大谷(おおたに)
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福井県小浜市大谷 福井県遠敷郡宮川村大谷 |
大谷の概要《大谷の概要》 宮川の一番奥で、大沢寺川と大谷川沿いに集落が立地する。矢袋(やむろ)・小沢寺(おおそうじ)・大谷の3集落からなる。 大谷村は、鎌倉期に見える村で、初見は天福元年(1233)10月29日の延暦寺政所下文で、大谷村は往古より賀茂別雷社(上賀茂社)領宮河荘に属する村とされている。しかし、この天福元年に延暦寺山僧筑前房宗俊は親類が荘内田畠を買い取ったと称し、当村と矢代浦に日吉神宝を立て置き賀茂社神人である荘民に日吉兼帯神人の任符を与え、荘民の家内を追捕するという狼藉に及んでいる。さらに翌2年には山僧宗慶阿闍梨が、宮川保地頭代を語らい当村と矢代浦を割き取ろうとする動きに出たことがうかがえる。当村はもとは国管領宮河保に属していたが賀茂社領住人の出作を通じて宮河荘に取り込まれた地であると考えられ、国衙および宮川保・宮川新保地頭との間に争いが生じている。「平家物語」巻4に、禁中で怪鳥ヌエを射落とした源三位頼政は「若狭の東宮河」を知行したとあり、それにちなんで大谷村には頼政の館跡と伝えるものがあり、字矢袋には頼政が怪鳥を射るに用いた矢竹を出したといわれる地がある。これはそのまま信じられないが、文治4年(1188)9月3日に宮川保地頭として知られる宮川大輔重頼の妻二条院讃岐は頼政の娘であり、文暦2年(1235)頃宮川保の地頭として見える「讃岐尼御前」はこの二条院讃岐とみられることから、頼政と大谷村との関係は全くの作りごととも思えないという。集落の入口には源頼政館と称する一画がある。 近世の大谷村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数49・人数307。.慶応2年の御領分中村々高書上控(安倍家文書)では戸数50。江戸初期には宮川谷4か村の新保・本保・竹長・大谷は矢代浦山内で薪を刈っていたが、明暦3年同浦から停止の申入れがあったため困却し、4か村連名で旧例に復するよう藩へ訴え出た。対決の結果4か村に有利な裁決を得たが、当村は裏で矢代浦と組んでいたことが発覚し、300文の過料銭をかけられている。明和8年(1771)当村は石灰製造を藩へ申請し、以後上中郡31か村の肥料として生産されていた。文化7年(1810)石灰製造禁止令が出されたため31か村は連名で存続願いを提出し、同9年,10年間の年限で再び許可された。この差止は小浜商人石灰問屋の売買差支えとの理由によるものであった。文化3年にも同じく石灰焼の願書が提出されたがこれは年貢未進に充当するためで、この生産によって村方困難を乗り切ろうとしたことがうかがえる。石灰のほかに当村の特産品として尼ケ谷から産出する白砂があり、盆栽用に珍重された。 明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年宮川村の大字となる。 近代の大谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮川村、昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西8町余・南北13町余、戸数55、人口は男155 ・ 女125。 《大谷の人口・世帯数》 81・27 《大谷の主な社寺など》 製塩土器包含地 矢袋の字八幡前には奈良期に海岸部へ供給されたと思われる製塩土器包含地がある。 『みやがわの歴史』 製塩土器の生産地 奈良時代の宮川を知る上で重要な遺跡も大谷地区で発見されました。それは大谷区の八幡前で二次使用されない製塩土器が採集されたからです。現在、若狭沿岸一帯では四世紀~一一世紀代までの間の土器製塩遺跡が五七ヶ所確認されていますが、奈良時代の遺跡が最も多く全体の八〇%にも達します。これらは若狭から奈良の都(平城宮)へ税として送られた塩を生産するためのもので、人頭税として、一人当り三斗(現在の約一斗二升・約二〇㎏)が課せられていたのです。このことは、若狭から送られた塩などの海産物に付けられた木簡(荷札)によって知ることができます。藤原宮跡・平城宮跡・長岡京跡など古代宮都から、若狭関係木簡が七四点も出土していて証明されますが、玉置の木簡が出土していることからこの地域の人々も都へ塩を送っていたと考えられます。宮川には海はありません。しかし、山を越えれば志積・阿納・田烏・矢代などの漁村集落があり、それぞれ深いつながりのあったことは当然のことで、現在でも志積など宮川に田圃を持っている集落があります。とくに、発掘調査のおこなわれた阿納塩浜遺跡で出土した奈良時代の製塩土器は宮川で出土した未使用の土器とまったく同じでした。底部に特徴があって確実に大谷でつくられた土器であることが明らかにされており、内陸部でつくられた製塩土器が、海岸部の集落へ供給されていた事実を証明しました。 それまでは、製塩土器は遺跡の周辺でつくられたと考えられていましたが、大谷で発見されたことにより、土器生産と塩づくりが、内陸・海岸両集落の共同によるものであることがわかりました。このことは海岸部を含むこの地域が同一集団で構成されていたことも考えられ、古代の地域社会の構造を知る上で大きな問題を提起したといえるでしょう。最後にこの土器は昭和四七・八年頃、当時宮川小学校教諭だった池上敏和先生が生徒と一緒に採集したものであることを付記しておきます。 貴船神社 『みやがわの歴史』 貴船(きふね)神社 貴布弥明神とも称します。大谷区森の脇に鎮座。祭神は高オカミ神・水徳神(旧村社)。境内社として日枝神社(大山咋)、山ノ神社(大山祗神)を祀っています。「若狭管内社寺由緒記」には「弘仁九年五月山城(京都市)愛宕の郡より勧請仕たる由申伝候、弘仁九年より八百六拾余年と申候、社領一町一反、天正十六年の御検地に御年貢被二仰付一侯」とあります。室町期においても一町一反が記録され(宮川保神田堂田段列書上『清水家文書』)、かつては別当大夫神、熊野三社、山王権現などの境内社も存在したらしい。 当社は大谷・矢袋の氏神として重要視され祭礼は「一正月朔日、朝戸閾御供帰翁羽揚ル。一、三月三月、御供備ル。一、五月五日粽備翁揚ル。此録麦三合宛家并遺ス。御湯揚ル、麦壱斗六升神子遣ス。一、八月十五日此祭礼ニ村中當歳子ニ米弐升宛出させ、三寸酒備ル。一、九月八日翁揚ル。此録ゆり粉壱升宛并ニ遺ス。御湯上ル。米壱斗六升神子遣。」とあってその様子が伺えます。山城愛宕郡から勧請された水利の神で、背後は野木川の上流となっており、さらに社殿の裏山は三角山を形成するなど神秘な立地の中にあります。また、一月九日・一二年九日は山の口と称し山ノ神を祀り、このとき「おこぜ」を神前に供します。近世では田地八畝・畑三畝、山林六ヶ所が神領。 『遠敷郡誌』 貴船神社 村社にして同村大谷字森ノ脇にあり、祭神は高オカミ神、水徳神にして弘仁九年八月山城より勧請すと傳ふ、近世貴船大明神又は貴布禰明神と稱す、境内神社に日枝神社祭神大山咋命、山ノ神社、祭神大山祗命あり、創立年時前に同じ。 六社神社 大谷の一番奥、高速の下をくぐった所、鹿除けのフェンスで閉じられているため、行けそうにないが、左の道を少し行った所にありそうで、社殿のような建物が少し見える。 『みやがわの歴史』 六所神社 小沢寺の氏神。同区森山に鎮座。祭神は武甕槌命・斉主神・応神天皇・天兒屋根命・姫御神・大山昨神(旧村社)。貴船社とほぼ同様の祭礼がおこなわれています。この他八幡宮・諏訪明神・天神・辨之神・山の神があり、また大将軍を称する個人の聖地が一〇ヶ所記録されています。 『遠敷郡誌』 六社神社 村社にして宮川村大谷字坂ノ谷にあり、祭神は武甕掟命、齊主命、應仁天皇。天兒屋根命、姫御神、大山咋命にして近世六社大明神又は六所明神社と稱し弘治年間の創立と傳ふ、境内神社熊野神社に櫛御氣野尊、山ノ神社に大山祗命を祀る。. 左は六所神社、右は不動明王の滝である。この辺りは杉田玄白と関係が深い。 小沢寺という寺院の跡のよう。この道を少年杉田玄白が歩いていたのであろうか。この辺りを歩いて、新しい知識を取り入れようとした科学者精神の知性の片鱗に触れてみよう。 案内板がある。 医師 杉田玄白 1733年(享保18)杉田玄白は、小浜藩家臣杉田甫仙の子として江戸で生まれました。8歳のとき父の転勤に従って小浜へ引越し、13歳まで小浜で過ごしました。当時病弱だった玄白は、ここ小沢寺(おおそうじ)で父が祈願の不動明王の滝水で養生したといいます。1752年(宝暦2)小浜藩医となり、1769年(明和6)に家督を相続しました。幕府長崎通詞を通してオランダ外科に触れ、高い関心を持っていた玄白は、1771年(明和8)、前野良沢、中川淳庵とともに江戸小塚原刑場で行われた人体腑分けに立ち会い、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』に描かれている解剖図の正確さに驚き感動し翻訳に取りかかり、1774年(安永3)に世に知られた『解体新書』を発刊しました。1817年(文化14)、「医は自然にしかず」の言葉を残して、江戸において84歳で亡くなりました。 杉田玄白 『解体新書』で知られる。1733(享保18.9.13)~1817(文化14.4.17)。江戸中期の蘭方医。名は翼、字は子鳳、号は(「壹」+「鳥」)斎(イサイ)・九幸翁。庵号は天真楼・小詩仙堂。若狭国小浜藩医杉田玄甫の子、杉田立卿の父、杉田伯玄の養父。 村の入口の案内板→ 『みやがわの歴史』 水不動尊と杉田玄白 昭和四九年六月、「解体新書」刊行二百年祭にあたり、小浜市文化会館で日本医史学会理事長小川先生を招いて記念講演が開催されました。早くから近代医学の祖杉田玄白や、中川淳庵について研究されていた当時公立小浜病院長だった田辺賀啓氏も「小浜市における杉田・中川家の新資料」と題して発表されたのです。田辺氏は医学の先賢に関係の深い若狭小浜をこよなく愛されており、先賢ゆかりの地を実地に踏査されました。医学は真姿実証主義にあるとして、杉田家三代略譜にあった玄白や父甫仙の関連事項について研究されていたのです。略譜には「父甫仙は質朴の人で慈悲心、信仰心の篤い人で、石の不動明王一躰を同国宮川の滝の口に納む」と記されていることから、田辺氏は不動の滝を調査、滝の近くの水不動尊に「杉田氏」と刻まれているのを発見しました。後年、玄白は「自分の幸せなのはすべて父親の遺徳である」と述べており、父甫仙の信仰によるものと感謝しています。こうした甫仙の篤い信仰と医聖玄白にかかわる史跡を一文にまとめて不動堂に掲げのちの世の人に一つの道標として残したいと発願された田辺氏は「医聖杉田玄白と水不動尊」と題して次のように記されました。 歴史には歴史の発展があり、個人の意志とは関係なく発展して行くようである。しかし歴史を創るのは人間である。享保一八年(一七三二)九月一二日、時折小雨のぱらつく雨雲におおわれた江戸牛込矢来町の小浜藩酒井侯の下屋敷内で一人の母の命と引替えに新しい生命が誕生した。小さな赤子は後にオランダ医学をとり入れて「解体新書」をあらわした日本近代医学の先駆者となった杉田玄白その人である。父は杉田甫仙(当時四二才)小浜藩医である。玄白にとっても家族にとっても彼が此の世に生まれた日の出来事は決して目出たいばかりではなかったが、やがて新しい日本の明星である彼の誕生は我が国にとって幸せであり、医学の歴史にとっても幸せなことであった。杉田家略譜によれば、父甫仙は信心深い人であり、常に卑賤の僧侶に布施するなど慈悲心のあつい人であり、又諸国に縁故ある寺院に仏像や田畑を寄進している。その一つに 「右の不動明王一体を同国宮川滝の口に納む」とあるのがこの水不動尊である(写真)。玄白は幼少の頃小浜に育ちしこの地で養母と長兄を亡くし、虚弱で薄幸な子であらたが、玄白の行末を案じる父甫仙の信仰を通しての愛情は後の玄白をうむこととなった。晩年玄白は「私はこんな幸を得たのは全く父祖の遺徳のおかげである」と述べているのは信心のあつい慈悲心に富んだ父の訓育によるものであり、父の素質を受けついで玄白は大成したのである。老年にいたって自らの号を九幸老人と言ったのは自分の一生のあいだに九つの幸せがあったことの意味であり、その一つに長寿を保ったこと、又老いてますますさかんな事を挙げている。文化一四年(一八一七)の正月、医人としての到達の言に「医は自然にしかず八十五歳翁九幸老人」と書き、生涯の幸せを感謝しながら四月一七日天寿を全うした。鎖国下の日本に蘭学を広め新しい医学を導き入れた杉田玄白は日本近代文化の先駆者であり、その名は永遠に消えることはない。歴史には歴史の発展があり、歴史を創るのは人間である。常に医学を研き実践した人杉田玄白は歴史の上に燦然と輝いている。 一九七四年晩秋吉日 医生 田辺賀啓謹書 『遠敷郡誌』 杉田玄白 玄白名は翼字は子鳳?齊後九幸翁と稱す、享保十八年九月生る、小濱藩醫和蘭外科醫杉田甫仙の子にして母は蓬田氏なり、一家江戸に住す、十七八歳の頃幕府醫官西玄哲の門に學ぶ、後宮瀬龍門に經史を學ぶ、壮年に及びて當時我國の醫學徒らに古風を傳へて甚幼稚なるを見發憤する所あり、屹然一家を成さんと欲するや藩侯其志を嘉し俸五〇を賜ひ和蘭の學風によりて研鑚多年外科學を大成し先づ瘍科大成を著し譯官西幸作の和蘭貢使に随行し来るに及び就きて蘭語を受く、明和八年蘭人植物學及解剖學の書を携へ来るあり、購求せんと欲するも高價にして能はず、藩侯乃も購ひて之れを賜ふ、玄白其書に依て古来我國に傳ふる図の甚異なるを見て實物に就て對照研究し和蘭書の其精確なるを知り、同志中川淳庵等と相謀り凡そ四箇年の苦心をなして之れを漢譯し發行して解體新書と云ふ、其醫術又嶄新にして奇功あるを以て江戸に於ける名醫甚だ高し、又和蘭書外科集成を得て翻譯に従事し、創痍瘡瘍二篇を譯し晝夜其業に従事せしが病を發し門人大槻玄澤之れを大成し瘍醫新書と云ふ、文化二年六月将軍に謁を賜ひ同四年四月家職を義子伯元に讓り、同十四年四月十七日江戸に歿す、明治四十年十一月特旨を以て正四位を贈らる。 杉田家々系 略. 曹洞宗長尾山霄雲庵 『みやがわの歴史』 霄雲庵(しょううんあん) 大谷区上丁畑に所在する曹洞宗龍泉寺末の寺院。山号は長尾山。「若州管内社寺由緒記」に「本尊薬師、時代不知、守護御代には霊沢寺末寺にて御座候」とあります。「龍泉寺過去帳」には「霄雲庵開基、一閑定忠居士、天文廿三・七月三日甲寅季・粟屋孫次郎勝昭」と記され、粟屋氏一族が開基と伝えています。さらに、当寺の位牌には「当寺開基一閑宗忠居士・天文二三年七月三日・開基家・禅戒建立」とあり、また「大谷村控」にも「左京殿弟法名潤宗忠居士」とあって、孫次郎勝昭が元行の弟だったことを示しています。おそらく宮川にあって兄元行の補佐をしていたのでしょう。このことは「羽賀寺年中行事」に享禄三年(一五三〇)のこととして「十月廿二日戌寅、当寺大且越宮川保粟屋孫次郎殿代始礼、院主坊光慶・大光坊真継被山也。桑落三荷樽六代者一?細?代半?、?腐卅挺、莨?廿本、有晩炊後対面及夜陰」と記され羽賀寺とも深いかかおりのあったことが知られます。 当寺も霊澤寺と同じく、近世では没落して荒廃したらしく、元禄四年(一六九二)龍泉寺四世懐常自探が再興し中興開山となっています。近代にいたって、明治四一年正月九日出火焼失、その後、堂宇は再興されたものの、昭和四〇年三月、龍泉寺に合併廃寺となりました。現在は大谷区の公会堂として利用されています。 『遠敷郡誌』 霄雲庵 右同寺(曹洞宗龍泉寺)末にして本尊は十一面觀世音なり、同村字上丁畑に在り、天文年間粟屋孫治郎勝照の開基と傳ふ。 曹洞宗瑞長山霊澤寺 『みやがわの歴史』 霊澤寺(れいたくじ) 大谷集落小沢寺の山裾にある曹洞宗龍泉寺末の寺院。山号は瑞長山、本尊薬師如来。大谷村控(森家文書)に「右之開越粟屋左京殿、天文十辛丑年五月四日逝去。ご法名霊澤寺殿前左京殿兆笑雲宗周大居士、御名塔有之」と記され、当時の開基が守護被官粟屋左京亮元行であったことを示しています。元行は享禄年中(一五二八~三一)には幕府御料所宮川保の代官として確実に存在した人物で、「大舘常興日記」にもしばしば記録されています(中世の宮川参照)。彼は若狭守護武田元光(大膳大夫)の有力被官であり、元光が加茂城上白井光胤(民部丞)に一族同名八郎次郎伊胤の跡職を安堵せしめたとき、元行がそれを伝えるなどの動きを見せており(『白井家文書』)、守護方代官として大きな力を持っていたことが伺えます。天文一〇年(一五四一)元行卒後に牌所として当寺を創建したものと思われます。その後、衰退していたのを天正一四年(一五八六)二月に龍泉寺二世大輪新巨が再興し開山となっています。現在残されている元行の墓碑はのちにつくられたものと考えられます。なお当寺は昭和五一年に龍泉寺へ合併され廃寺となりました。 『遠敷郡誌』 靈澤寺 右同寺(曹洞宗龍泉寺)末にして本尊は不動明王なり、同村大谷字坂ノ尻に在り、天文年間粟屋左京進の創建と傳ふ。 新保山城 集落の東南山頂には新保山城の下城跡がある。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 大谷の主な歴史記録大谷の伝説『みやがわの歴史』 源三位頼政 仁平のころ(一一五一ごろ)近衛院在位のとき、天皇が夜な夜なおびえられた。高僧に命じて秘法を修めさせたが、その効がなかった。午前二時ごろ東三条の森の方から黒雲が一むら立ち上がつて来て、御殿の上をおおうと必ずおびえられた。公卿(くぎょう)たちは会議をして、むかし堀河院のときこのようなことがあり、源義家が弓のつるを鳴らすこと三度の後「前の陸奥(むつ)の守(かみ)源の義家」と名のって、お脳をしずめた。今度も武士に命じて警固させよとて、頼政が選び出された。 頼政は、信頼する郎党である猪(い)の早太ただひとりを連れ、山鳥の尾で作ったとがり矢二本としげとうの弓を持って、御殿に参上した。やがてお脳の刻限になると、東三条から黒い雲が出て来て、ご殿の上にたなびいた。頼政が見上げると雲の中に怪しい物の姿がある。南無八幡大菩薩と心の中で祈念して、ひようと矢を放った。手答えがあって、はたと命中した。「得たりや、おう。」と矢叫びをすると、猪の早太がかけ寄り、落ちるところを取りおさえ、つかも通れと、刀にて九回さした。 人々が火をとぼして見ると、頭はさる、体はたぬき、尾はへび、手足はとらのようで。鳴く声はぬえに似ていた。天皇は御感のあまり、獅子(しし)王という剣を下さった。 その後また、応保のころ(一一六一ごろ)二条院在位の時、ぬえという化鳥が宮中に嗚いて、しばしば天皇を悩ますことがあったので、先例にまかせ、頼政に命じて退治することにした。五月下旬まだよいの日であったが、ぬえが、ただひと声鳴いて、ふた声とは鳴かなかった。頼政は、ねらい打つこともできないやみであり、姿かたちも見えないので、矢つぼをどこえ置いてよいか、きめられなかった。頼政は、思案して、大きなかぶら矢を取ってつがい、ぬえの声のした内裏(だいり)の屋根に向かって矢を打ちあげた。ぬえはかぶら矢の音に驚き、空中でひらひらと飛んだ。続いて、二の矢に小さなかぶら矢を取ってつがい、ヒュツと射て、ぬえと前の矢を並べて、前に射おとした。宮中はわきかえりほうびの衣が頼政に授けられた。頼政は、これを肩に受けとり、出ていった。 その後、伊豆国を領地としてもらったので、息子の仲綱をこの国の国主にした。さらに頼政は、三位(さんみ)のくらいをもらい、丹波の五箇庄と若狭の東宮川を支配した。 (平家物語) 源三位頼政は、松永、宮川を領し、やかた(館)を大谷にかまえていた。頼政は平治二年(一一六〇)夏天子の御所で怪獣を射とめた。その怪獣の形は、体はとら、足はたぬき、頭はさる、尾はきつね、声はぬえのような鳴き声であった。この怪獣を退治するとき使った矢羽は、稲富浦の竹で作った。天皇は、頼政のこの行ないをたたえ、稲富浦が新しく頼政の領地に加えられた。稲富浦は、これより矢代浦と改められた。 〔若狭郡県志〕 頼政が、ぬえ退治した時の矢は、宮川村大谷の矢袋(やむろ)でとれた竹で作ったといわれる。その矢のほうびに、宮川村のとなり村の稲富浦を領地として加えられた。これより稲富浦のことを矢代とよんだ。矢の代償としてあたえられたからである。(小畑昭八郎) 大谷村はむかし源三位頼政の知行所で、今も尾敷跡がある。同所にやふろ山という山がある。この山からはえた矢竹に、安賀里(あがり)村の山鳥の尾ではいた矢をもって、ぬえを射取ったという。 (寺社什物記) 『越前若狭の伝説』 源三位頼政 (大 谷) 仁平のころ(一一五一ごろ)近衛院在位のとき、天皇か夜な夜なおびえられた。高僧に命じて秘法を修めさせたが、その効がなかった。午前二時ごろ東三条の森の方がら黒雲が一むら立ち上がって来て、御殿の上をおおうと必ずおびえられた。公卿(くぎよう)たちは会議をして、むかし堀河院のときこのようなことかあり、源義家か弓のつるを鳴らすこと三度の後「前の陸奥(むつ)の守(かみ)源の義家。」と名のって、お脳をしずめた。今度も武士に命じて警固させよとて、頼政が選び出された。 頼政は、信頼する郎党である猪(い)の早太ただひとりを連れ、山鳥の尾で作ったとがり矢二本としげとうの弓を持って、御殿に参上した。やがてお脳の刻限になると、東三条から黒い雲が出て来て、ご殿の上にたなびいた。頼政が見上げると雲の中に怪しい物の姿がある。南無八幡大菩薩と心の中で祈念して、ひようと矢を放った。手答えがあって、はたと命中した。「得たりや、おう。」と矢叫びをすると、猪の早太がかけ寄り、落ちるところを取りおさえ、つかも通れと、刀にて九回さした。 人々が火をとぼして見ると、頭はさる、体はたぬき、尾はへび、手足はとらのようで、鳴く声はぬえに似ていた。天皇は御感のあまり、獅子(しし)王という剣を下さった。 その後また、応保のころ(一一六一ごろ)二条院在位の時、ぬえという化鳥か宮中に鳴いて、しばしば天皇を悩ますことがあったので、先例にまかせ、頼政に命じて退治することにした。五月下旬まだよいの口であったが、ぬえが、ただひと声鳴いて、ふた声とは鳴かなかった。頼政は、ねらい打つこともできないやみであり、姿かたちも見えないので、矢つぼをどこえ置いてよいか、きめられなかった。頼政は、思案して、大きなかぶら矢を取ってつがい、ぬえの声のした内裏(だいり)の屋根に向かって矢を打ちあげた。ぬえはかぶら矢の音に驚き、空中でひらひらと飛んだ。続いて、二の矢に小さなかぶら矢を取ってつかい、ヒュッと射て、ぬえと前の矢を並べて、前に射おとした。宮中はわきかえりほうびの衣が頼政に授けられた。頼政は、これを肩に受けとり、出ていった。 その後、伊豆国を領地としてもらったので、息子の仲綱をこの国の国主にした。さらに頼政は、三位(さんみ)のくらいをもらい、丹波の五箇庄と若狭の東宮川を支配した。 (平家物語) 源三位頼政は。松永、宮川を領し、やかた(館)を大谷にかまえていた。頼政は平治二年(一一六〇)夏天子の御所で怪獣を射とめた。その怪獣の形は、体はとら、足はたぬき、頭はさる、尾はきつね、声はぬえのような鳴き声であった。この怪獣を退治するとき使った矢羽は、稲富浦の竹で作った。天皇は、頼政のこの行ないをたたえ、稲富浦が新しく頼政の領地に加えられた。稲富浦は、これより矢代浦と改められた。 (若狭郡県志) 頼政が、ぬえ退治した時の矢は、宮川村大谷の矢袋(やむろ)でとれた竹で作ったといわれる。その矢のほうびに、宮川村のとなり村の稲富浦を領地として加えられた。これより稲富浦のことを矢代とよんだ。矢の代償としてあたえられたからである。 (小畑昭八郎) 大谷村はむかし源三位頼政の知行所で、今も屋敷跡がある。同所にやふろ山という山がある。この山からはえた矢竹に、安賀里(あがり)付の山鳥の尾ではいた矢をもって、ぬえを射取ったという。 (寺社什物記) 大谷の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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