丹後の地名 若狭版

若狭

若狭小浜城(おばまじょう)
雲浜城(うんぴんじょう)
福井県小浜市城内1丁目


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県小浜市城内1丁目

小浜城の概要





小浜城本丸天守台の石垣↑ 右の赤い屋根は嘉門の井戸。

《小浜城の概要》
若狭小浜城は雲浜城ともいい近世の城。小浜市街地のほぼ中央に所在。北・東・南を河川で囲み西側は海に接する水城。
近世城郭としては小規模で総面積6万2,492㎡。本丸が中央にあって西南隅に天守を配し四方に櫓を置いて連結されていた。本丸を中心にして西側に二の丸、東に三の丸、北に北の丸、西に西の丸と方形で構成された。


←『小浜市史』より。上が南になっている。

南を流れる南川、北を流れる多田川が拡幅されて、旧城地を削り、二重になっていた堀は埋め立てられ、今は過去の姿はほぼ失われ、本丸部分の三分の二ほどが残るだけになっている。
本丸跡には、石垣と小浜神社がある。

慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦で東軍に属し大津城に拠った功により若狭一国8万5,000石(翌6年近江国で7,000石、寛永元年(1624)子息忠高のとき越前敦賀郡2万1,500石、計11万3,500石が藩領)に封ぜられた京極高次が、従来の後瀬山城を廃し翌6年より海浜の地に築城を始めた。同時に町屋の整備も行い一町内30戸で城下町を形成した。
縄張りは家臣赤尾伊豆・安養寺聞恵によるという。南川の付替えや海浜の整地には多大の労力を必要とし、また埋立には捨石として石材が使われた。年不詳二月二二日付京極氏奉行人連署状に「価御城御本丸海手之方すていし被成御用にて、諸浦之船召よせつませ候へと、御印ニ而被仰出候条、浦々之船三人乗より上之舟、一艘も不残、来廿五日ニ必々小浜へ参候様ニ油断なく可被申触候。則参候船ニ何いしニ而も大きなる石を一艘ツゝつませ候て参候様ニ可被申付候」とあり、若狭三郡浦々の船を動員したことが知られる。築城に取りかかったものの、京極氏に対する幕府の課役によってさほど進展せず、高次・忠高2代にわたっても完成しなかった。

寛永11年(16344)京極氏松江移封のあと若狭国主として老中酒井忠勝が入部したときには城の外郭と若干の官舎が建造されていただけであった。

←境内の案内板より(上が北。現在残っているのは、本丸と書かれた赤い線の囲みの範囲のみ。本丸を囲む内堀は埋め立てられて消滅いる)

酒井忠勝は、幕府の許可を得て石垣・塀・櫓門の補修をし、翌12年より天守、西の丸、北・南の石垣を築き直した。天守は同年11月13日中井正純の手で棟上げされ、翌13年10月に完成。築城には足軽500人、中間400人をはじめ、農村から徴発された郷足軽・郷中間が加わり、同19年に大手橋の虎口・枡形などの構築で一応終了、完成まで41年を要した。しかも三の丸米蔵・北の丸建物などの改築があって、すべてが備わるのは正保年中(1644-48)である。城はさほど大規模ではなく、内堀を含めて総坪数1万8千坪余、三の丸から東方丸山まで125間、西の丸から西方海面まで145間、三の丸から南方多田ヶ岳まで163間、北の丸から北方西津まで152間、櫓数42、多門10、火除結多門(渡櫓)6(「小浜城郭絵図」酒井家文書)。寛文2年(1662)の大地震で西の丸を除くすべての石垣が破損し大修復をした。河川を利用して造られたため土砂の堆積が常にあり、江戸期を通じて度々川浚えをし、そのつど町方へ普請手伝が命ぜられた。



小浜城天守台の石垣↓



7間×8間、3層の天守閣がここに建っていた。
そこの案内板↓



『小浜市史』(図も)
天守閣建造と城郭改造
酒井忠勝は、寛永十一年(一六三四)八月十二日、江戸へと下る途中の浜松で若狭への暇を得、入国の途につくが、この日、幕府から小浜城の石垣・屏・櫓・門の破損修復と堀の砂さらえの許可をえた。ついで、寛永十二年二月九日、小浜城の天守の建造と西丸の石垣を一間積み上げることの許可を幕府から得て、その普請に取り掛かった。この石垣普請を担当したのは、当時石垣積みの最高の技術を持っていた穴生衆であった。
天守台の普請は、寛永十二年七月にいったん完成するが、天守台の石垣に孕みが発見され、築き直しせねばならなくなった。これにともない七月二十六日に予定されていた天守作事の手斧始も延期された。天守台の築き直しはすぐさま取り掛かられ、十月ごろには完成した。こうした経過から見て、京極氏の時代に天守台は完成していたが、天守はまだたったとするこれまでの理解は改めねばならないであろう。
小浜城の天守閣は、中井五郎助正純の指導のもとに建てられた。正純は、徳川家康の側近としても著名な幕府大工頭中井正清の弟で、当時は正清の子が幼少であったためにその後見の地位にあった人物である。小浜城の天守閣をどのようなものにするかについては、早くから計画があったようであり、幕府大工頭中井家の子孫である中井忠重氏が持ち伝えられた多くの史料のなかに「若州五重之天守」「若州三重之天守」と題する二枚の指図が残されている。この指図を入れた袋には「戌十月五日」とあり、寛永十一年中には、天守閣建造の計画がほぼ固まっていたことが知られる。
ところで、二案のうち採用されたのは三重の天守のほうであった。天守の棟上は、石垣の築き直しが終わった直後の寛永十二年十月十三日に中井正純の指揮のもとに行われ、引き続き諸作事が行われ、翌十三年の十月ごろに完成した。できあがった天守閣は、高さ九間三尺五寸、一層目七間八間、二層目五間六間、三層目三間四間であった。
寛永十二年の天守閣の建造とともに許可された西丸の石垣を一間積み上げる普請は、天守台の築き直しと、その年の洪水で城回りだけでなく領内の橋々が流されたために延期されたが、翌年十月すぎに三つの櫓とともに完成した。
これで城郭の改造は終わりはしなかった。寛永十五年六月、「三丸之外西津侍屋敷後浪留之石垣」「西丸構之外南船入之形水留石垣」を普請する許可を幕府より得て、普請を行い、ついで寛永十九年八月には「百間橋之虎口升形石垣」の新規築き立てと建門、「同所門脇北南之石垣」の新規築き建てなどが幕府の許可を得てなされた。さらに翌年には、本丸に多門櫓を建てることが計画されるが、前年からの飢饉と敦賀の大火の影響もあって延び延びとなり、ようやく翌々年の正保二年に本丸多門が完成した。こうして完成した城郭の規模は、外堀南北一三〇間、東西一五七間、本丸・二丸・三丸・西丸・北丸の郭をもち、多門五、埋門二、櫓二五をそなえるものであった。


本来は↖この方向から本丸入ったよう。

大きな石が積まれている。高さ5メートルほどか。本丸へは↗この方向から入った。
河川の堆積土であろうから、地盤としては最悪の土地でなかろうか、地震がくればひとたまりもなさそう。大きな石はどこから持って来たものか。

『小浜市史』
資材と労働力
小浜城の普請には、石材をはじめとして膨大な量の資材を要したことは言をまたぬが、石垣に使用された石材は、主として蘇洞門や泊の石が用いられた。この他、本丸海手の捨石が若狭の諸浦に命じられたことからも、石材が広く領内に求められたことを容易に推測させる。
石材につぐ資材である材木は、国中の山々より山奉行の手配によって調達されたが、天守用の材木は当時より材木の産地として名高かった出羽秋田であつらえられた。この他、敦賀・小浜における売木も使われている。また、竹や繩などの諸資材の一部も商人から買い入れられている。こうした資材の調達を可能にしたのは、当時の小浜や敦賀が、北国と畿内とを結ぶ中継貿易港として発展していたからである。
天守閣をはじめとする城郭の普請や作事に充てられたのは、いかなる労働力であったろうか。普請に動員された労働力は、まず家中に課された普請役による人員と足軽・中間であった。この他、村々から人々が徴発され郷足軽・郷中間として普請に動員された。また、すでに述べたように、諸浦の船が捨石や石の運搬のために動員されている。この他、特種技能者として穴生衆や手木のものが加おった。穴生衆は、近江国の穴生に拠点を持った石垣積みの集団で、戦国時代から近世にかけて多くの城郭普請が行われるなかで熟練し、石垣積みの技能者としての地位を築き、なかには大名に抱えられたものもいた。さらに、西丸の裏土を堀の浚い土でまかなうために、小浜の日用が雇われている。
 作事については、天守閣の作事を当時事実上の幕府の大工頭の地位にあった中井正純が設計、監督し、また天守や多門など重要な建物は、京都から下った大工によって建てられた。これらの大工を確保するために、藩では前金を払うなどの手当てをしている。それ以外の作事は、当時小浜の町にいた二百数十名の大工と領内の里大工が動員された。また、すべてではないが、天守の壁塗りのために左官が江戸から下っている。
 小浜城の外貌が確定した正保二年(一六四五)から廃止城令によって城としての命が終わりを告げる明治六年(一八七二)までの約二三〇年は、小浜城にとっては維持・修築の歴史であった。承応三年(一六五四)十一月、「小浜城惣構東之方古堀」を浚えることを幕府から許可されるが、こうした堀浚えは、北川・南川という河川と海を外堀とした小浜城にとっては宿命というべきことであり、その後も幾度となく繰り返された。
 小浜城修築の歴史でもっとも大きな事件と思われるのが、「本丸櫓下石垣壱ケ所、多門下石垣弐ケ所」をはじめとする四六か所と「塀下石垣不残」「水敲石垣不残」が被害を受けた寛文二年(一六六二)の大地震によるものであろう。この修築は、同年六月、幕府の許可のもとになされた。ついで寛文六年三月にも「本丸南方石垣」の修築があったが、これはそれほど大規模なものではなかったようである。
 その後の修築については史料が十分でないため知り得ないが、宝暦十一年(一七六一)五月小浜城惣構の堀の浚渫がなされたこと、寛政十年(一七九四)に城普請のあったこと、享和二年(一八〇二)に北丸橋が普請されたこと、安政三年(一八五六)、同六年、文久三年(一八六三)にあいついで堀の砂の浚渫なされたこと、万延元年(一八六○)には二丸南東の石垣の普請が行なわれたことなどが知られる。これらのなかでも殊に堀の砂の浚渫は、安政六年の幕府への願書のなかで「就御代替、猶又奉願候」と述べているように、繰り返し行われた。


江戸期を通して藩主家の交替はなく忠勝以来14代存続したが、明治2年版籍奉還。同3年8月、町民の城内通行が解除され、同月24日付で小浜城楼門・櫓などの破壊願が出された。同4年7月の廃藩置県により小浜県となり城内に県庁を置いたが、同年11月敦賀県に代わり空印寺に県庁が移転した。そのあと城内には大坂鎮台第一分室の設置が決まり堂舎の造築を始めたが、二の丸櫓より出火、天守閣を除き焼失したという。そのため鎮台分室は彦根へ移され、小浜城は廃棄された。同7年天守閣は民間へ払下げられて破壊された。
同8年本丸に藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社を創建。昭和28年風水害で外郭石垣消滅。

昭和54年より三の丸・北の丸の一部が発掘調査された。城の縄張りは6尺3寸1間、堀の水位は南・北河川の通常水位と等しいことが判明。また三の丸旧地表面が標高1メートルであったこと、さらに下層は巨大な石によって埋められ地盤整地されていたことが明らかになった。
以後河川改修等により現在は本丸の3分の2が残り、県指定史跡となっている。また、本丸内には国指定天然記念物九本ダモ(イヌグス)もある。ここには明治8年創建の酒井忠勝を祀る小浜神社が鎮座。かつての城地を示す本丸・二ノ丸・北ノ丸・三ノ丸の小字も残る。

城下町
小浜城(雲浜城)を中心にしてつくられた。城の北方北川に架かる西津口橋を渡って西津侍屋敷、西南は川を隔てて竹原侍屋敷となる。同屋敷と南川を挾んだ西側が城下町で、侍屋敷との間に百間橋が架かっていた。
今の小浜市街地の町人町は、室町中期に町としての体裁が整っていたらしく、文明14年(1482)、同15年の明通寺寄進札に「小浜伊賀屋彦四郎行広」「小浜近江屋彦四郎」など商人と思われる人名の記載がある。さらに、明応3年(1494)の同寺寄進札には近世の町名にみられる「小浜石屋小路」が記される。大永2年(1522)若狭守護武田元光が小浜湾と南川に挾まれる後瀬山に城を築き、西側山麓に館を構えると、同氏の被官人屋敷が町内各地に造営され、町・武混在の町並が形成された。

平城を中心にして周囲に侍屋敷を配し、町家・寺方をまとめるという近世城下町になるのは、慶長5年京極高次が入部して以後である。翌6年より竹原の地に築城を始め、同時に町並整備・侍屋敷の造営も並行された。侍屋敷は当初竹原地域を中心にされたが、寛永11年酒井忠勝入部後は西津侍屋敷も整備され、同19年頃に完成している。
竹原侍屋敷は文政7年(1824)7月の小浜城下図(酒井家文書)によれば、大手橋に直行して南北方向西側より広小路(現一番町)、勝間(かつま)町・千代(せんだい)町・天神前町(現千種二丁目)、馬場丸(ばんばまる)町(現千種一丁目)となり、南側は東西に一の堀・二の堀・三の堀があって東側に阿南(あなみ)町があった。
西津侍屋敷は北川沿い西より南北方向に浜町・福谷町(現雲浜二丁目)、梅ヶ小路(現雲浜一丁目)があり、その北側には西より一番町・二番町(現雲浜一丁目)、三番町(現山手二丁目)、中ノ町・本所町・桜町・山王町・山下町(現山手二丁目)があった。この北側は東西に延びる街路となり東西(とうざい)町と称され西津村との境をなしていた。

町方は、慶長12年5月16日付小浜東西之家数間数之覚(拾椎雑話)には「但町数四拾壱町有、家数ハ壱町ニ三十間つゝ」とあって、町並の規格性をうかがうことができる。町並は小浜湾に沿って東西約1・7キロ、南北約300メートルとなっている。「拾椎雑話」によると寛永8年には町数46、家数1千626軒となり、酒井氏入部後同17年には小浜町人数9千712人、寺社とも1万350人、家数1千728軒、うち17軒免許・寺38寺であった。町数は貞享元年(1684)7月の町割改では東・中・西の3組に分けられた。東組は川縁(かわべり)洲崎(すさき)・松本・川崎・大津・魚屋・塩屋・(あら)・新・富沢・瀬木・上市場・下市場・安居(やすい)・突抜・和泉・八百屋・裏、中組は塩浜小路・夜寺・材木(ざいもく)・片原・今在家・東宮前・欠脇(かけのわき)・広小路・中小路・永三(えいさん)(いま)・達磨・薬師・石屋・大蔵(おぐら)鵜羽小路(うわこうじ)・質屋、西組は八幡小路・西宮前・中西・福岡・二鳥居(ふたつとりい)・風呂・文珠丸・浜浦・猟師・青井・柳・清水・常在(じょうざい)・今道・滝・石垣・富田の52町とし、以後一部町名の変更は認められるが町割に変化はなく、明治7年の区画改正まで存続する。
寛永8年4月23日より小浜町家人夫役が免除され、代わって間口割付による夫代銀の上納が課せられた(拾椎雑話、斎藤家文書)。さらに京極氏は町人へ蔵米を高値に貸付け、「おり米の値はたゝたか(忠高)にしたなればけふごく(京極)くわぬ浜の町人」との落首で皮肉られている。これは酒井氏の時代にも存続したらしく、「拾椎雑話」に
  空印様の時にもおり米有て、人々高値にこまり、町中一統訴訟申上へく八幡に寄集りて相談に及ぶべしと申合せ、其時刻々鐘を突、此鐘はやく突さわがしく相聞、その頃空印様御入国にて御聞あそばされ、時ならぬ鐘をつく、諸人をさわかし沙汰の限と被仰出、張本人を死罪に被成候よし今湯岡はりつけ場の向に法華題目の石塔有、是は右の死罪人箔屋三郎兵衛といふものゝ為に建てたるよし
と載せ、町人強訴まで発展したが、この「おり米さわぎ」は近江大津での米相場、大津高値を若干下げたのにとどまった。

町方の家業・特産
小浜家職分(「拾椎雑話」所収)によれば、寛永17年と天和3年(1683)では大きな差が認められる。おもな家業の対比。括弧内は天和3年。家大工246(56)、桶屋204(60)、船持48(40)、水主167(109)、魚屋・四十物屋155(150)、米屋88(109)、鍛冶屋62(33)、麹屋62(60)、酒屋35(65)、油屋29(36)、背負・日傭77(131)。前者家業統計2千214軒に対し後者は1千795軒と著しく減少、とくに家大工数の差がはなはだしく、寛永年中にはまだ侍屋敷・町家などの町造りが盛んであったことをうかがわせる。変化の少ないものに船持・魚屋・四十物屋があり、小浜津の特質を示す。麹屋については慶長11年京極高次より組屋・木下両氏へ「国中麹役座之事、其方両人ニ申付上者、何様ニも相改、公用之儀可申付候」(同年正月二四日付「国中麹役座免許印判状写」組屋家文書)の免許が出され、両氏、吹田・長井・山田の各氏など有力商人の独占となった。油屋は「稚狭考」に「小浜家業の第一は桐油」と記され、桐実、すなわち「ころび」の生産増加に伴うものと考えられる。
海産物としては「お召し昆布」がある。召の昆布由緒書(山名家文書)によれば、足利義政に献じて以来「わかさのめしのこんぶ」とよばれたという。昆布商人天目屋独特の製造法があったらしく、「松前の荒きこんふを、若狭小浜にてよくしなしあけて、京都にもてゆき弘めし処に(下略)」とある。宝永3年(1706)正月の御召昆布御用帳)に、藩主への御用のほか、将軍家・日光東照宮への献上、さらに諸大名への進物として珍重され、「雍州府志」は「若狭召昆布為宜、倭俗高貴之所食、是謂召上、其味美而堪高貴之所食、故謂召昆布」と記す。
上市場・下市場・突抜町・安居町など市場4町には若狭国内の魚類・四十物がすべて持込まれ、同町以外での抜売・直売は禁止された。この特権をめぐる漁夫と問屋の争いは江戸時代を通じて絶えなかった。争論は常に問屋側有利に決着がつき、その見返りとして家中への安値が条件となった。市場の成立によって東・中・西の小浜町3組のうち湊に直結する東組が繁盛し、室町期には商人の多くがいた西組は衰微していく。西組町内は寛永13年六斎市を旧来の八幡小路に立てるよう藩へ要請して許可され、同17年には市塔も移された。これにより市場4町は魚市のみとなり、現在まで存続する。

災害
寛文2年(1662)5月に大地震が起こり、小浜城石垣のほとんどが破損した。享保20年(1735)6六月には藩政期を通して最大の被害を与えた大洪水が若狭一国を襲った。「拾椎雑話」は
  廿二日明方、名田庄谷大に鳴動して山抜、谷ふさがり大石大木水道を埋、水大にあふれ民家人馬共ことことく流て死人数しれす(中略)同日朝六ツ半時、竹原・小浜に水つき、土橋・板橋其外はしはし不残落る。暫時の内に町中満水大海のことし。丸山土手切、西津に水廻り、大湊・松ケ崎四、五尺、山王前二、三尺、善教寺半潰れ、御城大手口の高塀流れ(中略)   水高さ長源寺にて壱丈弐尺、川縁町壱丈斗、大津町より瀬木町の間五尺より四尺、缺脇の御門九尺、誓願寺前六尺、水つきし町十壱町(中略)此夏濡米・大豆千余俵、濡四十物三万個、其外油・ころひ・塩・酒・味噌・醤油・煙草・薬類すたり候もの数しらす
とその状況を伝える。またしばしば火災が発生し、慶安3年(1650)には62軒、元禄14年175軒、享保4年255軒、延享4年に西津侍屋敷89軒、安永5年72軒が焼失した(拾椎雑話)。嘉永6年には500軒、安政5年に1千300余軒が焼失、このため翌6年に広小路を掘削、堀川をつくって火除けとした。明治7年にも720戸が焼けた。

藩校・私塾
小浜藩の学問は酒井氏初代忠勝以来藩主の学問として林派を導入していたが、七代忠用のとき崎門学派とかかわりをもち、安永3年西依墨山を教授として学則を定め藩校順造館を開校。校名は漢籍の「順道造士」からとった。
町民の子弟教育は、城下に私塾が10、村部には寺子屋が19あった。江戸藩邸には信尚館・必観楼・講正館が設けられており、江戸詰の藩医に杉田玄白・中川浮庵がいた。

近代の行政変遷
明治7年3月、旧町52町の町割を改め、24町1村とした。町割は次の通り(括弧内は旧町名)。
清滝町(大津町全域および松本町・川縁町・本町各一部)
津島町(松本町・川崎町各一部)
多賀町(洲崎町全域と川崎町の一部)
鈴鹿町(塩屋町全域と北本町の一部)
生玉町(八百屋町全域と本町・川縁町各一部)
今宮町(突抜町・上市場・下市場・安居町)
塩釜町(魚屋町・安良町全域と北本町・本町各一部)
玉前町(瀬木町全域と塩浜小路・新町各一部)
広峰町(和泉町全域と川縁町・松寺小路各一部)
白髪町(大蔵小路全域と新町・塩浜小路・松寺小路各一部)
春日町(片原町全域と質屋町・松寺小路各一部)
竜田町(今在家町・材木町全域と松寺小路の一部)
住吉町(永三小路・上小路・石屋小路全域と質屋町の一部)
日吉町(達磨小路全域と今町・薬師小路各一部)
神田町(広小路全域と東宮前町・薬師小路・今町各一部)
四宮町(欠脇町全域と東宮前町の一部)
男山町(中小路・西宮前町・八幡小路)
鹿島町(中西町・福岡町・富田町)
白鳥町(二鳥居町・風呂小路)
貴船町(文珠丸町・浜浦町)
浅間町(滝ノ町・石垣町全域と今道町の一部)
大原町(清水町全域と今道町の一部)
香取町(常在小路・猟師町全域と柳町の一部)
飛鳥町(青井町・柳町各一部)
青井村。
明治9年春日町を酒井町、四宮町を大宮町とし現行町割が成立した。


《交通》


《姓氏・人物》
酒井忠勝
『遠敷郡誌』
酒井忠勝
天正十五年六月三河國西尾城に生る、酒井忠利の子なり、慶長五年關原役に父忠利と共に秀忠に随従し同十四年十一月従五位下に叙せられ、讃岐守と改む、同十九年十一月下総海上郡の内に於て初めて三千石を拜領し旗本支配役たり、元和八年七千石御加増武蔵深谷の城主となる、寛永元年八月上総武蔵所々にて二萬石加増都合三萬石を領し幕府老職に列す、同三年武蔵忍領二萬石加増同四年十一月忠利卒後遺領三萬石を相續し川越城を治め都合八高石を領す、同九年十二月従四位下に叙し侍従に任ぜられ更に武州の内二萬石加増同十一年封を若狭越前兩國に移され、若狭一國並越前敦賀郡近江高島郡の内都合十一萬三千餘石を領す、同十二年下野國佐野一萬石加増同十五年細務を免ぜられ大老と爲り同二十年従四位上に叙せらる、明暦二年隠居し剃髪して室印と改め、寛文二年七月江戸牛込屋敷に卒す、享年七十六長安寺に葬る。


京極高次
『遠敷郡誌』
京極高次
近江上平寺城主京極高吉の子にして母は淺井久政の女なり、永祿三年近江小谷城に生る、天正元年七月始めて信長に從ひ義昭を征し、江州南部に五千石を賜ふ、天正十年光秀信長を弑するや、高次江北譜代の家臣を率ゐて長濱城を攻め、秀吉の追究する所となり、柴田勝家武田元明に依り遂に若狭に遁る、元明亡びて後石田三成、長束政家が元来京極氏の被官たると室淺井氏が淀君と同胞たり高次の妹松の丸君が元明の室なりしも元明卒後秀吉に召されたる等の縁故によりて其罪を免され、天正十二年近江高島に二千五百石を賜ふ、同十三年從五位上侍從に任ぜられ、同十五年大溝一萬石次で八幡山に二萬八千石を賜ひ、文祿四年大津に於て六寓石を賜ふ、慶長五年関ヶ原役に於て初めより石田三成に服せざりしも西軍に属し、一時兵を北近江迄出せしが後東軍の爲めに大津城を守り西軍を牽制せしも衆寡敵せず、開城して敵に降り重臣等と共に高野山に入る役後家康に召喚され其職功を賞して若狭に封ぜられ後近江高島郡の内にて七千餘石を加増され併せて九萬二千石を領す、若狹小濱の北雲濱に築城し、慶長十四年五月城中に歿す。近江清瀧寺に葬る、享年四十七歳。


小浜城の主な歴史記録



小浜城の伝説





関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭・越前
    市町別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市

丹後・丹波
 市町別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2021 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved