丹後の地名 若狭版

若狭

志積(しつみ)
福井県小浜市志積


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福井県小浜市志積

福井県遠敷郡内外海村志積

志積の概要




《志積の概要》

田烏湾に面して位置する。今は国道162号が整備されてスイスイと行けるが、この道がなければ、どうやって当地へ来るのだろうと考え込んでしまうような所である。周囲の山が急傾斜していて高い、その山が海に落ち込む海岸にあり、宅地や耕地のための平坦地はほとんどない。山越をした本保村と新保村にわずかな田地をもつという。浦人は近年まで本保村より米を背負って運び、船で小浜へ出したという。本保村との間では物々交換も行われ、当浦の各家と本保村の各家がそれぞれきまった交わりをしており、当浦からは魚を、本保村からは米を交換していたという。
志積浦、平安期に見える浦名。天禄3年(972)5月3日の天台座主良源遺言に、天台座主良源が妙香房尋禅に譲与した「志積浦一所」は元来陽成天皇の所領で故三河権守遠名が伝領し、遠名の後家より良源が30貫文で買い取った地であると見える。その後、永祚2年(990)には尋禅は志積浦など11か所を延暦寺妙香院に施入している。
中世の志積浦は、鎌倉期から見える浦名。鎌倉期の浦の領有関係は複雑で、建久2年(1191)3月5日に預所大法師某が「志積浦海人」の申請に任せて日吉十禅師と客人宮に田畠を寄進して、承元4年(1210)11月29日この寄進地は国司目代前主殿允某によって安堵されている。これらによれば当浦は延暦寺の支配下にあるとともに当浦の神田は国衙の支配に服していた。国衙による土地支配については,文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案に見える「志積田」8反330歩が国衙の支配下に置かれているが、この田地は南北朝末期の明徳2年(1391)2月10日に遠敷郡宮川新保にあった8反150歩の「しつ海浦田」と同じものではないかと思われる。浦そのものについては鎌倉後期に浦の廻船人たちが自ら「三方寺内志積浦」と称しており、延暦寺無動寺領三方寺に含められていた。また惣田数帳案の元亨年間頃の朱注に地頭は国衙税所であると記されている。以上から当浦については延暦寺の寺院が、浦田と浦の神田は国衙と国衙税所が支配したものと判断される。建久6年(1195)12月国富荘に付属する犬熊浦の東のボウ示を小崎に打とうとしたところ、この地は志積浦内の地であると志積浦刀禰が訴えたとあるが、この刀禰職は少なくとも文暦2年(1235)より安倍氏が世襲している。同じ文暦2年に遠敷郡宮川保の黒崎山を請けた浦々のうちに当浦も見え請料として塩8斗を出していることから、製塩が行われていたことがわかる。弘安2年(1279)3月には志積浦が負担する魚・塩・和布・みる・すし代銭・あらまきが注進されており漁業を主な生業としていた。当浦は耕地が少ないため廻船の業をもって生計を立てていると鎌倉後期に浦人自らが述べており、当浦廻船が越前国坂井郡三国湊で足羽根郡足羽社神宮寺勧進聖の濫妨を受けた時には、天台座主や青蓮院から下された証文を提出して訴えている。文和2年(1353)8月16日に当浦の地頭方は京都の東岩倉寺(観勝寺)領となっていたことが知られるが、その後の領主については不明。戦国期には羽賀寺が当浦山手銭500文を収納しており、天文2年(1533)2月21日寺内での配分を定めている。志積浦においては鎌倉期から「百姓三人」が指導者であったが、弘治4年には刀禰・孫四郎・はまのいえの3人が指導者として知られる。中世以来刀禰職・庄屋を継承した安倍家には鎌倉~江戸時代に至る古文書が多く残るそうである。
近世の志積浦は、江戸期~明治22年の浦名。江戸期には志津見浦と書くことが多い。小浜藩領。慶長7年(1612)の若狭国浦々漁船等取調帳に、船数は3人乗2、1人乗3、所有者5人、惣中の鯖鰯網1張。地先水面漁場が狭隘なため西小川浦から大網場を借用し元禄6年には米1斗5升を正月の祝儀米として納めている。背後に広がる持山の一部は山越えした場所にある奈胡村・熊野村に貸していた。「雲浜鑑」によれば、家数13 ・ 人数108。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
近代の志積は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北35間、戸数12、人口は男36・女47、小船14。


シツミは松尾寺の馬頭観音縁起に、「神野浦しつみのはまに着にけり」とある地名と同じ、質美とか七美とか記されるがけっこうあちこちに見られる。だいたいこうした周囲山々の地であるが、そうした地形地名なのか、朱智などと関係ある地名なのか、何とも判断が苦しい。

《志積の人口・世帯数》 43・12


《志積の主な社寺など》

古墳時代~奈良期の製塩遺跡がある。

日枝神社

集落の中央あたり、宝積寺の隣。
『内外海誌』
日枝神社
所在 小浜市志積14号18番地
祭神 大山咋命。例祭 5月10日(現行5月1日)
木殿 流レ造7坪。鳥居石造一基
境内地 360.77坪(志積14号18番地) 93.905坪(志積9号8番地)計454.675坪(被譲与国有地)
末社 山神社(祭神大山祇命)
氏子数 11世帯。
宝治元年丁未四月近江国日枝の神を勧請。志積の氏神。明治41年6月14日当時小浜町津島鎮座六月祓神社(無格社)に合祀して、六月祓枝神社と改称し村社の社格を有していたが、昭和21年7月30日、元の鎮座地に還御、ここを永久の鎮座地とした。責任者は宮司竹中皆二、総代安倍武雄、安倍伝蔵、浜頭高蔵。
「山王社 志津見浦にあり、産神にして四月初中の日祭礼あり」若狭郡県志。



曹洞宗宝積寺


『内外海誌』
宝積寺
所在 小浜市志積14号16番地
木尊 千手観世音菩薩
曹洞宗
本堂 31.2坪。庫裡 6.0坪。観音堂 9.6坪
境内地 144坪。観音堂 67坪
堂内仏像 本尊仏の他十一面観世音菩薩(1)阿弥陀如来(1)地蔵菩薩(1)観世音菩薩(1)不動明王(1)
檀徒 11戸
開創元禄九年ニシテ本寺福井県遠敷郡小浜町西津松福寺三世湛堂宗海和尚ノ道誉ヲ慕ヒ里人和寄リ一宇ヲ建立シ和尚ヲ請シ開山ト為シ爾来祖燈連綿トシテ今日ニ至ル。(寺記)
「志積浦 宝積禅寺
往昔弘治二丙辰開基之由及レ承候 其時之住持不レ知 今年迄百二十年に成候 其後松福寺末寺に罷成候
    九月廿三日 禅宗西津松福寺来 宝積寺住持 守厳」若州管内社寺由緒記
「松福寺西津郷小松原の海畔にあり(略)………志積浦宝積寺等皆此寺の末寺なり」若狭郡県志。


『遠敷郡誌』
寶積寺 曹洞宗空印寺末にして本尊は十一面観世音なり、同村志積浦字西畑に在り、延寶二年の創立なり。


観音堂
宝積寺境内
『内外海誌』
観音堂
所在 小浜市志積14号17番地
本尊 観世音菩薩像。堂の坪数 9.6坪
境内坪数 67坪(安倍伊八外12名所有)
「滋賀県管下若狭国遠敷郡志積村字
  真言宗同国同郡金屋村万徳寺別当
              観音堂
1本尊 十一面観音立像
1由緒 夫 此堂者旧名無量山海福寺 長六尺有余尊像ヲ安置ス 何ノ代誰ノ作卜云事ヲ不知 而 住古ヨリ当村人民敬崇スル所也。寛文辛寅年正月三日夜罹干回禄災 而 縁由旧記等悉皆共寺燎失也 受深信主有 阿部佐与衛門尉 観音再造ノ志願雖不怠焉兎巳五十年間及 然ルニ不思議哉 慈覚大師彫刻十一面観音長三尺有余ノ立像ヲ求得 是偏大悲利生方便所感也 依レ之攸ヲ山王寓前ニ転ジテ建二梵刹一 正徳元辛卯狄九月初七日 万徳寺良応法印堂供養并本尊開眼諸業皆巳完焉 而聊復旧矣 至方今万徳寺別当明鏡也」小浜市志積安倍安延所蔵文書。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


志積の主な歴史記録




志積の伝説





志積の小字一覧


志積  小山 大栗山 浅岩 魚見坂 堅山 梅ノ木 木谷口 熊野坂 大田 大谷 水谷 長坂 堂ノ上 桜畑 西畑 釜次郎 船戸 矢代道 跡部 蓑越 宮川坂 宮ノ脊 割谷 志積坂 清水ノ上 七平 西所 小森 内友 下河原 上河原 坂道 堂ノ上 東所 嵐 向嵐 下田 小四郎谷 高平 丸山 仮間谷 鴨ノ目 小赤枩 鎌谷 赤枩 桧縄江 小間場 倉ツラ 縄江谷 上河原谷 下河原谷 七平谷 大久須谷 外面山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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