丹後の地名 若狭版

若狭

太興寺(たいこうじ)
福井県小浜市太興寺


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福井県小浜市太興寺

福井県遠敷郡松永村太興寺

太興寺の概要




《太興寺の概要》

南北に走る県道35号(小浜朽木高島線)を挟んで東市場の東側ある集落。東西に走る丹後街道沿いに立地する村。松永谷の入口東部にあたる。中央部の水田地帯を北西から南東にJR小浜線が走り、小浜線の南を国道27号が並走する。地名の由来は、奈良期に太興寺があったことによるとされている。
体興寺と南北朝期から見える地名で、太興寺とも記される。体興寺は遠敷郡東郷杉若里3里にあった寺院で、建暦3年(1213)2月の天台座主慈円の譲状に比叡山無動寺領の1つとして見える。この体興寺の有する所領は、文永2年の若狭国惣田数帳によれば遠敷郡東郷・西郷・志万郷・富田郷に散在する11町7反26歩の田地からなり、元亨年間頃の朱注に「領家天台無動寺領」とある。鎌倉期の地頭は不明であるが、元弘3年(1333)6月20日に若狭忠季の孫の忠兼(直阿)が地頭になったと考えられ、忠兼は東郷公文願成らを率いて太良荘に乱入している。しかし間もなく願成らは忠兼に背いて体興寺に打入り代官を追い出したと忠兼は訴えている。
貞治5年(1366)正月に隆祐は「体興寺惣大夫名」を子の十郎三郎に譲与しているが、この十郎三郎はまた「体興寺十郎三郎安信」と称して、南北朝期には体興寺付近を示す地名としても用いられるようになった。室町期の永享5年(1433)7月4日足利義教御教書によって「太興寺」が南禅寺語心院領であることが知られる、寛正2年(1461)5月12日に山門青蓮院門跡の支配地の1つとして段銭など守護役を将軍から免除されて、再び山門系荘園となった。戦国期にも青蓮院門跡領として見え、文亀元年(1500)4月には青蓮院門跡配下の院家上乗院が支配を認められている。享禄4年(1531)10月粟屋元行が明通寺に寄進した1反の地は「松永体興寺田辺屋敷」にあると記されて、16世紀には松永(松永荘)のうちに含められるようになり、元亀3年(1503)8月の明通寺寄進札には「松永庄体興寺三郎大夫」とある。
近世の太興寺村は、江戸期~明治22年の村。大興寺村とも書く。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数38・人数187。村内には周辺村々の飛地があった。慶応年間松永諸村の飢餓用穀物倉庫が上野村から移築された。耕地の多くが北川南岸の氾濫原にあるためにしばしば洪水の被害を受けた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治6年栄松寺を借用して啓心小学校を開設した。同17年戸長役場を栄松寺内に設置し、同20年啓心尋常小学校に移転。同22年松永村の大字となる。
太興寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ松永村、昭和26年からは小浜市の大字。明治36年まで松永村役場が置かれていた。明治24年の幅員は東西4町・南北2町、戸数36、人口は男100 ・ 女95、学校1。


《太興寺の人口・世帯数》 95・27


《太興寺の主な社寺など》

古墳
集落北東に太興寺古墳群があり、南東に天神山古墳群(円墳21基)、南の四分一との境にまがりと古墳群(円墳5基)がある。
『小浜市史上』
太興寺古墳の埴輪
市指定史跡の太興寺古墳群(通称七ッ塚)は前述のとおり平野部にあって、前方後円墳一基と円墳四基で構成されている。昭和四十五年の圃場整備のとき、松塚と称する第二号墳の周濠部分から興味ある埴輪片が採集された。それは甲胄形の形象埴輪で同一個体三点であった。破片ながら甲胄をしのばせる資料としては充分な器形を見せており、衝角付胄を示す珍らしいものである。このような埴輪の出土例はきわめて少なく、日本海側では京都府弥栄町(丹後)のニゴレ古墳の出土例が知られている『弥栄町教育委員会『ニゴレ古墳』)。ニゴレ古墳出土の埴輪はほぼ全形をみることのできる逸品である。この場合、人物が甲胄を着用した形ではなく、甲胄のみ表現したもので、胴部とも三角板革綴の手法を示している。
一方、太興寺二号墳(松塚)の埴輪はニゴレ古墳出土埴輪によく似ているが、より緻密に表現されており、錣部分もあざやかに調整した見事な出来栄えである。全国的なレベルでみても優秀であるといえよう。これら甲胄型埴輪を伴う古墳はいずれも五世紀代を下らず、六世紀後半の後期古墳としていた太興寺古墳群の築造年代を再考しなければならない。各地区の古墳で述べたように、平野部の古墳群が、実は意外に古い古墳であることが明らかにされ、山麓にひろがる古墳群との関連も検討が必要であろう。加えて一号墳(鷺塚)は小規模な前方後円墳と推定され、この古墳群が五世紀後半の築造であることを示唆している。もっとも、松塚を除いて石室の存在は危ぶまれるが、これらは初期横穴式石室を伴っていた可能性も考えられよう。以上のような古墳形成から、かなり有力な地域集団が浮かびあがり、七世紀代に氏寺として太興寺を成立させた下地がこの頃すでにできあかっていたと推測される。


太興寺廃寺
昭和37年頃の国道27号改修工事で、村回り地籍から軒丸瓦・平瓦などが出土し、奈良時代前期創建の寺跡が明確となった。未発掘のため伽藍配置などはまったく不明である。
軒丸瓦は奈良紀寺を標式遺例とする大宅廃寺式であり、白鳳期~奈良時代前期に創建された寺院跡と判明。これより西側500mばかりに所在する国分寺より古く地方大豪族の氏寺であった可能性が強い。古墳が多いが、その後裔の宗教施設であったのかも、瓦の出土から若狭国分寺は当初はこの寺でなかったかと推測されている。紀寺、大宅寺などが詳細不明であるし、大寺院であってもこれほど古いとたいていは何も記録がなく、何も確たることはわからないのがフツーである。
たぶん若狭国分寺と同じ伽藍配置なのではなかろうか、南北線上に南大門、中門、金堂、講堂とならび、中門から回廊が取り巻き、その東側に塔。これは藤原京の紀寺と同じであり、瓦ばかりでなく伽藍配置も同じであったかも知れない、それが若狭国分寺へも引き継がれたかも知れない。紀氏は古代の中央大豪族であるし、地方にも多い巨大氏族である、朝鮮も一時支配下におきそうになったと伝えるほどの、たぶん渡来氏族で、秦氏や漢氏などの大先輩格であろう、藤原氏などはへでもなかったであろう古い氏族であった、大飯郡木津郷と近江国高島郡木津郷の真ん中あたりになり、朝鮮との交易路であり、丹生の地でもあり、当地に紀氏がいても別に不思議でもなかろう。紀氏でなければ膳臣氏の氏寺であったかも、広くいえば、関係のない中ではなく元々は同族であろうか…
橿原市膳夫町に膳夫寺跡がある、伽藍配置などは不明のよう…


日枝神社

祭神大山咋神。旧村社。江戸時代は山王権現とも称し、松永谷7ヵ村の氏神。別当寺は明通寺。寛文3年(1663)8月の社殿再興勧進帳は「伝聞当社者、仁王九一代伏見院御宇正応三年八月上旬之比創建也、蓋依有由緒従天子為御供料御寄附之田地二町二段有之、故其比者恒例之祭礼鄭重而神事之儀式彩者也、将又当社者江州坂本山王一体而毎年之祭礼同日也」と記す。
文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に「日吉社四丁八百歩」のうち「松永保宮壱町八反百歩」があり、当社をさすと推定される。明応4年(1498)10月15日付実祐田地寄進状には「自伏見殿御寄進参町小之内也」と記され、室町期を通じ三町余の社領があった。正保3年(1646)小浜藩主酒井忠勝が社殿を修復したが、現社殿は天保12年(1841)の再興という。宝暦5年(1755)の京都御室御所への言上書控には「松永谷一宮山王大権現 七ヶ村之氏神在所大興寺村」とあるそう。

『遠敷郡誌』
日枝神社 村社にして同村大興寺字宮本に在り、大巳貴神を祀る、元山王社と稱し伏見院二十二反の寄進田あり、正應三年創立と傳ふ、明通寺別當松永村一の宮と稱す、氏子は東市場三分一、上野、四分一、門前、池河内、大興寺の七箇村なり。

塔心礎石

日枝神社の参道傍らの水手場に自然石の上面中央をうがった塔心礎がある。大きさは幅1・8メートルから1・5メートルくらい、高さ60センチほど。これほど大きければ立派な大塔があったのかも。。
心礎の中心のホゾ穴は、後世に加工されたようで今は径50センチ、深さ10センチほどだが、元々は計測不能。もとは通称村回(むらまわ)り地籍にあったが150年ほど前に境内に移したと伝えている。


曹洞宗栄松寺

旧丹後街道は国道27号の南を通っているが、当寺のすぐ先で交差して、国道27号の北側を通るようになる。ここが小学校だったと書かれている。
『遠敷郡誌』
榮昌寺 曹洞宗正明寺末にして本尊は觀世音なり、同村太興寺字清水に在り。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


太興寺の主な歴史記録


『越前若狭の伝説』
日枝(ひえ)神社         (太興寺)
 当社は、近江国(滋賀県)坂本の山王社と一体で、祭礼の日も同じである。むかしは祭礼のとき、一匹のさるが坂本から当社へ来たり、当社からまた坂本へ行った。        (松永村誌)

太興寺の塚            (太興寺)
 大興寺区の東部の田の中に五つのつかかある。中央の一つは大きい。ここから掘り出した石をはき物台にした家があったが、そのためその家に病人が多く出たので、占い師の勧めで、その石を寺院に納めた。                (松永村誌)



太興寺の伝説


『小浜市史』
太興寺廃寺跡
塔の心礎
太興寺の東側山裾に鎮座の日枝神社境内地に自然石の表面中央をうがった塔心礎と伝えられる手水石がある。現状で長径二・一メートル、短径一・七六メートル、高さ〇・八メートルとかなり大きし。心礎のホゾ穴は大正十年(一九二一)以後に上面を削平して手水石に再利用されたらしくかつての面影はない。しかし、上田三平『福井県史蹟勝址調査報告第二冊』によれば大正十年の時点ではホゾ穴は当初の姿をとどめており、直径五五・七センチ、深さ一〇・六センチが計測されている。径のわりに深さのないのが気になるが、当時の写真をみるかぎり、塔心礎として充分認められるであろう。礎石はもともと太興寺村の字村廻りにあったが、文政年中(一八一八~二九)頃境内地に移したという。この地域は若狭国分寺より数百メートル東に位置し、国道二七号線の南側に集落を構成する。大興寺廃寺跡の伝承址は、国道の南に接し田址より微高地となる。礎石とあいまって寺院跡と確認されたのは昭和三十七年(一九六二)頃より始った国道二七号線新設工事のとき、道の南側溝部分から軒丸・平瓦の出土したことによる。さらに、瓦捨場を部分発掘した結果、多くの資料を得たが、これらから白鳳期に創建され少なくとも奈良期まで寺院の存続していたことが明らかになった。
 村人の伝えるところでは、ここ字村廻に七堂伽藍があって、多くの坊さんが修行していたという。堂塔については未発掘のため不明だが、前述の塔心礎と思われる礎石の残るところから、ある規格を持った寺院だったことは確かであろう。心礎の置かれた前面の小川に石垣を配するが、このうち数個は他の石材と異なる大きいので、あるいはこれらも廃寺の礎石であったのかも知れない。但し、大字太興寺という地名以外に小字の中で寺院とつながる字名は見当らない。
出土瓦
出土瓦は同一型式の軒丸瓦二点(図31-Ⅱ・2)と細片だが型式の異なる一点(図31-3)があり、さらに平瓦多数が採掘されている。便宜上、前者を第Ⅰ型式、後者を第Ⅱ型式と仮称するが、
第Ⅰ型式はいずれも複弁七葉蓮華文で外区の内傾に雷文が施されている。これは奈良・紀寺に標式遺例の求められるもので、白鳳期(七世紀後半)に比定される瓦である。この様式の分布は畿内を中心にひろがりをみせ、奈良二、京都六、大阪八、滋賀四となる。さらに石川二、単独では三重一、愛知一、福井(若狭)一、鳥取一とかなりの範囲に及ぶ。圧倒的に近畿圏に多く、これらが地方寺院にその影響を与えている。基本的には雷文・複弁の型式を継承するが若干の変化があり、軒丸瓦の中心部を構成する中房に特徴がみられる。
北陸の場合、太興寺と石川県加賀市の保賀・弓波廃寺にこの系類をみることができるが、中房から伝播経路の異なることが窺われる。弓波・保賀廃寺の場合、中房蓮子は一+五+九の形態を示しており、紀寺様式をそのまま踏襲している。両廃寺の所在地は江沼郡の中心地で、奈良期でも郡司として江沼臣がみられるが(越前国郡稲帳「正倉院文書」)この氏族は紀朝臣と同族とされており(『新撰姓氏録』)、おそらく奈良から直接導入されたのであろう。
一方、太興寺も基本的には紀寺様式を継承するが何らかの形で、紀氏との関連があったのであろうか。後代では承和六年(八三九)一月に紀松永が若狭国司に補任された一例がある(『続日本後紀』)。しかし当寺院創建当初では紀寺とのつながりは明らかでない。ではどこの影響をうけたかということである。太興寺の軒丸瓦中房の蓮子は三+八となっており、これと同系類の中房を持つのは京都・北白川廃寺と同じく大宅廃寺のみである。したがって、太興寺はこれらの寺院の影響をうけたと考えられよう。ただし、両廃寺とも複弁は八葉であり、太興寺は七葉となっていて必ずしもそのままの踏襲とはいえない。伝播の中で若干の簡略化が考えられ、雷文・複弁ともに多少のひずみもみられる。
さて、ここで問題になるのは一片の細片ながら性格の異なる第Ⅱ型式の軒丸瓦(図31-3)が検出されていることである。これは文化庁主任調査官河原純之が平城宮に類似の瓦と指摘しており、注目はしていたが、ただ一片のみではとの見解からあまり重視されていなかった。ところが、この瓦は平城宮跡第二次朝堂院跡から出土(『平城宮発掘調査報告Ⅶ』)したものと同系類で、さらに美作国分寺(岡山・津山市)にも使用されている(『美作国分寺跡発掘調査報告書』)。これらの年次はいずれも八世紀中葉に求められているが、同系類は幅広い分布を見せており、中央官衙の瓦が地方へ波及したことを示している。と同時に官窯瓦工人の流動も推定されよう。
美作国分寺の瓦(図32)と同笵瓦が同国府跡からも出土しており、官衙に使用の瓦がそのまま国分寺に転用されている。若狭では国府・国衙は未確認だが、以上のように太興寺第Ⅱ型式がそれらと同様の意味を持つとすれば、当然のことながら若狭国分寺にかかわると考えねばならない。加えて同じ瓦が若狭神宮寺から出土しており、その因果関係も推考する必要がある(後述)。
大興寺と国分寺
太興寺の創建は出土瓦から七世紀末頃と推定されるが、七世紀後半には諸国に多くの寺院がつくられており、若狭もこの頃三方・遠敷郡に数か寺は建立されたであろう。これは天武天皇十四年(六八五)、諸国の家毎に仏舎をつくり、仏像・経を置いて礼拝供養せよとの詔による影響もあったと思われる(『日本書紀』)。勿論、家毎と言ってもこの場合有力な氏族集団に限るが、太興寺がどの氏族の氏寺であったのか明らかにできない。またいつ頃まで存続したのかも不明だが、廃棄された瓦だまりで第Ⅱ型式の検出されているところから少なくとも八世紀後半までは確実に継続したと推定されよう。
だが、同じ時期に若狭国分寺が創建されたことになっており、通例では奈良期の造営といわれていた。ところが、発掘調査の結果、瓦はまったく検出されなかったのである。同じ年代に太興寺では瓦が使用されているにもかかわらずである。このことは若狭国分寺創建とのかかわりからきわめて重要な意味を持つ。国分寺に瓦の存在しなかったのは、奈良期には建立されず、のちに造営されたからではなかったか。官衙使用の瓦が太興寺で発見されたことは、天平十三年(七四一)に諸国国分寺造営の詔をうけた若狭国が、太興寺を国分寺に転用した可能性も考えられよう。このことはすでに水野和雄が指摘しており(『北陸の古代寺院』その源流と古瓦)、各地で多くの事例が認められている。第Ⅱ型式の瓦はそれを実証したといえよう。

『福井県史』「太興寺廃寺」




太興寺の小字一覧


太興寺  横田 横田前 叶田 稲口 小清水 八束 村上田 西縄手 村廻り 旅所 上高柳 高柳 西縄手下 南縄手 猿橋 中穴田 五反田 下河原 上大窪 上穴田 窪筋 上河原 敷所田 土泥池 深田 大清水 三反田 向清水 社ノ神 鷺ノ塚 松山 椿清水 松塚 清水 宮ノ本 宮前 下小清水 中河原 辻ノ下 宮ノ上 天神上 倉谷 口谷 三枚畑 堀清水上 回途

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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