丹後の地名 若狭版

若狭

湊(みなと)
福井県小浜市湊


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福井県小浜市湊

福井県遠敷郡小浜町湊

湊の概要




《湊の概要》
北川河口北岸側に位置する。地名の由来は、当所がかつては海岸にあり、湊であったことによると考えられる。北湊・西湊・中湊・松湊・西浜・南浜などの小字名が残る。「若狭国税所今富名領主代々次第」に、応永15年6月22日、南蛮船が「中湊浜」に打ち上げられて破損したことが見える。これは当地のことか。
近世の湊村は、江戸期~明治7年の村。小浜藩領。幕府へ届け出た郷帳類では当村名が見えず西津村のうちに含まれているが、藩領内では独立村として扱われていた。農村であるが、江戸期には小浜城下に隣接していたため村内の一部は板屋町のうちに含まれていた。元禄3年の下中郡村控によれば、村高299石余、家数198 (公事人51、侍4、神子1、かじけ・隠居・商人130、船大工1、家大工5、牢人3、山伏1、鍛冶2)・人数1,256(男608・女631 ・ 神子1・出家15・山伏1)。「雲浜鑑」では、小名として大湊・小湊・松ケ崎・中塩屋・新町・板屋町・下町・中町があり、家数256 ・ 人数1,129、寺院は浄土真宗西徳寺・唯念(然)寺・善教寺、法華宗源応寺・長応寺、臨済宗宝林寺。神社は釣姫大明神・玉津島大明神。
明治4年小浜県を経て敦賀県に所属。同7年西津村は公式に3町8か村に分村し、当村域も公式に独立村となるが、板屋町を除く当村域は大湊村・小湊村の2か村に分かれることになった。
近代の湊村は、明治13~22年の村名。はじめ滋賀県、明治14年からは福井県に所属。大湊村と小湊村が合併して成立。.同22年西津村の大字となる。
近代の湊は、明治22年~現在の大字名。はじめ西津村、昭和10年小浜町、同26年からは小浜市の大字。昭和47年一部が水取1~4丁目、同48年山手1~3丁目となる。

《湊の人口・世帯数》 264・120


《湊の主な社寺など》

釣姫神社

由緒書が掲げてあるが、かすれて読めない部分が多い。
『遠敷郡誌』
釣姫神社 指定村社にして、雲濱村西津字濱田にあり、釣姫明神社と稱し、古来西津村小湊大湊福谷堀屋敷の産土神なり、祭神は不詳なれ共、田烏と同一神なりと傳ふ、今は大日霊貴命と合祀し境内神社に稲荷神社大川神社あり、祭神大汝命少比古名命、明治四十一年福谷より若宮神社祭神大日霊貴命を合併す、正月十八日六月十五日を祭日とす。藩政時代に於て其祭禮は小濱の八幡、竹原の祗園につぎて盛なりしと云ふ。

玉津島神社

釣姫神社の隣に鎮座。案内板があるが、かすれて読めない部分が多い。
『遠敷郡誌』
玉津島神社 村社、西津村湊字芝田に在り、元三味線堀より移せるものなり、古は玉津島明神社又は玉津島大明神等と稱し、祭神は衣通姫命にして社傳に依れば往古玉津舜坂と稱する所にありしが、久安五年二月五條三位俊成卿諸國遊覧の際當所を通行し、一老翁に案内されて猿田彦神を祀れる一小社ある勝景の地に到りしに、翁は衢神なる事を告げられ感悦して暫く逗留あり、玉津島御神影並御和歌を納め、玉津島明神を祀り給ふ、寶治二年秋庄官神告を得て津田の邊に神殿を造營し、建長二年三月正遷宮を執行すと云ふ。



浄土真宗本願寺派善教寺

文明年間開基。
『遠敷郡誌』
善教寺 眞宗本願寺派にして本尊は阿彌陀如来なり、西津村湊に在り、明應七年正賢創建とす。

日蓮宗源応寺

元亀年間開基。
『遠敷郡誌』
源應寺 日蓮宗長源寺末にして本尊は題目多寶釋迦多賓なり、所在地前に同じ。


浄土真宗大谷派西徳寺
文明年間開基、永禄9年中興。
『遠敷郡誌』
西徳寺 眞宗大谷派にして本尊は阿彌陀如来同村字寺ノ内に在り、古来舊城内裏門内の邊に在りしと傳ふ。

浄土真宗大谷派唯然寺
『遠敷郡誌』
唯然寺 宗派本尊所在地前に同じ。


忠裂綱女之碑

国道162号線沿いにある。碑と墓がある。戦前の修身の教科書の教材として知られる、子守中に狂犬に襲われた主家の幼児を救おうとして自ら命を落とした綱女を記念するもの。
人の駅 綱女(つなじょ)
西津の猟師角左衛門の娘綱は、1754年(宝暦4)に生まれました。1769年(明和6)奉公先の主人松見茂太夫の幼児を子守り中、突然狂犬に襲われましたが、幼児を懐に抱き抱え、身をもって狂犬から守りました。しかし、自らは噛みつかれて家族の看護の甲斐なく約20日後に亡くなりました。当時、このことが藩主の耳に聞こえ、家老からその善行が誉められて石碑と墓地が与えられました。綱の功績は、近代になっても,尋常小学校の修身の教科書に載り,後世まで伝えられました。いまも地区の人たちは、墓地を「守り墓」と敬い、いつも清掃しています。また西津小学校校庭には石像が置かれています。若狭の女性の強さとやさしさを象徴的に示してくれています。


『遠敷郡誌』
綱女
綱女は西津村小松原漁夫角左衛門の女にして、當藩の足軽にして、三方郡の手代たりし松見茂太夫の家に奉公せしが、或日主家の幼児(義方)を路傍に遊ばせ居たるに一狂犬襲ひ来りしかば綱女身を以て幼児を守り、己は十數所に噛みつかれしも其痛苦をしのびて幼児に微傷だに負はざりしが己れは其疵より病を得て斃る、綱女時に年十五、明和六年七月三日の事なり、遺骸は西徳寺に葬り藩主家臣に命じて碑を立てしめ、明和八年現今の所に改葬せしめ、角左衛門家屋敷年貢を許され。西徳寺へ墓所永代掃持を命ぜられ、白銀五枚を寄せらる。



江戸期の海商、廻船問屋古河屋船頭の北前船屋敷。屋敷前に「右わかさおばま道、左たんごみやず道」と刻まれた当時の道しるべが置かれている。


この標石は元々からここにあったものだろうか。
築百年以上だろか、今の感覚では小さな屋敷に見えるが、立派な作りである。


《交通》


《産業》
北前船屋敷

《姓氏・人物》


湊の主な歴史記録




湊の伝説


『越前若狭の伝説』
釣姫神社            (湊)
 西津松が崎にある。祭神の名はわがらないか、村人の伝えによると、二条院の侍女讃岐(さぬき)か、天皇のとがをうけ勘当されて、田烏(たがらす)浦にきて暮らしていたが、その地でなくなった。
この地の漁民は社を建てて、釣姫(つるひめ)明神と名づけ、年をへて西津に移した。もとの所にも小さな社が建っている。


玉津島神社             (湊)
 むかし藤原俊成卿が諸国を遊覧して、この地に来た。そのときひとりの老人がながめのいい社の所へ案内した。その老人は道の神であると告げた。藤原悛成卿はたいへん喜んで、しばらくそこに滞留して、玉津島の神影と和歌を納めて、玉津島明神を祭った。                   (福井県の伝説)




湊の小字一覧


湊  松宮 駒村 藤松 山手前 宗像裏 北湊 西湊 西浜 中湊 三ツ合 寺ケ内 松湊 北ノ松 下鴨田 芝田 宮廻 内浜田 上鴨田 南浜 越シ前 鳥越 姥ケ谷 鳥越下 下新田 上?(サンズイに封) 小?(サンズイに封) 下?(サンズイに封) 小塩入 塩入 十六町 八町 石丸 金山 下作園場 上作園場 作之木 木戸口 水取 中新田 上新田 清水下 丸山下 丸山 山ケ鼻 丸山上 馬上面 鳥越上 内浜田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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