西小川(にしがわ)
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福井県小浜市西小川 福井県遠敷郡内外海村西小川 |
西小川の概要《西小川の概要》 外海に面して位置する。地名の由来は、三方郡小川浦(常神半島)の漁民が移り住んだことにちなむともいわれる。 近世の西小川浦は、江戸期~明治22年の浦名。江戸期には西小河浦と書くことが多い。「雲浜鑑」によれば、家数19 ・ 人数119。慶長7年(1612)の若狭国浦々漁師船等取調帳によれば、船数は3人乗1、2人乗3、1人乗3で所有者6人、惣中の鯖網1張が記される。海岸線は1里と長く、広い専用漁業海域をもつが、元禄6年には宇久浦領分で布貝を取り毎年米1斗2升を納め、加尾浦に米1斗5升を支払って、船着および薪などの浜上げを認められていた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。 近代の西小川は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西30間・南北1町、戸数15、人口は男69・女69、小船30。 《西小川の人口・世帯数》 61・14 《西小川の主な社寺など》 製塩遺跡 集落のある海岸には奈良期の製塩遺跡がある。 斎神社 観音堂の裏山のあたりのようだが、参道がわからなかった。 『内外海誌』 斎神社 所在 小浜市西小川4号20番地。同西小川10号9番地所在の社殿は昭和9年室戸台風により倒壊したので同西小川4号20番地所在の大山祇命を祀る山神社々殿に遷座合祀して今日に至っている。 祭神 市杵島姫命、大山祇命。例祭 5月16日 本殿 流レ造4坪。拝殿2.25坪 境内地 172.23坪。10号9番地の元社殿の土地 93.23坪(被譲与国有地) 氏子数 16世帯(現15世帯) 神亀元年勧請と伝える。大正11年福井県の許可を得て、福井県遠敷郡内外海村西小川4号20番地無格社山神社(祭神大山祇命)を本社に合祀した。然るに昭和9年台風により社殿が倒れたので、再び現在の山神社の社殿に遷座今日に至っている。西小川氏神。 「西小河浦 氏 神 1斎宮権現 1奇田権現 由緒雖レ有レ之 年数深遠而不レ知焉 但浦民所レ伝二于口一者、八百余年と云々」「若州管内社寺由緒記」 『遠敷郡誌』 齊田社 又依田明神と稱し來り同村西小河浦字南堂の上にあう、祭神は市杵島姫命にして神亀元年勘請すと傳ふ、此浦の産神なり。. 曹洞宗海潮山常福寺 左が常福寺。正面は観音堂。 『内外海誌』 常福寺 所在 小浜市西小川10号8番地 本尊 地蔵菩薩 曹洞宗 本堂 35坪。庫裡 24.5坪。仏堂 15坪。開山堂 5,5坪。小屋 8.85坪 境内地 390.5坪。所有山林 4反9畝20歩。 堂内仏像 本尊の他達磨大元両像(2)秋葉権現像(1)釈迦誕生仏(鋼1)高祖大師像(1)開山和尚像(1)十一面観音像(観音仏堂にあり、1)両脇立天王像(2)賓頭留尊者像(1)弘法大師像(1)龍天善神像(1) 檀徒 16戸 本寺院は神亀二年の創立なり、本天台宗にして常福寺並に弘誓寺の二刹あり、倶に教院に属す当時の大地なりき。然るに兵燹に灰滅し法器亦海賊に奪はる、蓋し年代遼として考ふべからず。 寛文の初め空印六世一相和尚に依り募化して本堂を造る、落成の後特に空印九世大義恵仁和尚を請して開山とす。今の円通殿は則も古の弘誓寺にして方丈は則ち古の常福寺ならん乃ち二刹を併して一寺となす云々。(寺記による。) 「右同所(註西小河浦)海福山常福寺由来 常福寺は難二古跡一 前代記録依レ無レ之 不レ知二年数一 昔は号二宝義(蔵力)庵一山本寺不二分明一依レ之寛永八辛未年空印寺久昌和尚之代 改二寺号常福寺一而為二空印寺末寺一則今僧公光住焉 後承応二癸已年公光逝去矣 其後弟子林室至レ于レ今住レ焉。 本尊地蔵菩薩御長八寸像也 九月廿三日 常福寺住持 林松」若州管内社寺由緒記。 観音堂 『内外海誌』 観音堂 所在 小浜市西小川10号8番地 本尊 十一面観音立像 堂坪数 15坪 「西小河浦 海福山弘誓寺観音由来 本尊御長二尺余なり。立像十一面観音にして行基菩薩の御作なり。年代は深遠にして分明ならず。凡そ村民伝えて曰く、八百余歳かと。聞くならく昔ここの人、隣浦の人、同船にして遠浪に漾えるに、忽ち雲飛び黒風起り、雷電頻りに轟き、白浪天に泝り、船筏既に翻覆し、隣浦の人悉く死すといえどもこの一浦の人はあえて死せず、七日七夜船中にあり、終に死難を遁れしは不思議の霊験なり。しかのみならずここの徒は開闢以来、臨産受苦の難に遇えるものなし。これ皆観音の大悲、与楽抜苦の大悲心なり。この外随喜して丹誠を抽んで、参詣して信心を起せば則も諸願意に随いて備わる。その根木を尋ぬるに、昔海上に紫雲靆き、日光宇宙を輝かせ、昼夜世界を照らす。村民怪みてこれを尋ぬれば則ちかの霊像万里の海上に浮べり。ある時斯の陸地に来れるが如くなりければここに迎え、時人信心を起し、堂宇を造立して尊像を安置せりとしか云ふ 別当常福寺住持 延宝三卯九月廿三日 住持 林松」若州管内社寺由緒記。 「謹献上 若州遠敷郡西小河浦竒田権現 尹津喜権現 氏神祢宜ハ西小河浦惣太夫ニ而御座候 此開闢は神亀元年観音と一処ニ其時国主立申され候申伝え候 延宝八申歳 袮宜惣太夫」 小浜市西小川北村脇太郎所蔵文書。 「謹拝上 若州遠敷郡西小河浦観音堂本尊ハ十一面之観音行基菩薩新作之 時代神亀元甲子歳ニ開闢ニ而御座候 別当ハ西小河浦定福寺仕候 定福寺本尊地蔵ニ而御座候 右両所ハ観音ト空印寺来寺ニ而汾無二御座一候 延宝八歳申六月吉日 空印寺末寺 定 福 寺」 小浜市西小川北村脇太郎所蔵文書。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 西小川の主な歴史記録西小川の伝説『越前若狭の伝説』 弘誓寺 (西小川) むかし海上に紫の雲がただよい、白い光が空に輝き、昼夜世界を照した。村民が怪しんで尋ねると、霊像が海上に浮かんでいた。あるとき陸地に来るようなので、ここに迎え、堂宇を建てて安置した。 本尊は十一面観音で、行基の作である。むかしこの浦の人が隣の浦の人と同じ船に乗ったところ、風波にあって難船し、隣浦の人はみな死んだか、この浦の人だけ死なず、七日七夜船中にあり、ついに死難をのがれた。これは観音の霊験である。またこの浦の人は昔から難産の苦しみにあうことかない。これも観音の大悲である。 (社寺由緒記) 西小川の小字一覧西小川 赤坂 小谷 大下 横縄手 白敷 上田ノ窪 中田ノ窪 田ノ窪 宮地 南堂ノ上 口堂河内 中堂河内 奥堂河内 清水 宮ノ下 向 神田 堀 極 脇 トチキ谷 大口 上野瀬 野瀬宮浦 白滝 カラス木 大窪 田ノ窪外 松ケ崎 ホノ木坂 沖ノ窪 シタキ 清水谷 魚見 楠谷 大浜 メハキ 宮ノ浦 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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