丹後の地名 若狭版

若狭

下根来(しもねごり)
福井県小浜市下根来


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福井県小浜市下根来

福井県遠敷郡遠敷村下根来

下根来の概要




《下根来の概要》
「鵜の瀬」のある集落で、遠敷川下流側から白石、高野、青橋、神野谷、長瀬の5集落がある。地名の由来は定かではないが根来は朝鮮語のネ・コーリ(あなたの古里の意)からきているという説もある。
「下ねこり」と戦国期に見える地名。弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「弐百文 下ねこり」と見える。
近世の下根来村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。遠敷谷と呼ばれる山間部の細長い谷間のほぼ中間に位置するため耕地は少なく、農家は林業や炭焼業を兼ねていたとみられる。また石灰を産したことも知られる(稚狭考)。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年遠敷村の大字となる。
近代の根来は、明治22年~現在の大字名。はじめ遠敷村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北18町余、戸数72、人口は男179 ・女164、学校1。


《下根来の人口・世帯数》 90・32


《下根来の主な社寺など》

鵜の瀬とお水送り神事

:県道脇にこんな鳥居がある、ここが「鵜の瀬」の入口。そこの案内板には、
史跡「鵜の瀬」由緒記
天平の昔、若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧実忠和尚が大仏開眼供養を指導の宕、天平勝宝四年(753)に二月堂を創建し修二会を始められ、その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに、若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて、若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水(あかみず)を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付けその水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜この淵へ根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。小浜市。



河原の白い石と木陰とのコントラストが強すぎて、うまく写せないが、遠敷川(根来川)が山にぶち当たって左に曲がる所である。今は整備されすぎて昔の姿がないが、このあたりは昔は川の水が渦を巻く恐ろしげな大きな淵になっていたという。
ここがその「お水送り」が行われる場所(2000とか3000とかの大参列というから行っても見えるワケないと考えワタシは近い所に住みながらもいまだに神事を見たことはない、記録写真などから判断)。二月堂の若狭井と当地の淵が繋がっているといわれている。すくってそのまま飲めそうな川の水で、環境庁が名水百選に選定している。

お水送りの神事

「お水送り」は動と静、火と水の華やぎの神事だ。夕闇が迫る神宮寺の回廊から、赤装束の僧が大松明を振り回す達陀の行に始まり、境内の大護摩に火が焚かれると炎の祭典は最高潮に達する。
やがて、大護摩から松明にもらい受けた火を手に、二キロ余り上流の鵜の瀬へ向かう。ホラ貝の音とともに、山伏姿の行者や白装束の僧侶らを先頭に三千人もの松明行列が続く。大護摩で最高潮に達した火は、ここで静かな流れに変わり、一筋の糸を引く光の帯となる。
河原で大護摩が焚かれ、住職が送水文とともに御香水を筒から遠敷川に注ぎ込む。
悠久のロマンの中に一瞬のきらめきを残して。若狭の自然と、火と水は一体となりお水取りの行われる大和の国に至るのである。
 (案内リーフより)
「お水送り」はそう古くからの神事ではなく、最近に始まったものという。


白石神社(若狭一宮境外末社、鵜の瀬大神)

鵜の瀬の少し上手の遠敷川にかかる「鵜の瀬橋」を渡った突き当たりに鎮座。白い石でもあるかもと探したが見当たらなかった。鵜の瀬あたりは白石があるので、このあたりかと調べてみれば、『郷土誌遠敷』に、
白石は、白石神社の前、川向いの県道下に高さ八メートル位の白石と言う大岩が立っていた。この石は、雨ごいの石で、奈胡、羽賀方面の農家の人達が旱魃の年には、お酒を持って大岩にかけ雨ごいの祈願をしていた。白石の集落名は、この石から付けたものと思われる。この石は県道拡幅のため撤去し、現在はその姿はない。
忘れられて荒れすさみ風が吹けば壊れそうなホコラに見えるが若狭彦・姫社の奥院とされる重要な社で、若狭彦社が現在の地に移されるまでの鎮座の社ある。石組の区画があちこちに残っていて、かつてはもう少し建物があったのであろうか。境内の白い幹の木は椿のようで、一帯は椿の群生林になっている。
若狭国鎮守一二宮縁起は、
一ノ宮(号上宮)元正天皇御宇霊亀元年乙卯九月十日、当国遠敷郡西郷内霊河之源白石之上始て垂跡坐、其形俗体而如唐人、乗白馬白雲、今若狭彦大明神是也、
白石の鵜の瀬は遠敷川の流れが巨巌に突き当たって淵をなしている。この巨巌の上に、先ず若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨された。それは和銅7年(714)9月10日のことで、そのお姿は唐人のようであった。この地に仮に当社殿を営まれたが、その後、永久鎮座の地を求めて若狭国内を巡歴なされた末、霊亀元年(715)9月10日竜前に若狭彦神社、6年の後、養老5年(721)2月10日遠敷に若狭姫神社が鎮座されたと伝えている。
「唐人」の「唐」というのは中国王朝の「唐」ではなかろう、まだこの時代なら「唐」とは交流がなく「唐人」などは当時の小浜の人々は知らないはずで、たぶんカラヒト、韓人のことを後に「唐人」と記したものでなかろうか。今風に言えば、朝鮮人のようであった、白石白馬白雲でそれは新羅を暗示するものなのかも知れない、そのお姿は新羅の人のようであった、ということかも知れない。ようであったということでなく、新羅人であったということであろうか。

『遠敷郷土誌』
白石神社 (下根来区・白石)
○祭神 天津日高彦火火出尊(彦火火出命)
     豊玉姫尊        (豊玉姫命)
 下根来区白石は若狭皇大神(上下宮を若狭皇太神宮と称し奉る。)の初めて跡を垂れ賜れた處なり。よって白石神社は若狭上下宮の奥の殿という。(若狭国一の宮縁起より抜粋)


『遠敷郡誌』
白石神社 同村下根来字下駿谷にあり、祭神は彦火々出見命と、豐玉姫命にして傳曰若狭彦神霊龜元年九月白石石上始垂跡云云。

遠敷郡内には白石神社がけっこうある、だいたいは当地から白石神を奉じて移動した人々であったと思われる。熊川宿にもあり、そこでは白鬚神社とも呼ぶそうで、白石が新羅のことらしいことがわかる。昔知り合いに白石さんがいて、「白石さんは新羅の人か、そんなハナシを聞くことはないかい」と問うと、「白とか黒、赤青、東西南北上下、そのほか(例をたくさん挙げていたが何を聞いたか忘れた)、それはみな朝鮮やとかいうナ」と。それなら日本人はみな朝鮮人やな、そうやで、そうなんとちゃう、と言っていた。


八幡神社(手向山八幡神社)

白石より少し上流、見昌寺の向かいくらい、県道沿いに鎮座。
『遠敷郷土誌』
八幡神社 (下根来区・神の谷)
○祭神 譽田別命
 「若州管内社寺由緒記」によれば、「八幡小社、亦本地阿弥陀堂に在り、古くより毎年正二月に南京二月堂の修正学、鵜の瀬の水を以って閼伽水となし、即ち別当は神宮寺蓮如坊代々法会を勤める」とあり、江戸時代初期には二月堂修二会に際して鵜の瀬から閼伽水が献じられていた事実を知ることができる。

下根来八幡宮の行事
 村の長男が、二人づつ順番に神主になる。
 毎年十二月十三日に小浜公園の下の海に入り潮水で身を清める。その二人を一和尚(わじょう)と呼ぶ。又、同日、下根来八幡宮の下の川に入って禊をした二和尚(次の年に一和尚となるもの)二人が神社のすす払いや掃除をする。
 そして、十二月十五日に今年一和尚をしていた二人が来年の一和尚の二人に神社の扉の鍵を渡す。元日は朝の三時に神社の下の川で三和尚の持つ提灯の明かりのもとで川につかり身を清める。
 長床で着物、袴に裃をつけて本殿や長床の神々にお供物を供えて、ご祈祷をし五時頃より参拝に来た戸主に新年の挨拶を交して迎える。
 十月十日の祭にも同じく神社の下の川で禊をして神主になり、こうして当番になった青年(長男)は一年に三回素裸になって川または、海につかって身を清める。
 又、一和尚、二和尚、三和尚合せて、六人の宮役は主になって、神宮寺住職の出席を求めてのお講神事六回と合せて、年に十八回のお講神事を努めている。
下根来八幡宮・山八講神事
三月二日、お水送りの午前中、下根来八幡神社の長床に講員全員が集合して、神宮寺住職がのりとを上げ終ると、一和尚、二和尚、三和尚の二名づつ計六人が上座に並び修法の途中住職に習い、ユッダの木の小さいバイ(棒)を肩越しに後へほる。後、カシの葉に息をかけ、二つにちぎって後へ投げ、赤土をこのバイで神酒とねったものを全員なめる。
更に、カシの葉で香水をかけ講員全員が念入りに清める後、宮の二本の丸柱にそれぞれ山と八の字を赤土で書く、山は山初め、八は生命を八方に生じせしめる八白の意味のようである。即ち、土と水と木で清める山間の春を迎える儀礼である。
この神事が終った後、夕方からお水送りが行なわれる式順である。
平成二十年(二〇〇八)四月十日付で山八講神事が小浜市指定無形民俗文化財に告示された。


『遠敷郡誌』
八幡神社 村社にして同根下根來字神谷にあり、祭神は誉田別尊なり。


山八神事は、3月2日には八幡神社で、赤土をなめて豊作を祈るというもので、お水送りの前奏となる神事になっている。しかし境内はカメラを廻すもままならぬ狭さで、神事の見学はまずムリのようである。
幸い見学された方がありすでにブログをアップされている。山八神事


曹洞宗久屋山見昌寺

八幡社の向かい、県道から遠敷川を挟んで向かいにある。
『遠敷郷土誌』
久屋山 見昌寺(下根来)
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼佛
 歴史
 由緒によれば当寺は神通寺八世楞室宗厳和尚を開山に請うて建立したとあり、即ち和尚は元禄七年(一六九五)示寂されているので、この頃の創建と思われる。
 開基の願主は京都天神町の美濃屋孫兵衛とある。この後の寺歴は不明であるが、平成三年(二〇〇一)檀信徒の浄財によって本堂、庫裏を新築、山門も新たに建立した。


『遠敷郡誌』
見昌寺 曹洞宗永平寺末にして本尊は釋迦如来なり、同村下根末字布谷口に在り。


八百尼の墓
『郷土誌遠敷』
八百尼の墓
中の宮区田口孝治氏(屋号田口弥五郎)の古屋敷内(下根来区橋詰)に八百尼と彫った石碑の墓がある。
大昔、あるところに一人娘がいた。幾年過ぎても一向に往生出来ず、この世、全てのものが新しくなり、自分に身近い者は全部往生し去ってしまった。
欲望も金もなくなり、この上は仏縁を心に求めて、家内の者に「私を柩に入れて埋めてほしい、先ず、私は仏壇の金をたたいて入るから、この金の音が聞えなくなったら、私が死んだと思ってくれ、また、金の音を聞くために節穴を抜いた竹を地面の上に出して置いてくれ」と頼み、土を被ったとの一般の説である。



若狭能伝書
『郷土誌遠敷』
若狭能の伝書と殿様より拝領の能面
古くから嶺南地方一帯で演じられていた伝統芸能「若狭能」について書かれた伝書が下根来の田口正栄宅に残っている。
この伝書は『習順記』一冊、『所作付』六冊の計七冊である。田口家は、代々小浜藩おかかえの能楽師であった。それもワキ専門であったという。昭和五十五年(一九八〇)頃に見つかったもので、この伝書は田口さんの曽祖父・伝九郎さんが江戸時代末期の嘉永五年(一八五二)に書いたものである。伝書の内容は『習順記』が照君、道成寺、張良、関寺小町などの能の題名や師の印があることから目録を兼ねた免許のようなものらしい。また「所作付」には、二百十書余りの能についてワキ方の立ち居振る舞い、振り付けなどが細々と記されている。能のワキの流派としては、全国に福王流、高安流、下褂宝生流の三派があるが、これらの文書は福王流として書かれていた。これまでに能についての古文書、伝書は各地で見つかっているが、そのほとんどが主役であるシテについてである。ワキだけについてこれだけ詳細に書かれたものは珍しいという。これの確認は能の保存団体・若狭能倉座の今井靖之介総務が行った。
若狭能は、敦賀市から小浜市、高浜町までの若狭一円、滋賀県の高島郡など広範囲に伝わる神事芸能で、七百年以上も昔から行われていた若狭猿楽から発したものとされ、江戸時代には年間七十回以上も各地の神社で演じられるほど盛んであった。今でも美浜町の弥美神社や若狭町の宇波西神社などで舞われている。なお同家には田口伝九郎さん(文政十一年生 明治四十四年死去)(一八二八~一九一一)が他の村の者二名とともに各々若狭藩主酒井公より拝領した能面も伝わっている。  (昭五五・一・七福井)


戸祝い
毎年1月14日に子供たちが棒で各家の戸を叩いて回り、家内安全と豊作を祈願する戸祝いを行うという。『郷土誌遠敷』に、
戸祝い
一月十四日午後、正月の祝い行事として、小学生の子供達が長さ二五センチメートル程のユッダの木で作ったバイの棒を持って各家に向い雨戸をたたきながら、家内息災と五穀豊穣を祈り更に、お金持ちになるように願って祝言を唱える子供行事である。
ユッダの木のバイには縁起の良い松に鶴亀、竹に雀、梅の木に鶯、升万の玉、倉の鍵等を書いた棒で雨戸をたたきながら唱える祝い言葉は「戸祝いましょうか 今年の年は世の良い年で 早稲は斗得く 中稲は八升 晩生は七升 背戸には銭倉 門戸には金倉 中には黄金のとうとぐら これから皆銭つうばりおつまるように とんとん帰りましょう」と子どもが唱えたお礼に小判菓子をもらう。



《交通》


《産業》
石灰業
『郷土誌遠敷』
石灰窯と鍾乳洞
下根来下谷高野地籍に、大正初期から石灰を生産する工場(工場長 早佐占勝之助氏と聞く)が動いており、石灰窯三基が築かれていた。
当時は、遠敷近辺の農家からの受注で大変盛況であったが、昭和初期頃には石場の不便と石質の変化等で生産を停止していた。当時の石灰窯が一基現在残っている。その後、昭和十五年(一九四〇)頃、大阪市の月星石灰株式会社が以前の石場から五十メートル手前の山地を買入れ、工場および窯を構築して大型な経営をしていたが、続行困難となり、昭和二十七年(一九五二)頃廃社した。
生産盛況の頃、石灰石の取口に発破をかけたところ、偶然に大穴が実現した。これが現在の鍾乳洞である。



《姓氏・人物》
良弁

白石神社前の「良辨和尚生誕之地」の碑 案内板には、
人の駅 良弁和尚
the priest who made great efforts to erect Todaiji
(ハングル文字)
良弁和尚は、伝説によれば、689年(持統3)ここ小浜下根来で生まれましたが、子供の時に鷲にさらわれ、奈良金鐘寺(東大寺の前身)で育てられました。彼は、東大寺で法相宗を義淵に学び、新羅の僧審祥を講師に招き華厳経講を開いて華厳宗を広めました、その後、東大寺の建立に尽力し、初代別当となり、773年(宝亀4)84歳で亡くなりました。お水取り行事を始めた実忠は、若狭出身の良弁が師匠であり、若狭遠敷明神が魚釣りをしていて「修二会行事」の勧請に遅れたお詫びとして十一面観音にお供えする閼伽水を送ることとなったという逸話から二月堂の井戸を「若狭井」と名付けました。


『郷土誌遠敷』
下根来地区に伝わる「良弁和尚」物語
昔、遠敷川の上流の下根来白石に、権仁衛門(現在の三郎兵衛)という屋号の家があり、百姓の夫婦が住んでいた。この夫婦には、ようやく乳離れしたばかりの一人の子どもがいた。この家の守り本尊は柳の木でできた一刀彫りの十一面観音像(一尺八寸=約五十センチ)だったので、夫婦は、同じように柳の木でできた十分の一の大きさの十一面観音を子どものお守りとして、その子の首にかけていた。
夫婦はこの子どもをとてもかわいがり、畑仕事をする時も、必ずそばにおいて遊ばせていた。当時、下根来地区では養蚕が盛んで、その日も夫婦は、いつものように、桑の葉をとりに畑へ出かけていった。子どもをフゴに寝かせて仕事をしていたその時のこと、突然大きなワシが飛んできて、子どもをフゴごと、あっという間にさらっていった。夫婦は大声で叫びながら追いかけたが、子どもとワシの姿は、とうとう見えなくなってしまった。このうえは、どこまでも子どもをさがしに行こうということで、夫婦は旅に出ることにした。
二十年ほどの間、ワシにさらわれた子どもをあちこち尋ね歩き、ある日四国に渡ろうと船着場で船を待っていると、東大寺のえらいお坊さんのうわさを耳にした。
「そのお坊さんは、とても賢い人で、赤子のとき大きな杉の木にとまっていたのを、拾われてお坊さんになったそうな。」
権仁衛門夫婦はこれを聞いて、もしやわが子ではあるまいかと、奈良の東大寺へ行った。そして、そのお坊さんとの対面を果たすことができた。夫婦は唯一の手掛りであるお守りのことをお坊さんに話した。
すると、そのお坊さんは、「柳の木でできた十一面観音のお守りを、確かに私は付けていた。私は、お前さんたちの子に違いない。」と言った。
こうして、権仁衛門夫婦は、昔ワシにさらわれたわが子に巡り会い、親子の名乗りをあげることができたのである。このとき母親は五十六歳、子どもは三十一歳になっていたという。
この子どもこそ、後の良弁僧正である。対面のときに証拠となったものは、子どもの首にかけられていた柳の木の十一而観音様であったということだ。
現在も、東大寺には良弁和尚が身に付けていたとされる十一面観音像がまつられている。
良弁和尚がとまっていたとされる杉の木は、「良弁杉」と呼ばれていたが今は枯れてしまっている。
現在、原家(三郎兵衛)には、柳の木の一刀彫りの観音様がまつられている。屋号が変わったのは、原家が過去二度火事にみまわれ、その都度屋号を変えてきたことによるようである。


生誕地はほかにもあり伝説的で史実はどうなのか確定はしていない。


八百尼
案内板にもその場所が示されていたが、わからなかった。
『郷土誌遠敷』
八百尼の墓
中の宮区田口孝治氏(屋号 田口弥五郎)の古屋敷内(下根来区橋詰)に八百尼と彫った石碑の墓がある。
大昔、あるところに一人娘がいた。幾年過ぎても一向に往生出来ず、この世、全てのものが新しくなり、自分に身近い者は全部往生し去ってしまった。
欲望も金もなくなり、この上は仏縁を心に求めて、家内の者に「私を柩に入れて埋めてほしい、先ず、私は仏壇の金をたたいて入るから、この金の音が聞えなくなったら、私が死んだと思ってくれ、また、金の音を聞くために節穴を抜いた竹を地面の上に出して置いてくれ」と頼み、土を被ったとの一般の説である。


下根来の主な歴史記録




下根来の伝説


『越前若狭の伝説』
お水送り(一)        (下根来)
 奈良東大寺の二月堂は実忠和尚(おしょう)の創草である。観音大士が霊徳を施し、効験著しいので、道俗男女が敬っている。天平勝宝四年(七五二)に和尚は十一面悔過を初めて行ない、大同四年(八〇九)に至るまで七十年(正しくは五十八年)間毎年二月一日から十四日まで毎夜六時行法を修めた。また天平宝字五年(七六一)から弘仁六年(八一五)に至るまで六十二年(正しくは五十五年)間二月十五日に涅槃(ねはんえ)会を供した。
 実忠和尚が六時行法を始めたとき、初夜の終わりに神名帳を読んで諸神を勧請した。ここにおいて諸神はみな姿を見せ、あるいは福祐を与えることを競い、守護となることを争った。遠敷(おにう)明神(若狭彦神)はいつも猟漁を喜び、これにはげんでいたので、行法の末日近くに遅れて参会した。その行法を聞いて感喜し。堂のそばにアカ水(仏に供する水)を奉ると告げた。たちまち黒白二羽のウ(鵜)か岩をうがって地中から飛び出て、かたわらの木にとまった。その二つの跡がら甘泉がわき出、香水が満ちた。よって石をたたんでアカ井とした。
 かの大明神は、若狭国遠敷郡にあり、国人か崇敬して大威勢をそなえている。神社の前に大きな川がある。山水は音を立てて流れ、波が勢よく走っていた。その水を献じたので、川がかれ、にわかに流水がなくなった。故に村の人は無音(おとなし)河という。
 こういうわけで、毎年二月十二日夜、行を修める人たちが井戸のあたりに集り、かの明神の所在地に向かい、井戸の水を加持すると、加持(じゅもんを唱えて祈る。)の力で水か満ちる。そのとき水をくみ取り、香水びんに入れる。びんの中の香水は清浄で、澄んでおり、これを飲む者は、病気を除き、悩みをなくする。それはちょうど無熱池の八功徳水のようである。この故事をなすこと、天平勝宝のころから今(一一二四ごろ)に至るまで四百年に及ぶ。      (東大寺要録)

 実忠和尚は良弁和尚の弟子である。あるとき兜率(とそつ)天(弥勒菩薩の天宮)の内宮に神遊し、四十九重の摩尼(まに)殿を見た。その中の一か所に「常念観音院」という表札か出ていた。実忠はその修法の儀を見て、心にはなはだ信慕しした。聖衆に請うて儀軌(修法の作法)を教えてもらった。夢さめて後法を修めようとするに、尊像かない。いつもそれを心にかけ、観音の尊像を得たいと思っていた。
 ある日難波(なにわ)津(大阪)へ遊歴した。ちょうど水おけが波に浮んでくるのが見えた。近寄って見ると、十一面観音の像が水おけに乗っている。実忠が喜んでこれを取るに、それは銅の像であった。その長さ七寸(二七センチ)で、人のはだのように暖かい。朝廷はこれを聞き、東大寺に羂索(けんじゃく)院(二月堂)を建てて安置した。
 実忠は毎年二月一日、この像に対し兜率(とそつ)軌を修すること二七十四日であった。天平勝宝四年(七五二)から始めて大同四年(八〇九)に至るまで五十八年間一度も欠くことかなかった。俗に二月の法を修すという。現在までも絶えずに行なわれている。また天平宝字五年(七六一)から弘仁六年(八一五)に至るまで五十五年間毎年二月十五日に涅槃会(ねはんえ)を修して欠くことがなかった。
 実忠が初めて二月懴(さん)を修したとき、初夜に衆神を請(しょう)じて名簿を読み、これを供えた。若狭に遠敷明神があり、はなはだ威霊があった。この会にあずかり、実忠の懺(さん)を聞いて厚く信仰して、アカ水(仏儀の水)を奉らんといった。たちまち黒白二羽のう(鵜)か石地をうがって出て来て、飛んでかたわらの木にとまった。その二つの跡から廿泉がわき出た。実忠は石をたたんで井戸を造った。この井戸をアカ井という。
 干ばつの年水がかれて、二月修法中に水がないときは、寺衆は井戸のそばに集って、はるか若狭に向かって持念する。するとたちまち水か満ちあふれてくる。二月十二日の夜である。若狭の遠敷明神の前に川がある。このときは川の流れか絶え、水音がない。神が川の流れを送って、アカ井に通ずるのである。若狭の州民は、初めは大いに怪しんだが、わけを知ってからは、この川を無音(おとなし)川という。病気のある者は、アカ井の水を飲むと、多くはなおる。       (元亨釈書)

 羂索(けんじゃく)院(二月堂)は実忠和尚の建立による。実忠和尚は現身のまま都率(とそつ)の内院に至り、四十九院を巡礼した。その中に常念観音院があった。その院で十一面観音の行法を聴聞した。この行法を受けて帰り、これを人間に弘通(ぐつう)するため、摂津国難波(なにわ)浦(大阪)へ行き、補陀落(ふだらく)山に向かい、香をたき花を供え、生身の観音を勧請(かんじょう)して、当院を建てた。かの尊像を安置し、行法を修め、天平勝宝の年から今に至るまで怠らない。
 二月一日から十四日まで二七か日間昼夜六時清浄な心で不退の行業をなしている。この行法の間、厚く信ずるものは速疾の霊効にあずがり、不信で怠る者は奇異の罰をこうむる。これは日木六十余州の大小の神々が行法に降臨影向し、法を聞き縁を結ぶから、神明の加護と当罰の現証があるのである。
 若狭国遠敷(おにう)明神は、漁すなどりをして、肉食を好み、梵行の浄不浄をはばからない。これは香水を出現して、けがれた身を流すからである。このことで明神と和尚が問答した。すると黒白二羽のウ(鵜)が岩をうがって空へ飛び昇った。その跡からたちまち甘泉がわき出、その水は今も絶えない。二月堂のアカ井かそれである。遠敷(おにう)川の水脈を引いて大聖観音に献じたのである。それ故かの二月行法の間は、アカ井の水は倍増し、遠敷川の水は減少する。これより世人は、遠敷川を無音(おとなし)河という。       (東大寺縁起)

 遠敷郡の山のふもとにうのせ淵がある。うの鳥がこの淵へはいると死ぬ。なぜであるかわがらない。うというのはうさぎでなかろうか。
 奈良の東大寺の二月堂に石の井戸がある。はなはだ浅くて一滴の水もない。毎年二月寺僧が加持修行して、石の井戸に向かい「若狭、若狭。」と呼べば、この淵の水がふつふつとわきたち、奈良の石の井戸にたちまち水が出る。その水を用いて墨をすり、次のような符を押す。俗にこれを二月堂の牛王(ごおう)という。正しくは霊符とい
うべきである。この霊符の影を水に写し、その水を飲めば、疫病・おこり・つきものがなおる。東大寺の実忠和尚が奇跡を受けて、初めて行なった。これは遠敷明神のめぐみである。二月堂の北に遠敷の神社がある。            (和漢三才図絵)

 音無(おとなし)川の上流、遠敷郡下根来白石(しもねごりしらいし)に鵜(う)の瀬という所がある。川の底に穴があり、この穴から鵜の瀬の水が、奈良二月堂の井戸にわき出るといわれている。このことに疑いを持つ人が、あるときウ(鵜)をこの穴に放つと、奈良二月堂の井戸へ出たので、鵜の瀬と呼ぶようになった。二月堂の修法のとき、この井戸水かかれると、僧たちが井戸に集まり、「若狭、若狭。」とよぶと、水がわき出た。        (若耶郡談)

 鵜(う)の瀬の川へすりぬか(もみがら)を流すと、奈良二月堂の若狭并へ流れ出るという。           (小畑昭八郎)


 奈良東大寺の二月修法は、むかしは二月一日からであったか、今は三月一日から二週間行なわれる。この行事は前年十二月中に選ぱれた十二人の僧によってなされる。法服、鈴、しやくじよう、ぼくり、席の作り方まで昔のままで、ことに堂衆の応待行事の合図まで昔の語調を用いる。
 お水取り行事というのは、その十二日目の夜の行事である。いろいろの行法の後、おたいまつに火をつけて、堂内を駆け回る。天井に火がつかないかと危ぶまれるほどである。おたいまつが終わるころには水取りの用意か整う。平素は門を閉ざしている若狭井の屋舎が開かれ、その北にある遠敷明神の小社には、あかあかとともし火が点ぜられる。若狭井を開くと、二月堂の観音の床下にある水びんに水がいれられる。これが一年中のお供え水になる。この水は病気に霊験あらたかなので、信者がいただいて帰る。(福井県の伝説)

東大寺のお水取り行事に呼応して、若狭の神宮寺でお水送りの行事を行なっているが、あれは昭和三十六年に始めたことで、古式ではない。(若狭井の水源)

お水送り(二)         (下根来)
 奈良東大寺の羂索(けんじやく)院に阿伽(あか)井か二か所ある。この井は三昧(さんまい)堂の北にあり、六尺(一八〇センチ)ばかりの古泉である。東西に連らなっている。この井はもとは水がなかった。石をたたんだ後、天王が良弁僧正(ろうべんそうじよう)に祈らせた。僧正の行に感じ、若狭国小入(おにゆう)明神か神力を振って引き出したものである。
 三昧堂には本尊の金色(こんじき)不空羂索(けんじやく)菩薩、四天王像がある。そのほか執金剛神の立像がある。これは良弁僧正の守り本尊である。この堂を法華堂ともいう。銀堂というのは、銀仏を安置しているのでこの名がある。本尊は舎那仏である。二月堂ともいう。法華堂と二月堂との両堂をもって一院となし、羂索院と号する。
 銀堂にて二月行法事を修める。毎年二月一日この堂の宝蔵を開き、小さなズシをかつぎ出して、本仏の壇の上に置く。ズシの中は十一面観音である。堂衆十五六人が二月一日から二七十四日間堂にこもり、勤行する。十四日の夜に至り、堂衆がみな金剛鈴をとり、たい松をさかさにわきにはさみ、火炎がうしろから出る。列を作って南法観を唱え、仏壇を回る。よって南法観寺ともいう。この行は今も退転しない。         (南都七大寺巡礼記)


良弁僧正は下根来の鵜の瀬に近い白石で生れたという。
 僧正の幼名はお弁といい、ある日白石明神前の田のあぜで母親がふごに入れて遊ばせていると、突然大きなわしか現われ、お弁をふごのままさらって飛び去ってしまった。狂気のようになった母親はわが子を尋ねて旅にでたが、このお弁を入れたふごは奈良東大寺の大杉の上にかかり、子供の泣き声を聞いた実忠和尚かこれを育てあげたのが立身して良弁和尚となり、その母親は奈良へ来てわが子と対面したというのかその伝説である。    (若狭の伝説)

 むかし下根来(しもねごり)の白石(しらいし)にゴンニョモンという名の夫婦かいた。子どもがなかったので、お寺の坊さんにお願いした。坊さんは、[願をかけてあげるから、川へ行って柳の木を七分三分に切って持っておいで。」といった。
 ゴンニョモン夫婦が柳の枝を七分三分に切って持って行くと、坊さんはその柳の枝に五日間お祈りをして、ゴンニョモン夫婦に渡し、「この柳の枝をおかみさんのはだに巻いておきなさい。」といった。おかみさんは、言われたとおり柳の枝をだいじに腹へ巻いておいたところ、間もなく身ごもり、男の子か生れた。
 夫婦がお寺へ礼に行くと、坊さんは、「この子は柳の枝のおまじないで生れたのだから、その柳の枝をこの子のお守りにするとよい。」と教えた。それで、柳の枝のお守りを作り、子どもの体に付けておいた。
 夫婦はこの子どもをとてもかわいがって、畑仕事に行くときも、いつもいっしょに連れていって、そばで遊ばせていた。ある日いっものように子どもを畑のそばで寝かせて仕事をしていると、大きなタカが飛んで来て、あっという間に子どもをさらっていった。夫婦は大声で叫びながら迫いかけたが、どうにもならなかった。このうえはどこまでも子どもをさがしに行こうというので、夫婦は諸国巡礼の旅に出た。
 何年もたって、夫婦は子どもを尋ね尋ねて奈良の町へ来た。すると大ぜいの人が黒だがりになって集っている。なにごとかと思って、かたわらの人に聞いてみると、「この寺の小僧さんが、今度出世して大きな寺の住職にすわることになった。そのおかごが今出るので、それを拝もうとしてみな待っているのだ。」とのことであった。
 それで夫婦もその姿を拝もうと思って待っていると、他の人が話してくれた。「その坊さんは、とても賢い人で、赤子のとき大きな杉(すぎ)の木にとまっていたのを、拾われて坊さんになったそうな。」
 ゴンニョモン夫婦はこれを聞いて、もしやわか子ではあるまいかと、その寺の中にはいり、住職に尋ねてみた。住職は、「あの子は赤んぼのとき、この寺の杉の木の上で泣いていたのを、わしか抬って育てた子である。お前さんたちの子かも知れんか、何か目じるしになるものがあるか。」と問うた。
 そこで夫婦は柳の枝のお守りのことを話した。住職は、「柳の枝のお守りは確かにあの子が付けていた。あの子はお前さんたちの子に違いない。」といった。こうしてゴンニョモン夫婦は、昔さらわれたわか子にめぐり会い、親子の名乗りを上げることかできた。
 出世して今は偉い坊さんになっている子どもは、親に会えたなつかしさのあまり、「生れ故郷の若狭白石の水が飲みたい。」と甘えた。夫婦は、「それなら一度国へ帰って水を持ってこよう。」といって若狭へ帰った。
 ふたりは根米(ねごり)の坊さんをたずね、長い旅のことや、ついに子どもを奈良で見つけたしだいを詳しく語った。そして子どもが若狭白石の水を飲みたいとだだをこねるので困っていると話した。すると坊さんは、「そんなに若狭の水を飲みたいとあの子かいうのなら、わたしの法力で若狭から奈良まで水を送ってやろう。若狭の水であるという印に、白石からウ(鵜)を一羽水にもぐらせる。その寺の庭に水かわいて、ウがとび出して来たら、それは若狭白石から送った水であるから、その子に飲ませるかよい。」といった。
 夫婦はさっそく奈良へもどって、そのことを子どもに知らせた。するとお寺の庭に急に水がわき出て。ウがとび出した。これが現在奈良の東大寺二月堂にある若狭井である。白石では今でも毎年三月二日にお水送りの行事をしている。
 一説によると、さらわれたのは百石の原三郎兵衛の子どもである。子どもをフゴ(竹で作ったかご)にいれて、麦畑で仕事をしているとき、ワシがさらっていった。この子は成長して、有名な良介僧正(ろうべんそうじよう)になった。また対面のとき証拠となったのは、子どもに背負わせてあった観音さまと、着せてあった木の皮のデンチ(そでなし)であった。       (若狭越前の民話)



 羂索院(けんじやく)院は礼堂、二月堂など五宇からなっている。礼堂は天平五年(七三三)の建立である。良弁僧正が不空羂索菩薩を安置した。そのうしろに等身の執金剛神がある。これは僧正の守り本尊である。(東大寺要録)
 若狭井伝説の主人公については、上記のごとく実忠説と良弁説の二説が古くからある。(杉原丈夫)

八百比丘尼            (下根来)
 明徳元年(一三九〇)有名な若狭の白比丘尼は、小浜の西、青井白玉椿(つばき)のあたりで死んだ。この比丘尼は、むかし雄略天皇の時代に、若狭遠敷(おにゅう)郡根来(ねごり)の鵜(う)の瀬川のあたりで生れた。比丘尼は無病長寿で、自分の年令をいわなかったのでひとびとは、年令を知ることかできなかった。八百才になったとき、本当の年を人に話したので、世の人は八百比丘尼といった。
 比丘尼の父は、道満(どうまん)といい、鵜の瀬川のところに住んでいたといわれ、道満の屋敷あとが今も残っている。       (若狭守護代年数並旧記)

 根来川の鵜の瀬から五百メートルほど奥に橋詰という里がある。ここに八百比丘尼の屋敷跡と申し伝えている所がある。今は田となっている。田の中に石があり、それが目当てである。    (拾椎雑話)





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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