丹後の地名 若狭版

若狭

門前(もんぜん)
福井県小浜市門前


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福井県小浜市門前

福井県遠敷郡松永村門前

門前の概要




《門前の概要》
真言宗明通寺のある集落。その門前に開けた集落である。
門前は、戦国期に見える地名で、明通寺の門前に居住する人とその地を指し、やがて地名化したもの。天文20年(1551)10月19日に「門前太郎衛門」が明通寺に対して今度陣夫に出立しなかったことを詫びて許され、今後とも「門前ニ堪忍仕候て」奉公すると述べている請文が初見。門前の居住者はその寺に従属するのが一般的であった。天文22年には門前衆が明通寺の法事などの奉公をしなかったため、明通寺は山河の利用を止めるという制裁策を取ったが、「明通寺門前衆」21人(うち2人は西寺野の人)は詫言をいい、同年10月末日に今後は惣普請・雪かきなどについては寺と坊に油断なく奉公をするという一札を提出している。また、この頃「他領之者」が門前に居住することを武田信方は禁じており、明通寺に従属する者以外の居住は認められなかった。永禄5年(1562)8月19日の明通寺寄進札に「門前小二郎大夫」と見える。
近世の門前村は、江戸期~明治22年の村。遠敷郡のうち。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数26・人数113。文政元年4月14日大火が発生、地内は3軒を残して灰燼となる。当村は中世を通じて明通寺の支配下にあったため、江戸期においてもその生業に大きな影響を受けた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年松永村の大字となる。
近代の門前は、明治22年~現在の大字名。はじめ松永村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西30間・南北3町余、戸数22、人口は男59・女59。


《門前の人口・世帯数》 58・24


《門前の主な社寺など》

山祇神社

明通寺の山門石段の向かいに鎮座。
『遠敷郡誌』
山祗神社 村社にして同村門前字宮南にあり、祭神は大山祗命にして元祿三年の創立なり。


真言宗御室派棡山明通寺


棡はユズリと読む。難読なり。フツーはそうは読めないが、そう読む地名もあるよう。
フツーはユズリハの樹という、南方系の常緑樹。新葉が揃うまでは古葉が落ちない、若葉が揃うと古い葉はその席をユズルように落ちる、その性質からユズリハの名がある。この性質を人間社会の世代交代に見立て、子孫繁栄を象徴する縁起の良い木として正月飾りに用いたり、記念樹として植栽する風習がある。漢字表記は譲葉のほか、杠葉、楪がある。境内の案内板には
棡木(ゆずりぎ)
明通寺創建当時、棡木(ゆずりぎ)の大木によって、本尊薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置した。明通寺の山号、桐山(ゆずりざん)のいわれでもあります。その三体の仏像は、その後火災などによって焼失し、現在の三体の仏像(いずれも国指定・重要文化財)は檜材によって九〇〇年前に彫られたものです。


落葉を供養するための地に建てられた寺であったものであろうか。
坂上田村麻呂創建の寺と伝わる。有名な話では京都市の清水寺がそうだけれども、近くの中名田下田の長田寺(田村薬師)や加茂神社も彼の創建と伝えている。
戦死者の弔い鎮魂供養と平和を祈る寺、寺とは皆本来はそうした精神を持ったものだろう、それらはたいていは忘れられてしまったが、古い寺院にだけに、創建時の精神が何とか保存されている、そうしたことかも知れない。
軍事、政治の国家の暴走にストップをかける一般庶民の精神のよりどころとして、現在もご活躍で、全国的にも、よく知られている通りである。

案内板には、
真言宗御室派桐山明通寺
当寺院は、平城天皇の御願寺として、大同元年(八〇六)征夷大将軍坂上田村麻呂公がこのところに前五間、奥六間の本堂を建立し、棡木の大木で半丈六の薬師如来坐像に七尺の降三世明王立像、同じく深沙大将立像の三体をつくり安置して、棡山明通寺と名づけた。その後、数年を経て、三重塔、仁王門をはじめ他諸堂次第に完備し、住持に僧房が二十五坊を数えた。
然しながら、創建後四百年の内に三度の火難に遇い、創建当初のものは全て焼失してしまっている。その後、中興頼禅法印が正嘉二年(一二五八)現在の本堂い続いて文永七年(一二七〇)三重塔を再建して以来今日に至るまで法燈耐えることなく、鎮護国家、済世利民の祈祷場として隆盛を極めている。
指定文化財
国  宝     本 堂  正嘉二年(一二五八)鎌倉時代
国  宝     三重塔  文永七年(一二七〇)鎌倉時代
国指定重要文化財 薬師如来坐像      藤原時代
国指定重要文化財 降三世明王立像     藤原時代
国指定重要文化財 深沙大将立像      藤原時代
国指定重要文化財 不動明王立像      藤原時代
市指定文化財   仁王門  明和九年(一七七二)江戸時代
市指定文化財   仁王像  文永元年(一二六四)鎌倉時代
市指定天然記念物 かやの巨木   推定樹齢五百年以上


国宝の本堂と三重塔
小浜は「海のある奈良」と称され、文化財の宝庫ではあるが、国宝ともなると、現在はこの2つの建物しかない。

国宝明通寺本堂
この本堂は正嘉2年(1258)今から700余年前鎌倉時代中期に、当寺中興頼禅法印によって再建されたものである。単層入母屋造で桁行5間(正面14.72m)梁間6間(側面14.87m)檜皮葺である 内部は梁間6間の中央に菱格子欄間と格子戸の間仕切りを入れて前後を内外陣に分けている。所々に新様式と珍しい手法を施し大陸様式を摂取しながら和様美を具えた優秀な密教建築である。大正10年6月から解体して大修理を行い 大正12年2月に復元完成。昭和28年新国宝に再指定された。

堂内の本尊薬師如来・木造降三世明王立像・木造深沙大将立像はいずれも重要文化財。

国宝三重塔
三重塔は、文永七年(1270)中興頼禅法印の時代に再建されたものである。礎石、縁束石ともに自然石で、漆喰叩の上にたてられたこの塔は、方三間三重塔婆で、回椽つき出組物は各重とも和様三手先を用いている。総高22・12m、建坪17・46㎡で、塔のシンボル相輪の高さは6・92m。同時代の三重塔としては特に軒の出が深く、安定感があり和様の端正優美な塔で、鎌倉時代のこの種の塔婆の典型といわれるものである。
初重内部は、四天柱内を内陣とし、正面に釈迦三尊、背面に阿弥陀三尊を安置し、四天柱及び四方壁に十二天像壁画が施されている。昭和28年国宝に再指定された。

文永7年(1270)棟上。天文7年(1538)小修理、元禄15年(1702)大修理。明治27年瓦葺にしたが、昭和32年に解体修理し檜皮葺に復した。


庫裏(客殿)に木造不動明王立像(重要文化財)・彦火火出見尊絵巻(市指定文化財)があり、また延慶2年より元禄7年に至る計399枚の如法経料足寄進札(県指定文化財)を蔵する。彦火火出見尊絵巻は、「看聞御記」嘉吉元年(一四四一)4月26日条に「抑若州松永庄新八幡宮ニ有絵云々、浄喜申之間、社家へ被仰て被借召、今日到来、有四巻、彦火々出見尊絵二巻」、翌27日条に「若州絵内裏入見参」と記される。この絵巻はのち当寺蔵となったが、酒井忠勝が将軍家光に献上、ために忠勝が狩野種泰に命じて模写させたものであるという。寺蔵文書は約170点(寺外にあるものを含めると約240点)を数え、うち中世のものがほぼ四分の三を占め、若狭の代表的な中世文書群となっている。

明通寺は、門前集落の東南谷あい、小字棡谷(ゆずりだに)にある。真言宗御室派、山号棡山、本尊薬師如来。古くは棡寺の称もあった。平安初期の征夷大将軍坂上田村麻呂にまつわる草創伝承があり、建武元年(1334)12月日付明通寺衆徒等奏状案に、
  桓武天皇御宇、延暦年中、大納言右近衛大将軍坂上
  卿田村麻呂、為当国史刺(ママ)之時、且奉祈春子女御之皇
  子降誕、且為訪蝦夷戮罔之亡魂得脱、倫発素願、遥
  仰蒼穹曰、吾願不空而可成未来正覚者、可示蘭若之
  勝地、即於其所、可奉造立薬師尊像云々、其言既訖、
  令放神通鏑矢鋒也、而追彼跡、攀崇山之処、有一人
  沙門、構草奄、以棡木擬本尊、行法端坐、件矢中留
  彼木本、将軍怪間其由、沙門□□(答曰)、吾是住此山歳久、
  其名称延源居士、頃年比於此砌見赫々光明、近拝之
  生身医王善逝也、随喜悦預之余、奉抱着之、于時変
  木+岡木畢、以此因縁礼拝供養彼霊木云々、将軍忽仰感応
  之掲焉、以彼木造立等身之像、令草創一寺之蘭若以
  降、光明常通山川、仍以寺号称明通寺、
平安末期・鎌倉初期には国衙の祈祷所となり、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写には「棡寺壱町八反」とある。鎌倉・室町時代を通して幕府・守護・地頭の帰依を受け、延慶3年(1310)4月8日には異国降伏の祈祷を命ぜられ、正和3年(1314)には六波羅探題北方北条貞顕が祖先の菩提を弔うため法華経八巻を奉納している。鎌倉幕府が崩壊する元弘3年(1333)5月には、後醍醐天皇側に兵粮米を献上、朝敵退散の祈祷をしている。次いで北朝方の松永保地頭惟宗隆能に属して参陣し、「寺僧内但馬房快禅・伊与房頼秀并行人常行」らが討死するなど、南北朝の争乱とかかわりをもった。
寺領は前出「壱町八反」のほか、貞応年中(1222-24)より地頭惟宗氏代々の寄進があり、応永12年(1405)には松永庄内に三町の寺領が認められる。また歴代守護の祈願所となり、永享12年(1440)若狭守護となった武田氏も諸役を免除し、同氏およびその被官人らの所職寄進もあった。大永8年(1528)3月21日付武田元光加判明通寺寺領目録には八町一反を記し、その他二名半、「山四至所并畠所々」について安堵の判物がみえる。さらに伐採竹木・寄宿・臨時の諸役・陣僧・門前の棟別勘料などを免除しているが、室町末期には陣人夫の動員がみられ、永禄11年(1568)と推定される8月5日付武田信方書状には「男柱竹之儀申処ニ、種々馳走喜悦候、殊人足等被申付、是又祝着候」とある。
中世には門前・三分一の地を支配し、弘治2年(1556)の梵鐘鋳造には若狭国各村をはじめ、丹後の一部まで勧進をしており、当寺住僧が広範囲に活動したことが知られる。当寺はかつて25坊を数えたと伝えるが、応永27年(1420)4月28日付の明通寺茶園出茶配分注文も24坊を記し、明通寺周辺に相当の茶園があったらしく思われる。
近世では寛永16年(1639)の明通寺領田畠居屋敷石高注文に高33石余とある。同17年小浜藩主酒井氏が高3石余を薬師灯明料として寄進、山林諸役を免じた。


境内には高さ約一四メートル、樹齢約500年というカヤの木(市指定天然記念物)がある。(このカヤの木は令和2年12月の雪で倒れてしまったという)
往古は25坊を有する大伽藍であったが、数次にわたる火災により現在は本堂・三重塔・客殿・仁王門・弁天堂・宝蔵・鐘楼・庫裏などを残すのみとなっている。同寺は若狭国分寺の別当でもあった。


曹洞宗福泉寺
曹洞宗福泉寺があったが明治16年廃寺となり、檀家は明通寺に移転した。
『遠敷郡誌』
福泉寺 曹洞宗正明寺末にして本尊は阿彌陀佛なり、同村門前字中島に在り。


茶臼山城跡
茶磨山(ちゃまやま)城ともいう。明通寺の北西裏山、稜線のやや突出した標高375メートルの山頂にあり、左の遠敷谷、右の松永谷をはじめ、国富・宮川方面まで見通すことができる。若狭の山城では特異な形で、惣構えはテトラポット形をなす。規模は南北80メートル、東西90メートル。最高所に櫓台を置き、同心円形に段切をして郭が取巻く。西北に1ヵ所空堀がみられるだけで東・西側にはみあたらない。きわめて簡単な構造で、臨時に築かれた城と思われる。という。
建武年中(1334-38)の南北朝攻防のとき、北朝方にくみした惟宗隆能(松永保地頭)が築城したと推定される。隆能は建武3年8月28日能登野(三方町)で先陣、同29日に吉田河原(上中町)で敗退して松尾寺(舞鶴市)に退去、9月4日勢坂まで押返し、翌5日には小浜より敵軍を駆逐するなど、若狭における北朝方有力武将であった。この戦乱以後惟宗氏の記録はみられず、城も利用された形跡はない。現存する若狭の山城跡としては最も古い。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


門前の主な歴史記録




門前の伝説


『越前若狭の伝説』
明通寺                  (門  前)
 大同元年(八〇六)二月八日の明けがた将軍坂上(さかのうえ)田村麿の夢に老翁があらわれ出て、「若狭の国東郷文原(ぶんばら)の山中にお堂を建てよ。わたしも手助けする。」とお告げがあった。田村麿はさっそく使者を出し、その文原をたずねさせた。
 使者は人里離れた谷をさかのぼり、谷深く分け進んで行くと、こずえが紫雲におおわれている一本の大樹を発見した。不思議に思い近づいて見ると、その大樹の方からひとすじの光明がさしているので、使者はなおよく歩み寄ってながめてみると、その木の根もとにひとりの老翁か静かにすわっていた。その姿は、田村麿の夢の中に現われた老翁の姿であった。使者はその場から、老翁に手を合せてたち帰った。
 このことを田村麿に伝えると、田村麿は、たいへん喜び、「わたしは、かねがねよい場所を見つけて寺を建て、今までわたしか征伐した人の、とむらう者のない霊を供養したいと思っていた。今日までその志を果さずに、悔やんでいたが、いまその時かきた。」とつぶやき、人びとに命じて、この地のいばらを刈り草木きり開いた。たちまち美しい堂か出きあがり、文原の地に静かな霊場が出きた。
 このとき、あの老翁が山からおりて現われ、ゆずりぎの木をきり、薬師に如来の像を刻み、続いて降三世明王、深沙大将の三体の仏像を彫刻し、金堂に安置した。開眼の式か終わると、この老人は、東の空を指さしてすばやくたち去り、雲の中へ隠れてしまった。
 この老人は、薬師如来の化身であり、みずから自分の仏像を刻むためにこの地に現われた。薬師如来の像のゆずりぎにちなみ、この寺をゆずりぎ山明通寺と呼ぶ。      (明通寺縁起)

米の出る岩            (門 前)
 明通寺の薬師堂の南がわに、大きな岩がある。むかし坂上田村麿か明通寺を建てている時、この岩がら米が出た。寺の建立にはたらく人たちの食べものがなくなると、この岩から米が出てきたので、岩のまわりを玉垣で区切って大切にしていたが、今はこの玉垣ほとりはずされて、岩だけかある。     (小畑昭八郎)

びくに屋敷             (門 前)
 明通寺の山中にある。文武大皇のころ(七〇〇ころ)ひとりのびくに(尼さん)かここにいおりを結び、世に隠れて住んでいた。毎夜手のひらにともし火を点じ、難行苦行を修めていた。その後行く所を知らない。同所にびくにのせっいん(便所)跡と伝える場所がある。直径一メートルばかりで、年を経ても埋まることがない。     (松永村誌)





門前の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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