小屋(おや)
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福井県小浜市小屋 福井県遠敷郡中名田村小屋 |
小屋の概要《小屋の概要》 南川の支流田村川最上流の地域。田村川と並行して走る県道岡田深谷線は、自動車道としてこの地で終点となる。東から口小屋、中小屋、奥小屋の3小集落に分かれる。 小野村は、鎌倉期~南北朝期に見える村。若狭国遠敷郡名田荘のうち。正中2年10月日の若狭国名田荘内田村河成検注帳案に田村内国次名の在所を「中ヲヤ」と記しているのが初見。観応元年12月10日の田村水損河成注文では、国次名は「中小野」にあると見えているから中世に「小野」と記し「ヲヤ」と称した地域が現在の小屋にあたると考えられ、上小野・中小野・下小野に分けて呼ぶこともあった。南北朝期に入って村名として見え貞治~応安年間に「小野村領主職」と名田荘下司職に関して領主の徳禅寺に対し訴訟が起こされているが詳細は不明。 近世の小屋村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」による家数42 ・ 人数242。江戸時代には製炭業が盛んで、元和3年(1617)京極氏の小浜城築城に際し、城地の埋立用木炭を六貫目当り銀2枚または米4升の値で多数納めたと伝える。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年中名田村の大字となる。 小屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ中名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西23町余・南北2町余、戸数50、人口は男141 ・女130。 《小屋の人口・世帯数》 43・20 《小屋の主な社寺など》 熊野神社 『中名田誌』 熊野神社(小屋区) 祭神 伊奘冉尊 速玉男尊 事解男尊 祭日 三月九日、十月九日 本神社の主祭神伊奘冉尊は記紀神話の国土創造神で最初に夫婦となられた国生みの女神である。 見谷の熊野神社の祭神は伊弉諾尊といわれる男神であるところから、両者に深い関連があり、その創建あるいは招致を同じくするものと考えられる。 本神社は、延暦十七年(七九八)、熊野大権現と称され阿弥陀如来、大日如来、観音菩薩などの仏像を合祀、神仏習合の権現神社となったとされている。この起源は、延暦年代、坂上田村麻呂及びその一族一党の当地開発に由来するものである。「保延六年(一一四〇)上之宮祭礼神事座例之式」(『坂上文書との中の神酒弘役に「仲太夫時氏ヲヤ」と記されている。仲太夫時氏というのは、坂上中太夫藤原朝臣と考えられる。本神社の神仏習合による信仰は江戸末期まで続いた。 棟札による草創説 同社の寛政三年(一七九一)の棟札によると、「熊野三所権現は霊亀二年(七一六)仏法国よりわが国に入り、紀伊国以来千七十五年たつが霊験あらたかな尊神である。これはみな仏さまのお蔭で阿弥陀、薬師、千手観音を本地となすためである。建長年中(一二四九~五五)当神社草創の時、これらの仏像を勧詰した……」。この棟札によれば当神社は建長年中に創建され、同時に熊野大権現となったことになる。 我が国では、平安中期から鎌倉初期にかけて、上皇を中心とする貴族の熊野参詣は極めて盛んで、熊野三山の呼称が一般となり、本地仏と一体化して信者網を拡大した。そういった経緯を考える時、この棟札の草創説もなるほどとうなずかれる。 寛政三年六月二十八日(一七九一)の棟札(表) (略) 同 (裏) (略) 延宝六年(一六七八)の豪雪 旧村誌に延宝六年の豪雪は一丈余に逹し、社殿がことごとく破壊されたとある。それを明らかにする貴重な棟札が同社に保存されている。全氏子の厚い信仰心と併せて、捨大禰宜(宮人)などといって、昔から特殊の人がこの宮の神事に当たったこともうかがえる。 なお同社では、今も社寺総代人のほかに捨人組を設け、氏子中輪番で神社建物の監視、祭礼式の係り、境内の清掃に当たっている。 棟札 (略) 稲荷大明神の勧請 文化十三年に同社の末社として、正一位稲荷大明神を勧請した。 棟札 (略) 厨舎に仏像を安置する 当社は、昔から熊野三所権現と称し、神社の中央に三体の尊像を安置、幾百年か知る人もないくらい長い歳月を経た。 しかし、明治三年維新の時、全国一般に神道教化のため神社から秘仏を取り除こうと、金製・木製・石製・画製仏具など、霊を成す仏像以外はすべて紙幣にうばわれ、三仏像の鎮座する所もなくなった。しかし、村中の氏子はこれを悲しみ、何とか旧に婦って祈ることを誓い合った。その願いがかなえられ、やがて本郷伊左工門によって一個の厨社が建てられ、三仏像が安置された。 このことを知る棟札は次のとおりである。 棟札(表) (略) 棟札(裏) (略) 造改築の主な棟札は次のとおりである。 (略) 『中名田村誌』 村社熊野神社(小屋区) 祭神 伊奘冉尊 祭日 九月九日 一、社殿 間口四間、奥行三間四尺五寸 一、拝殿 間口二間、奥行二間 一、社務所 間口三間、奥行二間 一、手洗場 間口五尺、奥行四尺 一、華門 一基 境内末社 一社 稲荷社 間口一間四尺、奥行一間五尺 祭神 不詳 境内坪数 三百六坪 境外坪数 四千六百六十坪 由緒 当神社は、大昔から熊野大神を祭ってきたが、第五十代桓武天皇のころ延暦年間、仏法の興隆によって仏像を安置し、熊野大権現と称し奉るようになった。ところが延宝六己未孟冬、一丈有余の積雪に際し、社殿ことごとく破潰したため、同七年再建し以来百有余年を経過し、寛政五癸丑年社殿を建立した。しかしながら、明治維新の際神仏合祀が許されなくなり、仏像は当区地蔵院へ奉安し、本社に列するようになった。 『遠敷郡誌』 熊野神社 村社にして中名田村小屋字宮森にあり、元熊野権現と稱し祭押不詳なり、境内に稲荷神社祭神不詳なり。 曹洞宗地蔵院 『中名田誌』 地蔵院(曹洞宗興禅寺末) 本尊 延命地蔵大菩薩 脇壇 阿弥陀如来・大日如来・観音菩薩 旧誌によれば、延暦十七年(七九八)、小屋村熊野権現創建のころ、平内太夫という人が当寺院を創建し、権現の別当となると記されている。ところが寛政三年(一七九一)の棟札によれば、当所熊野権現は建長年中(一二四九~五五)創建とみなされ、そのころ当寺院が建設されたという説もうなずかれ、必ずしもその起原は定かでない。 延宝元年(一六七三)、今まで真言宗であったが曹洞宗に改宗、興禅寺末寺、地蔵院と称せられる。慶応三年(一八六七)火災に遭い、明治十五年現今の位置に移転上棟する。 脇壇の阿弥陀如来・大日如来・観音菩薩の三体は明治維新の神仏判然令により、熊野椎現より除去され、本寺院に安置されたものである。 住職名 (略) 増改築 (略) 主な行事 (略) 『中名田村誌』 地蔵院(曹洞宗興禅寺末) 本尊 延命地蔵大菩薩 脇檀 阿弥陀如来 大日如来 観世音菩薩 開基 向厳龍積和尚 草創開山 心山寂印和尚 法地開山 天外良寿和尚 当山草創の古記録は、慶応三年に堂宇が焼失した際、ことごとく灰になってしまったが、旧家にある古文書によって考えると、第五十代桓武天皇の時代延暦十七戊寅年、当村熊野権現創立のころ、平内太夫という人が当院を創建して別当となり、祭祀を行った。しかし、延宝元癸酉年になって、時の住職愛蔵主という人が曹洞宗に帰順し、興禅寺五世白巌竜積和尚のために草庵を喜捨し当寺を曹洞に改宗し地蔵院と称するようになった。その後、興禅七世心山寂印和尚が当院へ隠退、亡くなられたため、これをもって創開山とする。慶応元年三月当区二十八号堂の下地籍に再建造営したものの、同三年二月五日、不幸にして火災にあって堂宇を焼失した。そこで、明治十三年六月着工し、同十五年いまの敷地に移転した。ところで、世の中の文明が進むにしたがい、平僧地では布教伝道に不便が少なくないとして、明治十年四月時の看住石川県能登国珠洲郡馬緤村、守禅寺徒弟北口徳三和尚が檀信徒と相談、法地を開闢してその師天外良寿和尚を法地開山とし、二世北口徳三和尚、三世孝林元順和尚、四世現住竹内清證和尚が伽藍の整とん善美を尽くした。 伝承 境内堂宇阿弥陀堂の原敷地及び薬師堂敷地は昔から免租地だったという。中小屋の墓地は面積三坪で、その昔安部晴明の占った墓地であって、いまなお同面積以外には埋葬しない。 『遠敷郡誌』 地蔵院 曹洞宗興禅寺来にして本尊は地蔵尊なり、同村小屋字森脇に在り、延寶元年の創建にして境内佛堂に阿彌陀堂あり。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 小屋の主な歴史記録小屋の伝説『越前若狭の伝説』 亀が淵 (小 屋) 田村川を八キロばかりさかのぼると、深いふちがある。かめの形をした奇岩があるので、亀が淵(かめがふち)という。土地の人は龍王が住むといっている。このふちに石や汚物を投げいれると、たちまち大雨を起し、洪水になるという。 (中名田村誌) 小屋の小字一覧小屋 坂ノ谷 矢畑 坂ノ下 午房根 父子谷 坂尻 生谷 柿ノ下 上? 的場 佐近田 向米地 尾茂谷 口岩脇 岩脇 唐戸 空谷 口空谷 板木 後杉 蛭子堂 米池 九竜谷 野田谷 生壷 高闕 日尻谷 広山 堂ノ下 掛橋 寺ノ上 山ノ神 漆谷 中? 岳 広瀬 鼠谷 小堂 青? 丸山 西口 横縄手 寺田 西ノ谷 東谷 上大門 下大門 宮ノ下 宮ノ脇 中小屋 小路藪 閠 上白井谷 泉谷 下白井谷 向田 壱反田 大岩 樟木谷 下当出 上当出 黒林 緩ノ上 瀑花 薪山 鶴ノ谷 平戸谷 小井谷 光谷 一阪 亀ノ渕 一ノ瀑 瀑谷 助谷 松尾 下白谷 相谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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