中井(なかい)
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福井県小浜市中井 福井県遠敷郡口名田村中井 |
中井の概要《中井の概要》 南側中流域左岸の口名田地区(旧口名田村)の中心地。中央を県道222号(中井青井線)が走る。県道沿いに南から上中井・下中井・滝谷・新滝の4集落からなり、新滝は南側右岸の飛地。 中井村は、明治12~22年の村。五十谷・滝谷・新滝谷・飛川の4か村が合併して成立した。はじめ敦賀県、明治14年からは福井県に所属。同22年口名田村の大字となる。 中井は、明治22年~現在の大字名。はじめ口名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西15町・南北3町余、戸数195、人口は男539 ・ 女535、学校2、小船7。上中井(五十谷)・下中井(飛川)・滝谷・新滝の4行政区に分かれる。 旧・五十谷(いかだに)村は、今の上中井で妙祐寺がある一帯、中世には名田庄に属し、建保3年(1215)頃には須恵野(すえの)村の一名として存在したよう。地名は正和3年(1314)正月19日付僧経乗譲状案に須恵野村4名の1として「伊加谷名」とみえる。室町期には守護被官寺井氏の本貫地であった、天正年間に明智光秀に与して没落したとも伝える。 わびしき所だったようで、 炭がまに心ほそくも立つ煙いかにわびしき五十谷の奥 伴信友 旧・飛川(ひがわ)村は、今の下中井で、西広寺のあたり。中世には名田庄に属し、須恵野(すえの)村の1名として建保3年頃には存在した。正和3年の僧経乗譲状案の記す須恵野村4名の1として「日阿(河カ)名」があり、当地と考えられる。以後中世を通して須恵野4名内として存続。室町期には守護武田氏の被官寺井氏が領主として支配した。 旧・滝谷村は、南川左岸の口名田保育園などがある一帯、西の山と南川に挟まれた狭小な地に集落がある。「若州良民伝」に「遠敷郡下中郡名田庄滝谷村といへるは、むかし小野駒之助といへる人の居を構へし所なり」とあり、当地を小野(おの)と称したと記す。年不詳10月2日付後光厳院綸旨に「蓮華王院領若狭国名田庄惣下司職、并小野村事」とあり、この小野村は当地のことかもしれないという。 旧・新滝谷村は、南川右岸で、今の小浜市口田縄新滝。「小浜市総合運動場」の奥である。口新田・奥新田の2集落からなる、滝谷村の枝郷。寛永11年(1634)小浜藩主となった酒井忠勝が領内巡視で当地を通り、新田開発するよう口田縄村百姓彦左衛門・孫助両人に命じたことに始まると伝える。開拓の功により当村の諸公事は免除されたので、村民は酒井忠勝を祀り小讃岐神社と称して産土神としたという。 『口名田郷土誌』 新滝の集落誌 … 村の成立 村の生い立ちについて書かれた資料はいくつか残っている。そのうちの一つは文政八年(一八二五)に書かれた「逢昔遺談」(田中貞風著)で、もう一つはそれをもとに書かれたと思われる「讃岐神社」縁起(明治二十七年、辻幸平識)である。 「讃岐神社」縁起には、村の生い立ちが次のように書かれている。 寛政十一年七月、忠勝公若狭ノ国主卜成ラセラレ、同年七月御入国在ラセラレ、御国政ノ暇マニ遠敷郡田縄村大光寺ノ辺へ逍遥シ玉フ際、村民彦左衛門・孫助二人、村ノ入口地蔵堂ノ辺ニ耕作ヲ為シツゝ在リケル。折柄忠勝公御輿ヨリ御散歩遊バサレ、コノ辺ノ小山笹原等ヲ御眺メアリテ、コノ處ハ新タニ開田スベキ上地ナリト宣ヒケルヲ、右彦左衛門・孫助ノ両人畑ノ側ラニ平伏シナガラ之ヲ拝聴シ、何卒コノ地ヲ私共両人へ贈リテ耕作ナサシメ玉ハン事ヲト、直ニ乞ヒ奉リ候処、公聞シ召シテ、サラバ此地ヲ与フベケレバ、自今、新田ト為スベシトノ恩命アリ、夫ニヨリ開墾ニ着手シ、漸ク田圃ヲ開拓シ、積年ノ功ヲ以テ沃田ト為シ、遂ニ此地ヲシテ新滝谷トマデ名称スルニ至レリ。 これが、新滝谷村の始まりであった。江戸時代の初期に、各村では検地が行われ村の石高が示されたが、当時、新滝谷村では石高を出すほどの開拓は行われていなかった。しかし、文化四年(一八〇四)の調査では三十三石一斗七升四合の石高が記録され、家数十軒、人数四十八人、神社として讃岐権現が記されている。江戸時代の中頃には、今とほぼ同じくらいの耕地や軒数になっていたのであろう。 この村を開いた彦左衛門の先祖は小野駒之助といって滝谷村の住人であったが、新滝谷村に居を構えその地を「小野」と名づけていたが、その呼び名を憚かって「コノ」と呼んでいた。しかし、彦左衛門の代になってその呼び方も憚かって「冨田」と改称したという。彦左衛門たち両名の努力によってこの地の開拓が進むと、本村滝谷から賦役を出すようにやかましく申し立てられた。ところが、それを聞いた御上では、この地は両名の働きによって開拓した土地だから諸役は御免だと仰せつけられ、本村よりかれこれ申し立てる儀相ならずと云うことになった。それを有り難く思った両名は、小さな祠を建て酒井讃岐守忠勝を祀り、供物を供えて日夜参詣したという(逢昔遺談より)。これが讃岐神社の始まりであった。以後、年貢・賦役等は江戸時代を通じ免除されてきた。「新田百姓かくり取り」と云われるのは、ここから出来たことばである。 旧・すえの村 須恵野は、平安期に見える地名。若狭国遠敷郡のうち。永暦2年4月日の若狭国司庁宣に「左衛門尉盛信領」内6か所のうちの1か所として「須恵野」が見え15町ほどの土地があったことが知られる。同庁宣には「伊加野十町許」とも見えるが、これは鎌倉末期正和3年正月19日の僧経乗譲状案に見える須恵野村内「伊加谷名」と考えられ、現在の五十谷川流域に比定される。また同譲状案には須恵野村内「窪谷名」も見え、これは窪谷川流域と考えられることから、平安末期に「須恵野」「伊加野」とされた2か所約25町にあたる地を含めて、現在の口名田地区のほぼ半分がが中世には須恵野村となった。 中世の須恵野村は、鎌倉期~室町期に見える。遠敷郡名田荘のうち。宝治2年4月の比丘尼生仏譲状によれば、名田荘上・下荘のうち当村は下荘に属した。建保3年12月16日大姫御前から安居院実忠に名田荘領家職が譲られたが「すゑのいかの」は別相伝として尼生仏に分譲すると見える。 正和3年正月19日に「須恵野名・窪谷名・伊加谷名・日阿(河か)名・奥名田畠在家・山海河等」を隼人佑成重に譲与した。 須恵器が焼かれていた村名と想われる。 《中井の人口・世帯数》 611・222 《中井の主な社寺など》 天満神社 滝谷の口名田橋たもと保育園の少し上側に鎮座。 『口名田郷土誌』 天満宮 祭神 菅原道真 例祭日 九月二十五日 (但し昭和三十四年の口名田地区における祭りの統一実施申合せにより平成十二年までは十月八日であった。) 旧神格 村社 主要建物 本殿(外屋木造銅板葺、内殿桧皮葺)、拝殿(木造瓦葺)、社務所(木造鉄板葺) 氏 子 二十三戸 創建は延宝八年(一六八〇)で、建立当初の上棟札が残っている。 上棟札(表) 大日本國北陸道若州遠敷郡名田庄滝谷縣之社神者大満大自在天神也星移物換神宇既朽壞久今也縣裡庶民一心身而再造営此霊伺者也 延宝八竜次 申初夏吉日 大光現住 竹巌 謹誌写 滝谷村 新田村 惣中 願主 滝 谷 村 吉岡源内正忠 番匠 三方郡倉見村 住人 藤原直次 末孫 増 井 勘左ヱ門尉 この棟札は大光寺の住職竹厳によって書かれたもので、大光寺が別当職を勤めていた。また、氏子には新田村も含まれていたことが知られる。 その後、宝暦七年(一七五七)、庄屋平右エ門が世話人となり拝殿が建て替えられ、安永四年(一七七五)には拝殿に上屋が造営された。しかし、天明六年(一七八六)八月、大風によって崩壊し、翌天明七年九月に再建された。これが現在の拝殿である。 これらの棟札はいずれも現在保存されている。 鳥居については天明元年(一七八一)五月に建立された記録があり、天保十五年(一八四四)八月に再建されている。 『遠敷郡誌』 天満神社 村社にして同村中井字尾野にあり、祭神は菅原道真公なり。 小讃岐神社(新滝谷) 『遠敷郡誌』 小讃岐神社 村社にして同村中井字湿谷にあり、祭神不詳。. 日蓮宗玄法山妙祐寺 しだれ桜で有名なお寺。元々は真言宗という。本堂の向かって右手にその桜があり、その上に妙見宮がある。 『口名田郷土誌』 妙祐寺の建立と再建 妙祐寺は、天正十三年(一五八五)に建立された。室町時代長享年中(一四八八)より五十谷の館、谷小屋城に拠った寺井氏は、八十年後の元亀元年(一五七〇)には、信長の麾下丹羽長秀の部下として、多くの戦いに参加した。天正十年(一五八二)の本能寺の変で明智光秀と誼を通じていたとして、逆に谷小屋城は丹羽長秀に攻め落とされ、多くの犠牲者をだした。明智光秀に加担した武田元明からの要請があれば、麾下としては拒絶出来なかったのであろう。それにしても長秀に攻め滅ぼされるとは、戦国時代は非情なものである。寺井氏の家来の一人市之丞の先祖が、この犠牲者の霊を弔うため、京都の日蓮宗妙顕寺で出家し、法入院日祐律師と号して五十谷に帰り、百姓になった里人を、真言宗から日蓮宗に改宗させ、妙祐寺を建立したということである。 真言宗の頃のものとしては、一乗坊、柴庵の名が残っており、無縁塔に集められた五輪石塔、地蔵仏がある。その後、記録としては安永八年(一七七九)大大にかかり過去帳はじめ寺宝ことごとく消失し、判らないことが多いが、火災以後現在地に移ったとされている。 旧本寺は小浜妙興寺であるが、中本山の京都妙顕寺との関係が深く、天保年間には二十四世日玄が隠居し、その墓がある。現在残っている寺宝としては、慶長年間の作とされる日蓮画像と、本阿弥光悦の額などがある。 小浜妙興寺の日澄上人の書いた御曼陀羅によれば、明治十年に本堂が再建されている。現在の本堂は昭和十二年の建立であるから、少なくとも現在までに四回以上建て替えたことになる。総欅づくり間口十間、奥行八間の本堂は、日蓮入滅六百五十年遠忌を記念して建立された。総工費約三万円というこの本堂の再建は、数年前から準備された。当時すでに一万円の基本金を積み立てており残り約二万円は、区内外一八九戸から寄付金を集めた。当時としては、大変な金額で、百円以上五百円までが三十六口、五百円以上千円までが五口、千百円一口、千八百円一口であり、桧四十本、松二本、杉一本の現物寄付もあった。建築に使われた欅の材木は近在にはなく、遠く島根県から取り寄せ、ながい間乾燥させた。建物も旧堂より大きくなるため、庫裡も本堂横から現在の場所まで十数メートル移転させた。大工の棟梁は新谷四郎左衛門であったが虹梁鼻、蟇股、勾欄などの細工ものは、京都から専門の仏師が来て現地で彫刻をした。瓦は、五十谷産が使われた。落慶には、餅まきがありお稚児さんが出た。寺総代は、吉岡小兵衛、住職は竹田日濶上人であった。平成十ー年の評価では約七億円ということである。この再建の当時は、五十谷の主要産業であった製糸業が、世界的な大不況の影響を受けて、最盛期から大きく後退する時期でもあった。壇徒の役員は、今をおいて再建は出来ないと判断したのであろう。五十谷区民もそれに応えて昭和の再建を成し遂げた。 その後も昭和二十六年には、開宗七百年を記念して鐘楼が、約三九万四千円で再建され、昭和五十八年には、日蓮の入滅七百年遠忌を記念して日蓮上人の銅像が約八百万円で建立された。 妙見宮の建立と再建 妙祐寺には、日蓮宗の守護神八幡神を祀る八幡宮が元文年間(一七三六)に、また三十番神、七面大明神、加藤清正公の三神を祀る番神尾が、天明年間(一七八一)に建立されており、区民の信仰を染めていたが、関西の日蓮宗寸院に多くある北斗七星を祀る妙見宮はなかった。しかし五穀豊穣、心願成就等開運の神として妙見信仰があり、「五十谷村他行覚帳」(天保十二年)にも、新助[妙見参り]とあり七日掛けで能勢の妙見さんへ参詣した記録が残っている。西勢の妙見さんにも五十谷の山越えで参詣したことも語り伝えられている。 明治三十三年(一九〇〇)に、旧知三村三重の山本嘉右衛門が祀っていた北辰妙見菩薩を妙祐寺裏の八幡山中腹を開墾し、妙見宮として勧請した。由来には次のように書かれている。 妙見堂建立の由来(第三十五世是孝院日親上人) 「江戸時代の末期、名田庄三重の里に山本嘉右衛門と言う人がいた。夫婦仲は睦まじかったがどういう訳けか何年経っても子宝に恵まれなかった。淋しさに耐えかねて、夫婦相談の上毎月の如く能勢の妙見様に参詣し、一子を授け給えと祈念した処ご利益により一子を授けられ、その上生まれた子供が男子であったので、正一と名付け蝶よ花よと可愛がり、之はひとえに妙見大菩薩の霊験であると信じた。 安政四年巳年京都の御用仏師石田久兵衛(通称みの久)という名仏師に依頼し、能勢の妙見様と寸分違わぬ仏像を造営させた。しかし、余り同じでは恐れ多いので、一寸だけ寸法を小さくして造営し、安政四年の大吉祥日に自宅の横に小さな妙見堂を建立し、妙見様を安置し毎日礼拝していた。しかる処、或る夜嘉右衛門夫婦の夢枕に妙見大菩薩が現れ給いて曰く 「この堂は西向きであるのみならず、御身の唱えるは念仏で我意にそわぬ故この地に居りたくない。この処より東方に五十谷妙祐寺と申す法華の寺あり、そこへ我を祭祀すべし」とのお告げにより、嘉右衛門は五十谷の住人古谷茂右衛門と申す者と懇意の間柄であったので、この話を茂右衛門に打ち明け相談したところ、茂右衛門は大いに賛同し、時の住職梅林行信上人に相談した。上人も大いに賛同され、吉岡市之丞、吉岡小太夫、古谷久次郎の三人に、茂右衛門を加えた四人が発起人となり。区民の賛同を得て遂に明治三十三年、玄法山妙祐寺の裏山を開墾し立派な妙見堂を建立する。」 この敷地造成の際、五輪石塔と素焼きの壺二個が出土した。この土地は、室町時代寺井氏の築いた谷小屋城の登り口になっており、その遺物ではないかと口名田村誌に述べられており、大正三年には、今も大切に保存されていると記されているが、その現物の所在は、今のところわからない。三重から五十谷までは川舟で運搬した。 妙見菩薩は「商売繁盛の神」であり戦争中は「武運長久の神」として区民の信仰を集めた。近年老朽化が激しく、高所にあるため、新築移転という方向で場所の選定を行った。種々検討の結果、八幡宮の北隣に決定し、平成十年総工費約千八百万円で再建した。区内には敬虔な在家の妙見講(清善講)があり、旧暦の十四日には在家で、十五日には妙見宮でお詣りがある。… 『遠敷郡誌』 妙佑寺 日蓮宗妙興寺来にして本尊は釋迦如来なり、同村中井字谷口に在り、天正十三年日佑の開基なり、境内佛堂に三光堂あり。 しだれ桜 有名な桜だが、花の季節でなかったのでこんな様子。若い樹に見えるが、それでも120年という、まだまだ何百年と咲き続けるだろう。 『口名田郷土誌』 妙祐寺のしだれ桜 (上中井区) 平成九年三月二十五日 小浜市指定(天然記念物) 玄法山妙祐寺境内の一部で、昔、一乗坊という真言宗の寺があったといわれる地籍に、みごとなしだれ桜がある。この周辺は、最近まで竹藪であったが、近年整地され見晴らしのよい広場となり、開花期には花見に訪れる人が多い。 この桜は地区内の古谷徳蔵という人が、明治十七年身延山久遠寺(日蓮宗の総本山)に参詣し、境内のしだれ桜に感動してその苗木を譲り受け植えられたと伝えられている。樹高十七メートル、目通り二・五メートル、東西の枝張り十六メートル、南北の枝張り十三メートル、樹齢は百二十年。大きく広がる枝は地面に届くほどに垂れさがり、嶺南地方でも屈指のしだれ桜である。 最近では夜間のライトアップもあり、闇夜に浮ぶ幾層もの薄桃色のしだれ桜は幻想的な光景で見物客を魅了する。開花期には写真展、しだれ桜音頭の踊り、芸能発表、お茶会などのイベントも行われ花見客で賑う。口名田郵便局ではしだれ桜の「絵はがき」や風景入り日付印のスタンプなども用意され、全国的にも知られるようになっている。 浄土真宗大谷派小谷山西広寺 『口名田郷土誌』 西廣寺 真宗大谷派 西廣寺の山号は小谷山で、その縁起について寺に残る文書は次のように記している。 「そもそも当寺は往古真言宗なり。文明七乙来年(一四七五)九月、蓮如上人御通行のみぎり、其時の住僧道祐御化益を蒙り、真宗の門下に列り、六字の尊号を給り小谷山西廣寺と名のるべしと御意を蒙り、永く真宗の門末となる。然る所、寛政元巳酉年(一七八九)四月五日堂宇ことごとく焼失、これにより諸事履歴分明ならざる事知るべし。初めは西派なり。寛政三辛亥年当寺第一一世了然の時、御当山に帰山、この際滝谷村の檀家離檀すと伝う」 また、「口名田村誌」には次のように書かれている。 「下中井区(飛川)にありて小谷山と号す。真宗大谷派に属す。元は真言宗なりしかど今より凡そ四百五十年前(文明年間後土御門帝)蓮如上人地方巡錫のことありて、その途次当寺に憩はる(旧跡今尚存す)。時の住職道祐法師門外に恭迎し、六字南無阿弥陀仏の名号を賜わる。即日真宗に改宗す。之を当山開基と記せらる。当山開闢記によると、その後小浜妙光寺の末寺たりしが、その圧政に苦しみ十一世了然に至りて大谷派に転派す。これ今より。百三十年前のことなり。爾来、代を経ること道祐法師より十四世、大谷派に転派してよりここに四世なりとは明らかなり。中世火災にかかり幾多の宝物記録を灰燼に帰し為に当寺の詳細徴するに由なし」(大正三年刊行) このように西廣寺は蓮如上人が巡錫のとき真言宗から真宗にかわり、以後、小浜妙光寺の末寺だったが、本寺の圧政に苦しみ寛政三年(一七九一)大谷派に転派した。その時、滝谷の檀家は西廣寺を離れ妙光寺についたと言うのである。 また、寺の境内には「蓮如の腰かけ石」があり、蓮如の足跡を示すものとして大切にされている。更に、蓮如が巡行してきた時、六字の名号を二枚書き、その一枚を当時の寺男久太夫に与えたが、ある晩久太夫の家が火災になり、六字の名号も焼けたものと悲しんでいると、翌朝桑の木にその名号が掛かっていたと言う不思議な伝説も伝わっている。そのため、六字の名号を西廣寺にあずけたという。 寛政元年の火災より二百年が経過して、茅葺きの屋根もいたみ木造部分の老朽化も甚だしかったため再建の気運が高まり、門徒の発起と幼少期を酉廣寺で過ごされた木下茂氏の格別の寄進とによって、昭和三十年新しく木造瓦葺きの本堂が再建された。 木材の拠出も含めて建設費は二百五十万円であった。 西廣寺十四世小谷真了氏は西廣寺住職と本山東本願寺の北海道小樽別院輪番としての重責を兼ね、常に本山の運営に参画するなど、大きな貢献をされたことは記録に留められることである。 その他の宗教的な遺物として、次のようなものがある。 一 沢の祠 当区の沢地籍に祠がある。むかし沢の池と森があったと伝えられている。 一 地蔵菩薩 主に旧道や湧水池などに祀られ信仰されている。むかし移動した際、その場所に困り庄屋の山に運んだといわれ、現在も数体の姿が見られる。 一 三昧(さんまい)場 当初は野焼きの場所として使用されていたが、昭和二十一年火葬場がつくられた。昭和五十一年、市の葬祭場を使用することになって廃止となった。 『遠敷郡誌』 西廣寺 真宗大谷派にして本尊は阿彌陀佛なり、同村中井字寺ノ下に在り、元天台宗なりしが文明年間蓮如當地通過の事あり、時の住職通佑其時改宗す、其後小濱妙光寺の末寺なりしが了然の時韓派すと云ふ。 蓮如上人の腰かけ石 腰かけ石というのはあちこちにあるようで、当寺でも大切にされているよう。 蓮如とかいうのは後のハナシで、元々は神様降臨の磐座信仰の降臨石の名残りなのかも… 谷小屋城跡 真ん中の道が妙祐寺の参道のようなもので、左奥の大きな屋根が、妙祐寺本堂。この裏山に谷小屋城があった。武田氏重臣の寺井氏の居城という。 『口名田郷土誌』 谷小屋城跡 (上中井区) 上中井区集落妙祐寺の裏山、海抜二四四メートルの高所から、それより東へ延びる稜線をくだって一七〇メートルの地点まで主郭や詰城を含んだ遺構が残されている。主郭は一九〇メートル地点の土塁や堀切で守られている部分と考えられ、一七〇メートル地点は先端郭、二四四メートル地点は詰城であろう。 「若狭郡県誌」には城主は寺井兵部少輔とあり、五十谷・窪谷・桂木・飛川及び大飯郡の飯盛、三方郡の藤井・前川を所領としていたと記されている。これは正保郷帳でみると三千三百石に当り、武田家の被官としては大身であった。 寺井氏の初代は寺井伯耆守賢仲と考えられ、賢仲は武田家の家臣として京都に居を構え、主として武田家の外交官的な役職にあったと思われるが、京都の屋敷が火災にあい、一族は小浜へ移って所領地に居を構えたものと思われる。二代目日向守は明応五年(一四九六)菩提寺として興禅寺を建立し(興禅寺文書)、築城も手掛けたであろう。三代目兵部少輔の頃には城も完成して武人としての地位を固め、名田庄の三重城や西谷城を討って勢力を拡げていたことが知られている(知見村誌)。四代日源左衛門は信長の武将丹波長秀の配下にあって各地を転戦した(信長公記)が、賤が岳の合戦に功のあった丹波長秀が越前国と加賀半国の領主になると、若狭には代官だけを残すこととなり領国の安全を期してか天正十二年若狭の山城をことごとく破却した(若狭守護代記)という。谷小屋城もその時廃棄されたのであろうか。地元の伝承では丹波長秀によって滅ぼされたとも伝えられている。天正十二年には、谷小屋城のあった山麓に日祐が日蓮宗妙祐寺の建立をはじめている。 谷小屋城址 小浜藩主第四代酒井忠囿の藩医牧田近俊が、延宝年間(一六七三~八〇)に五十谷まで足を運んで調査し、谷小屋城址のことを若狭郡県志に書いている。口名田村誌もそのまま引用している。それを読み下すと次の通りである。 谷小屋城址 「下中郡五十谷ノ山上ニ古城址有リ、此ノ処ヲ谷小屋ト称ス。伝ニヨレバ寺井兵部少輔ノ據ル所ナリ。而シテ、五十谷、窪谷、桂木、飛川及、大飯郡ノ飯盛、三方郡ノ藤井、前川等七箇村ヲ領ス。兵部始ノ名ハ左近、武田家麾下ノ士ナリ、天正年中没落ス」 寺井屋敷 「同村ニ在リ、相傳ニハ寺井兵部少輔山上ニ城ヲ築キ、其ノ麓ニ宅ヲ構へ常ニ住居ス。没落ノ後ハ其ノ宅地ハ耕種(田畑)トス」。 谷小屋城は、上中井の西側、西相生との境界にある通称立山(舘山)、海抜一九七メートルから一七〇メートルの山頂の稜線にあり、西詰めに本郭址がある。更に西側の尾根伝いに登り詰めると、二四四メートル地点に詰城あとがある。南面が南川、北面が五十谷川の急峻な斜面になっており、山稜の鞍部を使った堀を幾重にも配置し、自然を利用した構えとなっている。砦の先端と見られる元妙見山の上から詰城まで、五〇〇メートルもあり名田庄の山城では最大である。城の形態は、宮川加茂の白井氏の加茂城と類似しており、他の若狭の山城の築かれた時期より古く、室町中期ではないかとも云われている(大森宏「小浜市の山城」)。 文献に残る城主寺井氏 初代 伯耆守賢仲 飯盛寺寄進札(長享二年、一四八八)〔小浜市史〕。 西福寺敷地寄進(延徳二年、一四九〇)〔小浜市史〕。 二代 日向守 興禅寺再建、野条下屋敷寄進(明応五年、一四九六)〔興禅寺文書〕。谷田寺知行宛行状(天文六年、一五三七)〔谷田寺文書〕。 三代 兵部少輔 三重城、西谷城、に曽我氏、土尾氏を討つ(天文六年、一五三七)〔知見村誌〕。逸見氏反乱勢坂で対峙(弘治二年、一五五六)〔戦国の若狭〕。 四代 源左衛門 信長を熊川大杉に出迎え(元亀元年、一五七〇)〔信長公記〕。 谷小屋城落城(天正年間十一年~十二年、一五八三)〔守護代記〕。 寺井氏の「舘」、「谷小屋城」での治世は、長享から天正まで百年も続いていることになるが、初代賢仲は戦場で華々しく戦う武人ではなく連歌を嗜む文人で、晩年には剃髪をして伯耆守宗功と名乗っている。二代日向守も荒れた興禅寺に、下屋敷を寄進して再建した信心深い武士であったようである。まだ平和な時代であったのであろう。三代兵部少輔の代になると世の中大いに乱れ、守護の権威も無くなり武山の部下同士が戦うようになり、城を築いて戦わざるを得なかった。弱肉強食時代であったのであろう。加斗の稲葉城主武藤彦右衛門から飯盛を奪い、田縄城の大塩長門守と争い、名田庄の三重や西谷の城を脅かすのもこの頃である。 四代源左衛門は、更に強力な武士団をつくり越前や近江にまで転戦した。この谷小屋城も天正年中には、西津の天ヶ城や、本郷の達峰城と同じく丹羽長秀の手により、築城僅か数十年で落城した。城址にはいま松や雑木が生い茂げっているが、珍しい木としては楊梅がある。近年立てられたものとしては、谷小屋城址の木柱がある。 「若狭郡県志」にある寺井屋敷は、谷小尾城が築かれて舘からその麓に移されたようである。妙祐寺本堂の南東は字久保、字谷口という。古地図では其の中に谷小屋と門口という地名がある。城の名はこの地名から取ったもので、門口は谷小屋城の登り口の城門が付近にあったと考えられる。 酒井忠勝の曽孫で、家老職家の六代都筑丹下が、元禄五年から十一年問五十谷に住み静養していたことが「逢昔遺談」に書かれている。寺井氏が「舘」から「谷小屋城」に移りその麓に居住したことが相伝されていたことを考えると、寺井屋敷も、都筑氏の隠棲の屋敷もこの付近かもしれない。 五十谷の城跡(上中井) 昔、五十谷の館山の頂上に城があり、殿さんは寺井日向守といいました。 ある時、豊臣秀吉の軍勢に攻められたので、山全体に滑って登れないようにと、竹の皮を敷いたので、敵の軍勢はこれに火をつけ、城は焼け落ち、殿さんは切腹したと伝えられてきました。 古い記録によりますと、この城は谷小屋城と呼ばれていました。その子孫である寺井専治氏は「城主の寺井氏は、元は公家の出で、主に京都に居たが、火災で大邸宅が焼失したと聞いている」と言われていました。寺井氏の名前が若狭で初めて出てくるのは長享二年(一四 八八)のことで、その前の年に、京都の寺井賢仲の屋敷が焼けたという記録があります。それから九年後の明応五年に寺井日向守が菩提寺として興禅寺を創建しています。寺井賢仲と日向守が同一人物かどうかはわかりませんが、賢仲は学問のある人で、京都では有名な学者 や諸国の守護大名とも交わり、情報を集め、若狭武田氏の動向に大きな影響を与えた人物でした。晩年は剃髪して伯耆入道宗功と称し、若狭に隠棲し、永正十二年(一五一五)十二月に没したといわれています。どこに葬られたかはわかっていません。 谷小屋城は天正十一年(一五八三)五月、豊臣秀吉の家臣、丹羽長秀によって亡ぼされたといわれていますが、丹羽氏と一戦を交えたかどうかはわかりません。五十谷では当時戦いがあったと伝えられている所が各所にあります。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 中井の主な歴史記録『遠敷郡誌』 上中井・下中井 村の中央にあり、交通の要衝に當り役場・小學校・製絲會社・金融會社等皆此區に存す、上中井に城址あり、寺井兵庫の據りし所と傳ふ。 中井の伝説、民俗など滝谷の松上げ 口名田橋のたもとにこんな案内板。広い河原がある。橋の上から見物できればサイコーかも… 『口名田郷土誌』 松上げ行事 明治以前から毎年八月の宇蘭盆の日に、この行事が行われて来ている。これの由来については、愛宕さん(口田縄の大光寺の山上に愛宕宮あり)に、お灯明を挙げて区民の無病息災、火の用心を祈願するものと伝えられている。 古くは、「松上げ青年会」にて、当日の行事が行われていた。準備作業と後片付けについては、区の総人夫にて行われている。戦後は、松上げ青年が減少してきたため会が解散し、現在は区の各戸から一名が出て昔の「松上げ青年会」に代わる役割を果たしている。 実施内容としては、重木(おもぎ)(全長二十二メートル)の先端に「もじ」(麦藁で編んだ摺り鉢状の形のもの)を取り付けた棒杭を天満宮の下の河原に立てて、夜、区民が松明を夜空の「もじ」を目掛け投入して燃やす行事である。 大平洋戦争前は、松上げ青年の家が宿元になり、若い衆が宿にて酒宴をし、午後十時頃になると宿元を出て、高張提灯を先頭に浴衣着姿で松明を肩に掛け、豆絞りの手拭を頭に締めて、白足袋にこま下駄を履き、威勢のよい格好で道中をお伊勢音頭を唄いながら天満宮にお参りして、河原に出たものであった。 現在は、宿元を廃止して区の社務所に各戸から一名が参集して、酒宴することに変ってきている。昔からの仕来たりで松明の投入は、他区民には許されず当区の者のみにて投入が行われている。他区民からこの点が大変羨やまれている。何しろ酒を飲んでの行事であるため、二十メートル余の高さの「もじ」まで投人することが中々難かしいが、腕利きの若い衆は適当な時間が経過すると上手に投入し、いまだ未投入で終わったことは無いと聞く。又、ずっと以前は、重木(材質は松の木)を河原に立てるのに追い袂を用い総人夫で三時間を要していたが、現在は鉄柱の組立て式に改良されている。立てるのもクレーン車を利用することになり、立て込みの時間が全体を通じ一時間程度に短縮することができた。現在は「もじ」を作る時の麦藁の確保に苦労する時代になった。即ち農家の大麦の刈り取りは、機械力(コンバイン)で行われるため長い麦藁の入手が困難になった。又、松明の材料である「松のじん」(生年百歳以上の松を伐採後三十年以上経過して掘る松根から取る)の掘り出しが困難な時代になっている。 滝谷区の「松上げ」は、永年に亘る伝統行事で天下に名声を博し、何の宣伝をしなくても毎年八月二十三日の宇蘭盆の夜は天満宮を中心に千人近い観衆が、近くは夜涼みを兼ねて参観し、遠くからは名物行事を是非拝見したいとして参集し、口名田橋上と周辺に溢れ、唯一の観光行事としての観を呈しつつある。 うば捨て山(上中井) むかしむかし、弘法大師がこの辺を廻ってこられた頃、五十谷村には山すそに七、八軒しかない小さな村でした。今では想像できませんが、それはそれは貧しい暮らしをしていました。伝説によると、六十歳になった人を家族や村人が山の上へ連れていき、そこへ捨てて帰ったといわれています。年を取ったというだけで、病人でもないのに捨てられたのです。 お年寄りがいる家は、六十に近くなるにつれて、いつとはなしに口数も少なくなり、笑い声が減っていく、お年寄りも捨てられる日が近くなると、背負われていく日のために、あまり食べないようにしたといわれています。このような風習は各地にあり、いまのさんまい(墓地)のようだったともいわれています。 五十谷村の姥捨て山は、妙見堂から山の中腹に向かって斜めに登っていった所に、一人が座れるくらいの石があり、その下は断崖になっていて、そこが姥捨ての場所だったと伝えられています。もとの妙見堂のあたりに、その当時は小屋が建てられていて、お年寄りが捨てられる日には村人たちがみんなでその小屋まで送っていき、その後は家の者に背負われて山道を登っていったことでしょう。 このようなことがあってから、この付近を谷小屋というようになり、地名として今に伝えられています。死の谷と小屋からきた地名かもしれません。 『越前若狭の伝説』 蓮如上人の書 (中 井) 下中井に小谷山西広寺がある。もと真言宗であったが、現在真宗大谷派に属している。文明年間(一四八〇ごろ)蓮如上人か、当地に回って来られ、西広寺で休んだ。住職の道祐(どうゆう)法師は門外に上人を迎えて、南無阿弥陀仏の書をたまわり、たゞちに寺の宗旨を改宗した。 この当時寺男に久太夫という人かいた。上人みずがら久太夫にも一幅の書を与えた。久太夫がある夜、よその家で話しこんでいると、久太夫の家が焼けるという声がした。驚いて家に帰ると、一面火の海で、何ひとつ持ち出すことかできなかった。蓮如上人の書も焼失したと嘆いていたが、夜があけると、近くの桑の木に上人の書が、きずひとつ受けずにのかれていた。 (小川進勇) 中井の小字一覧中井 薦池 島田 中田 梅木 野条 館 大道端 堀 庄田 登尾 久保 川端 谷口 谷脇 樋口 小谷 庵ノ前 植ノ前 石風呂 下河原 中道ノ下 南本 前野 下野 柴庵 岡 中島 沢 沢ノ下 鎌左近 大左近 平野下 瀑ケ森 五両森下 五両森 寺ノ下 清水 丼子 猪木口 大畑 根柿 飛後下 尾野 宮ノ本 宮ノ下 大野 野瀬 保木 不動池 馬場 石橋 湿谷 中道 街道上 街道 山神 湿谷 飛川谷 平埜 南谷 清水谷 五十谷 大黒谷 長滝 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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