大手町(おおてちょう)
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福井県小浜市大手町 福井県小浜市上竹原・竹原 |
大手町の概要《大手町の概要》 市役所や小浜病院がある一角。 大手町は、昭和46年~現在の小浜市の町名。もとは小浜市上竹原・竹原の各一部。地名は、小浜城への正面にあたる道路沿いで城郭の追手にあたることによるという。 《大手町の人口・世帯数》 348・47 《大手町の主な社寺など》 杉田玄白像 小浜病院の前の像の案内板 杉田玄白の由来 杉田玄白は享保十八年(一七三三)九月十三日、江戸牛込の小浜藩邸で生まれ、幼少期を小浜で過ごした。宝暦四年(一七五四)京都で山脇東洋が日本で初めての解剖を行った。この解剖の許可願いは、小浜藩医原松庵、伊藤友信、小杉玄適が出し、許可したのは京都所司代、小浜藩主酒井忠用であった。これに発憤して、オランダ外科に取り組み、明和八年(一七七一)三月藩主酒井忠貫、藩士岡新左衛門、青野小左衛門の好意でオランダ解剖書を入手し、江戸小塚原で解剖を観て、中津藩医前野良沢、小浜藩医中川淳庵と共に粒々辛苦して、この本を訳した。安永二年、玄白(誌)淳庵(校)熊谷儀克(図)の若狭人で先ず「解体約図」を公刊して世に問い、安永三年(一七七四)八月『解体新書』を出版した。この本の冒頭には、日本若狭 杉田玄白訳、同藩中川淳庵校、としるされている。これは本格的な西欧学術書訳の嚆矢であり、以後西洋文物の導入がなされて医学のみならず日本近代文化発展の出発点となった。江戸に呼応して関西で蘭学をひろめた小石元俊の父は、元小浜藩士林野氏であった。鎖国下の日本で真理探求のため、蘭学をとり、医学革新の烽火をあげた玄白は多くの後輩を育成し、日本医界の重鎮となったが、絶えず自ら研嶺修養につとめ臨床医としての生涯を全うした。文化十二年、「蘭学事始」を草し、丈化十四年(一八一七)四月十七日“医は自然にしかず”の言葉を遺し八十五才で永眠した。 杉田玄白生誕二百五十年の秋、日本近代医学の勃興期に貢献した若狭の先人を顕彰し、その遺徳を敬仰し、感謝の誠を捧げ、後学有志会い集い、ゆかりの地に先生の像を建立する。 一九八三年十一月十三日 小浜ライオンズクラブ 『遠敷郡誌』 杉田玄白 玄白名は翼字は子鳳?齊後九幸翁と稱す、享保十八年九月生る、小濱藩醫和蘭外科醫杉田甫仙の子にして母は蓬田氏なり、一家江戸に住す、十七八歳の頃幕府醫官西玄哲の門に學ぶ、後宮瀬龍門に經史を學ぶ、壮年に及びて當時我國の醫學徒らに古風を傳へて甚幼稚なるを見發憤する所あり、屹然一家を成さんと欲するや藩侯其志を嘉し俸五〇を賜ひ和蘭の學風によりて研鑚多年外科學を大成し先づ瘍科大成を著し譯官西幸作の和蘭貢使に随行し来るに及び就きて蘭語を受く、明和八年蘭人植物學及解剖學の書を携へ来るあり、購求せんと欲するも高價にして能はず、藩侯乃も購ひて之れを賜ふ、玄白其書に依て古来我國に傳ふる図の甚異なるを見て實物に就て對照研究し和蘭書の其精確なるを知り、同志中川淳庵等と相謀り凡そ四箇年の苦心をなして之れを漢譯し發行して解體新書と云ふ、其醫術又嶄新にして奇功あるを以て江戸に於ける名醫甚だ高し、又和蘭書外科集成を得て翻譯に従事し、創痍瘡瘍二篇を譯し晝夜其業に従事せしが病を發し門人大槻玄澤之れを大成し瘍醫新書と云ふ、文化二年六月将軍に謁を賜ひ同四年四月家職を義子伯元に讓り、同十四年四月十七日江戸に歿す、明治四十年十一月特旨を以て正四位を贈らる。 杉田家々系 略 『小浜市史』 杉田玄白と中川淳庵 杉田玄白と中川淳庵は、ともに小浜藩の藩医である。杉田玄白は、前野良沢と並んで蘭学の祖といわれ、『ターヘル・アナトミア』すなわち『解体新書』の翻訳者として広く知られている人物である。玄白は、享保十八年(一七三三)に江戸の小浜藩下屋敷に生まれた。名は翼、字は子鳳また九幸翁と号した。玄白は、父甫仙が国許詰を命じられたことで八歳から一五歳まで小浜に過ごすが、ふたたび江戸に戻り、幕府医官西玄哲の門に入り、外科を修めた。明和六年(一七六九)父甫仙が死去したあと家督を継ぎ、江戸浜町の小浜藩中屋敷に住むことになった。これと前後して玄白は同藩の友人小杉玄適を介して山脇東洋の古医道の刺激を受け、他方幕府の長崎通詞西幸作を通じてオランダ外科にも関心をもつようになっていた。 明和八年はじめオランダ人の江戸参向に従ってき江戸本石町の長崎屋に宿していた長崎通詞からオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』の売却を持ち掛けられた同藩の中川淳庵からそれを聞いた玄白は、江戸家老岡新右衛門を説得しその書を手にした。その直後の三月玄白は、千住小塚原の腑分を見学し、そこで『ターヘル・アナトミア』に描かれた解剖図の正確さに驚き、腑分見学に同席した豊後中津藩医の前野良沢と淳庵らとともにこの書の翻訳に取り掛かった。三年後の安永三年(一七七四)ようやくこの書を『解体新書』と名付け刊行した。その後玄白は、蘭方医としての名声を得、また大槻玄沢など多くの後進の育成につとめ、文化十四年(一八一七)江戸において八五歳で死去した。 中川淳庵は、玄白に遅れること六年目の元文四年(一七三九)に小浜藩医の子として江戸に生まれた。淳庵は、早くから本草学に興味をもち、宝暦七年(一七五七)に平賀源内が最初に開いた薬品会に数種の薬品を出品し、また明和三年にはみずからも会主の一人となって薬品会を催している。さらに江戸にきたオランダ商館医ツンベルグに幕医であった桂川甫周とともに植物などの和名を教え、ツンベルグの『日本植物誌』の成立に寄与したように、当時有数の本草学者でもあった。また、明和元年には、平賀源内とともに石綿を使って火浣布を作るなどした。そして、明和七年からは先に述べた『ターヘル・アナトミア』の翻訳に玄白らとともに携おった。安永七年には藩の奥医となり、天明元年(一七八一)には二〇石を加増され一四〇石となったが、初めての小浜行から帰った翌年の天明六年に江戸において四八歳で死去した。 玄白と淳庵はともに小浜藩医であり、小浜藩との関係は深いものがあったが、これまで述べてきたように彼等が学者として育ち生きた場は大半が江戸であったことも、当時の学問のありかたを考えるうえで見落としてはならないであろう。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 大手町の主な歴史記録大手町の伝説大手町の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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