丹後の地名 若狭版

若狭

国分(こくぶ)
福井県小浜市国分


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福井県小浜市国分

福井県遠敷郡遠敷村国分

国分の概要




《国分の概要》

遠敷川右岸の国道27号が東西に走る南側にある集落。曹洞宗国分寺のあたり。地名の由来は国分寺・国分尼寺が当地に建立されたことによる。桓武天皇の時代に2寺とも焼失したが、すぐ再建されたという。文永2年11月の若狭国惣田数帳案には国分寺16町4反余・国分尼寺7町5反余とある。天文年間に、それまで僧院ばかりであった場所へ遠敷村中村地区から村人が引っ越し、その結果この地を国分村と称するようになったという。
国分は、南北朝期から見える地名で、建武2年(1335)3月24日の明通寺院主頼禅置文写に、経仏坊寄進3反120歩のうち「一反国分北」とあるのが初見。この寄進がなされたのは弘安3年(1280)10月であったことから鎌倉期から地名としてあったことが想定される。戦国期に入って村名となり、文明13年・天文18年の明通寺への如法経米寄進札には「国分寺 四郎大夫」「国分寺村 左衛門」、弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「百文 国分寺村」と見える。元亀2年(1571)正月2日の松田頼隆田地寄進状に「若狭国々分寺北熊丸名」とある。
近世の国分村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。天正5年当地に兵火が起こり、国分寺本尊釈迦如来と尼寺本尊薬師如来・阿弥陀如来を残して、国分寺・国分尼寺の2寺は灰燼に帰したという。慶長15年小浜の山田入道一徳が国分寺釈迦堂を再建し、焼け残った釈迦如来像を安置した。しかし寺自体は無住となり、明通寺住職が別当となって釈迦堂を管理したとみられる。尼寺の方もその後再建され尼寺庵と号し、当初は尼僧が住んでいたが寛文6年以降法相宗から禅寺となり、神通寺の末寺として曹洞宗の僧が居住するようになった。明治13~14年頃明通寺が別当職を離れ、同19年には尼寺庵が国分寺と改称した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年遠敷村の大字となる。
国分は、明治22年~現在の大字名。はじめ遠敷村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北4町余、戸数53、人口は男135 ・ 女132。
昭和42年国道27号が開通。同47~49年若狭国分寺跡とみられる地域の発掘調査が行われた。明治34年国分寺の木造薬師如来座像が国重文、昭和51年若狭国分寺跡が国史跡に指定された。昭和50年一部が遠敷1~10丁目となった。


《国分の人口・世帯数》 175・62


《国分の主な社寺など》

国分寺古墳と若狭姫神社。画文帯仏獣鏡を出土したまぼろしの前方後円墳。
国分寺古墳は今の国分寺釈迦堂の向いにある小山で、墳頂に若狭姫神社がある。

『小浜市史』
国分寺古墳は、国史跡若狭国分寺跡の寺域内に所在する独立墳で、塔跡に接して径四五メートル、高さ約五メートルをはかる大円墳である。葺石・埴輪は見当らない。内部主体は丸山塚(上中町)の例から横穴式石室と考えられ、六世紀中葉に位置づけられよう。国分区にはいま一基まぼろしの古墳があった。前方後円墳の項で述べたとおり、きわめて珍らしい画文帯仏獣鏡が発見されている。鏡については後述したいが、仏教文化とのかかおりも考えられる謎を秘めた古墳といえよう。

文化年中(一八〇四~一七)に発見されている画文帯仏獣鏡
この鏡の出土地は国分集落の西側であったらしい。全国で数面発見されている他の古墳はすべて一流の前方後円墳であり、したがって、国分でこの鏡が埋納されていた古墳も当然前方後円墳であったと考えられよう。仮に国分古墳と呼ぶこの古墳は仏獣鏡から推定して五世紀後半に比定される。


今の国道27号の辺りにもかつては古墳がいつくかあったようである。
『小浜市史上』
仏獣鏡と幻の国分古墳
国分集落の西域で、江戸時代末期の文政二年(一八一九)に青銅製の鏡が出土した。この鏡は画文帯仏獣鏡と呼ばれる中国製のもので、鏡の背面に仏と脇侍、そして獣が配置されていることから命名されたらしい。本来は円鏡だが、現在は割れて半分強の姿を残している(巻頭カラー図版)。しかし、これと同じ鋳型で鋳造された鏡(同笵鏡)が他の地区で出土しているため、その全容を知ることはできる。中国伝来といわれる多くの鏡がそうであるようにこの鏡も中国では発見されていない。だが、日本でもきわめて少ない出土例しかなく、長野県飯田市の御猿堂古墳や大阪府出土品(いずれも重文)などわずかである。またこれを真似して日本でつくられた千葉県木更津市祇園大塚山古墳出土の大型鏡もある。
 この鏡は中国で鋳造されたといわれているが、年代的には西暦四〇〇年頃に比定されるらしい(樋口隆康『古鏡』)。いわゆる六朝時代(呉・晋・宋・斉・梁・陳)にあたり、この時期仏教の興隆が著しく、これ以前の神仙思想に替る風潮が仏形に表現されたのではなかったか。仏像を彫ることが急速に進展し、その影響が鏡にも派及、仏獣鏡の出現となったことが推測される。
 日本で出土例の少ない珍奇な鏡によって国分古墳の存在が浮かびあがる。今は無いまぼろしの古墳である。前述のとおり、国分区には国分寺境内地に径四五メートルの円墳があり、また、その東側、上中町天徳寺に丸山古墳もある。丸山古墳では同じ画文帯系の神獣鏡が出土するなど、六世紀前半の巨大円墳とその背景の権力を知ることができる。一方、画文帯仏獣鏡を残した国分西域の古墳は、同じ鏡を埋納した他の古墳がすべて前方後円墳であることから、あるいは前方後円墳であった可能性を秘めている。当然のことながら、築造年代も五世紀後半と推定され、被葬者は現在判明の前方後円墳と並ぶ若狭の政権を擔った一人と考えられる。つまり、小若狭国家の政権交替もあったのではなかったか。江戸時代末期に破壊されたが、鏡を実見した京大名誉教授小林行雄は″若狭だから出ても当然”と明言されている。


『郷土誌遠敷』
七つ塚
「朝日さす入日かがやく七つ塚釈迦堂たえはこれをほるべし」という読み人知らずの歌がある。国分寺大伽藍を建立するときに国分区周辺に大小七つの塚が作られ、金、銀、朱等の財宝を埋蔵して、不時の災厄にあった時に再建のため掘り出して使うようにという伝説がある。現在では七つもの塚は見当たらないが、いったいどこにあったのだろうか。
松塚といわれる所が三ケ所現存しているが、約二百五十年前には五力所あったことが確認できそうだ。これらの古墳は、考古学的には五世紀後半から六世紀前半までのものではないかといわれている。
七つ塚に入るかどうか分からないが、別に国分塚がある。現在の国道二十七号線、JRバス停「国分」の辺りの国道の真下に古墳があった。ここより出土したと伝えられている「画文帯仏獣鏡」は、「小浜市史通史編上巻」の巻頭写真として掲載されている。


万灯会山(まんだいさん)古墳群
国道27号の南側の山
『小浜市史』
金屋・国分地区では三世紀末~四世紀初め頃の山陰系古式土師器が出土しており、発生期の古墳の存在を示唆するものとして注目されよう。金屋から国分へ張出す山頂・尾根上と西側山裾には円墳・方墳を含めてかなりの古墳が分布し、マンダイ山と呼ばれる海抜一四〇・五メートルの山頂には径約三〇メートル、高さ四~五メートルの円墳が所在する。この下方尾根上には方墳と思われるものもあって、これら一連の古墳は古式である可能性も考えられる。但し、先端部には城郭遺構と中・近世墓地が認められ、これらを加味しなければならない。西側山裾に点在する古墳とは時代を画するのであろう。

若狭姫神社

『遠敷郷土誌』
若狭姫神社(国分)
○祭神 彦火火出見命
    豊玉姫命
遠敷産業誌に「遠敷村国分森の上にあり彦火火出見命、豊玉姫命を祀る。同区にはその他桜姫神社、清水社、後机社の三社を祀れり。」とある。
又「若州管内社寺由緒記」には小宮として鎮守・聖宮・桜姫御前宮・清水御前社の四社を載せているが、何れも創建時期は不明としている。


『遠敷郡誌』
若狭姫神社 同村國分字森ノ上にあり、元下ノ宮大明神と稱し彦火々出見尊・豊玉姫命を祀る。


若狭国分寺跡・曹洞宗護国山国分寺

今は曹洞宗護国山国分寺の釈迦堂↑がある、この建物は江戸初期のもので、旧国分寺の金堂の跡地に規模縮小して建てられたものという。
史跡若狭国分寺跡
 国分寺は、天平十三年(七四一年)に聖武天皇の発願により、全国各地に造営されたものであり、僧寺と尼寺がある。若狭国分寺は、小浜平野の中央を流れる北川の支流である遠敷川と、その支流である松永川とによって東西を囲まれ、南を国道二七号線によって区切られたおよそ三角形の地形に位置している。
第一次調査では、国分寺古墳の裾に塔跡、現釈迦堂の下に金堂跡、水田の中より寺域東限、北限が確認されている。第二次調査では、現釈迦堂の前方に中門跡、後方の畑の中より講堂跡が確認されている。寺域は二町四方が推定され、寺域内には若狭地方最大である径四十五メートルの円墳国分寺古墳があり、全国でも例を見ないものである。また薬師堂には、重要文化財の薬師如来坐像、釈迦堂には市指定文化財の釈迦如来坐像が安置してある。小浜市教育委員会


国道27号沿いの北側に所在。遠敷川・松永川に挟まれた三角州状をなす地帯に位置し、きわめて不安定な立地に造営されている。この地域は昭和43年土地改良事業区に設定されたが、ほぼ国分寺寺域と推定される区域は事業対象とせず保存。同47・48・49年に発掘調査を行った。現状は寺域の中心に曹洞宗国分寺が所在し、現釈迦堂は旧金堂を縮小して建てられていた。伝承ではこの地域は国分尼寺跡とされていたが、発掘の結果僧寺と確認された。規模は寺域を画する溝が東・北で検出され方2町(218m四方)と判明。伽藍配置は南大門・中門・金堂・講堂を軸線上に配し東に塔を置く通常の形となる。金堂基壇は槃築となっており、現釈迦堂外周部には旧建物跡を示す根石群が検出された。桁行5間(21.6m)、梁間4間(15m)と小さい。また塔跡も初層辺表8.1mと全体に小規模である。南大門・中門の遺構は残が悪く部分的な検出にとどまった。特徴として瓦の用いられた形跡はなく、建造物は桧皮葺であった可能性が推測される。また、塔の南西に隣接して径45mの6世紀代と考えられる大円墳があり、通常寺院建設では排除されるはずだが、ここでは境内の中心部分に残されており全国的に例がない。さらに、塔跡北西では陸奥・播磨国分寺跡に次いで金銅製水煙の一部が発見されている。寺域の北方でも雑舎群と考えられる掘立柱跡建物跡群も検出された。
創建は、奈良時代後半の土器類が各所で検出されたことから、国分寺建立の詔勅発布に近い頃といえよう。また塔・金堂跡周辺からは炭・焼土、火を受けた遺物が出土し、焼土中の土器類が平安時代中期以前のものばかりであるから、少なくとも創建時の建物はこの頃まで存続していたと推定される。その後再建されて中世にもあったことは、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に国分寺の記載があることからも明らかである。
塔の存在などから国分僧寺と考えられ、国分尼寺の位置は今のところ定かでない。建物の規模が小さく茅葺である。官寺としては何ともビンボーな感じでこれでは生まれたばかりの国家の威信に疵がつきそうなもの、塔の初層辺長9メートル以上が一般的なのに8・1メートル、金堂塔も普通7間堂であるのに5間堂と、他の国分寺より小さい。
それで、この東にある大興寺廃寺が当初は若狭国分寺であったのではなかろうか、当国分寺はその後平安期になってこの地に再建されたものでなかろうかの見方がある。
江戸期では明通寺が別当。昭和54~58年環境整備が実施され、史跡公園として現在にいたる。
塔跡

薬師堂

左が薬師堂(右は釈迦堂)。
薬師堂には旧国宝の薬師如来坐像を蔵するが、他の旧国宝の仏像と比べると小さく、観光資源としては今一つと見たためか、あまり宣伝されていないようである。釈迦堂には福井県内最大の釈迦如来坐像が安置されている。
『郷土誌遠敷』
木造薬師如来坐像 一躯
     指 定 明治三四.八.二 国指定
     所在地 小浜市国分
     管理者 曹洞宗国分寺
鵜の瀬の流を抱擁する遠敷の里は、いたるところに史跡があり、一の宮社叢とともにうっそうたる樹林のみえるところ、ここが若狭国分寺跡である。
方二町の広大な寺域の中に、南大門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が整然と配置され、奈良仏教文化の繁栄をうかがい知ることができ、若狭の文化的中心であったことが解明された。
その一角に近世建築の薬師堂がある。ここに奉安の本尊薬師如来像は、寺伝によれば春日仏師の作と伝えるが明らかに鎌倉時代の特色を示している。
若狭地方切っての完好豊麗な仏像であって、上半身の整った美しさと、胸から腹部にわたるふくよかさは人間味が豊かである。官能的な写実ともいえよう。
またいかにも素直な線で構成する眉や眼、そしてその彫りは、明快で少しも渋滞するものがない。
この像は素地仏であるだけに、本彫独特の清潔な質感にあふれていて、各部に鋭い刀のさばきが示され、特に充実した肉どりの豊かさには時代の特色がよく示されている。像高七九・七センチメートル。構造は、頭部は前後2材を矧いで作り、首ホゾで頭部と胴部を矧ぎ寄せ、胴部も同様に前後二材を寄せてつくられる。膝前の内刳部に墨書があり、元禄六年(一大九三)に尼寺庵の住職であった玄心によって、尼寺庵の本尊として祀られた旨を記しているが、それ以前は若狭国分寺の旧像と考えられる。
本像は昭和五十五年(一九八〇)、奈良国立博物館で開かれた国分寺特別展に出陳され絶讃を博した。


木造釈迦如来坐像 一躯
   指 定 昭和四五.二.二〇 市指定
   所在地 小浜市国分
   管理者 曹洞宗国分寺
凶作と疫病から万民を救わんとの聖武天皇の発願によって、天平九年(七三七)国ごとに丈大釈迦像一躯、脇侍二躯の造像と、大般若経各一部の写経を命じ、同一二年には七重塔一基、七尺観音像一躯の造立と法華経一〇部、観音経一〇巻の写しを命じ、翌一三年には国分寺を二寺に分って、僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」と命名したといわれるが、ここ国分の里は、かつて天平壮厳の美を現じた若狭国分寺跡である。
歳月移って一二〇〇有余年、天平創建の七堂伽藍は諸国国分寺の例にもれず、焼亡、廃壊の厄を重ね、室町時代に至っては鎌倉期再刻の本尊大仏を残すのみとなったが、慶長一五年(一六一〇)小浜の住人、山田一徳が諸国遠近を勧進して、現在の釈迦堂を建立したと伝えられる。
本尊釈迦丈大の大仏は、像高さ三一八センチメートル、膝張二三七センチメートル、寄木造り、施無畏、与願の印を結び、天平の遺制をいまに伝える県下最大の巨像で、其壇上に建つ入母屋造り平入の釈迦堂内に安置され、常時これを拝することができる。
本像の樞躯は鎌倉時代、頭部は江戸時代の作と推定されるが、特に躯部は写実的な刀法をもちいて見事に造形され、肉身部に残存する漆箔や衣文の彩色とともに往時の華麗さを偲ばせるものがある。地元の国分区には、数少ない文化財愛護少年団があり文化財愛護の実践と研修に努めている。


国分文化財愛護少年団がある、舞鶴あたりでもその名くらいは知られている、もうだいぶに前からあるよう。子供の頃から郷土文化に接して文化と郷土を守り発展させうる人材育成に役立てよう、郷土愛と誇りをもったアイデンティティある郷土人になろうというものらしい。郷土人としての根がないと中味ドカラッポで何もなく上やまわりにソンタクして自分を売り込むしかノーのない太鼓持のクズになってしまう、親も泣くし自分自身もオイオイ泣くことになる。こうしたことを通してチイとは自分自身を確立した中味のある人間になろうやということか。大いにやれとまでは言わない、郷土の基本も知らず実践経験もない未熟者がワシがワシがワシほどエライ者はないとばかりにガンバリ出過ぎるとかえって郷土をつぶしてしまう、そんなにあまいものではないが誰もが少しずつは学び実践せねばならない大事なことだろう。
郷土の発展は郷土人による自力更生が基本であろう、郷土住民のその主体性が何よりも大事で、こうした努力もせずに原発を引っ張ってきて、そのゼニで発展しようなどは本当は身勝手な妄想でしかなかろう、国や原発は彼らの都合で郷土とは関係なく発展計画を持ち郷土を荒らすだけという結果を残すかも知れない。郷土にはバンザイバンザイのタマシイまですさんだ郷土人だけしかいなくなってしまい、いよいよますます荒廃は深刻になってしまう。若狭原発銀座発展計画に対する小さなアンチテーゼであろう。


曹洞宗護国山国分寺

『郷土誌遠敷』
国分寺釈迦堂
仏教伝来より二〇〇年を経た奈良時代の最盛期、天平十三年(七四一)二月聖武天皇の勅により、全国の国ごとに「金光明四天王護国寺」という僧寺と、「法華滅罰之寺」という尼寺が建立されるようになった。
若狭の国では、太興寺がそれに転用されたのではないか。(「小浜市史」通史上巻)しかし明通寺文書(『小浜市史』社寺文書編)によると、大同二年(八〇七)平城天皇の御発願により、現国分寺が建立されたとある。昭和四十七年(一九七三)より三ヵ年をかけての発掘調査により寺域、堂宇等の跡が確認され、昭和五十一年(一九七六)には史跡として国の指定を受けた。尚、文永二年(一二六五)の若狭国総田数帳(東寺百合文書)や須磨千穎先生の「若狭国遠敷郡の条里について」等によっても、鎌倉時代中期までは国分寺の存在したことが確認できる。この時の堂宇はどんな様式であったかは、はっきりしないが発掘調査のとき瓦が出土しないことから、屋根は茅葺きか、桧皮葺きか、あるいは柿葺きであったかもしれない。
明通寺文書によると、天正五年(一五七七)火災により全焼、翌年より三ヵ年をかけて本尊を造立し、慶長八年(一大〇三)二月開眼供養が営まれたが、堂宇は仮堂であったようである。同年三月より堂宇再興の勧進が進められたようであるが、それが実らなかったか、慶長十四年(一大〇九)二月より、再度の勧進が進められたようである。しかしこれも仮堂しか出来なかったようである。
降って、元禄十七年(一七〇四)の明通寺文書によると、この慶長の仮堂は破損甚だしく、再興したいが国分村にはその木材がなく、近隣の村々より用達を願いたい由の願書が小浜藩に出されている。これにより木材の確保が出来、明けて宝永二年(一七〇五)に現釈迦堂が再建されたのであった。
天平勝宝三年(七五一)に総国分寺として建てられた「束大寺大仏殿」の様式は「和様」であったが、治承四年(一一八〇)、源平の争いで平重衡の兵火によって焼け落ち、建大元年(一一九〇)鎌倉幕府と俊乗坊重源によって再建されるが、この建築様式は新しく、南宋より伝わった貫を多用する新建築手法であった。この様式を「大仏様」又「天竺様」「宋様」ともいう。
しかるに、又しても、永禄十年(一五六七)、松永大秀の乱により焼亡、この再興は江戸時代に入り、元禄文化の華開く元禄九年(一六九大)六月着工、実に十三年の歳月を経て、宝永大年(一七〇九)落慶供養が行われたのであった。この元禄再建の様式は勿論「大仏様」であった。これが今日の国宝東大寺大仏殿である。
現、国分寺釈迦堂は、この東大寺大仏殿の再興年代と許しくも重なり、様式も若狭地方唯一の大仏様を採っており、貴重な仏殿建造物である。
尚、国分寺釈迦堂を建てた、工匠、井関(居関と書かれているときもある)一族は、元禄の明通寺三重塔の大修理をはじめ、宝永の国分寺釈迦堂再建、同鐘楼の建立、正徳の飯盛寺本堂の大修理、同じく黒駒の大日堂の建立と、その手法は若狭に大きく鑿跡(のみあと)を残しており、最後は萬徳寺本堂再建(昭和九年・一九三四)であった。


『遠敷郷土誌』
護國山 国分寺(国分)
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来  市指定文化財
創建は奈良時代聖武天皇の詔勅発布によって国ごとに建立されたのが初めである。
往時は金堂、塔、講堂、南門、中門等が建っていた。これらの創建当時の建物は発掘調査により平安中期頃まで存続したと推定される。その後衰退していくが再建され中世にもあったことは、文永二年(一二六五)の若狭惣田数帳から国分寺の記載があることから明らかである。しかし天正の兵火により伽藍全てを焼失した。今では国分寺史跡(国指定)として遺構を残すのみである。
現在の国分寺は近世代に再建され、幾度か宗派を変え、寛文六年(一六六八)曹洞宗に改宗する。本堂に大日如来が安置されていることはかつて真言、天台系の宗派であったと考えられる。国分尼寺を経て明治十九年国分寺となる。


『遠敷郡誌』
國分寺 曹洞宗神通寺末にして本尊は釋迦如来なり、亦尼寺庵ありて薬師如来を安置す。
聖武天皇の勅願によって毎州國分寺を置かれし時、若狭に於て國府に近く建てられ、元七堂具備せしと傳ふ、元尼寺庵と稱せしは國分尼寺のありしものなり、文永二年惣田數帳に國分寺十六町四反餘國分尼寺七町五反餘を領すとあり、傳ふる所によれば桓武天皇の時御再建ありしが天正五年兵燹に罹り諸堂烏有に歸し、僅かに國分寺本尊釋迦如来尼寺庵本尊薬師如来脇侍釋伽彌陀二像を殘したるのみ、然るに小濱の山田一徳なる者諸所を勧進して慶長十五年舊址に釋迦堂を建立し、國分寺本尊釋迦如来と安置し奉る今の堂宇是なり、尼寺庵には後堂を建て尼僧住せしも寛文六年以来禪寺となり、曹洞宗の僧之を繼ぐ、中古以来神宮寺明通寺等別當たることありしが明治十三四年頃別當を離れ、明治十九年尼寺庵の稱を廢し國分寺と改む、國分寺釋迦堂由来記に據れば、今の國分區は往昔の寺地にして寺坊三十あり、内二十坊は釋迦堂十坊は尼寺附の尼坊にして東・西・南・北・奥の五坊は大寺なり、府中迄二十四町の間廊下あり云云、現今國分寺本堂に安置せる薬師如来は高さ約三尺の座像にして春日の作と稱し、明治三十四年八月國寶となれり。


国分寺では毎年2月2日に毘沙門天を祀り、酢おろしとあずきがゆを食べる初寅が行われる。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


国分の主な歴史記録




国分の伝説


『越前若狭の伝説』
国分の行ない              (国 分)
 むかし若狭の国分で、びしゃ講の夜になると、上(かみ)の森から大グモか出てきて、田や畑を荒し回ったり、おんな子どもをさらっていくので、村人は、びしゃ講の夜になると、恐れていた。
 村人たちは、その大グモを退治するため、びしゃ講の夜、釈迦(しゃか)堂に集まり、お坊さんに、りしぶん経をとなえてもらい、大グモに食い殺されぬように、おまじないのあずきかゆと大根の酢おろしを食べ、夜のふけるのを待っていた。
 村人たちは、大グモか長い足をひきずって歩いてくる音が聞えてきはしないがと恐れていた。時の過ぎるのを待っているうちに、集まっていた村人のひとりが、「ちょっと便所へ。」と腰をあげて出て行ったかと思うと、しばらくして、またひとりが「かまどの火の始末を忘れてきた。」といって出ていってしまった。
 こうしているうちに、いつのまにか、ひとり減りふたり減りして、気かついた時には、三人だけになってしまった。みな逃げ帰ったのである。
 そこへ大グモがやってきた。残っていた三人は、釈迦堂にあったお面の力をかりて、がろうじてクモを退治した。
 このことがあってから、二月二日の夜のびしゃ講に集った村人たちは、どんなに遅くなってもだれも「帰ろう。」といわなくなった。
 いまもこの国分村の付近では、いろんな会合の時でも、こっそりことわりなく会の席からぬけ出して、帰ってしまう人のことを、国分の行ないといっている。
 クモ退治に使つだ面は、門前の明通寺にあるという。   (小畑昭八郎)





国分の小字一覧


国分 中蒲田 上蒲田 下長塚 下三丁一 上清水川 中三丁一 上三丁一 下大鳥居 中大鳥居 大鳥居 金堂 新上川原 中川原 上川原 上瓜割 上大鷺 川大鷺 下北久保 大久保 細廻 上北久保 大河原 中辻 福徳 樋田 樋ノ口 加屋 田長 上米 惣田 廉ノ子 尻細 流田 八反田 下六反田 六反田 五反田 黒田 東村腰 東条 村腰 正神田 北条 中縄手 中田 馬場 川向 下松塚 山畑 大門 南条 森ノ上 山崎 赤坂 東山 赤松 下清水川 中大鷺

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若狭・越前
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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