丹後の地名 若狭版

若狭

奈胡(なご)
福井県小浜市奈胡


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福井県小浜市奈胡

福井県遠敷郡国富村奈胡

奈胡の概要




《奈胡の概要》
国富平野の北端、天ケ城山東麓に位置する。
奈胡村は、室町期~戦国期に見える、文永6年(1269)正月日の多烏浦刀禰秦守重・汲部浦刀禰栗駒時末連署注進状案に「自永尾峰西、自奈胡之大峰東、多鳥面名歟山等宮河矢代浦領也」とある。村名としては見えないが、地名としてはそれ以前からあったとみられる。永享4年(1432)10月の奈胡村山王大権現鎮座記には「国富庄奈胡村」の山王社は、天暦2年羽賀寺建立の時4か村(奈胡・羽賀・熊野・次吉)の氏神となったと由緒が語られ、永享元年に再興したとある。当村は国富荘に属しており、嘉吉2年(1442)10月21日の羽賀寺寄進札にも「国富荘奈胡村下庄司大夫兄弟」と見える。同寄進札には長禄4年(1460)「奈胡村田中庄司次郎・窪庄司権守」、文明2年(1470)「奈胡村下大家孝子庄司□□□」と庄司を名とする者が見える。戦国期に入って、弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「四百文 なこ村両所」と見える。戦国期には西津を本拠とした武田氏家臣内藤氏の所領であったと伝える。
近世の奈胡村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数53・人数260。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年国富村の大字となる。
近代の奈胡は、明治22年~現在の大字名。はじめ国富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北2町、戸数54、人口は男146 ・ 女129。

ナゴ、ナコはずいぶんと古い地名である。名古屋とか沖縄県名護市とかある、名木、奈具とかネコとかに転訛していたりするが、意味はフツーは漁夫とか説明されていたりする。海人系ではあろうが、ナーガ神のナガで元々の意味は蛇ではなかろうか。


《奈胡の人口・世帯数》 188・52


《奈胡の主な社寺など》

条里制遺構
集落南の羽賀との境には条里制遺構の七ノ坪・八ノ坪の字名があり、羽賀・次吉地籍と接して二ノ坪・三ノ坪があるが、昭和38~41年の土地改良事業により消滅した。


阿奈志神社(式内社)

集落の北側山裾にあり、祭神大己貴命、旧村社。「延喜式」神名帳にみえる「阿奈志神社」に比定される。近世までは山王社または山王宮とよばれ、安永2年(1773)の「吉村定教等連署山王宮神事等ノ儀ニ付返答書」(当社蔵)に「当社山王宮者天箇城ニ古へ住居被成候三位中将源義昌、大己貴命ヲ祭リ崇敬シ給フ、天徳二戊午年ニ社ヲ建立シ、此社江勧請被致、夫より山王権現と号せられ、国富庄四ケ村之惣社と被致候と御座候」とある。「若狭郡県志」には「康応弐年三月十五日沙弥大西寄附田地、文明九年斯処之地頭(粟屋国春)寄供米料一石、又元亀二年山県下野守秀政 或作政冬、寄供米料一石」とあって、中世には武家方の庇護があった。また羽賀寺文書の山王大権現鎮座記に、
  一国富庄奈胡村山王大権現本地者医王菩薩(薬師如来)也、天暦元丁未八月下旬、従羽賀寺山出テ青竜洪水而山崩ス、同シ二年戊申羽賀寺建立之時、彼山王権現奈胡村江神躰遷座シ、四ヶ村之為氏神、其時同村之住人晴俊為神主羽賀寺従坊中定之、永享元己酉歳再興、其節宝聚院住持定乗遷宮等令執行者也、 
    永享四壬子十月吉日       定乗(花押)
と記され、羽賀(はが)寺が別当だったことが知られる。
宮座をめぐって氏子圏の奈胡・熊野・羽賀・次吉4ヵ村は争いを繰返していたが、寛文年中(1661-73)より各村交代して勤仕するようになった。なお当社禰宜家は奈胡村龍雲寺の檀家であったが、明治元年の太政官布告で寺方より離檀した。
近世まで祭礼は四月・九月両度の初申日であったが、現在は5月1日・10月1日、神事次第は梅宮社の祠官家橘家流に基づくという。
アナシというのは穴師、鉄穴師だろうから、本来は鉱山や鍜冶の社であろう。境内の土は粗い花崗岩の砂、丹後でよく見るものと同じであった。どこから持って来たものかは不明だがここの物なら裏山は花崗岩ではなかろうか。穴師は痛足とか病足とも記されていて、一つ目一本足の神様が元々の祭神かと思われる、隣の太良庄のタラと関係もあり、古くはタタラの地であったかと推測される。

『国富郷土誌』
阿奈志神社
奈胡集落の北側山裾六二号宮の脇一九番地に鎮座する、大己貴命を祀る旧指定村社である。『延喜式』神名帳記載の「阿奈志神社」に比定され、享禄五年(一五三二)の神名帳には「正五位阿奈志明神」とある。山王社・山王宮とも称し、中世に太政官厨家領「国富荘」と呼ばれていた地域四か村(次吉・熊野・奈胡・羽賀)の総鎮守として重きをなしていた。社蔵の安永二年(一七七三)の吉村定教等連署の「山王宮神事等覚書」には、次のように由来を記している。「山王宮ハ天箇城(波賀寺の裏山)ニ古ヘ住居なられ候三位中将源義昌、大己貴命ヲ祭リ崇敬シ給フ。天徳二年(九五八)ニ社ヲ建立シ、此社へ勧請いたされ、それより山王権現と号せられ、国富庄四ケ村の惣社といたされ候と御座候」また羽賀寺文書の山王権現鎮座記に、「天暦二年(九四八)羽賀寺建立の時、山王権現奈胡村江神体遷座し、国富庄四ケ村の氏神となす、永享元年(一四二九)ニ再興」とも記されている。なお「宝物・祭礼并寄進地等ニ付覚書」には「当社宝物名石金の鶏など古くは御座候と伝承候得ども、只今はケ様の物も取失せ御座なく候」とあるが、当社には、若狭湾沿岸の集落に分布する、鶏説話に類似した伝承もある。鶏伝説は新羅国の首祖伝説にもみられることから、 こうした伝承は日本海を媒介とした、文化発達を示唆するものとも考えられよう(『日本の神々』北陸編)。なお当社は武家の庇護をも受け、中世を通じて地頭などの供米寄進があり、元亀二年(一五七一)には守護代山県秀政も寄進を行っている(『若狭郡県志』)。ほか近世には、延宝五年(一六七七)に御供米田壱反歩(田)を奈胡住人和久田奥中利教が寄進、また、元禄三年(一六九〇)山王大権現様、境内社などへの御供御灯明料として壱反三畝歩(田)の寄進があった。その他いろいろと田地の寄進などもあって、社有地も多くあったが、昭和二十三年の農地改革によって小作者のものとなり、現在は神官名義の田がわずかに残っている。また阿納志神社に残されている文書によると、宮座は「四ヶ村座」と称して国富庄内の次吉・熊野・奈胡・羽賀各集落ごとに構成されていた。中世から近世の初頭にかけて、きまりがなかったため、神事勤仕をめぐる争いが絶えず、そのため寛文年中(一六六一~七三)にくじ引きで四座にわりふったが、羽賀・次吉が脇座となって再び争論となり、最終的には各村交替で年行事を勤めることで結着をみた。現在は奈胡座だけで勤めている。
例祭は、古くは四月と九月初申の日で、寛文十年(一六七〇)九月吉日付の祭礼神事次第によれば、四月祭礼には、まず未明に戸を開いて祓祝詞を読み、次に御餅・御酒・御幣を献じて祭文を奏上し、花平餅五膳・御供餅壱膳などを奉納して祈念加持をつとめ、そのあと氏子による一座二人ずつの奉幣があった。これら神事は神主の頭取で行われ、最後に、神主再拝のあと四座がそれぞれ二拝し、さらに神主が再拝して終了、そのあと花平餅を四座ヘー膳ずつ下げ渡し、神楽が奉納された。なお、九月の祭礼は、御膳・御酒の供献と柿・栗献上のあと祭文を読むというかなり簡単なものであった。現在の例祭は五月一日と十月一日に行われている(『日本の神々』北陸編)。
当社の神官は、中世末期より吉村家が代々世襲している。明和六年十二月の大雪で社がこわれた。このことについて翌七年の春二月、羽賀寺からの使僧に、宮潰れを伝えたところ、羽賀寺別当に伝えがなかった、ということから、羽賀寺にかえせと要求されたとか、その他神事勤仕をめぐるいろいろなことで、羽賀寺と吉村家との争論が多かったと伝えられている。
神事次第は、京都梅宮大社の橘家神に基づいて行われ、若狭国では他に例がない。吉村家は近世には奈胡村龍雲寺(禅宗)の檀家となっていたが、明治元年(一八六八)霜月日付の龍雲寺離檀証文に「今般御一新により御布告のとおり、貴家御一門神道葬祭復古仰付け蒙られ候に付、以来当寺においては、いささかも差しつかえござなく、後日のためよって離檀一札くだんのごとし」とあって、明治維新当時の神仏分離政策の一端を知ることができる。
明治四年、郷社に列せられ、後さらに村社に改められた。昭和十年ごろ玉垣がつくられ、昭和二十七年、大鳥居が木から石の鳥居にかわり再建された。近代まで屋根のふき替えは式年祭といわれて、二〇年ごとにふき替えていたが、近くは、昭和五十年に銅板でふき替えられた。氏子は中世・近世までは一七〇戸、現在五〇戸、境内面積は四六一坪のほか山林約一五町がある。
鳥居をくぐったすぐ左手に、次のような境内社が五社祀られている。
○金刀比羅宮 天保三年(一八三一)創立といわれ大物主命を祀る。
○若宮八幡宮 仁徳天皇を祀る。享禄四年(一五三一)創立 内藤筑前の臣上原備後がこれを勧請したと伝えられる。
○八所御霊大神 祭神は山城八所御霊 文明九年(一四七七)に創立と伝えられる。「北陸道に紅雪降り戸々に疫病を患うもの多くあり、此時守護職武田国信 八所御霊を此所に勧請し、以て疫病の亡滅を祈願せられたるが、山城八所御霊ならん、山城御霊は吉備霊、崇峻天皇、伊與親王、藤原大夫人、橘逸勢、文屋富丸、藤原廣嗣、火雷天神を奉祀するものなり」と伝えられる(『山王宮神事等覚』)。
○大将軍大神 祭神不明
○稲荷大神 祭神稲荷大明神


『遠敷郡誌』
阿奈志神社 指定村社にして同村奈胡字宮脇にあり、國帳に正五位阿奈志明神あり、神名帳考證に、遠敷郡十六座阿奈志神社の條に、伊賀國穴石神社、棚機姫命、倭名抄云、手末、太奈須惠 按阿太音通、志與利通織也とあり、元山王社山王宮と稱し寛文の記に、姫宮明神若宮明神八社御霊八幡社あることを記す、祭神は大巳貴命にして天應元年三位中將源義昌天ケ城山に創立すと傳ふ、其徳天徳二年奈胡に移転す、國富四ケ村百七十餘戸の総社と稱す、康暦二部三月沙彌大西神田寄進状文明九年粟屋國春元龜二年山縣秀政供米料寄附状等を社家吉村氏藏す、境内に金刀比羅神社あり、天保三年創立。


姫宮神社


『国富郷土誌』
姫宮神社
奈胡第五七号森ノ下六番地にあり、高照光姫命を祀る。『福井県神社誌』には、応和二年(九六二)藤原定義創建とある。以後この社は荒廃したが、慶長二年(一五九七)これを造営するとある。羽賀姫宮神社とは、姉妹神のため現在までは、両集落間の婚姻はさけられている。
昭和四十八年社殿の建替えがされたほか、昭和四十一年鳥居も石鳥居に建替えられた。祭礼は、二月一日姫宮神社のみの祭社が行われるほか、阿奈志神社の例祭の五月一日と十月一日に同時に行われる。阿奈志神社の氏子・総代がそのまま姫宮神社の氏・総代となっている。


『遠敷郡誌』
姫宮神社 同村奈胡字奈胡坂口にあり、祭神は高照光姫命にして元姫宮明神と稱せり、應和貳年藤原定義の創立と傳ふ。.


曹洞宗鷲嶽山龍雲寺


『国富郷土誌』
龍雲寺
奈胡六五号寺田三番地に所在、鷲嶽山と号す。曹洞宗洞源寺末、本尊に十一面観世音菩薩を祀り、脇仏には毘沙門天王・不動明王、また位牌堂仏には阿弥陀如来・虚空蔵菩薩などを祀る。桓武帝代、観音信仰の厚かった三位中将源義昌卿の創建されたと寺伝にある(『遠敷郡誌』)。平安後期天徳年間、国司藤原有述・忠声代既に祀られていた一寺を再建して、天台宗を奉じて天台龍雲大和尚を請した。これから龍雲寺と称したという(寺伝)。降って南北朝正平年間(一三六八~)生死を達観する禅の道を求める者多く、天台宗から離れて曹洞禅に帰依し、康応元年(一三八九)ころ沙弥大西某各地に勧募し、寺の振興に尽すとある(寺伝・若狭郡県誌)。応安元年(一三六八)(「若狭郡県志」と本寺洞源寺の過去帳)と応永七年(一四〇〇)(『社寺由緒記』)に禅宗の洞源寺先住湯谷江新大和尚を当山開闢に請し、十一面観世音を本尊に奉じて曹洞宗鷲嶽山龍雲寺と正式に称することになった。また天下城主内藤築前守昌廉が山門維持に竭し、家臣上原備後守に命じて再興し、その後、築前守の妻が龍雲寺を補修した。なお当寺は曹洞禅で東堂位の僧が住持になると『社寺由緒記』・「若狭郡県志」・「本寺過去帳」にある。なお上原備後守の後代が、文亀三年(一五〇三)龍雲寺本尊に十一面観世音を奉献して、龍雲寺を再建したと社寺什物記にある。なお上原備後守の戒名もある。応仁の戦乱で当寺伽藍等灰燼に帰したが、ただ本尊だけが細谷の奥に難を避け給うと伝えられている。寛永七年(一六三〇)洞源三世忍翁誠俊大和尚が当地を巡錫の砌、細谷で終夜坐禅中眼前の老樹の根元が光るので、探った所仏像一体を見出した。この古仏像は現存し内陣に祀っている。誠俊大和尚は何かの因縁と、龍雲寺の中興開山となって右の栄谷の寺を再建した。これが現在の鷲嶽山龍雲寺である。法嗣仙翁俊鏡大和尚師跡を継いで、伽藍を整理建立し、山門を新築し、大梵鐘を鋳造した。衆伽僧も多く集まり禅堂も建ち禅道は大いにふるった。この梵鐘は昭和十八年第二次大戦に供出した(この梵鐘の銘文は後出)。
各歴住大和尚の事跡を拾ってみる。
 五世別禅代 銅製の釈尊産湯器 年号入りで現存
 一〇世東運代 座禅堂を安永七年(一七七八)再建す。雲板を天明三年(一七八三)再鋳
 一一世中興運戒代 寛政年間本堂を再建す。現本堂
 一六世一乗代 倉庫新築す。天保十五年(一八四四)
 一七世密乗代 明治初期二世の山門を修理(現存門)
 二二世元翁代 大梵鐘再鋳(昭和二十八年)現存鐘。本堂萱葺屋根を瓦葺に大改造(昭和五十四年)、開山堂・位牌堂を新築する(昭和五十四年)。
 二三世哲翁代 当山歴住大和尚の寂苑を新造営する(昭和六十一年秋)。庫裡は茅葺建で約三〇〇年近く老朽となったので平成三年瓦葺平屋(六四坪)に新築した。
 各歴住大和尚代に、大般若六百巻。大般若十六善神画・大般若涅槃画大小二本。十六羅漢図一六軸。日月宮神図懴法掛図。三界万霊本碑-貞享五年作と文政八年作二幅が現存する。
 右の通り各歴住大和尚が寺檀一如となって、寺門の興隆と門風の高揚に尽くされて今日に至っている。
 年間行事は、新年祈祷会-檀徒全員集まって行う。
 総日待(二月初旬)寺日待(正・五・九月の十五日)、三月十五日涅槃会。甘茶会。大般若法会(七月一日)。盂蘭盆会。春秋彼岸会。御征忌会。成道会
 なお奈胡区邑に次の坊庵があったが、江戸末までに龍雲寺に合併されている。次坊庵は、延宝三年卯月二十四日『若狭管内社寺由緒記』にある。
  慈眼庵 創建は応永三年(一三九六)十一面観音
  正宝庵 創建は正長二年(一四二九)十一面観音
  長徳庵 創建は永禄元年(一五五八)十一面観音
  洞雲庵 創建は上原時代(不詳)阿弥陀如来
阿弥陀堂。本尊は阿弥陀如来で奈胡区中央に現存し、春と秋の彼岸に龍雲寺和尚阿弥陀経を諷経する。明治十四年結講とあるが、二〇〇年前釜谷山中より勧請さるという。
 龍雲寺大梵鐘の銘(昭和十八年供出のもの)
第一区 扶桑国北陸道若州遠敷郡国富庄
    奈胡村鷲嶽山龍雲禅寺中興
    開基忍翁俊大和尚休広忌之為追善之
    執立之弟子清呑雖被続他之派脈焉為大施主
    与加旃駈副榿縁之信力而命冶工鋳一口金鐘而被
    掛當山宝楼冀 受者離苦施者安全哉
第二区 洪炉跳出 大器成円  九十声縵 十八声?
     上聞碧落 下響黄泉  破生死夢 醒煩悩眠
     心源湛寂 智水百川  当陽一撃 此声大千
     仏日高輝 皇風永扇
第三区 更冀者 山門鎮浄諸檀豊楽子孫聯綿矣
      告寛文八年戊申暦 白蔵日 本願清呑和尚 副主諸檀那 
      前惣持現住龍雲仙翁旻鏡謹誌
第四区 冶工 近藤丹波操作
○檀徒数 奈胡邑 現在四七戸(明治代六〇戸)
○境内地 一五二七平方メートル  田 六一九〇平方メートル
○畑 地 八一九平方メートル   山林 四四二九九平方メートル
O原 野 二七七八平方メートル  雑種地 五七八平方メートル
行事 元旦 祈祷会(檀徒参集)
  一月十五日 寺日待  二月七日 総日待
  三月十五日 涅槃会  三月 春の彼岸会
  五月 釈尊誕生会   七月一日 大般若会
  八月十六日 施食会  九月 秋の彼岸
  十二月八日 成道会


『遠敷郡誌』
龍雲寺 曹洞宗洞源寺末にして元天台宗なり、観世音を本尊とす、同村奈胡字榮ノ谷に在り、元禄元年洞源寺第二世江新建立す。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


奈胡の主な歴史記録


『国富郷土誌』
奈胡
一 奈胡の歴史
奈胡区は、国富平野の北部に所在し、天ヶ城山東麓に位し、太古は現在の田地は、入江になって海であったとも想定される。その後、遺構と名付けられる条里坪付があったが、その地盤の隆起により設けられたものであろう。一ノ坪、二ノ坪、……、八ノ坪の遺構があった。昭和三十八年~昭和四十一年にかけて土地改良事業の施工により消滅してしまったがその際も地下には、腐蝕土の堆積による田地であった。鎌倉期-室町期における村の名も、文永六年(一二六九)の多烏浦、刀禰秦守重、汲部刀禰栗駒晴末連署注進状案に「自永尾峰西、自奈胡の大峰東、多烏面名敏山等、宮河矢代浦領地」とあり、以前より「奈胡」の地名はあったといわれている。
天ケ城には山王権現が鎮座されていた。その昔、天暦二年(九四九)に奈胡村山王社が鎮座されていたが、永享四年(一四三二)には山王社が再建されたといわれている。
嘉吉二年(一四四二)~文安四年(一四四七)の羽賀寺寄進札にも当村下庄司太夫と記されているが、現在の岡庄太夫もその子孫の一族であろう。戦国期には、西津を本拠とする武田家の家臣内藤築前守の所領でもあった。
江戸期より明治二十二年までは、小浜藩領で村高は、「正保郷帳」では七三三石で「元禄郷帳」「天保郷帳」旧高旧領、七三五石余りで「正保郷帳」での田、畑の内訳は、田方で六八一石余、畑方で五一石余で、戸数は五三戸。区の人数は二六〇人であったと記されている。元和六年(一六二一)には、山を隔てた海岸集落の志積浦地籍の請山をしていたが、その請山の区域を越えて侵入し、当区より詫び状を提出したといわれている。現在の志積の地名に奈胡崎が存しているのも、その所であろう。また、山手年貢は、年一石一斗となっており、内領主六斗、志積浦へ五斗を納入したといわれている。現在の奈胡崎地籍の所であろう。
寺院は、応永三年(一三九六)慈眼庵が建立され、応永七年に曹洞宗龍雲寺が創建された。永禄元年(一五五八)にも長徳庵の開基、天正七年(一五七九)にも正法庵が開祖された。洞雲庵・光月庵等もあったが建立不明である。
神社は、延喜式内の阿奈志神社(山王宮~山王権現ともいう)が鎮座し、国富荘、四か村、羽賀、熊野、次吉、奈胡の惣社として崇敬を受けた。その宮守り宮司も藤原からの系を受けて現在に至っている。
阿奈志神社の宮座は、四か村座と称され、国富荘四か村で構成し祭事の神事を行っていた。江戸初期には、神事勤仕をめぐる論争が絶えなかったといわれている。
寛文年間(一六六一~七三)には、くじ引きで四座に割り振ったが、羽賀、奈胡が脇座となり、また、論争が再燃した。最終的には、各村交替で年行事をつとめることになり、以後、阿奈志神社の神事として昭和五十年ごろまで継承されていたが、神事をつとめる子どもの不足と、またもや脇座の論争の再々燃と、維持費の関係により、今は奈胡座のみが一部継承し祀られている。神事次第は京都、梅宮大社の橘家神道によるものである。若狭国では例がなく神官家は、龍雲寺の檀家であった
が、明治元年神仏分離政策によって神道葬祭の復活が認められた(「阿奈志神社文書」)。
当区は、明治四年小浜県以降、敦賀県、滋賀県を経て、同十四年に福井県となり、明治二十二年国富村の大字、奈胡となった。
明治二十四年奈胡は、東西三町、南北二町、戸数は五四戸、人口は二七五人(男一四六人、女一二九人


奈胡の伝説






奈胡の小字一覧


奈胡  小谷 先替 上窪瀬 猿頭 硲古 金嶋 上出口 中ノ田 向石橋 下草木 鉾立 丁一 栩鼻 下栩鼻 持田 奥八反坪 口八反坪 小井根 無明田 岩本 瓜田 塩堺 二ノ坪 三ノ坪 倉作 下り丁 小橋 石崎 杉置 犀ノ谷 石堂 内角 七ノ坪 東坪 上東坪 湯名 水泓 八ノ坪 山崎 横道 長宇佐 光月 八幡谷 奥条 西谷 仲谷 鐘木本 亀窪手 下中田 上中田 中条 山ノ神 平尾口 平尾 奈胡坂 森下 奈胡坂口 平蛇ケ地 鍋谷 釜谷 宮ノ脇 宮前 蘭塔 寺田 寺奥 藤原谷 六ツ川 山本 瀬戸山 波戸奥 波戸 八町 八十ケ下 御房山 昇丁 針木本 平田 口諏訪田 三反田 柿本 熊崎 桜奇 茶津 上茶津 滝前 滝端 鳥居前 三郎谷 勢間谷奥 東陽寺谷 北滝ノ前 茶滓谷 桜崎 ハト谷 大和谷 奥六川 蘭戸谷 奥金谷 奥鍋谷 奥奈胡坂 山ノ神奥 天下城 西奥城 奥八幡谷 光月 山崎

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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