丹後の地名 若狭版

若狭

田烏(たがらす)
福井県小浜市田烏


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福井県小浜市田烏

福井県遠敷郡内外海村田烏

田烏の概要





《田烏の概要》


田烏↑
田烏・釣姫(つるべ)谷及(たんぎょ)・須ノ浦の4集落からなり、近世では田烏集落のほぼ中心を流れる田烏川を境として北田烏(田烏北・釣姫・谷及)と南田烏(田烏南・須ノ浦)に分けられている。
中世では「多烏」と記される。田烏湾の沖合いに沖ノ石がある、「千載集」所載の「わが袖はしほひに見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」は二条院讃岐がこの地にわび住まいしていたことから、この沖ノ石を詠んだものと伝える。古墳中期から奈良期~平安期の土器製塩遺跡が点在し、傾遺跡をはじめ、大浜・須浦・谷及・釣姫・湯ノ脇などの遺跡がある。
中世の多烏浦。鎌倉期~戦国期に見える浦名。田烏浦とも書く。当浦の秦氏に伝えられた文書によって、当浦の鎌倉期以降の様子を知ることができる。史料上の初見は建暦3年(1213)10月29日の多烏浦源録職補任下文に見える「西津御庄内多烏浦」であるが、浦の成立事情は文永7年(1270)3月および翌8年12月に多烏浦刀禰秦守高が記した多烏浦立始次第注進状に記されている。それによると、秦成重・成里・則清は鎌倉初頭に三方郡日向浦から逃亡して須那浦にいたが、この地は辺鄙であるとして守護の稲庭時定に願ったところ、須那浦の南の多烏を打開くようにとの指示を受け、大飯郡佐分利郷の空家2宇を取り壞して家を多烏に建てたのが始まりであるという。そののち越中国の般若野荘の年貢船が多烏に着いたことにより、京都神護寺の文覚上人が多烏浦を神護寺領遠敷郡西津の「かた荘」としたという。正治元年に文覚が配流されたのち院領となるが、承久の乱後は再び西津荘に属し北条得宗家が地頭となった。ただし多烏から北の黒崎に至る黒崎山は、文暦2年(1235)には遠敷郡宮川保を領する讃岐尼御前(二条院讃岐)の所領とあり、建長4年(1252)10月には宮河荘領主の賀茂別雷社が多烏浦漁猟のことにつき院に訴えており、さらにその後も宮川保地頭が多烏を押領するなど、文永年間頃までは宮川保の支配も及んでいた。当浦の開発者とされる秦成重の子孫武成は寛喜3年(1232)正月21日に刀禰に任じられ、その子守高も刀禰となり、当浦の天満宮の禰宜職を持ち、また沙汰人とも称されている。守高は宝治2年(1248)7月に当浦の大春日本大夫と逃亡百姓跡をめぐって争いを起こして、建長3年10月には宮川保地頭に味方したとして西津保地頭代によって刀禰職を改易されている。正嘉元年(1257)6月20日守高は刀禰に復するが、この刀禰職改易事件はこののち浦の構造に1つの転機をもたらした。文永6年(1269)正月に黒崎山における多烏をはじめとする近隣の浦の持分を明らかにするための注進状が書かれ、翌7年3月には畠の違乱に対処するための作畠注進状が作られ作人が明らかにされている。また文永7・8年刀禰安高は多烏浦立始次第を得宗家代官に注進して、由緒を主張するとともに浦の3寺(阿弥陀堂・薬師堂・泉寺観音堂、観音堂は承久の乱後廃絶)の寺田の保証を求め、北の汲部浦が押領している須那浦の山宮東山の返付を要求し、公事負担の名(みょう)の安堵と狩役の軽減を願っている。同9年2月には刀禰秦氏の船の徳勝について国々津泊関々の煩を停止する旨を記した旗章が得宗家より与えられており、浦の船が日本海廻船に従事したことがわかる。同10年8月1日領主某は、ほまち網は多烏・汲部の7百姓沙汰人」が寄合って行うことを定めており、漁業についての史料が見え始める。
北の汲部と多烏は同じ地頭の支配下にあり、文永9年7月26日送夫・狩猪皮張などの公事は3分の2が汲部、3分の1が多烏の負担とされていたが正応年間に地頭代となった弥五郎入道円性はしばしば狩を行い自ら塩を焼いたとされている。この円性は秦守重の刀禰職を改易しただけでなく正応6年(1293)から生じた天満宮禰宜職や同御堂などをめぐる多烏と汲部の争いに介入したため混乱が続いた。多烏と汲部の争いは永仁4年(1296)3月和与がなり、公事は半分宛、山境はもとの如く、海は中分して縄網、夜網は「一河宛」(一年交替網)、立網は両浦寄合と定まり、御堂は西3間を汲部が、東2間を多烏が使うこととされ、天満宮禰宜は秦貞守の1人支配とされて一定の結着をみた。嘉元2年(1304)になると北の須那浦と谷及に汲部浦が立てた網を多烏浦が違乱したということから再び多烏と汲部は争い、汲部浦は古くより須那浦を知行した鳥羽(小槻)国親と結んで多烏浦を排除した。この紛争も先の永仁4年3月の和与を守るべしとする裁決が出されて落着したようであるが、多烏浦としては汲部が多烏の3倍の漁船や在家人数を有しているのに、和与によって公事半分宛とされたことに不満が残った。しかし,この頃から浦々の結合も強化され、延慶4年(1311)2月には多烏・汲部の刀禰・百姓は両浦地頭年貢を23貫文、万雑公事を17貫文で請負っており、以後室町期までこの額が継統されている。
嘉暦3年(1328)2月6日公文平知重は多烏・汲部の「ふくらき」の網場を定めている、それによると多及・須那浦・手井浜において1~3番に分けられた網場を、浦の有力百姓が順番に「うちかゑ」(打替)ることになっており、先に定められた1年交替網場制とともに浦単位に網場を交替し、また浦内でも順番で網場を替えるという近代に到るまで行われた網場慣行の原型が形成されていたことが注目される。元弘3年(1333)には守護の代官として蔵谷左衛門三郎が西津と多烏を与えられたという。南北朝期には多烏・汲部両浦および周辺の浦の助成によって貞和4年4月天満宮の造営がなされ、応安7年には天満宮祭礼が2人の頭で行われるのが原則であったことも見える。応永年間以降の史料は極めて少なく浦の様相は不明。天文9年(1540)11月9日の売券の買主として「南新屋」が見え、この頃から江戸期になって確定する南田烏・北田烏に分かれ始めており、天正5年(1577)12月14日の売券には「田烏南浦」とある。この売券に見える田烏南浦の惣百姓中は刀禰以下8名であるが、これが「八人衆」と称された「長衆」であった。なお田烏元海寺の鐘銘には「八咫島之津」とあり、天正元年5月28日の銘である。
近世の田烏浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。畑の多くは山畑で、油桐の実の栽培が盛んに行われた。中世以来塩業が盛んに行われ、万治2年(1660)の塩浜検地帳によれば、塩浜6反6畝余・塩年貢高54石余で、塩浜の中心は須浦・釣姫・他及にあった。慶長7年(1612)の若狭国浦々漁師船等取調帳によれば、船数34うち5人乗1、4人乗4、3人乗3、2人乗5、1人乗21、所有者14人、惣中で鯖鰯網4張と記される。「雲浜鑑」によれば、家数129・人数604、小名として北田烏・南田烏・釣姫・他及・須ノ浦がある。江戸期には北田烏・釣姫・他及を合わせて北田烏、南田烏・須浦で南田烏と称した。江戸初期に南田烏八人衆・北田烏十四人衆と称された家々が成立し、田烏湾の漁場を支配した。漁場は輪番制で運営された。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
近代の田烏は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北3町余、戸数115、人口は男432 ・女391、学校1、小船111。
明治33年日本海西部で最も早く巾着網漁業が開始され、大正2年鯖漁獲高は60万貫を記録し県下総漁獲高の3分の1を占めた。


《田烏の人口・世帯数》 366・115


《田烏の主な社寺など》

製塩遺跡
古代製塩遺跡が点在し、田烏湾に面して、北から字大浜には8世紀、字(かたぼこ)には6世紀の古墳・住居跡および7~9世紀の製塩遺跡、須ノ浦には6~7世紀、谷及には7~8世紀、釣姫には8~10世紀、集落の西側湯の脇では11世紀の各々製塩遺跡が確認されており、これらのうち、釣姫遺跡がもっとも大規模なもの。

天満神社


『内外海誌』
天満神社
所在 小浜市田烏62号26番地。
祭神 管原道真公。
合祀神社並祭神。白鬚社(猿田彦神)釣姫神社(釣姫大神)秋葉神社(香久土命)山神社(大山咋命)蛭子神社(言代主命)八幡神社(応神天皇玉依姫命神功皇后)
境内神社 若狭彦姫神社(彦火々々出見尊豊玉姫命)稲荷社(猿田彦命宮比命)愛宕社(伊弉那美命火産霊命)
田烏の氏神 氏子数 120世帯。旧指定村社。
木殿 流レ造12.5坪。拝殿 7.5坪。神饌所 3.75坪。手水舎 1.2坪。鳥居石造一基
境内地 695.97坪(被譲与国有地)
境外地 山林21町4反1畝2歩
永仁二年甲午八月山城国北野から勧請したと伝える。
「源三位頼政公の息女讃岐姫が平清盛の譫言により田烏浦に配流せらる。父頼政公、海岸平地なる所に館を建立して安居せしむ。姫は当社を尊嵩して能楽堂を建立さる。村の坤の方にあたる山麓に、平坦広漠なる土地あり、往時閑居の址なりと伝ふ」云々。福井県神社誌。故上田三平によれば「若狭三天神の一」である(筆者直接聞く)
例祭 9月25日(現行5月25日)
「天神社 山烏浦にあり、毎年八月二五日祭日にして神事の能楽あり」若狭郡県志。
「釣姫明神同所釣姫浦にあり、本社を西津郷松ヶ崎に移したる時釣姫浦にも亦小祠を建て之を祭祀す」若狭郡県志。
「往昔永仁甲午年初而北野之垂跡移二当浦一泰二崇敬一由 開闢之袮宜を多門(ママ)坊と申由至二当年一凡三百八十二年に当ると申候九月廿三日 天満宮袮宜 兵左エ門」若州管内社寺由緒記。
「右同所(註田烏の内釣瓶浦)釣瓶大明神宮往昔院の后覃遠流之処海中へ投身其死体被レ揚釣瓶大明神と祝籠め申由申伝候 開基時代神主等不二相知一其後西津へ有ニ彫向一而丙津之氏神釣姫大明神と祟申候由申伝候 九月廿三日 釣瓶浦 長三郎」若州管内社寺由緒記。
「釣姫浦 在二田烏浦海浜一有二小島一 置二小祠一 伝言 二条院官女讃岐謫二于田島浦一投二身於海汐一而死焉 海人憐レ之造レ祠 号二釣姫明神一以祭之 浦名亦従レ之 此恐後人之異説也 浦民所蔵之古記 作二汲部浦一為二釣姫浦一者 後世所記也 且出二于此浦元海寺縁起一者祭神非二讃岐之霊一 以二淡海女在唐所生之幼女一為二祭神一蓋淡海女適二于唐帝一於レ史無レ所レ考 此亦可レ疑矣 此祠近世移二西津郷一其旧址今存二小祠一云」若狭国志。
「天満神社 指定村社にして同村(註内外海村)田烏浦字宮寺にあり、祭神は菅原道真公にして永仁二年八月勧請すと伝ふ、此浦秦兵左衛門所蔵の古文書によれば此浦開発の初此浦の鎮守として勧請建立せしものにして刀袮職と共に其袮宜職は秦氏の世襲し来りし所なるが、近世に至りて区有となる、(略)明治四十一年合併せられたるもの四社あり、釣姫神社は元釣姫明神とも稱し字浜の脇と稱する泊浦に境せる小岬にあり(註田烏と泊と境する所はない誤記か)白鳳年中一異船漂着し、船中一少婦あり、上陸後日ならずして斃る。浦人愍みて之れを祀ると伝ふ、秋葉神社は祭神香久土命にして元同浦字北にあり、蛭子神社は祭神言代主命にして元字南にあり、口碑によれば永仁二年天満宮勧請以前字南丁場の氏神なりしと云ふ、山神社は祭神不詳にして字北にありしものにして元北丁場の氏神なりしと伝ふ」若狭遠敷郡誌。
「(略)天満大菩薩袮宜職事
右社者 為二当浦鎭守一建二立之一 奉レ崇二敬之一処 請二屋敷於当浦一引二移始汲部浦在家間一 為二両浦鎭守一(以下略)正応六年七月 日秦文書
「若狭国田烏浦天満天神宮山堺事
右彼山者、東者流尾堺也、東面ハ汲部分、西者多烏分、南者神之鳥居迄、下者道を境、空者は立の分井篠之堺也、不可有後日之煩、仍状、如件      永仁弐年八月二十二日 多門坊
                袮宜秦守高           」秦文書。



『遠敷郡誌』
天満神社 指定村社にして同村田烏浦字宮寺にあり、祭神は菅原道真公にして永仁二年八月勘請すと傳ふ、此浦秦兵左衛門所蔵の古文書によれば此浦開發の初此浦の鎮守として勘請建立せしものにして刀禰職と共に其禰宜職は秦氏の世襲し来りし所なるが、近世に至りで區有となる、境内神社は白鬚社祭神猿田彦神。若狹彦姫社祭神彦火々出見尊豊玉姫命。稲荷社祭神猿田彦命宮比賣命。愛宕社祭神伊邪那美命火産霊命にして明治四十一年合併せられたるもの四社あり、釣姫神社は元釣姫明神とも稱し、字濱の脇と稱する泊浦に境せる小岬にあり、白鳳年中一異船漂着し、船中一少婦あり、上陸後日ならずして斃る、浦人愍みて之れを祀ると傳ふ、秋葉神社は祭神香久土命にして、元同浦字北にあり、蛭子神社は祭神言代主命にして元字南にあり、口碑によれば永仁二年天満宮勧請以前字南丁場の氏神なりしと云ふ、山神社は祭神不詳にして字北にありしものにして元北丁場の氏神なりしと云ふ。


曹洞宗大龍山永源寺

「沖の石」が見渡せる少し高台にある。

「沖の石」は水平線の少し手前にある。写真を拡大すると確かに写っているが、ワタシの肉眼ではみえそうにない、ここから7㎞ほど先の小さな岩なので、しっかり写したいなら望遠レンズが必要。愛用のこのレンズ(10~24ミリ)ならこの程度→
『内外海誌』
永源寺
所在 小浜市田烏37号3番地
本尊 聖観世音菩薩
曹洞宗
本堂 56坪。開山堂 10坪。観音堂 9.25坪。庫裡 32.5坪。廊下 11.75坪 鐘楼堂 1.56坪。納屋 6坪他
境内地 318坪。山林 9反3畝15歩。墓地 9畝
堂内仏像 本尊仏像の他毘沙門像(1)不動尊像(1)達磨大師像(1)大権菩薩像())十六羅漢像(16)木像(3)秋葉権現(1)、観世音菩薩(1)及観世音菩薩(33)地蔵菩薩(1)は観音堂に安置。韋駄天像(1)は庫裡に安置。
檀徒 55戸
本寺院ハ建久四年正月源三位頼政公ノ女二条院讃岐姫ノ開基ナリ(当時真言宗)聖観世音菩薩ヲ安置シ四恩三有ノ道念ニ住ス 然ルニ不幸火災ニ会フコト二回重要ナル書類等焼失ス 文亀元年三月三方郡三方村臥龍院九山貫龍和尚ニヨリ革メテ曹洞宗トナス 夫ヨリ歴住綿々仏祖ノ命脈ヲ維持継承シ護国安民ノ化導ヲ布ク 天保十三年十一月十八日当区ノ大火災ニ亦々類焼シ堂宇悉ク烏有ニ帰シ漸ク本尊菩薩ノ霊躯ヲ余スノミ 弘化三年二月本堂再建ノ議起リ若州三郡ノ篤志ヲ仰キ四年後ノ嘉永三年五月之レガ落慶ヲ見タリ爾後開山堂観音堂等現在ノ諸堂フ整備シタルモノナリ。(寺記)
「永源寺 田烏浦にあり、曹洞禅寺にして三方郡臥龍院の末寺なり、東堂位の僧住職となる」若狭郡県志。
「同所(註田烏油)永源禅寺 禅宗三方郡臥龍院末
往昔従二隠州一夫婦の者 為二熊野参詣一之処 遭難風 当浦へ漂寄死す後祟ニ墓所一 号二永徳寺一申伝候 開基の住持不二相知一候 開闢は弘安元戊寅年当時迄凡三百九十八年也 時代隔後三方臥龍院末寺に成申候
    年号  月  日 永源寺住 良円」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
永源寺 曹洞宗臥龍院末にして本尊は聖観世音なり、同村田烏浦字秋葉下に在り、建久四年二條院讃岐の開基と傳へ、元眞言宗なりしが臥龍院休山今の宗に改む。

沖の石
田烏から北西の方向若狭湾の海上7㎞の地点には沖の石があり、小倉百人一首に「わが袖は潮干にみえぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし」と詠まれている。またこの歌の作者二条院讃岐が居住していたと伝えられ、御所大平と呼ばれる屋敷跡が田烏の西方にある。


曹洞宗法楽寺

天満神社の隣。
『内外海誌』
法楽寺
所在 小浜市田烏62号27番地
木尊 阿弥陀仏
曹洞宗
本堂 53.75坪。開山堂 7坪。薬師堂 7坪。鐘楼堂 1.5坪。納屋 4.5坪他
境内地 297坪及32.55坪。山林 7反1畝3歩
堂内仏像 本尊の他観音勢至菩薩(2)高祖承陽大師(1)達磨大師(1)大権菩薩(1)創立開山和尚(1)伝法開山和尚(1)不動明王尊(1)地蔵菩薩(1)薬師如来(1)日天子月天子(2)十二神将(12)韋駄天尊(1)誕生仏(1)
檀徒 31戸
本寺院ハ天保四年五月臥龍院十世満室長天和尚ノ創建開山ニシテ爾来法系ヲ継続スルモノナリ此ノ間嘉永六年火災全焼ノ為当時文書等凡テ烏有ニ帰シタリ(寺記)
「田烏浦 法楽寺 禅宗三方郡臥龍院末
往時建暦二壬申年開闢之為レ寺之由申伝候 其時之住持不レ知 時代隔後為二臥龍院末流一 当年迄四百六十三年と申候
    年号  月  日 法楽寺住 蘭・庭」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
法樂寺 同前本尊は阿彌陀如来にして同浦字宮寺に在り、正保四年長天の開基なり。


浄土真宗本願寺派元海寺

釣姫にある。
『内外海誌』
元海寺
所在 小浜市田烏69号5番地
木尊ハ阿弥陀如来一仏トス
真宗本願寺派
本堂 52, 35坪。庫裡 28.5坪。鐘楼堂 1.44坪。木像に阿弥陀如来像 蓮如上人木像
境内地 310坪
檀徒 24戸
往昔和州多武峰定慧法師此地ニ来リ真言宗道場ヲ開キ開明堂ト号称ス 天武天皇白鳳七年ナリ 文明七年九月十四日蓮如上人北国ヨリ三丹州へ御越シノ時若狭御通行其節圓明堂ノ堂主圓明トイフ僧蓮如上人ヲ圓明堂へ召請申御教化ニ予リ廐ニ改宗シテ蓮如上人ヨリ神亀山元海寺了圓卜名ヲタマハルコレ真宗開基創立ナリ(寺記)
附記。真言宗が白鳳年間に此処に伝わったという寺記をそのまま肯定すると、これは勿論空海以前の所謂「古雑密」であろうか。又和州多武蜂は所謂田身嶺(たむたけ)の「観」でありその系統に属する。
尚、同寺横の畑中に官有地の一区劃があって墓碑が現存する。(正面)「釣姫之墳墓」、(右側二行)「白凰九庚辰三月十五日、奉葬此処」。(左側)「明治壬中年十五日写之」とある。明治5年に破損した古い慕碑に代えたものである。又同寺古梵鐘(天正元年)が存在し其の銘文中「人王四十代当天武天皇御宇白鳳年中談峯起定恵」云々、又後の雁史を記し「神亀山元海之精舎」「蓮如」などあり寺記は之によっているものであろうか。「釣姫之墳墓」については「奉葬此処」とあり時代は白鳳であるから、勿論讃岐の墓ではないが、とすると、「若狭国志」に記す所の「淡海女在唐所生之幼女」(釣姫明神の部参照されたし)であろうか。国志は「淡海(註近江)女適二于唐帝一 於レ史無レ所レ考」と否定して疑っているが、これは「若狭国志」の史観によるもので(中央文献依存の事大主義的史観)こういう辺上の出来事を一つ一つ「於レ史無レ所レ考(或ハ所レ拠)」で片付けしまわずに、もう少し深くほりさげてみる必要があろう。後世の研究を待つより致し方が無い。
「田烏の内釣瓶浦 元海寺
往昔徳治二丁未年一向宗今開基為二西門跡末流一其時住持不レ存 従レ天至二当年三百六十九年也 延宝三乙卯九月廿三日 元海寺 了清」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
元海寺 眞宗本願寺派にして本尊は阿彌陀如来なり、同浦字北中平にあり、白鳳七年大和多武峰定慧百済より歸り、此浦に着して眞言宗白鳳山元海寺を創立し、其後蓮如越前より此浦に到りし時、改宗して一向宗と成りしと傳ふ。


《交通》


《産業》

田烏漁港
手前が田烏漁港、その先が釣姫漁港。
その先は見えないが、それぞれ小さな入江に谷及、須浦、大浜の集落がある。一番先が黒崎。傾は須浦の先。


《姓氏・人物》


田烏の主な歴史記録


『内外海誌』
内外海半島の製塩遺跡
若狭湾沿岸には多くの製塩遺跡が点在している。この分布調査と一部の発掘は同志社大学考古学研究室によって行われ、大きな成果をおさめているが、この一連の調査は、昭和三十三年度より、岡山大学近藤義郎教授を中心とする「日本考古学協会、生産技術特別委員会製塩部会」が行い、若狭湾沿岸は同志社大学が担当したものである。
調査では若狭湾沿岸に31ケ所の製塩遺跡が確認された。その中の大島半島の浜ネ、本郷の舟岡山は本格的な発掘調査が行われ、製塩土器に浜ネ、舟岡式の新しい形式を生み出し、瀬戸内海や備讃に先行するものも含めて、5世紀中葉より、発達したと見られている。
小浜市の内外海では、田烏の須の浦、谷及、釣姫及び矢代、犬熊、阿納、堅海など製塩土器の散布地は、加尾をも令めて8ヶ所をかぞえることが出来る。
古記録によると、越の角鹿の塩が著名であるが同志社大学り広範な調査によっても、敦賀湾では一ケ所も発見されていない。又隣接する丹後半島も、私の廻った範囲では発見出来なかった。従って若狭の塩が即ち越の塩と見るべきである。
内外海半島の製塩遺跡で規模の大きいのは、「阿納」と「須の浦の傾(かたぼこ)」と云われている。阿納には、縄文遺跡もあり、非常に興味ある土地柄である。
(附記、最近、前期の弥生式土器である遠賀川式土器が阿納遺跡で発見され、今の処、仝土器の最東限ということである。)
製塩遺跡は、小浜からの道を直進し、海岸へ出て左手へ行くと村はずれの畑地に土器片が広範に散布している。
犬熊は、現在海岸道路がつけられて確認することが出来なかったが、矢代は加茂神社の前を海岸へ出るとあり、加尾は部落中央の畑に小量ではあるが散布、釣姫は、比較的広範囲と推定され、日本海最大の規模と云われている傾(かたぼこ)へと続く。
傾(かたぼこ)遺跡は昭和42年7月24日~8月4日にわたって発掘調査が行われた。同志社大学森浩一助教授を団長とし、石部正志氏を主任、白石大一郎氏を副主任として、同大学の考古学研究室会員40人によってなされた。これは予備調査であったが、成果は甚だ大きく、高く評価されるものである。その形態は、森浩一氏が、小浜市教委へ出された手紙の中で、次の様に述べられている。
 「この漁村の存続したのは5世紀より約600年間、古墳、飛鳥、奈良、平安の各時代にまたがっている。小川の流れにそって小さな平担地があり、居住地と塩の生産地が隣接し、土錘の存在から網漁の行われたことも推定出来る。製塩遺跡では、炉が多く残存し、古い炉が下に、新しい炉が上へと重っており、大きさは畳を6枚程度の広さで石を敷きつめている。新しい発見は奈良平安時代の支脚だけを別にした、分離式の上器であり、傾(かたぼこ)で初めて発見された。従って傾式土器の型式がたてられる。平安時代になると多くの土器型式が混合され、広く交流のあったことが解る」
以上であるが内外海の製塩遺跡は、今後調査されるに従って日本古代史の中で重要な位置づけを有するものであることが明らかにされるであろう。「大森宏・小浜市の古代遺跡・内外海半島編」による。


『新わかさ探訪』
*沖の石と二条院讃岐  若狭のふれあい第103号掲載(平成9年8月26日発行)
*源平争乱の世を生きた歌姫ゆかりの海辺の丘
 小倉百人一首にある二条院讃岐の歌「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし」は、せつない恋心を、干潮のときも見えることのない海中の岩にたとえ、人は知らないでしょうが、私の袖はいつも涙にぬれて乾くひまもない、と詠んだもの。
 この歌にある「沖の石」は、若狭湾のほぼ中央に位置する田烏半島先端の黒崎から約2㎞沖の岩礁「沖の石」のことではないかといわれています。
 二条院讃岐(1141年ごろの生まれ。没年は不明ですが、かなりの長命)は、平家の栄華と滅亡、鎌倉幕府の成立という源平争乱の世を生きた女性で、その父は平氏打倒の先駆けとなった源頼政(1180年、以仁王を奉じて挙兵したものの、敗れて宇治の平等院で自刃)。讃岐は若くして二条天皇に仕え、天皇崩御(1165年)のあと、藤原重頼の妻となり二男一女をもうけています。重頼は、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝の側近でもあった人物です。
 沖の石の歌は、千載和歌集(藤原俊成が編集、1188年に完成)に取り上げられ、藤原定家(俊成の子)が百人一首に選んだとされています。
 讃岐と若狭との関わりは深く、夫の重頼が文治4年(1188)に、現在の小浜市東部、松永と宮川の地頭であったことは歴史的な事実。田烏の旧家、秦家に伝わる鎌倉期の古文書には、田烏半島の黒崎山は宮川を領する讃岐尼御前の所領とあります。また平家物語には、父の頼政が「若狭東宮川」を支配したとあり、大谷地区には今もその館跡と伝えられる場所があります。
 田烏と矢代の間にある丘陵地は「御所平」と呼ばれています。ここに讃岐の居館があったと地元では伝え、『若狭国志』にも、そのことが書かれています。館跡は、昔から女性が立ち入ってはならない禁足地とされてきました。御所平は棚田が広がる海辺の丘で、ここがら約6.5㎞先の海上に沖の石が見えます。その雅趣に富んだ景色を眺めると、讃岐がここに暮らし、歌を詠んで過ごした日々が目に浮かぶようです。
 ただ、沖の石の歌については、若狭に暮らした讃岐が、実際に沖の石を見て歌を詠んだのか、それとも沖の石の歌が先にあって、のちに人々が田烏沖の岩礁を沖の石と呼ぶようになったのか--800年余りを経た今となっては知るすべがありません。でも、この丘に立つと、沖の石の歌と御所平の風景とがしっくりなじむことに心うたれ、ここが歌詠み地とされていることにも素直に得心させられます。
 国烏にある永源寺は、建久4年(1193)、讃岐が父頼政の菩提を弔うために創建した寺で、その名は源氏が末永く栄えることを願ってつけられたと、永源寺の縁起に記されています。同寺は、田烏子供会の百人一首の練習会場。二条院讃岐ゆかりの地とあって、田烏の子供たちは、各地のカルタ大会で常に上位入賞を果たしています。

田烏の伝説


『越前若狭の伝説』
天皇の塩           (田 烏)
 大臣平群真鳥(へぐりのまとり)は政治を自分の思うままにし、帝王になろうとまで考えていた。真鳥は皇太子(武烈天皇)のために建てた宮殿に、みずから住んでいた。また皇太子か愛していた影姫を、平群真鳥の息子のしびが横どりした。
 歌会のあった時、皇太子ははじめて、しびか影姫と結ばれていることを知り、しび親子の行ないに怒り、その夜すぐさま大伴金村(おおとものかなむら)の家へ行き、兵を集めさせ、影姫のところにいたしびを討ち殺した。
 それから大伴金村は皇太子に 「真鳥を討つならば、私が討ちます。」と申し出た。皇太子は、「いままさに世の中が乱れようとしている。すぐれた勇者である大伴金村でなければ、これを救うことにできない。」といって、たゞちに計画をたてた。
 大伴金村は、みずから将軍となり、数千人の兵をひきいて、真鳥の宅をかこみ、火を放ち、真鳥を殺してしまった。このとき真鳥は、のがれることかできないことを知り、各地で産する塩をのろって死んだ。
 真鳥が、そののろいをかける時、真鳥の家来が、角鹿(敦賀)の海の塩を出し忘れたため、角鹿の塩は、のろうことかできなかった。
これより天皇は、角鹿の塩だけを使い。他で産する塩は。天皇をうらむ塩として用いなかった。     (日本書紀)
   註
 角鹿の塩が天皇の御料であった時代があり、その事実を説明するために作られた説話である。だが敦賀湾には、現代製塩遺跡が全たく発見されていないことから、角鹿の塩とよばれたのは、おそらく角鹿に接する、若狭の塩であったのではないだろうか。(若狭大飯)
 小浜市田烏(たがらす)の須の浦には、裏日木最大といわれる製塩遺跡の発堀が手がけられている。ここで生産された塩が、日本書紀に出てくる角鹿の塩と、考えることができる。(小畑昭八郎)


釣姫明神         (田 烏)
 田烏に釣姫(つりひめ)浦という所がある。海浜に小島があり、小社を置く。二条院の宮女讃岐(さぬき)が田烏浦に流され、海に身を投じて死んだ。よって浦人はこれをあわれみ、社を建てて釣姫明神と号した。浦の名もこれに従う。しかし浦の人の古記には汲部(つるべ)浦と書いてあるがら、釣姫浦と書くのは後世のことであろう。
 この浦の元海寺縁起では、この地に流されて来たのは、讃岐ではなく、淡海の娘が唐にいて産んだ幼女である。これを祭神とした。この社は近世西津に移し、旧跡には小社がある。  (若狭国誌)

 白鳳年中一せきの異船か漂着した。船中に一少女がいた。上陸後日ならずして死んだので、浦人はこれをあわれみ、釣姫明神として祭った。       (遠敷郡誌)

 むかし院のきさき蕈(不詳)が遠流になり、海へ身を投げた。その死体かあげられて、釣瓶(つるべ)大明神として祝いこめた。  (社寺由緒記)

 一説では、藤原兼足の娘が不治の病になり、田烏の釣姫(つるべ)浦で療養していた。その娘を祭ったのが釣姫明神である。      (小畑昭八郎)

沖の石               (田 烏)
 田烏の沖あいに大きな岩があり、沖の石とよんでいる。むかし二条院の腰元讃岐(さぬき)か、この浦に暮らして、和歌をよんだと伝えられている。
  わかそではしおひに見えぬ沖の石の
  人こそ知らね乾く間もなし
 讃岐は、二条院の侍女をしていたか、位を下げられて、若狭の僻地へ流されたというか、詳しいことはわからない。この石によせる恋の歌は、千載和歌集にのっている。
 讃岐は、源頼政の娘であり、父の領地が、矢代(やしろ)浦にあったので、父とともに訪れて、沖の石をながめて、この歌をよんだのだろうか。矢代浦は、田烏のとなり村である。      (若狭郡県志)

 讃岐は、田烏の西北にある御所平という地に住んでいた。今でも里の人は、女がここにはいることを禁じている。  (福井県の伝説)





田烏の小字一覧


田烏  順礼塚 西入谷 東入谷 大平 足立 大平口 西大田 東大田 森ノ上 山越 黒山口 蝦田谷 志屋谷 砂連浜奥 西登知山 砂連浜 高津振 東登知山 藤坂 切石橋 高橋 向山口 釜ノ上 向山 口長坂 奥長坂 西当部 東当部 高平 末広 馬路 小嶋 大谷 奥井ノ谷 口井ノ谷 南秋葉下 堂ノ上 桂谷 松山 中溝 坂ノ尻 元山 坂ノ下 口蛙端 蛙端 大低 鳥山 大奥 南立合 北立合 田代 枇杷ケ谷 赤坂 丸賀 立畠 狐塚 坊山 咽乾 小窪 宮ノ上 宮寺 北 船場ノ上 鈞姫坂 野ノ上 上ノ平 南中平 北中平 小谷 後谷口 鉤風呂 鳥越 浜ノ上 浜脇 蔭平 浜ノ頭 船場頭 古山越 石原口 五徳山 不動 古阪口 谷ノロ 谷及坂 石風呂 小屋之谷口 村奥 岩坂口 村中 平 上浜 中之谷 塩浜崎 沖之脇 山境 白石 南傾 北傾 孫谷 大平谷 南黒山 北黒山 砂連浜谷 高橋谷 長坂谷 杉谷 真谷 尾高平 末広谷 桂谷奥 元山谷 蛙端谷 ヒツガ谷 嶺谷 大窪 清水平 立合谷 枇杷ケ谷 赤坂谷 宮ノ奥 橋ノ上 野野上谷 桜谷 奥大谷 田井山 蔦鳥 堂山 蔭平奥 角山 黒壁 谷口奥 平谷 小屋ノ奥谷 岩阪谷 平白谷 傾谷 午之浜 狭島 大浜 赤石 鐘崎 魚見阪 黒崎 青サ表 アジヤ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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