丹後の地名 若狭版

若狭

熊野(くまの)
福井県小浜市熊野


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福井県小浜市熊野

福井県遠敷郡国富村熊野

熊野の概要




《熊野の概要》

国富平野の東北端に位置し、中央部を南西に流れる熊野川から北側の奥熊野と南側の口熊野の2集落からなる。北東は志積(しつみ)坂を経て志積浦、北は山を隔てて犬熊(いぬくま)浦。近年まで犬熊浦の人は熊野越と称し当村へ下って小浜へ出たという。今もその道がある。
熊野は、鎌倉期から見える地名で、建久6年(1195)12月4日の太政官符は、国富荘として立荘される田地を書き上げ、その中に「熊野北作」として3町7反270歩とある。この時には2町8反150歩が耕作されており、9反120歩は荒地であった。国富荘の他の田地は木前里・積无里という里の中に坪付をもって記されているのに対し、「熊野北作」には里も坪も記されていないことから、この地は条里制の行われていなかった熊野の北が開発された地であることをことを示している。戦国期に入って村名となる。文明9年(1477)・大永2年(1522)両度の羽賀寺への如法経米寄進札には、施主として「熊野村 施主妙清」「領家方熊野村珎権」とあり、弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「百五十文 熊野村分」と見える。文禄4年(1595)10月10日、木下勝俊は羽賀寺寺領として熊野村内50石を寄進している。
近世の熊野村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数51 ・ 人数248。慶応2年(1649)の国富組諸村年貢目録には口熊野・奥熊野と別記され、双方に庄屋がいたが、村高では一括されている。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年国富村の大字となる。
近代の熊野は、明治22年~現在の大字名。はじめ国富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北4町、戸数43、人口は男115・女122。


《熊野の人口・世帯数》 112・31


《熊野の主な社寺など》

条里制遺構
奈胡・次吉と接する地籍には条里制遺構と考えられる二ノ坪・三ノ坪・五ノ坪などがあるが、昭和同38~41年の土地改良事業により遺構は消滅した。


熊野神社

集落の一番奥のさらにだいぶに奥の鎮座、鹿除けのフェンスの向こうに社殿らしい建物が見える、ここから奥は動物の世界、クマちゃんがいそうな気配なので行ってみるのはやめた。
『国富郷土誌』
熊野神社
奥熊野の集落より東三〇〇メートル余離れた山ろく、熊野八一号宮山一-一番地に鎮座する旧村社、伊弉那美尊を祀る。『遠敷郡誌』には「元熊野大権現若一王子 本地十一面観音なり徳治二丁未春、真珠坊頼尚律師法式等を相勤め遷宮すと伝う」と記され、また『福井県神社誌』には、「伊弉那美尊を奉祀、徳治二年の創立、境内五三三坪、氏子四五戸、例祭五月一日」とある。明治初期には、祭礼は十一月二十三日、氏子四七戸と伝えられているが、現在の氏子は一一戸で、四月三日に春の祈祷があり、五月一日と十月一日に祭礼が行われる。古来より奥熊野の氏神であるが、奈胡との関係も深く、古くは六人で一座と呼ばれる奈胡座・熊野座があったといわれ、奈胡阿奈志神社の氏子でもあった。
氏子の中で男子が五歳になると、座の人たちに連れられて、阿奈志神社に参詣し、御祈祷を受けたと言われているが、現在は行われていない。また熊野神社は、内外海の犬熊の神社と兄弟神と言われ、現在でも本殿の屋根の葺替えや、鳥居の建立など祝いごとのあった場合には、招待し合い交流を深めている。
現在の境内地は八五九坪、社殿は約二坪の桧皮葺であるが、それに上屋を造り破損を防いでいる。昭和五十三年には外屋根の葺替が行われた。また鳥居も昭和五十八年に石鳥居に建て替えられた。本殿の前に続きに小屋根をのばして、拝殿とし、氏子はここで神事に参列する。元旦にはここに集まり、年頭の挨拶と神酒で新年を祝う。
宮総代は三人で順番制で、一〇年ほどの任期で交替している。総代のほかに、宮の管理や掃除などの世話をする宮世話人一人があって、一年ごとの当番制になっている。なお年間の経費の負担は、戸数割によって一律に負担している。


『遠敷郡誌』
熊野神社 村社にして同村熊野字上大谷にあり、元若王子社と稱す、祭神は伊邪那美尊にして徳治二年創立と傳ふ。


田中神社

こちらは口熊野の社なのであろう、近くに人家が多い。
『国富郷土誌』
田中神社
口熊野集落の北端の平地、熊野七六号上町三五番地に鎮座する旧無格社、国常立尊を祀る。「神階記」に「正五位田中氏明神あり、元田中大明神と称へたり、本地阿弥陀如来なり」とある。文明元年(一四六九)本地の尊容を田の傍から掘出し、霊夢によって氏神としたという。『福井県神社誌』によれば、国常立神を奉祀、境内一五九坪とある。また、同誌には「地大神を祀る、地神社あり、境内一〇八坪」とあるが、地神社は大正九年字上町より、当社に合併合祀され、境内地のみがそのまま残されている。当社には次のような祭礼や年中行事が行われている。
○一月元旦・二月一日・六月一日の三回の神事が行われる。当番二名ずつで、神まつりを行い、後社務所で直会をする。当番は鏡餅・神酒などお供物と、小煮物を持参する。二月一日は小豆の煮物をお供えする。
○一月七日 氏子の内に数え年三歳になる子がある家では、右の神まつりに準じた、お供物を持参し、その子を連れてお参りし、氏子の人びとに祝ってもらう、これを「はなざけ」と言っている。
○一月二十日には「弓始め式を行う。元旦に当番に当たった二名が鬼の面・弓矢を作り「悪魔下道射払い申そう・福徳幸射止め申そう」と唱えながら、内外に矢を放つ。
○四月三日氏子内の厄年の人の、厄払い祈祷がある。厄年の人々はそれぞれ、酒肴菓子などをお供えし、子どもも含め、全員に配り祝ってもらう。特に三三歳の女は晴着、六一歳の人は赤襦袢(最近は洋服になったため赤ネクタイなど)で参詣する。
○八月末日は二百十日の前のため、災害のないことを祈り、酒・するめ等をお供えして、ご祈祷をする。
○五月一日と十月一日は祭礼で、十月はかぶら祭りと言い、氏子はそれぞれ、赤飯などをお供えし、参詣する。なお十月一日には、ひもなおし(一般に言う七五三)の行事が行われ、五歳の児が参詣する。
○十一月一日は、新嘗祭が行われ各氏子からお初穂新米をお供えする。最近は代表が米を供え、他の氏子は初穂米料としてお供えする。なお二月・四月・六月・十一月の四回は神官による神事が行われる。
現在の氏子は二〇戸で、世話人として総代三名を総会で推薦により選出する。
社殿は槍皮葺であるが、上屋造りとなっている。昭和四十九年上屋の屋根を修覆、また昭和六十三年五月には、鳥居を石の鳥居に建替えた。本殿に入る右前に約一〇坪余の納賀床(長床)がある。年間の経費は、口熊野区費割として負担する。


『遠敷郡誌』
田中神社 同村熊野字猫森にあり、祭神は國常立尊にして本國神階記に正五位田中氏明神あり、元田中明神と稱せり、地神社は大正九年字上町より合併さる。


臨済宗妙心寺派長福寺

『国富郷土誌』
長福寺
熊野第四七号迫口ー○番地に所在し、臨済宗妙心寺派の常高寺末である。古くは本尊は釈迦牟尼仏であったが、現在は、聖観世音菩薩である。
「永禄六癸亥年(一五六三)紅覚禅師が開山となって、本尊は釈迦牟尼仏である」と『若州管内社寺由緒記』にあるが、開山は、本寺の常高寺と同じく、大機玄鑑禅師槐堂虎大和尚である。虎大和尚は寛文三年(一六六三)示寂した。
 開基は、常高寺殿松巌栄昌尼大姉である。大姉は、浅井長政の女で高次公の室で寛永十年(一六三三)没した常高院である。
現存の素朴で古風の位牌によると、開基休学永公首座で、元和八年(一六二二)没。また二世三世の位牌も現存し、寛文五年、寛文十年没とあり、ともに首座位の人である。
 昭和三十九年まで、一〇世玄泰智道尼和尚が着住をしていたが、智道尼和尚示寂以来無住であるが、今は小堂を檀徒が管理している。
 ○檀徒 六戸 (昭和三十年ころは九戸であった)
 ○境内地 九九坪
 ○山林  七反拾四畝一分
 ○原野  三畝六歩
 年中行事
  二月二十一日  お日待
  三月の彼岸  念仏講
  八月七日  施食会
  八月十四日  六斉念仏


『遠敷郡誌』
長福寺 臨済宗常高寺末にして本尊は釋迦如來なり、同村熊野字迫口に在り、文祿年中創建す。


曹洞宗福寿山天養寺

『国富郷土誌』
天養寺
熊野第七〇号字下所二九番地にあり、福寿山と号す。曹洞宗発心寺末で本尊は釈迦牟尼仏を祀る。清龍山天養寺は、「本尊千手観世音菩薩で、文亀四年(一五〇四)(永正元年)禅宗の末葉茂堂禅師が開山である」と延宝四年(一六七六)九月廿日天養寺住僧江山慶呑和尚の謹書の『若狭管内社寺由緒記』にあるが、「天正年中の創立である」とも『若狭遠敷郡誌』に記されている。
 寺伝によると、慶長九年(一六〇四)七月卅日発心三世良心大和尚の徒、祟日師が創建したと伝え、慶長十九年七月七日茂堂文公大和尚が開住となって、天養寺住持となったとある。降って発心六世枢山祖要大和尚(正徳五年六月十二日示寂)が諸堂を合併して天養寺開山となった(本寺発心寺伝)。
 同村熊野上所中の谷にあった発心寺末の福寿院については、「応永元甲戌年(一三九四)禅宗の末葉永光座元が開山となる」と、福寿院宗円が延宝三年に謹書している(『社寺由緒記』)。明治年中この福寿院と天養寺と合併して、福寿院天養寺と称した。
昭和十一年春、大顕?隠大和尚が法地開山となり、寺運興隆したが、昭和二十年十二月二十九日火災で全焼した。焼失迄の本尊は千手観世音菩薩であった。
 当山四世真道和尚代の昭和二十六年に現寺を再建した。
 昭和六十年四月、当山六世関巌量道大和尚代には開山堂、位牌堂を新築し、前庭高台を整理して歴住世代墓地を造営し現在に至っている。又昭和五十八年度には、森次郎右ヱ門家の横から、将来参道にするように自動車道を完成し、時代に即して寺檀のために便利になるように配慮している。
 檀徒数  二六戸
 境内地  七五〇・四一平方㍍
 山林原野 一四〇六六・〇八平方㍍
行事 一月秋葉講   二月 お日時
   三月 秋葉講と涅槃講  五月 秋葉講
   八月七日 施食会
   九月 秋葉講と観音講(秋彼岸を兼ねる)


『遠敷郡誌』
天養寺 曹洞宗發心寺末にして本尊十一面観世音天正年中の創立にして同村熊野字東谷にあり。又寺脇に福壽院ありしが此寺に合併さる。


熊野山城
東部の太良庄と境をなす山頂には戦国末期の小規模な山城跡が残る。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


熊野の主な歴史記録


『国富郷土誌』
熊野
一 熊野の歴史
国富平野の北部、熊野川の流域に位置し、北東部に熊野岳(三八八㍍)がそびえ、東部の太良庄境の山頂には戦国時代の小規模な山城跡が残っている。古代の土地制度「条里制」の跡と推定される一ノ坪、二ノ坪などの遺構は昭和三十九年ごろの土地改良により消滅したが、地名のみが残っている。ほかに「平谷」「猫森」「鋤の先」などユニークな地名も残っている。
鎌倉期に初めて文献に熊野という地名が登場している。建久六年(一一九五)に太政官府は、国富荘の田地を調べているが、その中に「熊野北作」として三町七反二七〇歩と記されている。熊野の南部およびほかの国富荘の田地は、条里制により書かれているが「熊野北作」は、条も里も書かれていないところから、この地は条里制以後に開拓された土地であったと推察される。
熊野の言い伝えに、源平の合戦に敗れた平重盛の残党が「壇の浦」から対馬海流に乗って、犬熊浦に流れつき、背後の山を越えて、熊野の北に隠遁したと伝えられている。当時荒地であった熊野の北部を開拓して住みついたことは、「壇の浦」の合戦が文治元年(一一八五)であることと、「平谷」という地名が残っていることなどから考えても史実に近いと思われる。
室町中期に初めて「熊野村」となった。文明九年(一四七七)の羽賀寺寄進札に「熊野村施主妙精敬白」とあり、また「領家方熊野村珎権」とも記されている。「明通寺鐘鋳勧進算用状」(弘治二年、一五五六)には、「百五十文熊野村分」と書かれている。文禄四年(一五九五)十月十日、国主木下勝俊から「羽賀寺寺領分として熊野村から五十石寄進」とあるように羽賀寺寺領もあった。
江戸時代は、石高三五八石余、慶応二年の年貢目録には、口熊野、奥熊野と別記され双方に庄屋がいたが、村高は一括されている。田畑を耕すほか裏山で鴨を捕り梅や山椒などを栽培し、当時すでに国富特産の莚を織り馬の鞍下や舟の帆などに利用されていた。小浜藩主の鷹狩場もあったと伝えられる。
戸数と人口の推移は、
   江戸末期   戸数五一戸、人口二四八人
   明治二十四年 戸数四三戸、人口二三七人
   大正九年   戸数三八戸、人口ー九七人
   昭和十年   戸数三六戸、人口ー七二人
   昭和三十年  戸数三三戸、人口一七八人
となっている。
ほかに、明治八年の熊野神社の氏子は四七戸と記されている。神社には、徳治二年(一三〇七)創建の「熊野神社」、文明元年(一四六九)創建の「田中神社」「山の神の祠」などがあり、「地の神神社」(大将軍神社、だいじょご)もあったが田中神社に合祀され、境内地のみ残っている。
寺院には、文亀四年(一五〇四)創建の曹洞宗「天養寺」永禄六年(一五六三)創建の臨済宗「長福寺」があり東陽寺(永正十五年建)福寿院(応永元年建)もあったが天養寺と合併した。
国富平野の再奥部に位置するために、古来交通が不便であり、熊野川の本支流がしばしば氾濫し区民は道路の補修と冬期の除雪、熊野川の治水に最大の努力を払ってきた。道路については、昭和十六年に口・奥両熊野間に連絡道路を新設し、昭和三十九年には熊野川堤防線の拡幅工事を完成、地元負担金約八〇万円。昭和三十八年から四十一年にかけての国富地区の土地改良が完成し、六㍍道路が縦横に貫通し道路事情が飛躍的に良くなった。
その後も昭和四十六年に熊野循環道路の第一回拡幅、昭和五十二年には、熊野地区内全道路の舗装工事(地元負担金三五万円)を行い、昭和六十二年に循環道路第二回拡幅工事を行い、一部を除いてほぼ道路改良を完了した。
治水については、熊野川の本支流の堤防は、土盛りのみの貧弱なものであったがために、常に川尻が氾濫し、時に堤防が決壊ししばしば被害が発生した。特に昭和二十八年九月二十五日~二十六日の台風一三号は、若狭地方に空前の大災害をもたらしたが、熊野においても未曾有の災害となった。熊野川の本支流は各所で決壊し、田は土砂で埋没した。その後の伊勢湾台風でも堤防決壊があったが、徐々に頑丈なコンクリート堤防が造られ、砂防工事も大谷川堰堤(昭和四十八年)、畑谷川堰堤(昭和六十年)が完成するなど治水にも全力をそそいできた。熊野近代の歴史は、道路改良と河川改修の歴史であったといっても過言ではない。
大正五年に待望の電気が引かれ、昭和五十一年に全戸に電話が設置され、上水道工事も昭和六十一年に完成するなど、着々近代化への道を歩んでいる。
平成四年三月現在の世帯数は三三戸で、人口は一四〇人である。


熊野の伝説





熊野の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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