丹後の地名 若狭版

若狭

甲ヶ崎(こがさき)
福井県小浜市甲ヶ崎


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福井県小浜市甲ヶ崎

福井県遠敷郡内外海村甲ヶ崎

甲ヶ崎の概要




《甲ヶ崎の概要》
内外海への入り口の集落で、マリーナや釣り具店などたくさんあり、足元を見れば砂混じりの土。浦にはカキ養殖・真珠養殖・釣り用などのイカダ浮かぶ。また甲ケ崎入江には冬になるとカモが渡って来るそうである。

「若狭郡県志」に「始号亀崎、今称甲崎」とあり、南西部山下に亀石と呼ばれる大石があり、潮の干満がもたらした砂で亀石が埋まりわずかに甲の部分を残すのみとなったので甲崎と改称したとある。

甲崎は、室町期から見える地名で、寛正5年(1464)7月25日の羽賀寺寄進札に「鴻崎」とある。文明2年(1470)には阿納尻とともに甲崎は畑田弥五郎賢清に宛行われたらしい。「若狭郡県志」によれば、永正年間に甲崎の背山の城主は畑田式部丞で西津の内藤筑前守に服していたという。戦国期に入って村名となる。当村から古津にかけての海浜では製塩が行われた。延徳4年(1492)8月16日には「甲崎南村見定大夫彦三郎」が三宅孫右衛門尉に「鼻のわき八昇目」にある「塩浜壱昇」を売り渡しており、明応7年(1498)に畑田氏がその買地を安堵している。慶長3年(15985)10月15日の代官所物成目録には「高五百弐拾六石四斗八升 甲崎<古津・安納尻〉」と見えて、年貢収納単位として古津・阿納尻を組み込んでいる。同4年には塩年貢として「弐百八拾石壱桶六合め」が納められている。
海岸に沿って、鼻ノ脇・南浜・旧塩浜・薄塩浜・北浜・西塩入坪・東塩入坪の小字があり、中世・近世を通して製塩が行われていた。中世は塩田一段を「塩浜一昇(升)」と称し、上田一段に対応したと推測される。
天ヶ城山より西へ張出した枝峰稜線上には、永正年中(1504-21)守護被官畑田式部丞が拠ったと伝える城跡があり、北東山裾には畑田氏の女の開基という慈照庵がある。
近世の甲ケ崎村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「稚狭考」は「甲ケ崎村は北を塞きし山間の入江にて莱?・芋・茄子はやく出る、二月北大根諸方に稀なるを此村に出す、丹後・近江よりも買に来る、一村千貫銭利用といふは実なるやしらす」と記す。中世から江戸期を通じて製塩が盛んであった。慶長7年(1612)の若狭国浦々漁師船等取調帳によれば、船数は6人乗7、5人乗1、4人乗10、33人乗2、1人乗4(所有者23)、惣船として1人乗3があり、合計27艘と記される。「雲浜鑑」によれば、小名として南中村・大淵崎・小淵崎、家数75・人数361。寺院は法華宗海竜寺門明林坊・本乗坊・円明院、臨済宗慈松庵・瑞月寺・慈眼寺。神社の記載はないが、現在は白鬚神社がある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
近代の甲ケ崎は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北4町余、戸数58、人口は男174・女195、学校1、小船64。


《甲ヶ崎の人口・世帯数》 359・140


《甲ヶ崎の主な社寺など》

白鬚神社

『内外海誌』
白鬚神社
所在 小浜市甲ヶ崎3号10番地
祭神 猿田彦神。例祭 4月20日
本殿 流レ造及向拝5坪。拝殿 4坪。神饌所 2.25坪。鳥居石造一基
境内地 301.765坪(社地)、83.265坪(被譲与国有地)計385.03坪
氏子数 55世帯。甲ケ崎区氏神
創建の時代 不詳。旧指定村社


『遠敷郡誌』
白鬚神社 内外海村甲ケ崎區宇奥南谷にあり祭神不詳なり。


法華宗石谷山円明寺

法華宗真門流石谷山圓明寺と書かれている。「若州管内社寺由緒記」によれば、海龍寺があって正長元年創立で大永4年の再興後12坊を有するほど栄えたが、元和4年全焼し、その後3坊が造営されたと伝える。その支院の一つである。
『内外海誌』
円明寺
所在 小浜市甲ケ崎13号40番地
本寺院ハ宗祖日蓮聖人奠定ノ久遠常住輪円具足ノ南無妙法蓮華経ヲ以テ本尊トス
法華宗  檀徒 甲ヶ崎37他計77戸
本堂 26.50坪。庫裡 45.50坪。山門 1.85坪
境内地 283.00坪。墓地 6畝20歩。所有林 1反7歩
堂内仏像。一塔両尊(3体)四菩薩(4)不動明王(1)愛染明王(1)四大天王(4)日蓮大菩薩(1)日像菩薩(1)鬼子母神十羅刹女(11)檀徒 甲ヶ崎37他計77戸。正長元年開山寿量院日因大僧都により石谷山海龍寺が創立されたが元和四年火災にて海龍寺其の他の支院全部焼失した。其の内の支院円明院を再建して今日に至る。
「甲ヶ崎村 海龍寺 法華宗本境寺末
それ当寺は開山所願日祐上人の好仏跡なり。法味は朝露夕雨のごとく心を没してその真切を得んと欲するが故に、果して心地を清浄の蓮葉に発す。猶し眼界を無辺の月光に宿し、終に讃伝職法の妙理を懐ふが如し。かるがゆゑに衆生済度の利益を成さんがために、正長元年戊申八月、当寺を開基して石谷山海龍寺と号しぬ。諸生世を挙げてその瑞風に感応し、且暮に法灯の光を挑ぐること年あり。ここに日源上人は内藤兵庫頭の孫裔にして釈氏が門徳の中にあり。仏道成就のために総角頂にして小浜恵光山木境寺の開祖日因上人の霊場に従って悉く八軸の奥義を受けぬ。かるがゆえに諸経の最第一、無二無三を悟了すれども未だ真実妙字の一理を見ざるよりして、弥々念仏の繁栄し、且つは万衆結縁のため大永四甲申春、当寺を再興し、乃ち伽藍並に坊を造立して十二坊を数え、仏日光益して断つことなかりき。しかるところ元和四年戊午炎焼に及び、大聖人の宗門日像上人の大曼荼羅より始め法事の宝物並に旧記暫時にして悉焼滅し畢りぬ。故に闇夜に灯を失うが如し。しかりといえども仏祖の法目尽きざるゆえか、如来の像を焔中より…守り出し奉る。その後かの霊跡に留め漸くにして小堂を建立し尊像を納め奉り、纔今三坊を造営して「再び法灯を照来せるものなり。ここに仏法霊場法式不易の妙義によって、朝暮に現当二世の安泰、国家の長久を祈願し奉る。いまし済度衆生のためならんのみ、今貴命によって言上すること斯の如し。しかりといえども炎焼以来所蔵の旧記によりたれば、その趣備わらざるものなり。
 延宝二卯年九月廿四日 石谷山海龍寺中
              常泉院
              木性坊
              明林坊       」
若州管内社寺由緒記。堂谷憲勇・山口久三訳読。
「海龍寺 甲崎村にあり、日蓮宗にして小浜本境寺の末派なり」若狭郡県志。


『遠敷郡誌』
圓明院 日蓮宗本境寺末にして本尊は題目なり、同村字山森に在り。


臨済宗妙心寺派南谷山瑞月寺

旧道沿いの村の入り口にある。境内に観音堂がある。
『内外海誌』
瑞月寺
所在 小浜市甲ヶ崎2号13番地
本尊 地蔵菩薩
境内仏堂 観音堂木尊如意輪観世音菩薩
臨済宗妙心寺派
本堂 17.50坪。庫裡 3.0坪。観音堂 10.50坪。山門 1,0坪。鐘墮 1.0坪。物置及小屋 計4.0坪。
境内地 370.00坪。宅地 66.00 坪
檀徒 12戸
応永三十四丁未年一宝座元の創立と伝える。明暦三年常高寺瑞雲が再建した。
「甲ケ崎村 随月庵 禅宗常高寺末
随月庵開基は一宝座元也 応永三十四丁未年草創の由申伝也 今年迄二百五十年歟 本地蔵尊也 此外何の証文も無二御座一候
        年号月日 随月庵現主」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
瑞月寺 臨済宗常高寺来にして本尊は地蔵尊なり、内外海村甲ケ崎字鼻ノ脇に在り、應永三十四年一寶の創建と傳ふ、明暦三年常高寺瑞雲再建す。


観音堂

『内外海誌』
観音堂 10.5坪
所在 小浜市甲ヶ崎2号13番地瑞月寺境内
堂内仏像 如意輪観世音菩薩
元甲ヶ崎慈松庵に安置してあったが瑞月寺へ合併したため此処に移した。若狭国三十三ケ所の札所である。
慈松庵開基は天ケ城主内藤家の姫君(天城院天琴慈松大師)
「甲ヶ崎村 慈松庵 禅宗常高寺末
天文十九年庚戌畠田美濃と申仁息女菩提の為創建仕と申伝候 開基は了見座元と申候 凡当年迄百三十五年 当住迄五代に成申候 美濃息女の法名慈松と申故庵号と相成候 則慈松の位牌爾レ今御座候 本尊十一面観音定朝の作にて御座候
当村観音堂は昔より当寺の支配建立は幾年に成候哉不分明 観音の作者は運慶にて御座候 延宝三卯年九月十二日高成寺末 慈松庵 永 与」若州管内社寺由緒記。
「甲ヶ崎慈松庵 天が城 内藤筑前守室女慈松尼の牌所也。京極高次公より寄附状有。高次公之画像有。小栗宗丹墨絵の屏風有、一説宗旦にあらす 周文の筆と云。
1 観音堂
慈眼寺と云、慈松庵兼務候也」拾椎雑話。



象つなぎ石
円明寺の前の旧道沿いに、南蛮船が着岸して日本で初めて渡来した象をつなぎ止めたと伝えられる龍王岩がある。阿納尻(古津)の隣の地なので、この道を象が通ったであろうことはありそうな話であるが、龍王大明神社の神体岩のようで、象をつないだという以前から何か由緒がありそうな岩…

そこの案内板。
南蛮人 亜烈進卿 Aretsushinkyo
the monarch who came from China with special gifts such as elephants, horses and so on
『若狭国税所今富名領主代々次第』に、1408年(応永15)6月、小浜守護所に近い中湊浜に南蛮船か着岸した記事が見えます。この船は帝王亜烈進卿が室町幕府の足利将軍に親交を求めて派遣してきたもので、日本国王宛ての親書と黒象1疋・山馬1隻・孔雀2対・鸚鵡2対その他献上品を積載していました。この亜烈進卿は、1407年に明王朝から宣慰使という職務に任じられ、スマトラ島のパレンバン(旧港)の帝王となった施進卿という人物です。南蛮の帝王が送ってきた使者は、小浜の問丸本阿弥の所を宿舎にしました。日本に初めて上陸した象は、将軍に献上されましたが、食料の大豆の調達に困った幕府は、1411年(応永18)朝鮮国王へ貢物として贈りました。右手の岩は、南蛮船が着岸した際に、象を繋いだと言われています。

『新わかさ探訪』
*日本に初め了象が来か港 若狭のふれあい第79号掲載(平成5年7月29日発行)
*室町初期に南蛮船で小浜へ足利将軍への献上品
 小浜は、室町時代から江戸後期にかけて、都に近い日本海の要津として栄え、国内だけでなく、大陸からも船の出入りがありました。
 日本に初めて象が渡来したのも小浜の港です。
 室町初期の応永15年(1408)9月、南蛮の国王亜烈進卿の使者の乗った船が小浜に着きました。船には、日本の“国王”への贈り物として、黒い象1頭、山馬1頭、クジャク2対、オウム2対、その他いろんな珍しいものを積んでおり、一行は京都へ上って、それらを将軍足利義持に献上しました。
 このことは、当時の記録『若狭守護代記』や江戸初期の『若狭郡県志』に記されています。
 象がやってきた当時、小浜の港は、内外海半島の付け根、阿納尻の古津にあり、使者や動物たちはそこから上陸しました。隣の甲ケ崎地区には、象をつないだとされる岩があります。
 大陸からの船の出入りには慣れていた小浜の人たちも、初めて見る象や、異様な風体の人々に驚いたことでしょう。小浜市役所の1階市民ホールには、16世紀の南蛮屏風をもとに、その模様を想像して描いた壁画「初めて象が来た港の図」が掲げられています。
 贈り主である亜烈進卿については、そのアラジンという名前などから、東西物資の集散地として栄えたスマトラ(インドネシア)のパレンバンを本拠とする華僑の頭目ではないかとみられています。
 今から約600年前、日本に新しい市場を求め、危険を冒しながら約5000㎞、推定50日を超える航海を経て象を運んできた“南蛮”の人々に、驚くべきエネルギーを感じます。
 一行は、その年の11月に小浜を出航したものの、大風で浜に打ち上げられ、翌年秋、新しい船を造るか、または修理をするかして帰国の途についたとされています。小浜には、4年後にも2隻の南蛮船が入港しています。小浜は古くから海外の人々や文物を受け入れてきました。
 ちなみに、京都に運ばれた象は、日本滞在2年8ヵ月ののち、朝鮮国王に献上されています。


《交通》

《産業》


《姓氏・人物》


甲ヶ崎の主な歴史記録


『小浜市史』
南蛮船の来着
応永十五年(一四○八)六月、小浜に南蛮船が着岸した。これについて「今富名領主次第」は次のように述べている。
  同十五年六月廿二日に南蕃船着岸。帝王御名亜烈進卿。蕃使使臣。〈問丸本阿〉彼帝より日本の国王への進物等。
  生象一疋。〈黒〉。山馬一隻。孔雀二対。鸚鵡二対。其外色々。彼船同十一月十八日大風に中湊濱へ打上られて破損之間。同十六年に船新造。同十月一日出濱ありて渡唐了。
また、四年後の応永十九年六月にも同様に南蛮船二艘が渡来した。これに関する記事は次のようである。
  同十九年六月廿一日南蕃船二艘着岸有之。宿は問丸本阿弥。同八月廿九日に当津出了。御所進物注文有之。
 これは古くから知られている有名な事実である。十五年の来航は、十九年の時のように隻数が記されていないところをみると、一艘だけで来たものと思われるが、「帝王」の使いとして、黒象を始め孔雀・鸚鵡など珍しい鳥獣類を積載し、はるばる外洋を航海してきたのであるから、かなりの大船であったろうと想像される。
これまでの研究によると、この南蛮船は旧港すなわちパレンバン(スマトラ島)から派遣されたものであり、帝王亜烈進卿というのは、明朝から同地の宣慰使という職に任命された施進卿という人物を指すと考えられている。当時この地域には中国華僑の活動が活発であり、施進卿はいわばその頭目だったのである。小葉田淳が 「諸国と明との通交には、通事としては勿論使者として従役し、通交の成立のために基礎的の役割を持った支那人が実に多い。(中略)当時に於いては日本・朝鮮・琉球と南海諸国との通商は明を枢軸とし、言語・文書に於いて支那を国際的なるものとして展開されたといってよい。(中略)南海諸国の東亜貿易の底部に流れた華僑の実勢力を看過してはならぬ」と述べているのは、傾聴すべき指摘である(『中世南島通交貿易史の研究』)。
 小浜に到着した南蛮船の一行は、問丸本阿弥のところを宿所としたが、一か月ののち都へ入った。「東寺王代記」はこれを「七月廿二日、黒鳥唐より引き進む、高さ六尺余」と記し、「武家年代記」裏書には「七月、南蛮国黒象三頭を貢す」、「和漢合符」には「七月、南蛮国黒象三頭、鸚鵡、大鶏等を貢す」という記事が見える。高さ六尺余の黒鳥というのは、さしずめ駝鳥であろうか。大鶏というのも多分同じものを指しているのであろう。
黒象は「今富名領主次第」の記事と違って、三頭というのが実際だったのかも知れない。
 この時、南蛮国使臣が進物を捧げた「日本の国王」とは、室町将軍を指したと思われる。三代将軍義満は、南蛮船が来る一か月半ばかり前の五月初めに没したので、黒象などは眼にしていないが、ここで注目を要するのは、彼が晩年に展開した外交である。応永八年(一四○一)、彼が「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に上る」という著名な文章で始まる国書を、僧祖阿や肥富某らに持たせて明に派遣したのは周知のことである。翌年八月彼らは明の船に乗って帰国し、義満はわざわざその船を見るために兵庫におもむき、九月には北山第で明使を引見した。明使はこの時明帝の詔書と大統暦をもたらした。日本の服属を認めたのである。これに応じて、翌十年帰国する明使を送り、「日本国王 臣源表す」云々という上表文をたずさえた遣明使が再度発せられ、十一年五月には明使が「爾、日本国王源道義、……来たり朝貢す」云々という永楽帝の詔書と勘合符百道などをたずさえて来朝した。ここにその後一世紀半にわたる日明勘合貿易の制度がととのったのである。翌年以降も義満の死ぬ年まで連年明使が来朝している。同じ時期、義満はまた朝鮮に対してもしばしば使者を遣わしており、朝鮮使も物をたずさえて来航した。このように一四世紀の初頭は、明を中心とするアジアの国際関係が、日本をその一環に連ねて活発に動いた時期だったのであり、南蛮船の来航もそうした環境の中での出来事であったことに注意すべきであろう。
 ところで、この当時来航した明船などは、瀬戸内海を経て兵庫に至るのが通常のコースであった。南蛮船がこのコースによらず、日本海岸の小浜を目指して来航したのは、対馬海流を利しての航海の便宜があったのであろうが、それにしてもこれは、当時の小浜が日本海沿岸航路の中心に位置する発達した港津であったことを雄弁に物語っている事実といわねばならない。
 上洛した南蛮使節の一行が、いつごろ小浜に帰ってきたかを記す史料はないが、船が大風のために中湊浜に打ち上げられて大破してしまったのが、十一月十八日のことと記されているから、かなり長く滞在していたのは確がである。船の破損はそれをいっそう長引がせた。遠洋航海をする大船のことであるから、船大工や鍛冶などの職人も乗り組んでいたものと思われるが、新造ともなれば彼らだけではとうてい手が足りず、おそらくは守護一色氏の関与のもとで、問丸本阿弥らが尽力し、小浜とその近辺在住の職人らも集められたことであろう。翌年十月ようやく新船建造が成り、一行は渡唐したのである。
 応永十九年の再来の時は、六月二十一日に来て、八月末まで二か月余の滞在で出帆しており、ほかに関係史料も見当らなくて、一行の足跡をあとづけるすべもないが、「御所進物注文これ有り」とあるのを見れば、やはり進物をたずさえて上洛したかと思われる。しかし、その前年、将軍義持は明使王進の入洛を許可せず、王進はむなしく兵庫から帰国して、以来明との通交関係が約二十年間中絶することになったという事情を勘案すると、あるいは上洛を果たさずに帰っていった可能性もあるかもしれない。


甲ヶ崎の伝説





甲ヶ崎の小字一覧


甲ケ崎  亀ケ浜 鼻ノ脇 奥南谷 中南谷 上南谷 南源大 口南谷 南条 南浜 旧塩浜 薄塩浜 中村 山森 東山森 口石ケ谷 南石ケ谷 釣姫落 大山 奥石ケ谷 北石ケ谷 小谷 小須崎 中浜 北浜 嵜条 新浜 野ケ鼻 的場 西塩 入坪 大坪 小清水 上小清水 東塩入坪 西石近谷 石近谷 椿前 久保 宮ノ下 平畑 中川 稗田 赤崎 中道 大溝 黒ノ下 笹花 長通 坂尻 南加尾坂 北加尾坂 高屋 槙谷 東宇久坂 北宇久坂 上宇久坂 中宇久坂 西宇久坂 鳥越 鳥越両下 北小梨子ケ谷 小梨子ケ谷 臼谷 北大梨子ケ谷 中ノ谷 小須野尾 西ノ谷 大梨子ケ谷 西大梨子ケ谷 坂ノ尻 梨子ケ谷 谷田 天下城

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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