、この塚の金の鳥を掘り出して使えといわれている。   (福井県の伝説)


びくに岩           (堅 海)
 堅海浦の海恵寺より三キロあまり奥山にびくに谷というのかある。ここに高さ六メートルばがりの岩がある。岩の形か珍しく、これをびくに岩という。八百比丘尼がこの岩のかげに住んだと伝える。        (拾椎雑話)


うわばみ            (堅 海)
 堅海浦の奥山に比丘尼谷(びくにだに)というところがある。むかし仲東(なかとう)という者が木こりに行き、大きなうわばみにのまれてしまった。仲東は、腰にかまをさしていたので、かまでうわばみの腹をさき破って出た。うわばみは逃げ去り、仲東も無事家へ帰った。うわばみの腹の中は熱くて、その毒気にやられたのが、頭ははげて、かみの毛は一本もなくなっていた。
 それがら以後五人の人がその谷へ木こりに行った。折れた木に並んで腰かけて、休んでいると、その木が動き出したので、みんな驚き逃げ走り、気を失ってころんでしまった。四人は気がつき家へもどることができたが、孫右衛門の女房ひとりが死んでしまった。            (拾椎雑話)





堅海の小字一覧


堅海  川上 大政路 小政路 淵ノ元 広場 下川上 下広場 黒谷 宮ノ倉 宮ノ元 定元 鍛治谷 小谷 中河原 下竹ノ越 寺田 野々田 曳尾尻 馬場野 広瀬 山ノ腰 大田 上場 乳母田 上百合田 下合百田 上和田 地蔵山 日暮 下和田 下り戸 下町 下中町 中町 上中町 上町 堂ノ元 竹ノ腰 壱本木 鳥居馬場 神子田 梶田 六石 石田 風呂ノ下 野元 上丁田 清水 前田 丁田 松ノ前 久屋谷 薮原 深田 大堤 尾々田 大坪 梅ノ木坂 這上里 ?(日+向)尾 大谷 大谷口 堂田 坂尻 堤谷 古坂 柿ノ木谷 木代谷 場上面 奥長路 高森 山崎 口長路 下山ノ神 上山ノ神 坂本 馬橋 水谷 口北谷 中北谷 高畑 奥北谷 地蔵 北山 ヱサツバ 小生水 小山 下滝 広瀬山 大山 引尾 角円 八百姫岩 足谷 大台山 久須夜 深戸 大政路山 小政路山 狸穴 岡 水谷山 高畑山 奥長路山 柳ノ木谷山 向山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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