新小松原(しんこまつばら)
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福井県小浜市新小松原 福井県小浜町新小松原 |
新小松原の概要《新小松原の概要》 江戸期には小松原村の枝村で、小松原村が本小松原と称されたのに対して当地を新小松原と呼ぶようになったという。新小松原という呼称が定着するのは元禄年間頃からと考えられ、天和年間には北小松原と称されることもあった。また、出村小松原ともいわれ、江戸期には小松原村(本小松原)・下竹原(竹原小松原)とともに三小松原と総称されることもあった。 小松原村とともに大網・磯引網を営み、「若狭国志」は「鱸魚・鰆・鰺」などが京都へ運ばれていたと記す。下竹原村を含めた三ヵ村共同で鯨漁も行った。 天保4年(1833)11月、名田庄から強訴が発生、遠敷全域に波及して2000人余が打毀にかかわった。当地の漁師も乗船して加わり、酒屋などへ押入り金銀反物衣類を押取ったという。 新小松原村は、明治7~22年の村。小松原村から分村して成立。敦賀県、滋賀県を経て、明治14年福井県に所属。江戸期には小松原村の枝村で漁村。「遠敷郡誌」によれば、寛永19年の家数134、文化年間の家数175 ・ 人数934。 村内には太郎右衛門町・火除町・仁右衛門町・九郎兵衛町・新五郎町・久内町などの小名があり、これらの多くは網元の名にちなむ。なお江戸期には長町(北長町)の一部が当地内にあり、明治7年北長町が独立して当地から分離したが、同14年北長町は再び北塩屋村・新小松原村に分属することになり、この結果当村は再び北長町と通称される地を含むことになった。明治13年の「共武政表」によれば、戸数170 ・ 人数869。明治初期には全戸数の8割余が漁家であった。同22年西津村の大字となる。 新小松原は、明治22年~現在の大字名。はじめ西津村、昭和10年小浜町、同26年からは小浜市の大字。明治41年大川神社が宗像神社に合祀された。当地の主要漁業であった地引網は明治35年6統であった。地引網は大正後期以降漁業の動力化による沖合漁業の発達や小浜湾内での機船底引網漁業の操業に伴い徐々に衰微し、昭和30年代には姿を消した。大正期以降漁業を廃業する者が相次ぎ、漁業以外の唯一の地場産業である若狭塗の箸屋へ転業する者が多く、現在箸木地・塗工場が多数ある。 《新小松原の人口・世帯数》 269・113 《新小松原の主な社寺など》 大川神社 曹洞宗宝祥山松福寺 本尊釈迦如来。「若州管内社寺由緒記」に「天文元壬辰年不睡法師創建の精舎而、称二海蔵院一八九十年也、其後中興開山長谷寒宿和尚改二旧名海蔵院一、号二今之松福寺一」とある。もと小松原村小尻にあったが、新小松原村分村の時、現在地へ移築されたと伝える。小松原村・新小松原村両村の檀那寺で、宗像神社の別当も兼ねた。観音堂の木造聖観音立像(市指定文化財)は、寺伝に恵心僧都の作といい、小浜藩主京極高次の守り本尊と伝える。平安後期の古式を踏襲した一木彫鎌倉時代の作。 『遠敷郡誌』 松福寺 曹洞宗常在院末にして本尊は釋迦如来なり、同村小松原字南鹽濱に在り慶長年間長谷閑祝同村湊に創建し後今の所に移る、境内佛堂に観音堂あり。 《交通》 《産業》 下竹原とともに漁業の盛んな地域。底引漁などによって若狭ガレイ・イカ・クルマエビなどが水揚げされる。 《姓氏・人物》 新小松原の主な歴史記録新小松原の伝説新小松原の小字一覧新小松原町 南塩浜 神楽 出村 大川前 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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