丹後の地名 若狭版

若狭

北塩屋(きたしおや)
福井県小浜市北塩屋


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福井県小浜市北塩屋

福井県小浜町北塩屋

北塩屋の概要




《北塩屋の概要》
西津小学校があるあたり。地名は、かつては海に面していて製塩が行われていたことによるものかという。江戸期には当地に接する湊村の一部が中塩屋と呼ばれていた。
北塩屋は、中世の開発保の中心地で室町期から見える地名。寛正3年(1462)10月12日の羽賀寺に宛てられた如法経米寄進札に「西津庄北塩室右馬大夫」とあり「北塩室」は「北塩屋」を指すと考えられている。長禄3年(1459)・文明2年(1470)に「西津庄中塩屋」が見えることから、塩屋は西津荘のうちに属し、のち北塩屋・中塩屋に分かれたものと考えられている。応永年間には当地に守護一色氏の居館があったとされる。
近世の北塩屋村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。幕府へ届け出た郷帳類では当村名が見えず西津村のうちに含まれているが、藩領内では独立村として扱われていた。明治7年西津村が公式に3町8村に分村した際に当村も独立村となった。なお当村地籍内には長町(北長町・西長町)の一部があった。
農村で元禄3年の下中郡村控に、村高121石余うち畑方69石余、家数93うち高持百姓22・無高(かじけ・隠居・商人・大工) 71、ほかに山王禰宜1、人数596 (男284 ・ 女298 ・ 出家11 ・ 山伏2・禰宜1)「雲浜鑑」に家数126 ・ 人数601、小名として松原・駒丁・長丁があった。寺院は曹洞宗清厳寺・光徳寺,臨済宗円通寺・福昌寺・松源寺・意通庵,神社は山王権現(日吉神社)、若一王子(熊野神社)・山神がある。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年北長町・西長町が独立したため当地内にあった両町の各一部がそれぞれ当村から分離した。両町は同13年は下竹原村の一部となるが、同14年同村から分離して再び旧来のように各村に分属することとなり、この結果再び当村内には北長町・西長町と通称される地の一部が含まれることになった。,同22年西津村の大字となる。
北塩屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ西津村、昭和10年小浜町、同26年からは小浜市の大字。昭和48年一部が山手1~3丁目となる。


《北塩屋の人口・世帯数》 256・113


《北塩屋の主な社寺など》

宗像神社

弁天川という小さな川の右岸に鎮座(左岸は善教寺)。祭神は田心姫神・瑞津姫神・市杵島姫神。「若州管内社寺由緒記」は「創建は不其歴号、小松原の守護神なり、往古此社は有今之御地其此先主京極宰相殿欲城地退居小松原弁才天於今之堀屋敷、然漁家混雑而炎焼数回也、依其恐怖府城近里の災火小松原弁才天の宮社退処今於此乎」と記す。新小松原の松福寺が別当を兼ねた。正保二年(一六四五)小浜藩主酒井忠勝が社殿を修築したと伝える。氏子は近世の小松原村・新小松原村地域。7年目ごとの大祭を七年祭と称する。例祭は5月13-15日の3日間。
『遠敷郡誌』
宗像神社 西津村北鹽屋字宗像にあり、元辯才天又は辯才天社等と稱し、今は小松原區に屬し漁人の氏神たり、京極氏築城以前は小松原の漁村と共に今の舊城内の地點にあらしが、築城の際漁村と共に今の地に移す、正保二年藩主忠勝公神祠を改築し、三月三日を祭日とし七年毎に一回の大祭あり、此時は藩主及女性方の参拜ありて盛大なりしと云ふ、境内神社に蛭子神社あり、无小松原本間長三郎私祀明治十五年移轉秋葉神社祭神火産霊神福谷區より明治四十一年合併大川神社祭神大己貴命少彦名命新小松原區より明治四十一年合併。


日吉神社

町郊外山手の広い所に鎮座。
『遠敷郡誌』
日吉神社 指定村社西津村北鹽屋字山ノ寺にあり、山王社と稱し北鹽屋及松原等の産神にして祭神大山咋命なり、文永二年大田文に志萬郷開發宮とあるものと開係あるべく、此社の北東天ケ城山あり、此山上に日吉神社あり、之れを遷したりと稱するもの國富村字奈胡にあり、蓋一は開發保の土地なるを以て、山上の本社は奈胡に遷されたりと雖尚此社を建て来りしものなるべし、(莊園の條下及町・村誌西津沿革の部参照)境内神社に稲荷神社祭神猿田彦命倉稻魂命天受須賣命大川神社祭神大汝命少名比古那命事比羅神社祭神大物主命崇徳天皇又本社に合併されたる熊野神社祭神伊弉册尊あり、此熊野神社は元若一王子社と稻し、松原福谷の産神にして今の西津小學枚の東境ナイカウジ山の麓なる北鹽屋字宮ノ脇にありしが、明治四十一年日吉神社へ合併せしものなり、昔出雲より遷し來りしとも又堅海浦より来りしとも傳ふ、文永二年大田文に若王子の神田壹町七反の内開發保二反とあるは當社の存せる事に関係あるべし。(庄園及神社総説参照)宇佐八幡神社祭神崇徳天皇も福谷字坂ノ谷より明治四十一年合併されたるものなり。.


曹洞宗光徳寺

光徳寺は寛永元年開基、意通庵は永正元年開基。
『遠敷郡誌』
光徳寺 曹洞宗発心寺末にして本尊は聖観世音なり、同村字小松に在り、永正三年開山和翁武田信親公の建立する所と傳ふ、寛永元年伏原発心寺第二世貫龍再建して同寺末とす。


曹洞宗清厳寺

松源寺の向かい、山門とがある。清厳寺は京極高次が西津山王宮の隣地に建立したもので、その後「御城之鬼門」とされたために現在地に移転したとされる。なお「稚狭考」では当寺はもと茶園場にあったが、京極高次が小浜城築城に際し移転させられたものと伝える。
『遠敷郡誌』
清巖寺 右同宗同寺来にして本尊は釋迦如来なり、同村字北越に在り、元清岩寺の邊に在りしを築城の際移転す、慶長七年京極高次公今の寺を建立して発心寺全朔を開山とす。境内佛堂に薬師堂あり。


臨済宗南禅寺派松源寺

松源寺は大永7年開基と伝える。もと松原寺といい、現在地より100m余り南西の地にあったという。当寺には小浜藩士で幕末の尊攘派志士梅田雲浜の墓があり、昭和45年東京都松ケ谷町海禅寺より分骨されて両親の菩提寺である当寺に祀られている。

梅田雲浜先生墓所
梅田雲浜先生墓地由緒
梅田雲浜先生は、名を源次郎定明と称し、雲浜と号しました。幼少より文武の道を修め、藩学である崎門学に通じたばかりでなく、国学、兵学、漢詩、和歌をもよくしました。
時代はちょど幕末期で、勤王、佐幕、開港、攘夷の論紛糾して世情騒然とした頃でありました。先生は、勤皇攘夷論をもって王事に奔走し、多くの若い志士達の指導的役割を果しました、ところが安政の大獄で捕われ、江戸において惜しくも獄死されたのであります。
爾来、先生の墓地は、東京都台東区浅草の海禅寺境内にありましたが、郷土の有志相はかって、昭和四十五年六月、御遺骨を分骨移転、先生の御両親の菩提寺である本寺内に新墓碑を建立し、納骨して御霊をお慰めすることとなったのであります。
先生、生い立ちの地に還り賜い、永久に先生の御遺徳を慕う郷土の人々の上に光明を照らし賜うことと信じてやみません。
昭和四十五年 九月十四日 梅田雲浜先生分骨移転委員会


『遠敷郡誌』
松源寺 臨済宗南禪寺派高成寺末にして同村北鹽屋字松宮に在り、本尊は聖觀世音にして慶長年中創建開山選玉と傳ふ。


臨済宗南禅寺派福昌寺

『遠敷郡誌』
福昌寺 右同宗同寺来にして同村字北越に在り、本尊は釋迦如来にして天文年中創建、開山淨室と傳ふ、境内佛堂に観音堂あり、本尊は聖観世音なり、開基は内藤筑前守の臣義孝忠光大禪定門と稱し、天慶五年當國國富庄天嶽城主源義昌感得の靈佛なりと傳ふ。


臨済宗南禅寺派潮音山円通寺

円通寺は享禄元年下竹原村の地に開基と伝え、寛政の大火の際に焼失し現在地に再建されたと考えられる。下竹原村民の檀那寺であり、江戸後期の豪商古河屋の菩提寺である。
天ヶ城山の南西山裾、福昌寺も近くにある。山号潮音山、臨済宗南禅寺派、本尊釈迦如来。「若州管内社寺由緒記」は「享禄元年三月五日諸旦那寄合結草庵、文慶と申沙門開基いたし看坊仕候」と記す。所在地は北塩屋だが、下竹原の檀那寺。江戸時代の海商古河屋が舟霊として各船に祀っていた小仏像がある。
『遠敷郡誌』
圓通寺 右同宗同末にして同村字河原に在り、本尊は釋迦如来にして開山は高成寺第十七世敬之と傳へ境内佛堂に観音堂あり。


護松園(千石荘)

江戸期の廻船問屋旧古河屋別邸があり、市文化財。当別邸には南蛮渡来の美術品が保管されている。松の枝振りからしてものすごい庭園がありそうだが、どこから行くにしても狭い道だから、車では入らないのがいい。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


北塩屋の主な歴史記録


『新わかさ探訪』
千石荘と北前船船頭屋敷 若狭のふれあい第35号掲載(昭和61年1月8日発行)
*日本海海運で栄えた小浜湊の繁栄を物語る
 小浜市西津にある「千石荘」は、文化12年(1815)に、小浜の豪商古河嘉太夫が別邸として建てたもの。書院を中心に茶室、土蔵などが現存しています。古河屋は、江戸時代中ごろの享保年間から廻船問屋を営むとともに、酒・醤油の醸造、金融業を兼業し、小浜藩とも結びついて若狭随一の豪商となりました。
 この古河屋別邸は、藩主をもてなす場としても使われました。一見質素な造りながら、玄関の畳の問(式台といい、客に対して送迎の挨拶をする部屋)に床の間がしつらえてあったり、庭に面しているL字形の縁側には、庭園や月を眺めるために隅の柱を取り外せるようにしてあるなど、随所に藩主を迎えるための格式を備えています。庭は、樹齢500年を超す老松をはじめ、多くの松かあることから「護松園」と呼ばれています。客室には「貝尽くし」の釘隠しが使われ、襖や床の間の壁には鶴沢深山、狩野常信による絵が描かれています。こぢんまりとして落ち着いた茶室、雪隠の手洗い場にある水琴窟(地中に穴を掘り、水を流すとしずくの音が響くようにしたもの)などを見ると、“粋”という言葉のもつ意味が現実の形で伝わってきます。
 古河屋は、江戸後期には9隻前後の北前船を持ち、蝦夷(北海道)から日本海沿岸、瀬戸内を経て大坂に全る西廻り航路を往復して、途中の湊々でその地の産物を買い、積み荷を売る買い積みを行いました。その取扱品は、昆布や数の子、棒鱈、大豆、木材、素麺、醤油、油などさまざま。城米(幕府の米)や蔵米(藩の米)を輸送する賃積みも行いました。多くの帳簿類が残っていて、文化9年(1812)には店卸し高で約4万4千両に上り、小浜藩に上納金8227両を納めています。江戸後期には、ほぼ毎年、多額の上納金の記録があり、古河屋が小浜瀋の財政に深く関わったことがうかがえます。
 同じく西津には、北前船船頭の家(古河屋一族で船頭の古河屋惣兵衛が江戸末期に建てたもの)があります。玄関のくぐり戸を抜けると、裏口まで通り土間が続き、2階建ての建物内部には、帳場机や箱段(タンスを兼ねた階段)、当時の家具什器、北前船の羅針盤、時計、秤などが展示されています。
 この船頭屋敷と千石荘は、日本海海運で栄えたか浜湊の繁栄を物語る歴史的な建造物です。どちらも西津の老舗旅館「福喜」の当主が、先人の残した文化遺産を保存したいとの思いから、私財を投じて維持管理をされています。


北塩屋の伝説


『越前若狭の伝説』
弁天さん           (北塩屋)
 むかし西津の漁師が漁に出て魚をとっていると、海が荒れてきて、どうすることもできながった。もう助からないと思っていると、あたりの海に弁天さんの乗った一隻の舟か現われ、手まねきをするので、漁師の舟は、弁天さんのあとについて行った。するといつのまにか、荒海を乗りこえて、家へ帰ることかできた。。
 これより西津の宗像(むなかた)神社には、弁天さまをまつり、和船の模型か奉納されていふ。   (小畑昭八郎)



北塩屋観音

福昌寺の向かいにこんな仏像がある。
北塩屋観音像
天慶五年(西暦九四二年)當国国富庄天嶽城主 源義昌氏は、常に観世音を信仰せしが、或日 亀崎(今の甲ヶ崎)海面に奇光の出現するを見て 義昌氏は南部、山縣の両臣をして奇光の場所を見ることを命じたる時に 亀崎の漁人都筑大夫なるもの 観世音を海中より得て 両使に献ず。 義昌氏は之を歓び、一宇を設けて安置し、瑞霧山海福寺と号す。 天文年中、内藤筑前守隆之氏が更に増営し、今世は福昌寺の僧堂事を司どる。平成四年一月僧堂が全焼し、観世音像も焼損した。 その観世音像を安置し、ここに観世音石像を建立、霊をお祀りする。
平成十二年(西暦二千年)八月 信徒一同


『越前若狭の伝説』
北塩屋観音            (北塩屋)
 源義昌(よしまさ)は、いっも観世音を信仰していたが、ある日亀崎(甲が崎)の海面に不思議な光かさしているので、南部、山県両家来をその場所へ使わした。亀崎の漁師都筑太夫(つづきたゆう)が、観音像を海中から拾いあげて、使者にさし出した。義昌は、これをよろこび、堂を建て安置して、瑞霧山海福寺と名づけた。
         (若狭郡県志)
この観音像は木像である。甲か崎の海のもくずや流木の中にうずもれて浮んでいたという。       (小畑昭八郎)



若王寺              (北塩屋)
 若王寺(にゃくおうじ)山のふもとにむかし若王寺という寺があった。いつのころかここで戦争があった。今でも五月の節句に若王寺山へ登ると、兵士の戦う音が聞こえる。
 またこの寺の境内に大きな石があって、その下に一羽の黄金の鶏か埋めてある。石を取り除けると鶏がとび出して災いをするといわれていた。それで村の人が相談して、祈り清めて後にこの石を除いたので。たたりを免れた。     (福井県の伝説)






北塩屋の小字一覧


北塩屋  北奥 北中 中道 水築 太田 河原 小山 ?(子にリ)羽 脇ノ谷 奥湯屋谷 泉ケ畑 口湯屋谷 飛越頭 松宮 北越 松長 小松 松原 小尻 宗像裏 山王前 駒村 宮ノ脇 藤松 堤下 安鶏寺 雉子ケ谷 宮前 山ノ寺 山清水 上鴨田 日和谷 南浜 油屋谷 中ノ谷 湯屋ケ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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