丹後の地名 若狭版

若狭

小浜大原(おおはら)
福井県小浜市小浜大原


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福井県小浜市小浜大原

福井県遠敷郡小浜町大原

小浜大原の概要




《小浜大原の概要》
小浜城下町の西端部に位置し、中央をほぼ北から南に延びる丹後街道(市道男山青井線)沿いに町並みを形成している。今の堀川筋(県道14、235)が新設される以前は、舞鶴の方から来た場合は、市街地に入ろうとすれば、ここから入った。
旧城下にあたる小浜24区の各町名はいずれも有名神社名から名付けたといわれ、大原は京都大原野神社にちなんだものかという。
近代の大原町は、明治7~22年の町名。小浜町のうち。明治7年区割改定により清水町と今道町の一部が合併して成立。合併時の戸数89。明治19年の戸数72、人口279。同22年小浜町の大字となる。
近代の大原は、明治22年~現在の大字名。小浜を冠称。はじめ小浜町、昭和26年からは小浜市の大字。毎年9月14 ・ 15日に行われる八幡神社祭礼放生会には、第2次大戦前は業平の東下りの練子を出していたが、昭和33年から棒振り大太鼓を出して参加している。

《小浜大原の人口・世帯数》 71・27


《小浜大原の主な社寺など》

真言宗泉涌寺派妙心山正法寺

県文化財の銅造如意輪観音半跏像を所蔵する。旧丹後街道沿いにある。
『小浜町誌』
正法寺
後瀬山ノ西麓ニ在リ。傳言フ、元暦元年遠敷郡坂尻浦漁夫大橋五郎左エ門。両児島近傍海中ニ霊光ヲ認メ、之ヲ探ツテ如意輪観音ノ像ヲ得タリ。是ニ於テ村後ノ山腹ニ小宇ヲ営ミ、像ヲ安置シ、上山観音ト稱シ、又坂尻浦ヲ改メテ佛谷浦ト号ス。始メ五郎左エ門此像ヲ獲、之ヲ脇下ニ挾ミテ海底ヨリ出ツ。因テ名ヲ脇左エ門ト改ム。後数歳ヲ経テ栖雲寺ノ僧榮岳小堂ヲ建テ、彼ノ観音ヲ茲ニ移シ、旧ニ依テ上山観音ト稱ス。寳徳元年妙徳寺ノ住僧、玄室小堂ノ傍ニ一宇ヲ建テゝ、妙心山正法寺ト号シ、曹洞禅僧ヲシテ茲ニ居リ之ヲ守ラシム。今山城葛野郡泉涌寺ノ末派ニ属シ真言宗ナリ。



臨済宗妙心寺派万松山栖雲寺

旧丹後街道に面して常高寺の惣門があるが、その門の内にある。本尊釈迦如来。文明15年(1483)武田信親の創建、京都東山建仁寺の僧潤甫周玉(武田元信長子)の開山という(若州管内社寺由緒記)。しかし「若狭国税所今富名領主代々次第」の応永14年(1407)5月17日の記事に「当浜御成ありて栖雲寺に御座」とあって将軍足利義持の来遊を伝え、室町初期に存在したとも考えられる。潤甫周玉が没した天文17年(1548)以後は無住となり衰微していたが、浅野長政が扶助し存続した。慶長7年(1602)10月京極高次は米五石を寄進している。
当寺はもと現常高寺の地にあったが、寛永7年(1630)当寺を改築し常高寺としたために断絶。当時は凌霄山栖雲寺と号していたが、山号は常高寺に付属され、旧寺名は消滅した。寛文2年(1662)現在地に再建され現山号に改めた。酒井氏も先例により寄進をした。寺領は延宝3年(1675)まで青井村より収納していたが翌4年より蔵米より支給された。寺蔵の永万元年(1165)7月25日の紀年銘をもつ木造阿弥陀如来坐像は市指定文化財。
『遠敷郡誌』
栖雲寺 臨済宗妙心寺派にして小濱町大原にあり、本尊は釋迦如来と文珠普賢なり、文明十五年武田信親の草創にして潤甫和尚を開山とす、元建仁寺派に属せしが、慶長年中常高寺開山槐堂之れを當派に改む、嘉永六年に寺堂燒失す、寺地は元後瀬山麓にありしと云ふ。

『小浜町誌』
栖雲寺
常高寺上下二門ノ間ニ在リ。臨濟宗ニシテ山號ヲ萬松ト稱ス。文明十五年守護武田信親之ヲ創建ス。信親法号ヲ宗鐵ト曰ヒ、又栖雲寺殿ト稱ス。洛東建仁寺ノ僧、潤甫和尚ヲ開祖トス、故ニ建仁寺ノ末派ニ属ス。後慶長年中槐堂和尚未夕常高寺住職タラザルノ時、暫ク茲ニ寓シ、改メテ妙心寺ノ末派ト為シ、今ニ至テ猶此ノ如シ。曾テ京極宰相高次寺領五石ヲ寄附ス。酒井忠直公及忠囿公モ亦之ヲ附與ス。傳言フ、斯寺本ト後瀬山下今常高寺ノ境地ニ在リ、後同寺中翠巌院ノ地ニ移リ、其後京極忠高常高寺創立ノ時ニ方リ、更ニ今ノ處ニ移レリト。



時宗霊正山西林寺

旧丹後街道(右の道)から石段で少し山を登るよう、お寺まで行くのを忘れてしまった。
『遠敷郡誌』
西林寺 時宗國阿派にして山城正法寺末なり、同町に在り、本尊は阿彌陀如来にして永和三年随縁嚴阿と稱する人開き、四年西林寺と改む、永徳元年時宗となる、元眞言宗にして高野堂と稱し来りしが、應永十六年遊阿彌なる僧今の寺を開けりと言ふ、又一説に康應元年随縁の開く所とす。

『小浜町誌』
西林寺
後瀬山西麓上山観音堂ノ南ニ在リ。山ヲ霊正卜號ス。洛東霊鷲山正法寺ノ流義タルノ故ニ山号霊字ヲ冐ス。應永十二年僧遊阿彌之ヲ創建ス。境内山腰ニ征清役忠死者ノ招魂紀念碑アリ。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


小浜大原の主な歴史記録




小浜大原の伝説


『越前若狭の伝説』
上の山観音       (大 原)
 元歴元年(一一八四)、本馬(ほんま)三郎の父か佐渡が鳥の巡検使として島を巡視中、島民におそわれ、さし殺された。それを知った本馬三郎は、みずから佐渡か島へ兵をひきいて渡った。
 佐渡へ向かう船中、本馬三郎は、父の恨みをとむらうため、お祈りしていると、いつも信仰している観音さまか、三郎の志をききとどけて、老人の姿となって船中に現われ、島に上陸したあとも、本馬三郎の軍隊を案内して、三郎を助けた。このため、本馬三郎は、佐渡か島を平定することかできた。
 三郎の船が、がいせんして、海路若狭小浜湾の坂尻(さかじり)浦に着岸する直前、老人は、突然海に身を投げて姿を消してしまった。
 数日して、海中に金色の輝くものがあった。坂尻浦の大橋五郎左衛門は、不思議に思い、網を投げ入れたところ、金銅(こんどう)の観音像か、かゝった。五郎左衛門は驚き、海中に飛びこんで、その仏像を、脇(わき)にかゝえて船にあがった。こののち、この土地を仏谷といい、大橋五郎左衛門を脇左衛門と呼ぶようになった。
 それ以来、仏谷の上の山にまっられていたが、ある夜大光明を放って、後瀬(のちせ)山のふもとを照しながら、遷座を告げたので、現在の小浜大原の正法寺に移した。    (正法寺縁起)
 正法寺の観世音は、むかし仏谷浦の庄屋脇左衛門が海中から得たものである。この像はりっぱなもので。平家が西海に滅びるまで船の中に安置されてあったが、滅亡後船に乗せられて当地に漂着した。   (遠敷郡誌)





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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