丹後の地名 若狭版

若狭

西勢(にしせい)
福井県小浜市西勢


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福井県小浜市西勢

福井県大飯郡加斗村西勢

西勢の概要




《西勢の概要》
勢浜海岸があり、JR「勢浜駅」がある。国道27号、JR小浜線、舞鶴若狭自動車道が東西にほぼ並行する。北は小浜湾に面して袖崎・久手崎が湾内へ張出す。
応仁元年(1467)2月7日付武田信賢安堵状に「勢井村」がみえ、慶長7年(1602)6月の若狭国浦々漁師船等取調帳に「にしセい 壱艘 三人ノリ」とある。
西勢村は、江戸期~明治22年の村。若狭国大飯郡のうち。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、戸数52 ・ 人口263、寺院は妙厳寺、神社は黒駒大明神、,小字として木橋・下町を記す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年加斗村の大字となる。
西勢は、明治22年~現在の大字名。はじめ加斗村、昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北2町余、戸数45、人口は男131 ・ 女129、学校1、小船9。


《西勢の人口・世帯数》 146・49


《西勢の主な社寺など》

黒駒神社

本殿の前のナギは樹齢約600年といわれ県天然記念物。
『大飯郡誌』
同(村社) 黒駒神社 同同(祭神素盞嗚命) 西勢字宮脇に在り 社地百九十二坪 氏子四十七戸 社殿〔〕拝殿〔〕 烏居一基
〔寛永四年國中高附〕御神祭二月九日九月九日には舞をまひ候へ共中古は無之候春日大明神同日八幡宮十一月二十七日妙見菩薩正五九月三寸備へ申候〔雲浜鑑〕には黒駒明神山王社と有.


妙見神社


日蓮宗妙厳寺

『大飯郡誌』
妙源寺 同(日蓮宗) 西勢字堂山に在り 寺地三百六十一坪 檀徒二百五十人 堂宇〔〕日宗堂〔〕鐘楼〔〕薪納屋〔〕由緒〔明細帳〕文安三丙寅年九月朔日淨行院日宗聖人開基妙見堂は山頂に在り一時の盛を極め小字名も之に原づくが如し海陸の風景に富み曳杖の好適地たるを以て四時散策をねし賽客の跡を絶たず。
妙見社はこの道を行くよう、鉄道を渡るよう。

毎年1月15日にどんど焼、7月28日に川裾まつりを行う。

《交通》
JR「勢浜駅」


《産業》


《姓氏・人物》


西勢の主な歴史記録


永禄年中(1558-70)久手崎沖で守護武田義統に反した逸見昌経の水軍と守護方水軍の合戦があったという。
『大飯郡誌』
(久手崎)若狭國守護職武田義統(武田伊豆守信繁の子信榮足利義教の命により一色義貫を討ちて功あり其の賞として若狭国守護職となす(永享十二年)次に信楽の弟信賢、信賢の弟國信、次に信親、次に元信-元光-信豊-義統-元明-代々若狭国守護職たり)の麾下に逸見駿河守昌經お心大飯郡高濱に城を築きて之に據る永祿某年叛逆を謀り其子河内守を將として丹後丹波の兵を聚め高濱を発す其の時義統其の兵を海陸兩手に分ち大監長門守寺井兵部少輔等加斗庄の坂頭に向ひ韓神庄司介兼田帯刀等青井山に屯し以て敵を俟つ海の方面に於ては桑村謙庵(俗稱、九郎右衛門)竹長源八兵衛久手崎の附近に向ふ折しも船に乗じ和田より出発し來れる逸見の軍と相逢大に海上に戦ふ桑村等勢猛烈にして敵兵或は戦死し或は海中に沒す時に大風俄に起り敵の残兵船を棄てゝ陸に上る桑村氏は其の船を分捕り益々窮追して大に曾伊表に戦ひ遂に河内守を斬る敵兵敗走す桑村竹長の兩氏小濱に婦り義統に報告す義統大に兩氏を賞す桑村氏に小濱灣内航海の許を與へしも此の時の事にして從てこれ謙庵船の起源なり。

西勢の伝説


『越前若狭の伝説』
高橋長者            (勢)
 むかし勢村に高橋長者という金持がいた。このころ小浜の金持の人たちばかりの会が、ときどき開かれてた。高橋長者もその仲間にはいっていた。
 この仲間に海べの人がひとりいたので、一度その海べの人の家で会を開きたいと頼みこむと、舟を出して迎えにくるから、みんなごいっしょにおい出下さいという返事だった。その日がきて、みんな舟に乗りこむと、舟の上に何かおおいをかぶせて、舟は水中をくぐって行くように思えた。
 ことなく舟は着いて、主人の案内で家にはいった。この住まいは、普通の家でなく、不思議な家であった。みなのものが、お勝手の炊事場をのぞきこむと、少女をまな板の上にのせて、料理している様子なので、あやしんでいると、食ぜんに焼き物か出た。みなのものは、それを食べずに帰り支度をして、家を出ようとすると、主人か、「この焼き物は、きょうの第一のごちそうと思い、お出ししたのに、食べてもらえぬのは、残念なことだ。家つと(みやげ)になされ。」といって、めいめいに持たせた。
 さて、来た時と同じように、船に何やらおおいをきせて、水中をくぐったかと思うと、もとの海岸にたどり着いていた。
 持ち帰ったその焼き物を、高橋長者の娘が、さがし出して食べてしまった。この娘は、それから数百年を過ぎても年をとらなかった。八百比丘尼といわれたのは、この娘のことである。
 金持の仲間の海べの人というのは、実は龍宮城の人であり、焼き物は人魚で作ってあったといわれている。この話は、勢村の古老が、代々申し伝えていた話である。     (拾椎雑話)


黒駒神社のナギ            (西 勢)
小浜市加斗地区西勢の氏神黒駒神社境内にナギの木かある。樹齢は六百年ほどで、いまもなお樹のいきおいは盛んで、少しも衰えをみせていない。根元にえぐられたような空洞(どう)かあるが、幹全体におよんでいない。村人はこの空洞を、神がやどっているといって、あがめている。
 このナギの木のほかに、約三十メートルほど離れた岩のそばに、もう一本のやや小さなナギの木がある。この大小二木のナギの木を、みょうと(夫婦)の木とよんでいる。
 この小さいナギの木を、むかし珍木として酒井の殿さまにさしあげて、城に移植したところ、よなよな夜泣きするので、村へ返されることになった。このとき使者は、不吉な木だとどなりつけ、そばの岩にたたきつけた。その時大きな岩片が幹に食いこみ、その岩片はいまも幹にめりこんで残っている。   (小畑昭八郎)

うろこじいさん              (西  勢)
 むかし西勢に元気のいいじいさんかいた。天気のいい日、西勢の山へ仕事に出かけた。その途中の山道で、ひとかゝえもある大きな蛇(へび)に出あった。蛇は道いっぱいに横たわり昼寝をしていた。じいさんは、びっくりして、山へ行くのをやめ、家へひき返した。
 あくる日の朝も出かけたが、きのうと同じ所へくると、蛇が道をふさいでいた。その次の朝も次の朝も、蛇はその場所から動かなかった。じいさんは、この蛇を退治しようと思い、次の朝、よきとなたをといで出かけた。用意してきたよきとなたで、その蛇をずたずたに切りきざんで、ばい木(薪)を積みあげるように、重ねて始末した。
 それからじいさんの身の上に不思議なことかおきた。元気者のじいさんか、急に元気がなくなった。また、じいさんの体にウロコができたり、ご飯を食べようとすると、ウロコがおひつの中にあったり、おつゆやお茶の中にも蛇のウロコが入っていた。じいさんは、何も食べられず、困ってしまった。
 するとお告げかあり、「じいさんの殺した蛇は、神さんのお使いだった。すぐ蛇の霊をなぐさめるため、ほこらを建てなさい。」と教えられ。さっそく西勢の山の中にお堂を建てて、大じゃの霊をまつった。それからじいさんの体からも食べものからも、ウロコがとれてしまった。
 この蛇をまっってあるお堂は。いまも西勢の浄円山にあり、龍王神と村人はよんでいる。十年ほど前まで、毎年十二月なるとお祭りをしていたが、いまはそのお祭りもしなくなった。  (小畑昭八郎)





西勢の小字一覧


西勢 椿原 大久手 城ケ谷 蛭子鼻 口無 小久手 中浜 椿谷 小栗 小尻 川渕 下生風谷 上生風谷 小谷 松本 下雨坪 上雨坪 下六路谷 上六路谷 長溝 遊里ノ上 狹左古 前谷 加斗坂 後谷 林ノ腰 下小畑 上小畑 加斗谷 油田 高畑 割谷 安ノ谷 大坂口 山ノ神 忠田谷 中谷 中屋敷 風谷口 杉山 遊里ノ下 松山 寺谷 狼谷 見世谷 上野中 山王 地々石 塚本 下野中 下小蔵谷 上小蔵谷 堂山 堂際 長谷 村谷 岡所 中所 小谷口 北川 南川 落合 川尻 伏見田 黒見掛 桜本 浄円 木椿 稲堀 迎田 保志ノ木 寒風 森本 古堂 宮脇 宮本 宮口 船迫 下野花 樋ノロ 坂ノ下 堤谷 笹山 丸山 樋ノ谷 北久手 浦 南久手浦 犬戻 谷生風 小松谷 六路山 風坂谷 鳥越 鳶ケ岳 中ノ平 杉谷 狼見寺 大蔵山 鳥奥谷 浄円尾 樋ケ谷 岩山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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