小浜男山(おとこやま)
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
福井県小浜市小浜男山 福井県遠敷郡小浜町男山 |
小浜男山の概要《小浜男山の概要》 市街地の南西部。後瀬山の北側山すそ。旧県社の八幡神社や、空印寺、八百比丘尼の洞窟があるあたり。旧城下にあたる小浜24区の各町名はいずれも有名神社名から名付けたといわれ、男山は京都男山(石清水)八幡宮神社にちなんだものかという。 近代の男山町は、明治7~22年の町名。小浜町のうち、明治7年区割改定により中小路・八幡小路・西宮前町が合併して成立。合併時の戸数94。同19年の戸数46、人口251。同22年小浜町の大字となる。 近代の男山は、明治22年~現在の大字名。小浜を冠称。はじめ小浜町、昭和26年からは小浜市の大字。明治10年空印寺敷地内に設置された協合小学校は、同24年習長小学校を合併し小浜小学校となる。毎年9月14 ・ 15日に行われる八幡神社祭礼放生会には、明治30年頃から三匹獅子舞(編木獅子)を出す。 《小浜男山の人口・世帯数》 59・19 《小浜男山の主な社寺など》 八幡神社 若狭最大の祭といわれる「放生祭」(9月中頃の土日)で知られる。市街地町民の総氏神様になる。2020年はコロナで中止となった。祭が見たくてカメラ用意して構えているが、さて来年はどうなることだろう。 『遠敷郡誌』 八幡神社 縣社 祭神は多紀理比賣命・多紀都比賣命・市伎島比賣命・應神天皇・神功皇后にして、小濱町男山字後瀬山麓にあり。 創始の年代を詳にせず、續日本紀に神護景雲四年八月若狭國司從七位下伊勢朝臣諸人と内舎人大初位下佐伯宿禰老を遣はして、若狭彦神八幡宮に鹿毛馬各一疋を奉らしむとあるを以て、若狭國八幡宮の初見として古来此社の事なりと傳ふ、文永二年大田文に八幡宮二町七反小濱とあり。 應永二年八月二十一日、國主左京太夫一色詮範華表を再造し、同四年六月小笠原三河守長房入道淨鎮鳧鐘を鑄造し、宮前に備へ、同七年七月(一書六月)神殿を改造し遷坐の祭儀あり、税所代右衛門五郎海部理泰勅使たり、同十二年大風にて大鳥居倒壊し、八月十五日祭事流鏑馬を行ふ、兵部少輔一色範貞行事を行ひ、税所代安倍新三郎忠俊勅使たり、後大鳥居又大風に損し、同十四年造立成る、同十七年八月二十五日塔の造立初まり工成りて大永元年十一月多賓塔供養あり、天文十七年武田信豊鳥居を造營せしが、永祿二年九月一日、松永久秀叛して火災に罹り燒失す、天正三年丹羽長秀當國を領するに及び禁制を下してより丹羽長重以下代々の國主之に準ず、天正二十年九月國主淺野長政其子右京太夫長繼族臣淺野八郎左衛門等神殿を造營せしが、其社地城廓に接近せるを以て後瀬山麓の別の地に移せり、拾椎雜話には元の栖雲寺境内今の常高寺地なりとす、慶長年中京極高次國主たるに及びて舊地に復せりと云ふ、元和四年五月京極忠高神殿鐘樓等を營繕し、寛永二年忠高鷹狩の鷹を逸せしが之れを再び得たるを以で報賽の爲め舞臺を建進せりと云ふ、同十二年國主酒井忠勝神殿を營繕し、正保二年拜殿を建築したり、京極氏以来年々供米二石二斗餘を賜ひ、代々藩主の崇敬深し、明治四年郷社となり、明治十五年縣社となる、今の社殿は寛保三年八月藩侯酒井忠用小濱の氏子に命じて再建せしめたるものなり、現今は小濱町中の氏神たり。 境内神社は高良神社祭神武内宿禰、素盞鳴尊、稻荷神社祭神豊受姫神、若宮神社祭神仁徳天皇、粟島神社祭神少彦名神、天満神社祭神菅原道具公、三輪神社祭神大物主神文化九年創建、船玉神社祭神猿田彦神、彦狹智神社祭神彦狹智命寛政七年創建、姫社祭神木花咲耶姫命、大山祇神社祭神大山祇命文政七年創建、六月拔神社祭神表筒男命中筒男命底筒男命神功皇后、松尾神社祭神大山咋命元文四年創建の諸社にして別に今は境外に屬する秋葉神社祭神火産霊神天保十五年創建一社あり。. 『小浜町誌』 八幡神社 縣社 後瀬山北麓ニ在リ。規模宏整ニシテ殿宇輪奐ナリ。祭ル所ノ神三座、謂ハユル譽田天皇・神功皇后・玉依姫是ナリ。若狭國神附記ニ曰ク、遠敷郡正一位八幡三所ノ大神ナリト。小濱町之ヲ祭リテ産神トナシ、尊信最モ厚シ。其ノ創建未夕詳カナラスト雖モ、績日本紀ニ稱徳天皇寳亀元年八月庚寅朔日之ヲ蝕スルコトアリ。参議従四位下外衛ノ大将兼越前守藤原朝臣継繩・左京少進正六位上大中臣朝臣宿奈麻呂ヲ遣ハシテ、幣帛及赤毛馬二匹ヲ伊勢大神宮ニ奉リ、若狭國目従七位伊勢朝臣諸人内舎人大初位佐伯宿祢老ヲ遣ハシテ、鹿毛馬ヲ若狭彦神八幡宮ニ奉ルコ卜各一匹云々。類聚國史神祇八幡宮ノ部ニ、豊前国宇佐祠、南都石清水祠及若狭小濱八幡宮ノ三祠ヲ載ス。社家記ニ曰ク、宇佐祠創祀ハ、欽明天皇ノ末年ニ當ル。寶龜ヲ距ルコト百六十年餘ナリ。石清水祠創祀ハ寶龜2及ハサルコト九十年餘卜。是ニ由テ之ヲ観ルニ、當社ノ草創ハ宇佐ノ後石清水ノ前ニ在ルコト必セリ。 應永二年八月、守護一色詮範華表ヲ改造ス。同年守護代三河守長房華鯨ヲ掲ク。其銘ハ地蔵院ノ僧長蔭ノ作ルトコロ。同七年神祠ヲ改造シ遷神ノ式アリ。税所代海部理泰勅使タリ。同十二年八月、例祭流鏑馬ヲ行フ。税所代安部忠俊勅使タリ。同十四年二月守護一色満範華表ヲ改造ス。大風ニ倒ルヲ以テナリ。天文十七年守護武田信豊準表ヲ改造ス。天正二十年、国守浅野長政ノ族臣浅野長継神祠ヲ造営ス。長継ハ長政ノ子、蓋シ長政父子朝鮮征伐ノ役ヲ祈リテナリ。長政国守タリシ時、社地ノ城郭ニ接近セルヲ以テ、一時之ヲ山北ニ移セリ。京極高次國守タルニ及ヒ再之ヲ舊地ニ復ス。寛永二年国主京極忠高舞臺ヲ建ツ。正保二年國主酒井忠勝公拜殿ヲ建立ス。寛文七年 天皇紫宸殿ノ御簾ヲ下賜シテ社中ニ懸ケシム。同年國主酒井忠直公、太刀壱口ヲ奉納ス。儒臣田中好安其記ヲ作ル。代々ノ國主尊敬ノ深キ此ノ如シ。毎歳八月十五日祭祀ノ日、神事能アリ。古昔ハ流鏑馬、放生會ノ儀アリシモ、中世以降絶ス。其器猶ホ神庫ニ存セリ。今ノ儀例ハ能楽相撲并ニ市中ヨリ奉納ノ神楽・山鉾・獅子舞等アリテ、當日頗ル雑沓ス。以前ハ二月初卯ノ日及八月十五日ヲ例祭日トシタルモ、近時之ヲ改メテ、春祭ハ五月十五日、秋祭ハ九月十五日ト定ム。 境内ニ拜殿・社殿・神楽殿・繪馬殿・能舞臺・手洗所及ヒ末社十三社アリ。高良神社・若宮神社・稲荷神社・粟島神社・天満神社・三輪神社・秋葉神社・船玉神社・彦狭智神社・姫宮大山祗神社・六月祓神社・松尾神社コレナリ。 什寳中、刀剣数口アリ。就中近江守久道ノ作二尺五寸五分ノ太刀ハ、寛文三年蛮檣小濱ニ漂着シ、其檣環ヲ以テ鍛ヘタルモノニシテ、國主酒井忠直公ノ寄セラレタルモノ、又若狭大椽藤原冬廣正範ノ作リタル三尺八寸ノ太刀ハ、延寳二年七月冬廣甚兵衛ノ寄附スル所ナリ。 現存ノ華表ハ杜松ニテ造リ、太サ連抱且左巻キ右巻キノ二柱ニシテ其名高シ。柱頭ニ掲クル神號ノ額ハ、延寳八年小濱大蔵小路、筆匠河野豊後ノ寄附スル所ナリ。空海ノ筆ト傳フルハ誤ニテ、山城國加茂縣主敦直ノ筆跡ニ係ルト云フ。 曹洞宗建康山空印寺 本尊釈迦如来。当寺の地は長源寺の旧地で、大永2年(1522)以後守護館として存続したが、京極忠高の時、父高次の牌所として寺を建立、高次の法号をとって泰雲(たいうん)寺と号した。寛永11年(1634)酒井忠勝が若狭に入部してのち父忠利の牌所とし、泰雲山建康(けんこう)寺と改めた。寛文年中(1661-73)酒井忠直は祖父忠利・父忠勝の法号をもって現寺名とし、以後酒井氏代々の菩提寺となった。創建当初は西北が正面、背後は後瀬山で、「拾椎雑話」には「取葺屋根にて全体粗略に、其上間せば也。空印様七回御忌に千部の法事勤りかたきに付造替被レ成今のことしと云、寛文中なり」と記す。守護館を利用したため、明治4年の町絵図には西・北側に濠が描かれている。同年11月敦賀県庁が置かれた。本堂裏側には酒井氏歴代の墓所がある。 『遠敷郡誌』 空印寺 曹洞宗三河龍海院末にして同町男山に在り、本尊は釋迦如来なり、寛永十一年駿河田中、後武州河越源昌寺嶺國久松自坊の開山三河龍海院七代年洲存甫の牌を移して開山とす、初め建康寺と號す、寛文二年忠勝公遠行に付寺號を改む、二十世道秀を中興とし面山の在るや其名聲高し、藩主酒井家代々の菩提所にして忠利公以下の墓所あり。 『小浜町誌』 空印寺 後瀬山北麓ニ在リ。此境長源寺ノ旧地ニシテ、又武田氏累世ノ館地ナリ。京極家國主タリシ時、城ヲ雲濱ニ移シ、此地ニ寺ヲ建テ泰雲寺ト号ス。寛永十一年、酒井家領國ニ及ヒ建康寺ト改稱シ、久松和尚ヲ住職トナス。幾モナク、久松他山ニ移リ、良白和尚之ニ代ル。三河國龍海院ノ末派曹洞禅刹ニシテ、國中洞家禅寺ノ僧録司タリ。寛文中佛殿ヲ改造シ楼門及衆寮庫裏廻廊等ヲ建テ、名ヲ建康山空印寺ト改ム。空印ハ藩祖忠勝公ノ法号ナリ。爾来酒井家歴代香華ノ地ニシテ、堂傍二藩祖以下ノ墓所アリ。門内山麓ニ洞穴アリ。八百比久尼ノ古跡トス。 八百比丘尼の洞窟 空印寺の薬医門の前、山裾に「八百比丘尼の洞窟」がある。 「八百比丘尼伝説」 守護館 空印寺の横に広い空き地がある。ここには以前小浜小学校があったが、移転になって、今はこのような空き地になっている。空印寺の敷地も合わせて、だいたい1町四方の地が若狭守護館の跡である。 「守護居館」 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 小浜男山の主な歴史記録小浜男山の伝説小浜男山の小字一覧関連情報 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2020 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |