志麻郷・志摩郷(若狭国遠敷郡)
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福井県小浜市 福井県遠敷郡 |
志麻郷・志摩郷(若狭国遠敷郡)の概要《志麻郷・志摩郷の概要》 古代の「和名抄」若狭国遠敷郡8郷1つ。高山寺本は「志麻」、東急本は「志摩」につくり、いずれも訓を欠く。郷域などを記した記録はない。 平城宮出土の調塩付札木簡に「若狭国遠敷郡〈島郷□□万呂 塩一斗〉」(平城宮木簡1)、「遠敷郡志摩郷〈秦人子人 御調塩三斗〉」(平城宮出土木簡概報19)などの墨書がある。天平19年(747)2月11日大安寺伽藍縁起并流記資財帳に大安寺所有の墾田として「若狭国乎入郡嶋山佰町〈四面海〉」と見える、これは大島半島のこととされ、当郷の所在地だとも考えられている。 中世にも志麻郷の系譜をひく志万郷がある。中世の志万郷は、鎌倉期に見える郷名。遠敷郡のうち。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案に「志万郷」139町5反330歩の郷として見える、このうち寺田1町6反260歩・神田23町3反・別名113町205歩などが除かれ、郷分としては9反70歩が残るのみとなっている。寺社田の在所に堅海村・竹原村が、別名のうちに賀尾浦・阿納浦が見え、本来の志万郷はこれらの地を含んでいたのであるから、現在の小浜市北東部から内外海半島に及ぶ地が郷域をなしていたという。 現小浜市の部分は間違いないようだが、おおい町の大島半島「嶋山」も含んでいたかどうかの確かな判断材料はない。 《交通》 志麻郷・志摩郷の主な歴史記録関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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