竹長(たけなが)
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福井県小浜市竹長 福井県遠敷郡宮川村竹長 |
竹長の概要《竹長の概要》 宮川の中央部に位置する。「若狭国守護職次第」応安4年(1371)の条に、「去程に宮河に城郭を構立籠る処に、同四月中申の夜、忍入合戦あり、城方には武永入道と云者討れ了、然間、彼在所を焼払ひ濫妨に及、西津へ帰り給了」とあって、武永(竹長)を名乗る武士のいたことから、中世にさかのぼる地名であることがわかる。南北朝争乱期には当村が国人一揆の拠点となったようで、大戸との間に東へ張り出す野木山枝峰山頂には南北朝期の竹長城跡が残り、北東山すそに城との関わりを示す小字木戸がある。 武永は、戦国期に見える地名。若狭国遠敷郡宮川保のうち。年月日未詳の宮川保神田堂田段別書上に「大 武永薬師堂ノ田 分米壱石代」「小 武永大将軍次良丸名之内 分米三斗窪大夫」と見える。 近世の竹長村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」に、数23・人数108。慶応2年の御領分中村々高書上控(安倍家文書)では戸数23。江戸初期には宮川4か村(竹長・加茂・本保・大谷)は矢代浦の持山で薪を刈取っていたが、明暦3年(1657)矢代浦から停止の申入れがあったため旧に復するよう藩へ訴訟を起こした。結果は宮川4か村に有利な裁決があり、矢代浦は1貫文の過銭が課せられた。かつては狭野明神があり,その前を流れる御手洗川を宮川と称し、これを宮川保の語源とする説がある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年宮川村の大字となる。 近代の竹長は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮川村、昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北3町、戸数24、人口は男67・女68。 明治32年下ノ山に隔離病舎が建設され、同37年6名の赤痢患者を収容し、大正7年のスペイン風邪にも利用されたが昭和26年廃舎となった。 《竹長の人口・世帯数》 62・18 《竹長の主な社寺など》 平安末期の和鏡 『みやがわの歴史』 竹長出土の和鏡 竹長地区土地改良のとき(昭和四七・四九年)、古墳・奈良・平安時代の須恵器・土師器が松尾平太郎氏によって多量に採集され、中には若狭でもっとも古い型式に属する須恵器もありました。また、四九年の春、同じく松尾氏によって田圃の中から若狭では出土例の少ない和鏡が発見されており、これらのすべては同氏によって小浜市へ寄贈され大切に保管されています。ここでは和鏡についてのみ記しますが、竹長出土の鏡は純和風の文様を持っているもので、平安時代末期から鎌倉時代初期の和鏡と推定されます。直径一一、三センチと小型で内圏を有し、背面の文様は山吹に双鳥をあしらう山吹双鳥鏡と呼ばれるものです。よく見ると桜花らしき文様もあって或いは桜花山吹双鳥鏡の可能性も考えられます。外縁の高さは〇・六センチ、厚さは〇・五センチとかなり厚く、鏡板は〇・一五センチを計ります。 本来、古代の鏡は信仰の対象として用いられ、古墳時代は神と直結して存在、仏教伝来とともに至宝の明鏡となり、万物を照らす仏の知恵となったのです。古墳時代の漢式鏡から飛鳥・奈良・平安前期の唐鏡、平安後期から和鏡へと移行します。和鏡は末法思想とりかかわりから数多くつくられ、主として経塚に埋納されま。鏡の持つ霊力は広義に解釈され、神に結びついたものが仏教に用いられ、寺院建立の折鎮壇具として埋納され、寺院の永却不滅を祈願したり、仏像の宝冠や、光背などにも破魔鏡として使われるようになります。 奈良時代や平安時代前期では唐鏡の模倣にすぎませんでしたが、平安後期にいたって日本独特の文様を創造し、世に藤原鏡といわれる和鏡が出現するのです。この時代は特殊なものを除いて一般的には八~一一センチ内外の小型鏡が多く、文様表出は鋳型に直接ヘラ押しをしたためやわらかい線となり、せんさいな感じをうけます。 この様に純和風化された文様は藤原文化の耽美性を背景に顕し、和鏡の創立期ともいうべき藤原期の優雅さであろうか。和鏡の盛行する鎌倉時代の鏡と対比するとその差は明らかです。 竹長出土の和鏡が、どのような状態で出土したのかわかりませんが、松尾氏の話では砂を敷きつめたようなところに在ったとのことで、何らかの埋納施設と考えられます。一般的には経塚に多く見られますが、この場合伴出遺物もなくその実態を明らかにすることはできません。 その他では下の写真にみられる文字を線刻した土器片が出土しています。土器は須恵器(カメ)カですが、残念ながら欠けているため三文字しか確認できません。現状で「畠家戸」と読めますが、どのような意味を持つのかこれだけではわかりません。若狭では墨書土器は若干みられますが、線刻されたものはこれ以外には見当らず貴重な遺物と云えます。この年代については同じところから出ている他の土器との関連から平安時代中頃(一〇世紀)と推定されます。 日枝神社 ずいぶんと長い参道の先、山裾に鎮座。山王社ともいう。祭神大己貴神。旧村社。「若狭郡県志」は「宮川保之惣社也、二月八日祭日有二神事能一」と記す。社殿は天文年中(1532~55)に焼失後仮殿となっていたが、寛文5年(1665)小浜町人田烏長左衛門が再建、「其節人足入次第ニ四ケ村割ニて相勤」めたという。翌年には能舞台・鳥居の建直しをしており、このときも入用銀を4ヵ村割にするなど、宮川保の惣社であったことを示す。当社には源三位頼政がヌエ退治に使ったと伝える矢が奉納されているという。 『みやがわの歴史』 日枝神社 竹長区字宮ノ上に鎮座。祭神は大己貴命。山王権現ともいいます(旧指定村社)。当社は宮川保四ヶ村(竹長・新保・本保・大谷)の惣社として重視されていました。したがって、明治四〇年一月に神饌幣帛を供進する指定神社に格付けされたのです。境内には神明宮(天照大神)、櫛御気神祉(櫛御気命)を祀ります。 創建は弘仁二年(八一一)近江国坂本から勧請されたとしますか(「福井県神社誌」)、「若狭管内社寺由緒記」には由来しらずとあります。しかし、「延喜式」神名帳に記載はなく、平安中期以降に勧請されたと考えられましょう。社殿は天文年中(一五三二~五五)に焼失後仮設になっていましたが、寛文五年(一六六五)小浜町人田鳥長左衛門が再建し「其節人足入次第ニ四ヶ村割ニて相勤」めたとあり、また、翌年には能舞台・鳥居の建直しをし、このときも四ヶ村割にするなど(『清水家文書』)宮川係の惣社であったことを示します。 社殿の左側には石囲いをした場所があり、ここは宮川の各神社を拝するところといわれています。このことからも当社がいかに重要な位置にあったかを知ることができます。また、境内の左側山裾にも石囲いがあって榊を植えてある場所がみられます。ここは「山の神」といわれるところで、背後の山腹に所在する巨岩を拝するそうです。背後は野木山に連らなる山嶺で、巨岩はおそらく磐座と思われ、山岳宗教の存在したことを伺わせます。 或いは、日枝神社のもとも祭祀かも知れません。なお当社には源三位頼政が鵼を退治したときに使ったと伝え以れる矢じりが奉納されていました。 『遠敷郡誌』 日枝神社 村社にして同村竹長字宮ノ上にあり、祭神は大已貴神にして弘仁二年三月勧請と傳ふ、近世山王社又は山王権現社と稱し、宮川保の総社にして元本保、大谷、新保、竹長の氏神なり、境内神社に神明社祭神天照大神、櫛御気野神社祭神櫛御気野命、愛宕神社祭神伊弉冊命、火産霊命は寛永十八年勧請、明治四十一年字上ノ山より合併、狹野神社祭神神武天皇は元字水無にあり、神祠前に一小池あり、水中蛇形の樹あり、旱魃の際附近五箇村より來り之を動かして雨を祈る慣例あり、明治四十一年合併神階記に正五位宮河狹野明神とあり。 狭野明神 今は日枝神社に合祀されているという。 『みやがわの歴史』 狭野(さの)明神 享禄五年(一五二二)の神名帳写(小野寺文書)に「正五位 宮河狭野(サノ)明神」と記される古礼。祭神は神武天皇と伝えますが明らかではありません。明治四一年に合併されました。「若狭郡県志」に「竹長村狭野明神社之畔、有二御手洗川一、名二宮川一、故合二竹長・本保・大谷・新保等四箇村一而、称二宮川保一也」とあり、当社の前を流れる川が宮川村の語源と記されています。また、蛇木伝説もあって、伴信友の『神社私考』注書きに「里人云う。この神の森の中に池あり、深さ二尋三尋ばかりあり、蛇木は池の中にあり、圍六・七尺許、長一丈二・三尺もある木なり。一方に枝一木あり、これを角といふ。古は此角二枝ありけるが、前に寄しき事ありて折りなるけるを、社中に蔵めおけり。旱に雨祈の神事をするに、近村の民ども集りで彼池ノ水を汲干し、さて蛇木を引上げて、森中の大木に繩もて縛ひ著て、三日間に干すなり。共間、三・四寸許なる小蛇の題は黄に、背は紅く、腹は白きが二つも三つも出来て蛇木を蛟巡事(ハヒメグル)必あり、さて三日を経て、蛇木をもとの如く池に下し安置て神祭を行ふに、必其近村まで雨降りて紺池水も満るなり」とあります。狭野明神の周辺が神聖な場所としてあっかわれ、雨請い祈願にもしばしばこの池が使われています。近代まで行事はおこなわれており、明治九年・大正一三年にも雨請いをしたらしい。伴信友の記録にあるように、蛇木を松に一一回荒縄で巻き、太鼓や鐘を鳴らして祈ったと古老は伝えています。 竹林庵 『みやがわの歴史』 竹林庵 竹長集落の中心に所在する曹洞宗の寺院。龍泉寺末。山号は医王山、本尊薬師如来坐像。日月両菩薩を脇立にし、右側には木造の一三仏を、左側には木造一六善神を配しています。写真にみられるとおり白象に乗る普賢菩薩はいつの頃か盗難に合い白象だけが残されています。 当寺は享保一五年(一七三〇)龍泉寺第六世岱宗関林の創建となっていますが寺歴は龍泉寺過去帳によると享保六年(一七二一)に記録があり、元治元年(一八六四)まで認められます。以後は無住となったらしい。 大正八年四月八日に当寺の寺号は今立郡国高村横市に移転しました。仏具類は龍泉寺に上納され、建物は竹長区の会議場となりましたが、昭和六〇年全面改築され、竹長区住民センターとなりました。 『遠敷郡誌』 竹林庵 曹洞宗龍泉寺末にして本尊は華厳釋迦佛なり、宮川村竹長字口野谷に在り、境内佛堂に薬師如來を安置す。 竹長城跡 野木山枝峰山頂には南北朝期の竹長城跡がある。 まわりほとけ 『みやがわの歴史』 廻り阿弥陀さん 背負って運べるように作られた厨子の中に木彫の阿弥陀さんが祀られています。 加茂・治郎太夫さんの発願と伝えます。各家で四日乃至五日間祀って次の家に背負って送ります。宮川全域を廻るのです。お賽銭は小袋に入れてお供えします。 竹長の廻りほとけ 御大師様と称し、木尊は弘法大師像、竹長の各戸をまわります。各家では一ヶ月お祀りをして次の家に廻します。 「廻り大師」 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 竹長の主な歴史記録竹長の伝説『みやがわの歴史』 蛇木 狭野明神(さのみようじん)のそばに小さな池があり、池のなかにヘビの形をした古木がある。これを蛇木(じゃぼく)とよび、雨ごいの神といっている。 竹長村は、田の割合に谷が浅く、水がとぼしく、干ばつの被害が多い。雨の少ない年には、この蛇木を池から上げて、なわでそばの木にっるして、雨ごいをする。三日間ないしは七日間太鼓や鐘をならす。よその村からも人が集まり、みんなで祈ると必ず雨がふる。 また村人の話に、この池は、深さ二ひろほどあり、蛇木は池の中にある。長さ四メートルほどの木である。枝が一本あり、これを角といっていた。背は二本の枝があったが、不思議なことがあって折れてしまった。 干ばつに雨ごいをする時、近くの村人も来て、この池の水をくみ出し、蛇木を引き上げ、木になわでしばりつけ、三日間日にほすと、その木から十二・三センチの小ヘビが二、三匹出できて、蛇木のまわりをはい回ることがある。この小ヘビは、頭が黄色、背が紅色、腹が白色である。三日間を過ぎると、蛇木をもとの池へおろして安置する。 この祭りがすむと、必ず付近に雨が降り、池に水がいっぱいになる。この池には、長さ三十センチもあるどじょうがたくさんいて、池の水をくみ出す時、泥とともに田へ放たれる。しばらく田にいるが、また帰ってきて、この池に住むといわれている。なまずの大きなのも住んでいるが、この土地の人は、神魚としてとらない。蛇木を池の中へ安置したあと、三日間はこのあたりへ立ち入ることを禁じている。これは、ヘビが疲れて眠っているので、さまたげになるからである。ある年雨ごいのあと、ある人がその神社に忘れものをして、取りに行くと、大きなヘビが池のそばで眠っているのを見たという。 (宮川村誌) 山王権現のお手洗い池に蛇木(じゃぼく)という二またの古木がある。雨ごいのときはこの蛇木を引き上げれば、雨が降る。 (寺社什物記) 竹長の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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