丹後の地名 若狭版

若狭

太良庄(たらのしょう)
福井県小浜市太良庄


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福井県小浜市太良庄

福井県遠敷郡国富村太良庄

太良庄の概要




《太良庄の概要》
太良庄は中世の東寺領荘園として知られており、当時の史料が豊かに残されていて中世の歴史書などには必ずといってよいほどに紹介されているところである。北川下流右岸の東に野木山、北に賀羅岳、西に熊野山の三方を山に囲まれた広い谷になる。地内は北から太良川沿いの太良、鳴滝川沿いの鳴滝、小野寺川沿いの定国、師野川沿いの日吉の4集落からなる。宮谷・定国・鳴滝・太良など中世荘園地名の残る小字の集落を太良四谷とした。古代は遠敷郡丹生郷の地。太良庄は中世の京都東寺領の荘園名であるが、タラとはタタラのことであろうか。北川の堤防上を県道220号が通る。
中世の太良荘は、平安末期~戦国期に見える荘園名。平安末期~鎌倉初期には国衙領として太良保と称され、その伝統を受けて国衙や守護は荘園化したのちも太良保と称することが多い。当荘は京都の東寺(教王護国寺)旧藏の膨大な文書によって内部構造や荘民の動向を詳しく知ることができる著名な荘園である。
そうしたことで中世太良庄を詳しく見てみると、11世紀末に遠敷郡長田(野木付近か)の地名を名乗る下級貴族平師季は遠敷郡内の東郷と西郷に属する松永保恒枝名内に所領を有しており、この所領は子の隆清、さらに隆清の子の忠政に伝えられ、仁平元年(1151)3月に忠政の子丹生若丸(雲厳)に与えられた。この時その所領は「丹生村 太良保内ニケ所」と見え、これ以前に忠政の通称丹生太郎に基づいて「太良保」が成立していたことがわかる。雲厳は治承2年(1178)2月23日に太良保の保司から公文職に任じられ、源平争乱の時は源氏に味方して鎌倉御家人となっている。この時公文雲厳は西郷郷司であり、若狭国の最有力在庁官人で御家人でもあった稲庭時定に服していたが、建久7年(1196)時定はその所領のほとんどを幕府によって没収され、代わって若狭国守護、遠敷・三方両郡惣地頭の若狭忠季が太良保地頭となった。忠季の圧迫を受けた雲厳は、承元2年(1208)11月所職を稲庭時定の子の時国に譲与せざるを得なかった。
比企能員の縁者であった忠季は比企能員の乱によって所領・所職を没収され、代わって同保は中条家長の所領の1つになった。他方で建保4年(1216)に若狭の知行国主源兼定は太良保を七条院(高倉院後宮藤原殖子)建立の歓喜寿院に寄進しここに太良荘が成立し、翌5年には田地目録も作られ、12の名の体制も整えられたとみられる。しかし承久の乱後、還補された地頭若狭氏の支配は横暴を極め、公文職を奪い、荘民に種々の言いがかりをつけて罰金を責め取った。承久の乱後は当荘は国衙領とされて太良保となっていたので、のちに東寺長者となる仁和寺菩提院行遍は東寺の常住供僧料獲得のために活動し、延応元年(1239)2~11月に当荘は本家歓喜寿院,領家行遍として回復され、預所には東寺僧聖宴が任じられた。この年に預所の代官である定宴が下向してくると地頭の横暴に耐えていた勧心・真利・時沢の3人の百姓をはじめとする農民たちは定宴と結んで地頭の非法を訴え、ついに寛元元年(1243)11月地頭代定西の罷免などをめぐる六波羅探題での裁判に勝訴した。宝治元年(1247)10月の関東下知状によって勧農は預所の沙汰とすることが定められ、これを受けて定宴は建長6年11月検注を行い、同8年2月に勧農帳を作成した。その結果当荘の総田数は28町8反余で、神田や給田を除いた21町6反余が定田とされ、定田は2町台の均等な5つの名を中心に編成されている。
文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案では太良保は25町8反40歩とされ、地頭給などを除いた定田は17町2反190歩として登録されているが、この25町8反余は当荘の公田数として室町期にも国衙の段銭などの賦課基準とされている。
鎌倉後期になると種々の名主職相論が起きる。その代表的なものは御家人雲厳の所領であった末武名をめぐる争いであり、建長5年に雲厳の養子と称する宮河乗蓮、その娘藤原氏女が現れ、これに対抗する稲庭(中原)時国の孫娘中原氏女、その夫脇袋範継との間で弘長~文永年間を中心に繰り返し争われた。他方で文永8年には勧心名については、他所に逃げていた西念と勧心の所従で勧心より名を譲与されていた重真らの間でも争いが生じた。預所聖宴は西念に名主職を与えたが、これに対して荘民たちは弘安元年5月に相伝の名田をさしたる罪科もないのに他人に与えられることは今日は人の身たるといえども明日はまた身の上たるものかと中世荘民の連帯感を表明して聖宴の処置に反対した。
その他にもさまざまな争いもあったが、正安4年(1302)9月地頭若狭氏は所領を没収され、太良荘地頭職は北条氏得宗の支配するところとなった。このときの得宗代官による検注は、畠を把握したほか惣田数帳案の定田17町2反190歩以外の地は新田として地頭が支配することを定め、また隣接する恒枝保の一部の耕地を取り込んだため、南北朝期の紛争の種を残した。この得宗地頭支配下で代官(給主代)として近隣の体興寺の住人願成や小浜の高利貸(借上)と思われ熊野三山僧ともいわれる石見房覚秀が支配を行った。この得宗圧政のもとで所職を奪われていた近隣武士や荘民の怒りが建武新政府下で爆発する。元弘3年(1333)9月に地頭職は後醍醐天皇によって東寺に寄進された。当荘はここに東寺の一円所領となったが、かつて地頭であった若狭直阿は実力で支配を回復すべく荘内に乱入した。また乱妨を取締るべき国衙の在庁官人や守護代も元弘3年11月に荘に乱入し遠敷市に出かけた荘民の資財物を奪っている。この時末武名の由緒を主張する脇袋彦太郎国広は名主職を回復するとともに「庄家警固」のために地頭代に任じられた。しかし脇袋は末武名の公事を負担せず、民を使役し在家を壞して城郭を作るなどしたため,59名の荘民たちは一味神水して起請文に連署し、脇袋の改易を東寺に求めている。さらに助国名・時沢名をめぐる荘民間の対立もあり、建武年間は「明王聖主の御代」といわれながら当荘は大混乱の時期であった。暦応2年(1339)2月にはようやく動乱が一段落し領家方163石余・地頭方120石余の年貢が定められ、以後毎年算用状が作成されるようになる。観応の擾乱の影響を受けて、観応2年(1351)10月に遠敷郡の武士を中心とする国人一揆が形成され、守護大高重成の代官大崎八郎左衛門入道を追い出すとともに太良荘にも乱入した。そこで荘民は脇袋国治を代官とすることを要求し国治が請負代官となった。他方で文和3年(1354)に守護細川清氏による半済が行われた。脇袋国治のあと河崎信成や宮川弾正忠という若狭国人が代官となる時期が続いたが延文4年(1359)にはそうした国人の代官請負制が止んだので東寺は預所や地頭代官の権限や得分を制限することによって荘の再編成をはかった。しかしこれが原因となってか康安元年(1361)8~9月に定宴子孫の賀茂阿賀丸が公文の禅勝を殺害し、阿賀丸もまた禅勝の子によって殺されるという事件が起きている。同年末に康安の政変で没落した細川清氏に代わって守護となった石橋和義の家臣とみられる「ヘカサキ」重雄は貞治元年(1362)に半済を強行し、領家方・地頭方の年貢のうち半分の141石余が半済給人の得分となり、のち応安元年(1368)には名ごとに下地も等分されて半済方が成立する。半済方に対して東寺の支配する部分を本所方という。室町期にはたび重なる東寺の要求にもかかわらず半済は停止されず、また守護の課す臨時課役も多かった。正長元年(1428)の土一揆の余波が当荘にも及んだが、翌年には本所方に最後の検注が行われた。この検注の内容は以前のありかたを変えるものではなかったが農民の肩書に太郎・ナルタキ(鳴滝)・谷・西丸田・尻高・西山などの在所名が記されこのうち鳴滝、谷は応永年間にすでに村名で呼ばれた。なお尻高は地頭方に属す田地を持たない地で尻高名ともなっているが、守護方の陣夫などを勤めなかったため康正元年には荘民の要求によって名主職が没収されたこともあった。永享12年(1440)には守護が一色氏から武田氏に代わり、半済方は武田氏家臣山県氏が支配することとなり、その支配は戦国末期まで続いた。嘉吉2年(1442)には当荘の住人大工小南六郎権守行信が東寺御影堂の鐘を鋳て進上しようと申し出て、翌3年鐘は東寺に送られたが、この年の後半には若狭にも徳政一揆が起こり、荘民たちは神物仏物にも「田舎の大法」は適用されるのだとして年貢から借りた鐘の運送費の返却を拒んでいる。文安年間の地震によって用水排水ができなくなったので太良荘半済給人などは荘の南を流れ、今富名の大井の下を潜る埋樋を設置していたが、今富名側がこの埋樋の口を塞いだため寛正元年より相論が起こり、これに関する絵図も作られている。応仁の乱直前の文正元年(1466)9月には半済方が本所方を支配するようになったと報告され、応仁の乱とともに東寺の支配権は失われた。戦国期には本所方の代官として桑原氏が知られる。天文20年(1551)9月14日の本所方指出によれば本所方定納分は米74石余、地子銭・段銭の計が48貫余とされている。
近世の太良庄村は、江戸期~明治22年の村。江戸期には多良庄村と書かれることも多い。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば家数109 ・ 人数477。当村では持高20石以上が長百姓(年寄)、10~19石は中百姓(中﨟)、10石以下は小百姓(平)と3段階に格付けされ,、屋役は長百姓が勤めた。長百姓のなかには170石を保有する者も存在した。村法として正徳2年(1712)に万法度書18か条が定められ、これに反した者には過料か村はずしの罰則が適用された。文久3年(1863)の平百姓一統の願書によれば身分偏差のあったことがうかがわれ長百姓や中百姓との縁組もできなかったという。また古くから氏神神事に関する宮座の席順や祭礼勤仕の次第も規定されていたが、幕末に至り平百姓と長百姓・中百姓との平等をめぐる争論も起こっている。農民の中には藍玉商売をする者もおり他国より2割安く販売していた。嘉永元年洪水が発生し堤防決壊による被害は300石に達した。明和4年対岸小芝原の畑地境目をめぐって東市場村との争論もあった。
明治3年の戸数84 ・ 人数328.。同4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年国富村の大字となる。
近代の太良庄は、明治22年~現在の大字名。はじめ国富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北4町、戸数86、人口は男203 ・ 女207、学校1。地内の用水は下野木取入口(大井根)から西側高塚へ流れる込田川となり、南北用水は城谷川・鳴滝川・太良川が利用され込田川に合流、落し口には中世以来木製の樋が架かっていたが昭和40年取り外された。昭和39~41年の土地改良事業により用水・田地は大きく変化を遂げた。


《太良庄の人口・世帯数》 254・69


《太良庄の主な社寺など》

古墳
『小浜市史』
太良庄地区では丹生谷と呼ばれる太良地籍に多く分布する。奈良期では「平城宮跡出土木簡」によって丹生里に比定されるところで、古くから集落構成があった。福井県最古の金銅仏を安置する正林庵の南側山裾に四基と北側山裾に一基がみられ、その北側谷間、寺谷では一〇基が群集する。ここでは仁王塚と称されて並ぶ二基の円墳が見事な調和をみせており、双方とも径二〇メートルを越え高さは四メートル以上となる。さらに周庭もあって国富地区最大の円墳といえよう。今一基同規模のものがある。それ以外は山の斜面にあって石室の露出するものもあるが、多くは原形を保っており、全体に残りは良好である。寺谷の北側、大森・小森地籍にもあったが(上田三平『若狭・越前の遺跡』)、今は見当らない。太良区の最も奥深い谷間の小字明石に所在する古墳は狭い斜面に四基あり、一基は林道に沿って大きな天井石を露出させ、他の三基も石室の一部が確認できる。
太良庄地籍では谷の東側、野木山の朶峰山裾小字イナバに数基の円墳がある。ここには南北朝期に東寺領太良荘代官たった脇袋氏築城の山城があり、古墳を削平して造成したことも考えられる。本来はもっと数多く存在したのであろう。これより北東の谷間い(日吉谷)山裾では、太良庄二の宮を称する日枝山王宮背後にかなり大きい横穴式石室が露出して存在する。さらに賀羅岳から西へ張出した枝峰先端部小字泰雲山にも二基がみられ、そのうち一基は破壊、一基は石室の一部が残されている。この谷間の奥に太良荘と深いかかおりを持つ真言宗小野寺がある。この北側谷間は長英寺(禅宗)にいたる谷間となるが、この最奥に御所の森と袮して地区民から神聖視される場所がある。ここには鎌倉期の五輪塔(市指定)を祀るが、この上部山裾に横穴式石室を露呈させる一基がある(図16)。墳形は不明だが多分円墳であっただろう。しかし、一部石材は抜かれているものの石室の全容はほゞ把握できる。玄室部分は天井石も残り原形をとどめており、片袖式で延長七メートル余を計る。奥壁は横長の石材で積み上げており、鏡石を裾えた形態ではない。したがって国富地区の横穴式石室としては古い部類に属し、或いは六世紀中葉まで上るのかも知れない。



式内社・丹生神社

丹生谷の中央東側山裾に鎮座し、祭神は彦火火出見尊。「延喜式」神名帳の「丹生神社」に比定される。「若州管内社寺由緒記」に「一ノ宮、上下宮勧請時代不知、併太良庄最初の宮たるに依而一ノ宮と号す」とあり、若狭彦神社の遠敷明神を勧請したと伝える。祭礼は現在5月5日に行われ、氏子は字太良22家、小字鳴滝の15家。祭日には神社の裏に1坪余の田圃を特設し、豊作を祈願して子供たちが植初めをしたのち、小神輿を担いで太良中を練り歩くという。写真中央が丹生神社、脇宮は天神社。
北川河口部の右岸一帯を丹生郷というくらいで、当時の国家の庇護を受けた当地一の大社であったと思われるが、今は小さなホコラである。
ちょうど裏山の杉材の伐採作業中で、その根元の土壌が見えていた、朱の色でなく黄色っぽいものであった。今に伝わる由緒は遠敷の勢力が強くなった後の世のものかと思われるが、本来の祭神も由緒も伝わってはいないようである。

『国富郷土誌』
丹生神社
太良庄太良の集落の南側山裾の、丹生谷のほぼ中央にあたる太良庄第二二号丹生二番地に鎮座し、彦火火出見尊を祀る旧無格社、地元では通称一ノ宮と呼んでいる。『延喜式』の遠敷郡丹生神社に比定される。『福井県神社誌』にも「無格社として彦火火出見尊を祀る。古来一ノ宮と称し遠敷明神を勧請すと伝ふ式内の古社なり」とある。『若州管内社寺由緒記』には、「一ノ宮上下宮勧請時代知らず併太良庄最初の宮たるによって一ノ宮と号す」とあり、往古一ノ宮より遠敷に通ずる直通道路があったという。また伴信友の「若狭国神社私考」には、村民の伝承として、養老四年(七二〇)の創建であると記しているほか、別の伝承では、天津彦火火闌降尊(若狭彦神社の兄神)が祀られているともいう。また、享禄五年(一五三二)の「神明帳」には、従四位丹生明神とある(「小野寺文書」)。丹生は、もともと太良庄の古名で、平安末期には、太良庄の開発領主平隆清がこの神社の辺りに住み、その領地を百姓に耕作させていたが、自分の名字に丹生を名乗り、この宮を祀っていたものと考えられる。その後その子の丹生太郎忠政にゆずってからは、この地を太良保と呼ぶようになり、南北朝期には太良宮ともいわれていたという(「中世荘園の様相」)。宝永六年(一七〇九)の記録に「宮地一〇〇四坪、宮地に続く山あり。本殿〇・六三坪、天神社〇・二坪、高さ八尺の六本鳥居あり」と記されている(「高鳥甚兵衛文書」)。
当社は、中世には禰宜職があり、薬師堂と兼ねていたといわれるが、その後は不明である。近世までは小野寺が別当をつとめ、その記録によると二月十日と九月十日の例祭をはじめ、ほとんどの月に祭祀祈祷が行われていた。宮世話の制度も世襲的な宮座の制度によって管理運営されていた。当時の氏子は四〇戸となっている。現在の氏子は、太良二一戸、鳴滝一五戸で、各谷より二名計四名の総代が選出され、祭祀や管理に当たっている。現在の祭祀は三月十日の祈願祭と、十月十日の例祭・新嘗祭の二回行われ、氏子全員が神事に参詣した後、直会にはいる。総代とは別に氏子三人が輪番で当番に当たり、赤飯や肴の準備をしてもてなす。当社は今なお赤飯を入れる器は、木製無地のままの大きな木皿を用いている。また最近まで一本箸で直会をしていたが、その理由は不明である。
脇社の天神社には菅原道真公を祀るが、現在二月十一日には地区内の子どもたちが“天神講”を開き、宿で各自半紙に「天神様」と書き、これをこの社に納め、勉学の向上をお祈りする行事を行っている。
現在境内地七六六平方メートル、これに続く山林約二一㌃、本殿七・五平方メートル、天神社一・五平方メートル、長床四五平方メートルがある。昭和五十年にそれまで桧皮葺の本殿・天神社とも銅板葺にしている。また同時に長床の改築も行った。この時の財源は氏子全員の寄附のほか、社の右側にあった杉・桧林を売却してこれに充てている。その後直ちに植林し、毎年育林奉仕をしている。
現在の鳥居は、大正十三年石で建て替えられ、きざはしは昭和三十七年みかげ石で改修された。平成二年には水洗便所も新設された。年間の経費は、一律の氏子負担金によってまかなうほか、必要に応じて特別会計(山林売却費・寄附金)も使用する。氏子総会は春の祭礼時に行う。


『遠敷郡誌』
丹生神社 同村太良庄字丹生にあり、一の宮と稱し遠敷明神を勸請すと傳ふ、延喜式に丹生神社あり、神名帳考證に埴安神、倭名抄云 爾布 姓氏録云、息長丹生眞人、稚渟毛二俣親王之後也、三代實録云、貞觀十二年十二月、若狭國言、遠敷郡人丹生弘吉、孝敬周備、叙。二階とあり、境内神社天神社の祭神は菅原道具公なり。


日枝神社

デカイ鳥居が建っているのでさぐわかる、社殿はまだだいぶ奥である。この参道を縦馬場と呼ぶ、中世になると祭祀の中心は、丹生社から当社に移ったと思われる。
山王宮また山王大権現とも称され、当地の小野寺が別当であった。旧村社。社蔵の山王権現縁由記には祭神は天津彦彦火瓊瓊杵尊、天平宝字5年(761)垂迹とあるが、中世に勧請されたと推定される。当社最古の棟札には「八幡宮 若州遠敷郡太良庄谷村 大工遠敷 応永三十四丁未年八月十五日作立 大願主鳴滝村之道性 中村之左近允」とある。「若州管内社寺由緒記」は太良庄村に八幡宮を記し太良庄二の宮とする。棟札と合わせ考えると、もとは八幡宮と称した可能性が強い。また縁由記の永享10年(1438)9月の個所に「道性律師遷宮社務訖」とあり、棟札の年次とも近く信憑性が高い。道性は時沢半名名主で、太良庄で徳政一揆を働きかけた有力百姓であったという。
天文10年(1541)には賀羅嶽(きゃらだけ、鳥居の左後の高い山)城主山県民部が流鏑馬を執行、神輿を再建し、慶長2年(1597)若狭国主木下勝俊も別当小野寺に田地を寄進、流鏑馬を興行しという。社領は貞享3年(1686)の小野寺年貢免状写や、文政8年(1825)の寺田ニ付願書などに「山王領五石」が記される。慶長17年銘の梵鐘(市指定文化財)は小浜藩主京極忠高が若狭鋳物師の本貫として知られる金屋で造らせたものである。また当社には近世よりミソコソデ十家と称する宮世話がいる。ミソコソデとは、日頃味噌汁を吸っていても、祭には小袖を着て正面に座る格式の意という。本殿裏山には古墳がある。


『国富郷土誌』
日枝神社
太良庄集落の東側日吉谷の奥、第四七号黄谷二番地の小高い山裾に鎮座する旧指定村社で、大山祗命を祀る。はじめは十禅師といわれ、室町中期ごろから山王大権現、後に山王宮といわれ、また太良庄二ノ宮とか八幡宮とも呼ばれた、と伝えられている。真言宗小野寺が別当として祭祀に当たっていた。
「日枝神社古文史」(岡村源右エ門氏所蔵)によると「神亀五年(七二八)稲葉山の親王庵に居宿る新世親王に説諾を求め瓊瓊杵尊の神霊を成滝のふろやの池に迎え奉り卯月五日丹の荘日出麻野谷に鎮座安置し奉まつった。創建当時の仮社殿は、本間八尺奥行一丈四尺高さ二丈、掘立柱藤絡の杉檜の葉葺屋根云々」と記されている。稲葉山は現太良庄東側にあたる山で、山頂近くに小台地があり、その付近に一言大明神、愛宕大明神、山神大明神などの祠祀地がある。古くから七月二十四日には、日枝神社の世話人が、一言大明神とそこに至る参道の掃除をした後、現場で祭祀したといわれるが、現在は同日に日枝神社拝殿で、この山の方向に向かって、明神祭が行われている。またふろやの池は、現鳴滝の高鳥甚兵衛宅の入口にあった、三角形をした約三坪ほどの浅い湧水の池で、清浄な池として、古くから山王宮の神輿や、子どもみこしをこの池で清浄にして、祭礼の行事に参列した。また山王宮の神輿のお旅所でもあった。しかし昭和五十五年鳴滝川の改修により現存しない。このほか「山王大権現縁由記」(「小野寺文書」)や、「若狭国神階記」などにも同年代の創建とあり、『福井県神社誌』にも「神亀五年社宇を創立 大山祗命を奉祀(中略)境内五九八坪、氏子九十三戸」とまとめられている。しかし創建の時期については種々の資料と、神社明細書などから、中世に近江の日吉大社から勧請されたものと推定される。
参道入口の石柱には日枝神社と標示され、一般には日枝神社と呼んでいるが、本殿に掲げられている額には、日吉神社となっている。
参道は非常に長く、鳥居をくぐり約二五〇メートルの縦馬場と呼ばれる参道があり、またこの参道の中央あたりは、十字路の広場になっており、そこより左手に約九〇メートル進むと、若宮神社に達する。この参道を横馬場という。両馬場(一般にバンバと呼ぶ)とも道幅が広く、鳥居から十字路までは特に広くて幅一〇メートルもあり、昭和前期ごろまでは桜や梅の大木の、並木通りとなっていた。鳥居は近郷には珍しい六本鳥居で、寛政元年(一七八九)に建てられた。その記録によると、高さ一丈五尺、現在のものは昭和三十三年に建造され、高さ五・八メートル、四本柱高さ二・五メートルの六本鳥居で、昔以上の威容を保つている。「古文史」や「縁由記」によれば、仮遷宮以後天平勝宝・天安・文水・永享・慶長・寛文の各年間に本殿造営の記録があり、棟札も多く残されている(「同文史」)。縱馬場よりゆるい坂道(石段)に入る右手に、昭和五十三年改修奉納された手洗所かある。またこの坂道の石段は、昭和五十七年みかげ石で改修された。その坂道を約四〇メートル上りきった右手に、慶長十七年(一六一二)京極若狭守忠高が奉納したという鐘楼堂がある。さらにそこより急になった石段を上りつめると拝殿(三〇平方メートル)に達する。創建は不明であるが、元禄六年(一六九三)に再建、文政七年(一八二四)当初の萱葺を瓦葺とした記録かある。その左には約五〇平方メートルの長床、右には約八平方メートルの舞控所がある。拝殿よりさらに石段を数段土石と横一五メートル奥行九メートルの玉垣で囲まれた中央に、檜皮葺の本殿(一七平方メートル)、左に神輿殿(八平方メートル)があり、本殿前左に伊奘冉尊を祀る多賀社と右に山祇命をモる山祇社がある。なお昭和初期まで本殿の右に宝物殿(八平方メートル)かあったが、現存しない。
天養元年(一一四四)若狭守武田公から、神輿が寄進された記録があり、以後天文・寛文年中にも奉納された記録が残っている(「同古文史」)。現在のものは昭和八年に奉納された。
祭祀は近世までは小野寺が別当をつとめ、正・五・九はもちろん六・十月を除く各月に祭祀祭礼が行われていた。古くは四月に例祭が行われたが、例祭には神事の後拝殿で倉座による能や狂言が奉納され、また神輿が村を巡行した。「往古より神輿くねりて昼より夜に至る。くねるとは乱行し給いて人家を壊し云々」とある。また日吉・定国では大太鼓、鳴滝・太良からは神楽が奉納された。永享十年(一四三八)流鏑馬の神事が始められ、天文十年(一五四一)には、賀羅岳城主山県民部が流鏑馬を奉納したことも記録されている(平凡地名)。これらの行事催しは中世のころより江戸末期まで続いていたという。
古くは、村中の氏子の一五歳から六〇歳の男子が、祭りの前日の朝食から、家族とは別に煮立てた食事をとり、小浜の八幡様の海で身を清める。帰って神社に参詣し、神輿を拝殿に飾り祭祀祈祷がある。夜は宮に籠って、翌日祭に参加したという。また各戸の玄関に、御神燈の高張提灯を立て宵宮を祝った。祭礼当日は参詣者でにぎわい馬場の広場は、朝から夜まで多くの露店が店をならべ大変にぎやかであった(「高鳥甚兵衛文書」)。当区には古くより世襲的な宮中間の制度があった。それは平権守・孫権守などの系をひく老寄百姓の嫡子が、その仲間として山王宮をはじめ村内各社の神事に当たっていたという。祭礼の座席までも村法で定められ、別当小野寺を中心に村役人・宮中間・中臈百姓(老寄百姓の分家)・平百姓と順に列座するという封建的なものであった。宮仲間は近世になりミソコソデと呼ばれていた。ミソコソデとは日ごろは味噌汁を吸っていても、祭礼には小袖を着て正座に座る格式を持っていたという意味であるという(平凡地名)。
当時は祭礼の前に各所を清掃し祭礼に備えた。祭礼の一週間前には宮中間の者で、鳥居をはじめ各お旅所を、五日前には中臈中堅の者で縦馬場を、三日前には平百姓で横馬場を清掃した。また馬場は清掃以後は、不浄物を持ち運ぶことを遠慮したという。馬場の清掃は掃除講と名付け、清掃後お講をしていたが、道路が舗装され、以後は清掃・お講とも中断された。しかし、お旅所の清掃は今なおそのまま続けられている。
例祭の前日には幟立てが行われる。神社の入口には宮世話で、大鳥居の両側には日吉・定国で、鳴滝・太良の各お旅所は、それぞれ鳴滝・太良で立てている。鳥居両側に立てられる幟は特に大きく、幟の長さ一一メートル柱の高さ一四メートルで、近郷には珍しい大きなものと言われている。
神職は、寛政五年(一七九三)京都吉田家に仕官後、宮司をつとめていたといわれているが、現在その後継者がなく、現在は他の神官の兼務により神事を行っている。宮地の管理などは、永年宮司や禰宜としてつとめてきた宮谷加賀家が当たっており、かつては藤原姓を名乗を奉納したことも記録されている(平凡地名)。これらの行事催しは中世のころより江戸末期まで続いていたという。
古くは、村中の氏子の一五歳から六〇歳の男子が、祭りの前日の朝食から、家族とは別に煮立てた食事をとり、小浜の八幡様の海で身を清める。帰って神社に参詣し、神輿を拝殿に飾り祭祀祈祷がある。夜は宮に籠って、翌日祭に参加したという。また各戸の玄関に、御神燈の高張提灯を立て宵宮を祝った。祭礼当日は参詣者でにぎわい馬場の広場は、朝から夜まで多くの露店が店をならべ大変にぎやかであった(「高鳥甚兵衛文書」)。当区には古くより世襲的な宮中間の制度があった。それは平権守・孫権守などの系をひく老寄百姓の嫡子が、その仲間として山王宮をはじめ村内各社の神事に当たっていたという。祭礼の座席までも村法で定められ、別当小野寺を中心に村役人・宮中間・中臈百姓(老寄百姓の分家)・平百姓と順に列座するという封建的なものであった。宮仲間は近世になりミソコソデと呼ばれていた。ミソコソデとは日ごろは味噌汁を吸っていても、祭礼には小袖を着て正座に座る格式を持っていたという意味であるという(平凡地名)。
当時は祭礼の前に各所を清掃し祭礼に備えた。祭礼の一週間前には宮中間の者で、鳥居をはじめ各お旅所を、五日前には中臈中堅の者で縦馬場を、三日前には平百姓で横馬場を清掃した。また馬場は清掃以後は、不浄物を持ち運ぶことを遠慮したという。馬場の清掃は掃除講と名付け、清掃後お講をしていたが、道路が舗装され、以後は清掃・お講とも中断された。しかし、お旅所の清掃は今なおそのまま続けられている。
例祭の前日には幟立てが行われる。神社の入口には宮世話で、大鳥居の両側には日吉・定国で、鳴滝・太良の各お旅所は、それぞれ鳴滝・太良で立てている。鳥居両側に立てられる幟は特に大きく、幟の長さ一一メートル柱の高さ一四メートルで、近郷には珍しい大きなものと言われている。
神職は、寛政五年(一七九三)京都吉田家に仕官後、宮司をつとめていたといわれているが、現在その後継者がなく、現在は他の神官の兼務により神事を行っている。宮地の管理などは、永年宮司や禰宜としてつとめてきた宮谷加賀家が当たっており、かつては藤原姓を名乗り、現在も神道を奉じ、また埋葬地も別になっている。
現在の祭例は、三月五日に祈願祭が行われ、氏子はその年に作る種籾を少量お供えして豊作を祈願する。五月五日は例祭、七月二十四日は前記の明神祭を行い、あわせて神社周辺の手入れをする。十二月五日は新嘗祭で、氏子各戸から新穀をお供えする。また厄年の厄払いと感謝祭が行われる。
近年の例祭は、前記のような行事や催しが全くなくなったが、神輿殿を開扉して、神輿の飾りつけをするほか、昭和十五年皇紀二六〇〇年を奉祝して行われてきた、浦安の舞が奉納されている。また九月三・四日はおどり祭りが行われてきた。神前での神事は執行されないが、豊作を祈っての大衆おどりが行われ、五月の例祭と同様、昼の間から多くの露店が並び、多くの人々でにぎわった。その後、日吉川改修のため、参道の片側に川がつき広場も狭まった。幸い昭和六十二年大鳥居前に農村公園が新設されたのを機に、場所をそこに移し行われるようになった。なお近年になって除夜の鐘直後からの、初詣での人が多くなり、壮年会の人々が、太良庄の三つの神社でかがり火をたき、初詣での人に神酒の振舞をするようになった。
現在の氏子は七四戸で、区の総会の時氏子総会を開き、決算報告などを行っている。経費は氏子負担金として、各氏子一戸一律に負担するほか、必要に応じて特別会計の使用や積立てなどでまかなっている。古くは宮の田畑が多くあり、その年貢でまかなっていた。このことは山王社田畑帳(「高鳥長太夫文書」)などで知ることができるが、戦後の農地改革によって皆無となった。現在境内地一九㌃余、山林三〇㌃余になっている。総代世話人の任期は三年で、各谷より選出された総代四名、世話人八名で宮の運営を行っている。
なお当社に所属管理している小社として、鳴滝に稲荷大明神がある。古い文書に「かう森あり宮地十五坪、○・二坪の稲荷の小社、由緒時代知らず」とある。伝承によると、もとは高鳥彦左エ門家の祭祀していた社で、伏見稲荷を勧請したものらしい。宮地社殿共荒廃していたが、鳴滝川付替工事を機に、本殿の修復と宮地の整備をし、改めて伏見稲荷より勧請し、以来毎年二月の初午の日に祭礼を行っている。宮地社殿とも広さは昔のままである。
また太良庄公会堂横にも小社として鎮守社がある。文書によると「虎御前森・社殿二尺四方、山王宮御鎮座」とあって、二四〇坪の月御堂(現長英寺の祭祀の薬師如来が祭祀されていた、)の庭地内にあったという。現在は石垣に囲まれた六三平方メートルの境内地の中央に、約一メートル四方の社殿が祀られている。その前右に、日枝神社神輿のお旅所の石わくが残されている。日枝神社神輿巡行の際、このお旅所に休まれ、この鎮守社を開扉祈祷されたという。現在は特に祭祀は行わず、日枝神社祭礼の時に、この前に幟を立てている。


『遠敷郡誌』
日枝神社 指定村社にして國富村太良庄字黄谷にあり、祭神は大山咋尊にして神龜五年勘請と傳ふ、元山王宮又は山王社と稱し、神職は寛政五年京都吉田家に仕官し守名帶名を許さる。境内神社に山ノ神社、祭神大山祗命、多賀神社祭神伊弉册尊あり。


若宮神社

日枝神社参道の途中で直交する横馬場という道の突き当たりに鎮座。
『国富郷土誌』
若宮神社
太良庄の集落の東側、日吉と定国との中間にあたる、太良庄第四〇号定国三五番地に鎮座する、旧無格社で若宮大明神を祀る。「天文十二年(一五四三)若宮の御神事云々」や、宝永八年(一七一一)の「社事坪数の覚」など、市史にも関係資料が掲載されているが、それ以前の創建や由緒などについては全く不明である。
神社に残されている記録によれば「境内地四八〇坪、何れも白木流れ波風造り、桧皮葺〇・七坪の本殿と、境内社〇・五五坪の八幡神社があり、氏子五十五戸、毎年九月十五日を祭日とし、日吉・定国の両谷一同に参会し、神事を掌どる」とある。また横馬場といわれている参道入口(日枝神社参道との交差点)には、当社の六本鳥居が建てられていたといわれているが、倒壊後再建されず、その礎石六個が昭和末期までその場に残されていた。古くより小野寺が別当をつとめていた。「小野寺年中行事」によれば元日の開扉祈祷にはじまり、四月・九月の祭礼など、祭祀の様子を知ることができる。また古くより岡村源右エ門氏が禰宜職をつとめ、宮司の代理として、祭祀や神事を司った。村内旧家に伝わる村内三社の掛軸には「若宮八幡宮」と書かれており、この宮を若宮八幡宮と呼んでいたことも考えられる。脇社の八幡神社には、玉依姫命・応神天皇・神功皇后が祀られている。
再建や修理の記録などもなく不明であるが、昭和前期より本殿・脇社とも、年々老朽化してきたが、第二次大戦と戦後の物資不足・食糧不足に加え、さらに土地改革により、宮の田地も買収された上、土地改良という村をあげての大事業のため、社殿の再建はもちろん、修復さえも困難なまま荒廃が進んだ。そのため心ならずも、氏子惣中の話し合いと日枝神社・若宮神社両社総代の合議に基づき、本殿・脇社とも、日枝神社に合祀することに決定、昭和三十八年承認申請を神社本庁に提出し、認可され合祀した。
以来二〇年余、氏子が常に忘れることのなかった再興の願いと、篤い信仰の力により、再建が実現した。昭和五十九年に出された趣意書に「若宮再建については氏子一同長年の願望であります。近年特にその気運も昂まり、愈々本年度より着工することに決定いたしました云々」の浄財の勧募による多額の寄附と、氏子の労力奉仕により、昭和五十八年の長床建設にはじまり、昭和六十年十月社殿上棟式・遷宮祭を執行し、若宮神社としての法人登記を行い、再興されるに至った。
現在本殿一五平方メートル、脇社一・二平方メートル、長床六五平方メートルの外、狛犬・灯籠各一対を新調、また参道入口に残されていた、旧鳥居礎石も宮地内に納めた。また祭礼には長さ約八メートルの幟(柱一〇メートル)一対がたてられる。古くより当社の祭礼には、氏子一戸より一名の男子が羽織袴の正装で参集し、社殿前の広場で氏子奉納の真菰莚を敷いて、定められた席順に正座して神事が行われた。式後高砂の謡にはじまる直会が行われたが、昔から一度も雨が降ったことがないということである。
現在の祭礼は、三月五日の祈願祭と十月十五日の例祭新嘗祭の二回行われ、氏子全員が参詣する。現在の氏子は日吉二四戸、定国一五戸で、各谷より二名計四名の総代が選出され、宮の祭祀や管理にあたる。祭礼のときは氏子より四名が当番として、準備や直会などの世話をしている。
年間の諸経費は、氏子負担金を毎月一律に積立て、三月の祭礼のとき総会を行い、決算報告を行う。


『遠敷郡誌』
若宮神社 同村大良庄字定國に在り、祭神不詳。境内神社に八幡神社あり、祭神玉依姫命、應神天皇、神功皇后なり。


曹洞宗泰雲山長英寺


山道石畳のコケが美しい、美しすぎてこの上は歩けない。
そこの案内板に、
泰雲山・長英寺 曹洞宗  本尊・華巌厳釈迦如来
古くはこの地に御所寺があったとつたえられている。天文十七年(一五四八)賀羅岳城主・山県政秀がこの寺を再興し、湯谷山意足寺とした。
江戸時代には京極氏に続いて酒井氏が入部した。初代藩主・酒井忠勝公の逝去にともない、その菩提を弔うため、意足寺を大飯郡(万願寺)に移し、寛文三年(一六六三)、空印寺・第五世・日山良白禅師を開祖に迎え、京極高次公、酒井忠勝公の法名の一部をとり、泰雲山長英寺を創建した。創建には家老・三浦氏が大檀越となり、藩からの補助を受けた。
以来、長英寺は空印寺の隠居寺となり、高い格式を備えた。
延享二年(一七四五)夜、突然の出火により伽藍は全焼し、七世・印山は火中に没した。空印寺第十六世・明庵は、早々に空印寺を隠居、長英寺の再建に取組み、翌三年には伽藍すべての再建が成った。
開山堂には、京極高次公・酒井忠勝公の位牌がまつられ、境内地西側の山腹には、忠勝公の供養五輪塔があり、三浦氏の墓地がある。
なお当寺の裏に御所の森があり、鎌倉時代のものという五輪塔(市指定)がある。


「若狭郡県志」に
  在同村、斯寺始称御所寺、有古墓何人也、天文十七年賀羅嶽城主山県民部丞政秀再興之、号湯谷山意足寺、規伯為住持、寛文三年小浜空印寺第一世僧良伯以此寺閑居之処、改号泰雲山長英寺、是取忠利、忠勝両公之法号者也、
もとの意足寺は現大飯郡おおい町万願寺にそのままの山号寺名で残る。
当寺裏山の「御所の森」と称する地は、「若狭国志」に「有多良荘長英寺、今無下知何人ヲ者、蓋シ古昔高貴人隠居于地ニ卒葬ルナラン」とあり、総高1・72メートルの鎌倉末期に比定される五輪塔がある(市指定文化財)。その左手山裾に横穴式石室があるそう。

『国富郷土誌』
長英寺
太良庄三七号泰雲口一番地に所在する。曹洞宗寺院・山号は泰雲山、寺名を長英寺と称する。太良庄四谷の中央鳴滝谷の北の奥泰雲谷にあり、空印寺と相並んで創建された。末寺が三か寺あった。現在は正林庵を残すのみで、阿弥陀寺、観音寺の二か寺は寺号を移し独立した。
本尊は華厳釈迦如来坐像。脇侍仏として、文殊菩薩、普賢菩薩座像。ほか、誕生仏、薬師如来(平安初期、市指定文化財)、達磨大師座像、韋駄天立像、毘沙門天立像、道元禅師座像、開山日山良白座像、中興明菴学海座像等がある。
長英寺本堂裏の御所の森には、御所墓と称される鎌倉後期(推定)の五輪塔がある。当寺を御所寺と称し、寺辺に館址があり古昔より高貴の人の居所があったと伝えられる。御所寺は時を経て衰退した。南北朝時代康永二年(一三四三)の「実円文書」(五ニページ写真参照)が伝え残されているが、御所寺との関係は不明である。長英寺裏山の賀羅岳山頂には若狭守護武田氏家臣山県氏(永享十二年以降)の拠った山城跡がある。天文十七年(一五四八)山県政秀が御所寺を再興し湯谷山意足寺と称した。意足寺は永正十五年(一五一八)より、資料にあらわれている。
長英寺は、江戸初期、寛文三年(一六六三)に創建された。小浜藩主酒井忠勝公(法諱空印寺殿傑伝長英大居士)の逝去にともない、菩提を弔うための寺を衰微していた意足寺を移転させ、その跡地に建立した。先君京極高次公と酒井忠勝公の法諱の一部を採り泰雲山長英寺と称した。以後当寺は空印寺の隠居寺となった。西側山腹に忠勝公の五輪大供養塔を建てた。また開山堂には高次公と忠勝公の位牌を安置し、お守りしている。
「泰雲山長英寺中興記」(寛延二年臥龍院十六世光山謙撰)を引用し以下に長英寺の沿革概略を述べる。
当寺の前身として、現在の地に湯谷山意足寺と称する寺院があった。この寺は臥龍規伯模の草創による。江戸時代初期、小浜へ酒井氏が転封になったころのこと、空印寺五世の日山良白禅師(以下日山と略す)は、空印(酒井忠勝公の号)公の帰崇を篤く受けた。日山は空印公の許しを得て、長英寺建立を前提に、隠棲の地を探し求め、若狭一帯を吟味した。当時観音堂のみを残すまでに荒廃していた天台伝教開闢と伝えられる万願寺(大飯町万願寺)を適当と認め、隠居所として充てることにした。当初ここを充てたが遠隔の地であったため、現在の地を適当と認め、万願寺の村人の同意を得て、太良庄の地にあった意足寺(もと天台宗か)を移転させ万願寺を意足寺と改称した。同時に太良庄に先君両神儀〔京極高次・酒井忠勝〕を開基とし、寛文二年に国君の信望を篤く受けた空印寺(元建康寺を寛文七年に改称した)五世日山を長英寺一世として懇請し泰雲山長英寺を開いた。空印公の没した翌年、寛文三年のことである。日山一代は間が無かったので、もとの意足寺の古寺の建物で済ませた。日山は寛文十二年十月十九日没した。四世代香国の代に伽藍建立を藩に願い、藩の補助を得て建立が成った。当時は経営が苦しく長泉寺(加茂)をも兼帯し合わせて経営した。藩より高次・忠勝公の茶湯料として閑居と称される田畑が与えられた。こうして、徐々に伽藍が整備された。四世香国は享保十三年(一七二八)没した。長英寺創建の実務に当だったのが家老三浦氏であったといわれている。長英寺は空印公の菩提寺の一つであるとともに、長英寺本堂の構造の一部に二重壁が施されていることや周囲の地理状況から、一大事があったときの拠点の一つであったとも推測される。長英寺西側山腹には、君主の五輪供養塔と隣合って三浦氏一族の墓所かある。
一方、太良庄の村内では長英寺創建に対して、田辺氏の功が多大であったと考えられる。寛延三年(一七五〇)に再鋳造された小鐘銘(再鋳小鐘銘文)に、田辺石見守吉次法諱良積(慶光院殿善廣良積居士:元禄元年没)は創建当時、開山日山良白和尚に弟子の礼をとり莫大な浄財を寄せたことがみえる。吉次は戒を受けて弟子として遇され、創建の功により特例として、長英寺境内に三浦氏と本堂を挟み相対して(東側)墓所がある。創建から約八〇年後、延享二年(一七四五)七月十六日の夜不意に出火罹災し、創建伽藍はことごとく灰燼に帰し、七世印山は火中に去った。
長英寺再建には、空印寺の一六世明菴が長英寺の罹災をわがことのように心を痛め、延享二年の八月末、早々に空印寺を隠居して取り組んだ。明菴は偉大な法力をもって普く衆生を済度した僧であったと伝え聞く。この年の秋から冬にかけて庫裡を再建した。延享三年、藩に庫裡再建費用の返済と本堂再建を願ったことが「奉願□上之覚」(明菴筆)に記されている。苦労の末再建がなった。その建物が現在の建物である。庫裡は昭和四十九年に老朽化がすすみ改築された。庫裡のほとんどの柱に松材が用いられていた。「荒木立の庫裡一宇」と資料にあるが、材を吟味する余裕がなかったことがしのばれる。
寺蔵文書中に江戸時代、宝暦九年の「寺請状之事」の控がある。当時旅する檀徒が、切支丹でないことの、身分証明発行の控である。明治になり小浜藩の保護から離れ次第に経営が悪化し寺宝などが散逸してしまったと聞く。
また、八世代明菴のあと一六世代に至る記録がなく、その間の沿革は不明である。よって一七世台順代以降の、沿革の概要を述べる。
○ 一七世台順代 ・大正十年薬師如来が兼田清左衛門によって寄進された。この薬師如来はもと月見堂(現太良庄公会堂付近)に祀られていたもので、明治年間、作州津山の商人に売り渡されていたが、霊告によって再び太良庄に買いもどされ、台順の願いが果たされたという(四一五ページ参照)。
・如来志希信仰が高まり、区内で多くの信者があった
・大正十三年台順没す。
○ 一九世慧乗代 ・昭和五年慧乗により過去帳の昭和編集、天地二巻成る。
・同年七月二十八日 薬師堂竣工
・昭和二十一年慧乗没す。
○ 二〇世大雄代 ・山門改築と参道の新装が完成する。
・殿様墓・世代墓への参道が完成する。
・昭和三十三年大雄没す。
○ 二二世霊雄代 ・昭和四十九年六月庫裡改築に着工、同年十一月二十四日落慶法要を挙行・昭和五十年継続事業として、鳴滝川改修工事が起工され、当寺境内地山林などで、川の改修と橋・えん堤が造成され、同五十六年に完工する。
・昭和五十五年三月、本堂および鐘楼堂の屋根を、銅板葺にかえる。
・昭和五十六年六月十六日霊雄没す。
○ 二三世道雄代 ・昭和六十年九月晋山式を行う。
・昭和六十二年梵鐘を再鋳造寄進される。
・昭和六十三年長英寺霊園を起工し、平成三年三月完工。引き続き無縁塔建設準備にかかる。太良庄全戸を檀徒とし、古くは各谷の末寺で檀務を執った。現在、区内七二、区外二五、新檀一三、計一一〇。過疎化により区内檀徒数は減少傾向にある。
太良庄四谷から各三人、計一二人の世話人が選出される。寺に於いて各谷の総代が決定され、四総代の中から筆頭総代が選出される。一月の半ばに年間の事業の計画が審議され管理運営にあたる。また予算制を導入し施設管理に努めている。平成二年には檀徒負担金の見直しをし、現在年間約八〇万円を計上している。他に平成三年度の事業として三界万霊塔建立事業を別途会計により進めている。このような経常会計で運営できない大事業に関しては、特別会計を運用するか篤志寄附を募るなどして運営にあたっている。
長英寺の資産は山林一六町歩と境内地。山林は庫裡建築のために多くの用材を伐採したために昭和五十年以降植林と育林に努めている。しかし、残りの松林も昭和五十年代から六十年代半ばまでに松喰虫の害を受けそのほとんどを失った。
 《年中行事 平成三年》
  一月  一日 元旦祈祷 檀徒参賀
  三月二十四日 涅槃会(だんごまき)
  三月  下旬 吉祥講(永平寺代参)
  五月  六日 降誕会(甘茶)
         松尾代参供養(年回精霊総供養会)
  七月二十八日 大般若会
  八月 十五日 盂蘭盆施食会
  十月二十七日 永平寺講
  十二月 八日 成道会
 《薬師如来》
長英寺本堂左手の薬師堂に祀られている薬師如来は、平安時代中期末の作といわれ、もと太良庄の月御堂に祀られていたという。伝承によれば、
  明治年間堂守 此ノ薬師ヲ持出シ 作州津山ノ商人
  ニ売渡セリ 然ルニ年経テ或夜ノ夢ニ 我ハ太良荘
  ノ月御堂ニ住ミシモノナリ 汝我ヲシテ元ニ帰ラシ
  メヨト 商人若狭ニ尋ネ来リ 之ヲ小野寺ニ話シゝ
  モ議合ハズ 帰ラントシテ俄雨ニ会シ 長英寺ニ之
  ヲサク談 又薬師如来ニ及ビシニ 住持台順大ニ驚
  キ 我モ先夜又夢現アリシガ 何人ノ手ニ渡辺シカ
  ヲ知ラザリシト 且ツ喜ビ且ツ勇ミテ 檀家兼田某
  ヲ語ラヒ 入費ヲ出サシメ 商人卜共ニ津山ニ至リ
  迎へ帰リテ 現長英寺本堂内ニ安置セリ
              (香川政男緇『国富村蹟資料』)
月御堂は、現太良庄公会堂付近にあった虎御前の森(二四〇坪)という敷地内に、現存の鎮守社(山王社・二尺四方)と共にあったことが記されている(「高鳥甚兵衛文書」中の太良庄村社寺坪数之覚-宝永八年)。月御堂のあった正確な位置は不明であるが、由緒を伝える石や伝承などから、現公会堂や鎮守社の西側にあったと伝えられている。また薬師如来と同時に買い戻された、南北朝時代の「御影堂別当補任状(宝永八年)」などの文書からこの月御堂は、荘園時代に東寺や小野寺との関係が深かったと考えられる。
伝承による津山の商人は、当時岡山県津山町に住んでいた黒本誠一と言い、大正十年十二月三日日付の“譲与証書”が、現在兼田清左エ門家にのこされている。それによると、一、薬師如来 一、同御塗詞 一、古文書三通、の三点をあげ「右ハ拙者所有之物ニ之有リ候処不思議ナル 霊夢ニ感シ 遙ニ当地ニ来リ・・・云々」と、二日間にわたり、太良庄で尋ね歩いたことや、買い戻されるまでの顛末を、詳細に書きしるしている。
当時この薬師如来は、長英寺本堂に祀られていたが、その後別堂を建て祀りたいという顋いがかない、一九世慧乗代の昭和五年七月二十八日、現在地に六坪のお堂を建立し、お祀りすることになった。支院として長英寺翻境内地に正林庵、阿弥陀寺、観音寺の三寺がある。正林庵は太良の谷に、阿弥陀寺は鳴滝谷に、観音寺は日吉・定国の谷に存在した。この三寺は長英寺の支院として檀務の補佐に携わった。過去帳管理は各支院でされ長英寺が総括していた。古い記録によれば盂蘭盆施食会は阿弥陀寺の八月七日をはじめとして、観音寺、正林庵と順次行われた。
一七世代に臥龍院末の宝寿庵を昭和十七年に長英寺末とし、昭和十九年四月に長英寺末の観音寺(格式は平僧地)の名義移転をし、昭和二十一年八月に法地に昇格し独立した。同じく、一七世代に阿弥陀寺は寺号を三方郡美浜町丹生に移し独立した。正林庵は現在は無看住の支院として現存する。各寺院の建物は現在も在り、本尊もそのままで、各谷の徳講等の集会場として使用されている。平成二年に当地に残存する観音寺の建物が改築され利用されやすくなった。
また、長英寺の支院の他に、太良谷の高鳥(古くは高鳥居と称する)氏一族の薬師堂、鳴滝谷の高鳥氏一族の安穏観音堂(久昌庵)、さらに日吉谷の田辺氏一族の阿弥陀堂(良積庵)がある。太良谷の薬師堂は一七年ごとに御開帳が行われる。久昌庵は現在も毎年八月第一日曜に施食会が行われている。


『遠敷郡誌』
長英寺 曹洞宗空印寺末にして本尊は華嚴釋迦文佛なり、同村太良庄字泰雲に在り、元此地に湯谷山意足寺あり、里民御所寺と稱す、天文十七年山縣政秀再興せしが、寛永十三年藩主之を大飯郡に移し寛文二年新寺を創建して空印寺第五世良白を開祖とし忠勝忠利爾公の香華院とせしものなり。


真言宗東寺派日置山小野寺


ずいぶんと荒れていて、どこから行けばいいのやらと道がわからない。
案内板はまだ新しい、それには、
日置山 小野寺 真言宗東寺派
本尊 薬師如来
創建  養老元年(七一七) 行基菩薩が諸国を巡歴されたおり、この地に七間四面の金堂を造営され自ら薬師如来を彫刻してまつられたと伝えられる。
由緒  太良庄が東寺の荘園となってからは、東寺の末寺となり荘園運営に重要な役割を果たして来た。かつては六ヶの院門を構え、寺領も多かったが、太閤検地により召し上げられ小野寺一寺のみとなったと伝えられる。
    当寺は加持祈祷の寺で、壇中はなく資産によって寺の運営がなされていたが、社会情勢の急変により寺の運営が苦しくなった。さらに昭和三十六年の室戸台風により本堂は倒壊し、庫裏も被害を受け荒廃の一途を辿った。幸い篤志家によって、仮本堂と庫裏の寄進があり現在に至っている。往時を偲ぶものは、礎石と山門・金剛力士像のみである。


『国富郷土誌』
小野寺
太良庄第四一号寺川二番地にあり、本尊は薬師如来、日置山と号し真言宗束寺派教王護国寺末、当寺の縁起や社寺由緒記によると、「元正天皇の養老元年(七一七)行基菩薩諸国を巡歴せられた時、この地を望み給い、薬師如来の浄創の霊地と感ぜられ、七間四面の金堂を造営し、また自ら彫刻せられた二尺余の薬師如来を安置し、日夜怠らず恭敬礼拝し給うた」と記されており、太良荘の立荘以前からあったと推定されている。その後東寺に伝え、東寺との本末契盟し、その流派の中の小野流にちなんで、小野寺と号したといわれている。
 『若州管内社寺由緒記』や「小野寺文書」などによると「昔は六ヶ之院門を并へて秘密の法灯を相続し、御影堂・法花堂等これあり候由 然れども太閤の御時代より召上げられ、因って茲に五ヶ坊跡絶え漸く小野寺一宇相残り候。時代幽遠で記録など紛失し委細の儀不明、延宝八年(一六八〇)」と記され、また当寺にのこる山王権現に関する記録中に「弘安四年(一二八一)蒙古降伏のため、山王宮において小野一山十八反・山林約七町を所有し、その収益によって維持や年間経費を十分まかなうことができた。ところが戦後の土地改革により、田地がほとんど失われ、住職名義の二反余が残されたのみで、檀中のない寺として、戦後の寺の運営は窮地に追いやられた。
 しかも昭和初期より戦中戦後に至る間、本堂はじめ建造物すべてにわたり、修理が行届かず荒廃がひどかったが、戦後その修復のため、信徒の浄財の寄進と山林を売却したが、戦後のインフレのため資金が不足し、止むなく境内木のすべてを売却し、ようやく本堂・庫裏の修覆を終えることができた。
 しかしその後、昭和三十六年九月の第二室戸台風はこの谷間を襲った。不運にも本堂は完全に倒壊、庫裏その他の建造物にも大きな被害を受けた。田地・立木とも皆無になった上、このような惨状に手のつくしようもなく、本堂の再建はもとより、他の建造物も十分修理せぬまま放置されていた。幸い昭和四十九年西津山崎建設社を中心に、一二鉄工・本郷木材・富士電気の四氏の篤志により仮本堂(約一六平方㍍)庫裏(約六五平方㍍)と鋼製参道橋の寄進を受け、今日に至っている。
 当寺年中行事中、特に信徒に直接関係深いものは、七月十二日の施食会と、七月二十三、四日の地蔵祭がある。これらはいずれも旧暦のため近世になってからは八月に行われてきた。八月二十三日は本堂で地蔵菩薩を祀り、夜は地蔵講の人々の念仏があり、のち本堂で籠る人が多かった。本堂前ではおどりがあり、また村中の子どもたちが、谷別に石地蔵を祀り、夜遅くまでにぎわった。
 しかしこれら行事も、寺の廃たいとともに途断えてしまい、住職の死去とともに無住となり、それまであった信徒総代も自然消滅した。近年になり太良庄の遺産としての小野寺を大切に維持しようという気運が高まり、昭和六十年より世話人総代制が復活し、総代四人、世話人八人で運営に当たっている。寺の経常費や小修理などに充てるため、積立の話がまとまり、太良庄のほとんど全戸から一律に毎月積立が行われている。
 また荒廃していた境内地は、数年前より太良庄長寿会(老人会)が中心になり、年二回の除草や環境整備の奉仕により、荒廃を防いでいるほか、太良庄壮年会も参道の修理や境内木の枝打ちなどの奉仕その他を行い、徐々に寺の面目を取りもどしている。また仮本堂は平成三年、区内信徒の浄財寄進により、一応の修復がなされた。しかしまだ山門の修復も急を要する状態で、経済的にも復旧維持はなかなか容易なことではない。
 現在当地の観音講・あみだ講のお年寄の人々が、八月に庫裏で念仏を唱え、お祀りしているほかは、祭祀行事は行われていない。
 現在仮本堂および庫裏に薬師如来・阿弥陀如来・不動尊のほか、弘法大師像が祀られている。


『遠敷郡誌』
小野寺 眞言宗教王護国寺末にして本尊は薬師如来なり、奥の院には地蔵菩薩を祀る。同村太良庄字鳴瀧に在り、養老元年行基の開基と傳ふ。


曹洞宗阿弥陀寺

『遠敷郡誌』
阿彌陀寺 曹洞宗長英寺末にして本尊は阿彌陀如来なり、同村太良庄字成道に在り。


正林庵

『遠敷郡誌』
正林庵 曹洞宗長英寺末にして本尊は阿彌陀如來なり、同村太良庄字補陀落に在り、境内佛堂に観音堂あり、如意輪観世音にして國寶なり。

旧国宝・銅造如意輪観音半踟像(現・国重文)
重要文化財
正林庵
銅造如意輪観音半跏像
頂弥山の台座にあどけなく前かがみに腰をかけ、右足を曲げて左膝の上に乗せ左足は下げて蓮の花を踏む。右手を折って指先を軽く頬にあてて腰を強くひきしぼる。愛らしい謎の微笑をたたえたお顔、三面にあしらった宝冠を戴き、胸と腕に飾りをあしらう。思惟半跏のお姿は五六億七千万年の未来に現れて暗黒の世に光をもたらせて下さる弥勒菩薩。
縁起には海を越えて伝来、戦国時代の末期ここ太良庄を支配した山県民部丞政秀の持念仏であった。戦乱のなかで鳴滝の渓流に投げられていたのを村人の手によって現在の正林庵にまつられた。
四度の盗難にも遭われ不思議とお還りになった。江戸時代に盗まれた菩薩を探し求めた庄屋の甚兵衛さんが少女に導かれ観音さまを見つけたとある。「甚兵衛観音」と村の人たちはお呼びする。昭和三三年に盗難に遭い全国に指名手配、鳥取県で発見された。平成八年九月収蔵庫を建設した。
奈良時代(八世紀)
像高 三三センチ 銅造鍍金


『国富郷土誌』
○ 如意輪観音半跏像 一躯             小浜市太良庄 正林庵
日本の国に仏教がもたらされた時代。白鳳の文化が生み出した仏像は今も幾つか現存しているが、正林庵の如意輪観音半跏像もそのひとつに数えられる貴重な仏さまである。
正しくは「菩薩半跏像」とおよびしている。須弥山という台座に腰をかけ、右足を曲げて左ひざの上にのせ、左足は下げて蓮の花を踏んでおいでになる。右の肘をひざにのせて曲げ、指先を軽く頬にあて、前かがみの姿勢で腰を強く引きしぼっている。あどけないお顔、切れながの目にわずかに恥らうかのような謎の微笑をふくんで、どこまでも愛らしいういういしさが人の心を魅了している。はなやかな三面頭飾の宝冠、美しく整然として並ぶ胸と手首の飾り、腰を覆って台座に流れる裳裾にも意匠がこらされている。
思惟半跏のお姿は「弥勒菩薩」のお姿、弥勒菩薩は五六億七千万年という永遠な彼方から、暗黒の世に光をもたらせて人々をお救い下さる仏さま、思惟される菩薩は未来の理想をそっと思い続けておいでになる。
正林庵本尊如意輪観世音縁起によると「(前略)永禄年間山縣氏落城、薩捶避難在成瀧之渓流中。天正五丑之年安於清兵衛者之宅中。此時夜中鳴動放光告霊夢日、我者如意輪観世音也。欲帰太郎村。汝勿疑云。清兵衛或信或驚而附託名主高鳥居孫之丞。奉請安置正林庵(後略)」 (「小浜市史」社寺文書編)とある。
この観音菩薩像は海を越えて日本に伝えられたといわれる。中世戦国時代、太良庄の領主山縣民部丞政秀の持念仏で、政秀の滅亡とともに成瀧の渓流(鳴滝川)に沈められ、村人の清兵衛によって救い出され正林庵に安置し祀られたという。
この清兵衛は、岡村源右衛門の先代の家族であるといわれ、清兵衛の菩提寺は長英寺である。その位牌は源右衛門にあり、墓は久昌庵墓地に一二体現存している。
観音さまは四度も盗難にあっておいでになるが、いずれも無事に戻られた。盗まれた観音さまを探し求めた庄屋・甚兵衛さんが、美しい娘に呼び止められて、観音さまを見つけ出したと伝え「甚兵衛観音」ともおよびしている。
 童顔・童身の金銅仏、蝋型で鋳造されている。
       注 大正七年四月八日 国指定
         奈良時代(八世紀)
         像高 三三センチ
         銅造/鍍金


薬師堂
薬師谷には平安末期太良保公文雲厳の師凱雲が建立した薬師堂が残る


賀羅嶽(きゃらだけ)城
小野寺や長英寺の裏山の標高297メートルの頂上にある山城跡。南北80メートル、東西20メートルで、土塁・門跡・屋敷跡・櫓台・庭園跡・井戸などの遺構がよく残る。「若狭郡県志」に「有山県民部丞政秀居城之旧趾、政秀母内藤筑前守女、未其父、山県武田之族姓也、里民伝言、永禄六年鹿介狼介等攻之而城潰矣」とある。山県政秀は山王宮(現・日枝神社)や意足寺(現・長英寺)を再建した、若狭守護武田氏の有力被官。
『国富郷土誌』
賀羅岳(きゃらだけ)城址  小浜市太良庄 泰雲山
長英寺と小野寺とのほぼ中間に賀羅岳と呼ばれる山があり、頂上は本保区(小浜市)と境を接している。「若狭郡県志」に「下中郡多良村賀羅岳あり 山縣民部丞政秀の居城の旧址」と記している。山縣民部丞政秀は、若狭守護職の武田信豊に仕え、信豊の領国支配が衰退すると天ヶ城の内藤氏と若狭国の支配を争うなど、戦国末期に権力の拡大をはかって活躍した武将である。
山縣氏は若狭守護職となった武田信栄に従って安芸国(広島県)より入り、太良庄を領した。太良庄は東寺(京都市)の荘園であったため、年貢のことで東寺と紛争をたびたび起こしている。
「若狭郡県志」は「多良庄村の城主山縣民部丞と上中郡新保村の城主武田五郎等が組み、遠敷村湯屋谷城主内藤下総守を攻めて玉置河原で合戦、下総守は合戦に利あらず討死する。その年月は知れず或は永禄年中の戦死か」と記録している。
また「郡県志」は「多良庄村賀羅嶽は山縣民部丞政秀の居城、政秀の母は内藤筑前守の女で父は詳しくは判らない。里の人は伝えて永禄六年(一五六三)、鹿介狼介等攻め来たって城を潰す 鹿介は上中郡本保村の城主山本鹿介ともいう」と記録している。これらの記録から、賀羅岳城は永禄六年に攻撃を受けて落城したことが知られている。
山縣政秀は太良庄に菩提所として意足寺を建立したと記録にあり、現在の長英寺付近と推定されている。また正林庵の重要文化財「如意輪観音」は政秀の持念仏であったと正林庵縁起は伝えている。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


太良庄の主な歴史記録


『国富郷土誌』
太良庄
一 太良庄の歴史
北川の流域に沿い、東に野木山・北に本保山・西に熊野山に囲まれる、ほぼ扇形に広がる平坦な地形に位置し、国富平野とは高塚との境界をなす明石山で区分されて独立の集落を形成している。
昔の北川は野木から稲葉山に沿って大きく蛇行して太良谷に入り、現在の込田川に迂回して高塚に出ていたと思われる。
太良・鳴滝・定国・日吉谷の太良庄「四谷」と呼ばれる区分が、荘園の名残をとどめ今日まで伝統的な集落運営の機能を果たしてきた。
太良谷は、早くからひらかれ、弥生時代の石器が発見されている。このことから約二〇〇〇年前にはすでに人が住み生活をしていたことが想像できる。また集落を囲む山麓には、数多くの古墳があって、発見された出土品からは高い文化を持つ地方豪族の墳墓であったことがわかっている。
古代の人たちが、太良谷を中心に約一五〇〇年前には集落を形成し、生活をしていたことをこれらの古墳から知ることができる。
正林庵には、白鳳時代(約一三〇〇年前)に制作された仏像として有名な金銅如意輪観音半伽像(重要文化財)がまつられている。太良・正林庵に伝わった歴史は
謎だが、中世戦国時代太良荘を支配した山縣民部丞政秀の持念仏であったと言われ、「甚兵衛観音」とも呼ばれて深い信仰のなかで今日に守り伝えられている(「正林庵縁起」)。
太良庄は、平安時代の後期ごろから記録に見える荘園の名で、京都・東寺(教王護国寺)に遺る「東寺百合文書」によって、中世の荘園成立や内部構造・騒乱・訴訟など、その内容を克明に知ることのできる生きた資料として全国的に知られ、昭和五十八年五月、中世史のご研究のために浩宮様(皇太子殿下)がおみえになり、荘園跡をご視察になられた。
荘園の成立は、鎌倉時代の建保四年(一二一六)若狭の国主・源兼定は、太良保(保とは国の領地をいう)を七条院(高倉院後宮藤原殖子)が建立した歓喜寿院に寄進、歓喜寿院の領地となって「太良荘」が誕生した。
その後、歓喜寿院から京都・東寺に移り、鎌倉幕府の地頭職との争いや、年貢をめぐる百姓の訴訟など、太良荘はさまざまな問題で揺れ動き、百姓が団結して権力と闘う一揆が起きている。
室町時代に入り勢力を強める守護職(国主)が、東寺に替わって年貢の収納権を請け負う(半済給人)ようになり、永享十二年(一四四〇)武田信栄が若狭守護職(国主)となってから、その重臣山縣氏が太良荘を支配し、賀羅岳の頂上に山縣民部丞政秀が城砦を築いて、山麓に菩提寺の意足寺を建立した。以後、東寺は荘園の支配権を完全に失うに至った。
戦国時代の末期、守護職武田氏の弱体化とともに、家臣と家臣が争い、山縣民部丞と湯谷山城主(検見坂)の内藤下総守が戦い、玉置畷(上中町)で山縣民部丞が内藤下総守を破ったが、本保城主(本保)山本鹿之介に攻められ、賀羅岳城は落城、山縣民部丞は滅亡した(「若狭郡県志」)。
江戸時代は、小浜藩酒井家の所領として家数一〇九、人口四七七人、持高二〇石以上が長百姓(年寄)、一〇石~一九石は中百姓(中臈)、一〇石以下は小百姓(平)と、三段階に格付けされ、庄屋役は長百姓が動めるしきたりとなっていた。明治三年の戸数は、八四戸、人口は、三二八人であった(「角川地名」)。
長英寺の裏山、御所の森と呼ばれる所に鎌倉時代の五輪塔一基(小浜市指定文化財)がある。薬師谷には、平安時代の末期に太良谷を支配した雲厳の師、凱雲が建立したと伝える薬師堂跡がのこり、現在も薬師堂が建っている。
日枝神社の銅造梵鐘(小浜市指定文化財)は、金屋の鋳物師が鋳造した貴重な梵鐘である。太良の丹生神社の由緒は古く一ノ宮とも呼ばれている。
今はほとんど廃絶してしまった真言宗小野寺は、養老元年(七一七)行基の開創と伝える由緒があり、日枝神社の別当寺として繁栄し、京都東寺と密接な関係を持ち、荘園支配に大きくかかわっていた。
曹洞宗長英寺は、寛文三年(一六六三)空印寺(男山)五世良白を開祖として、小浜藩主酒井忠勝の香華院として建立され、現在に至っている(『若狭遠敷郡誌』)。
平成四年三月現在の世帯数は七七戸で、人口は三五六人である。





太良庄の伝説


『国富郷土誌』
○ じんべえ観音    小浜市太良庄(正林庵)
むかし太良庄に正林庵というお寺がありましたと。
お祀りしてある仏さまは如意輪観音さま、観音さまはピッカピッカの黄金でつくられていましたそうな。
この黄金の観音さまが誰れかに盗まれてしもうたと。さあーたいへん。村じゅうがおお騒ぎ、みんなでさがしに出かけましたんやと。幾日も幾日もかかって、京の都にたどりついた庄屋の甚兵衛さん。あてどないさがしものですっかりつかれ、痛む足をひきずり、ひきずりトボトボ歩いていましたそうな。
 「じんべえ…」「じんべえ…」
甚兵衛さんを呼ぶ声がきこえたんやと、美しい鈴の鳴るような声やったと。
 「はて誰れさんかいのう……」
甚兵衛さんがふり返ってみても誰あれもいなかった。
 (気のせいやったんかいなあ……)
甚兵衛さんは知った人のおらん京の都でのこと、心のまよいやと思うて通りすぎたんやそうな。
次の日も、そして次の日も甚兵衛さんがそこを通りかかると、
 「じんべえ…」「じんべえ…」
と呼び止める声がするのやと、甚兵衛さんは不思議なこともあるものやと、ちょっと後へ戻つてみたんやそうな。すると古物屋の軒下できれいな娘さんが手まねきしとりなさる。
 「わしに何かご用でもおありですんかいのう…」
甚兵衛さんが古物屋の店に入っていったのやと、店のなかには頭のはげたおっさんがおった。
 「いまわしを呼んでくれなさった娘さんは、あなたさんの娘さんかい…」
 「娘なんぞおりまへん。なんかの間違いやおへんか」
古物屋のおっさんは不思議な顔で甚兵衛さんをジロジロと見たんやと。
 「そうかいのう、やっぱりわしの思い違いやったんかいなあ…おじゃましましたのう」
甚兵衛さんはしょんぼりと店を出ようとすると、その背中に美しい声が呼びかけたそうな。
 「じんべえ、私はここだよ」
甚兵衛さんはうす暗い古物屋の店の奥に、美しい娘さんが座っているのを見たんやと。
 「お観音さま、お観音さまや」
甚兵衛さんが娘さんの姿にかけ寄りましたと。娘さんの姿と見えたのは美しく光り輝やく観音さまやったそうな。
 「この観音さまは?」
 「はい、この観音さまは山伏が売りにきましたので買わしてもらいました。黄金やと言いましたよって高うで買うだのに、ヤスリでちょっとこすったら、何んとまああんたはん、銅やおまへんか。えらい損をしよりましたんや」
 古物屋のおっさんがいいましたそうな。
 「この観音さまは、私の村の観音さまでな、盗まれてしもうて探しておりましたんや」
 「さようでおましたのか」
 「娘さんやと思うたのが、観音さまでしたのや」
 「不思議なこともおますのやなあ、観音さまは早ように村へ戻りとおましたのやろ」
 古物屋のおっさんは観音さまを甚兵衛さんに戻しましたのやと。甚兵衛さんはおお喜びで観音さまを背負うて太良庄へと戻って来たんやそうな。
それから村の人は正林庵の如意輪観音さまを「甚兵衛観音」とお呼びするようになったと。
 この観音さまは、なんべんか盗まれたけれど、不思議にも正林庵へ戻っておいでになったそうな。
              (福井新聞日曜版「ふくいの民話」
                 昭和五二年六月一九日号
                    文・岡村昌二郎



『新わかさ探訪』(写真も)
正林庵の甚兵衛観音 若狭のふれあい第56号掲載(平成元年1月28日号)
盗難に遭っても 必ず無事に戻る仏様
 小浜市太良庄の正林庵に、垂要文化財の銅造如意輪観音半跏像が安置されています。高さ30m余りの小さな仏像で、県内で最も古い奈良時代前期(7世紀後半から8世紀初め)の金銅仏です。この観音様は、これまで何度も盗難に遭いましたが、そのたび無事に戻ってこられた不思議な仏様です。
 この観音像は、台座に座り、右手の指先を頬にあてて思考にふける半跏思惟像で、あどけない子供のような表情に白鳳文化のおおらかさ、のびやかさが感じられます。蝋型による鋳造で、胸飾りの花文様などに蝋型特有のやわらかさがある精巧な作りの像です。かつては全身に鍍金が施されていたようですが、現在は冠などにその痕跡があるのみ。ちなみに鍍金とは、銅に金の焼きつけメッキをすることで、鍍金されたものを金銅といいます。
 太良庄は、鎌倉時代には京都の東寺(教王護国寺)の荘園となります。正林庵の縁起には、この観音様は仁治元年(1240)に、東寺から太良庄に請来されたと記されています。戦国時代には、若狭守護武田氏の家臣、山県氏が太良庄を支配し、この観音像を念持仏として居城にまつっていましたが、元亀元年(1570)の落城のとき鳴滝の渓流に隠し、それが天正15年(1587)に発見されて、正林庵の境内に新たに設けた観音堂に安置したと伝えられています。
 盗難は、記録にあるものだけでも江戸時代の寛文12年(1672)と享保12年(1727)、明治16年、昭和32年の4回。享保のときの話として、「盜まれてから数年後、太良庄の高島甚兵衛が京の街(一説には小浜の街)を歩いていると、1軒の店から自分の名前を呼ぶ声がして、店をのぞくと盗まれた観音様が置かれていた。それで、買い戻して持ち帰ることができた」そうです。以来、この仏様は、「甚兵衛観音」とも呼ばれています。
 明治のときには、賊が一旦は盗み出したものの、近くの雪の中に落として逃げています。昭和32年には、13号台風の復旧工事に鳥取から来ていた男が盗んで持ち帰り、売ろうとしますが、この観音様のことを知っていた人が気づいて警察に届け、無事に戻りました。その時には、小浜警察署まで村じゅう総出で観音様をお迎えに行ったそうです。
 盗難が度重なったため、昭和45年には観音堂の奥に鉄筋コンクリートの収蔵庫を設置。その後、別棟の収蔵施設が建てられました。
 正林庵が無住となって長い年月がたちますが、太良庄の人たちは、はるか昔から今日に至るまで、毎月17日に観音講を営んでいます。境内は昔のままに美しく保たれており、時の流れがここでは止まっているかのようです。


『越前若狭の伝説』
甚兵衛観音      (太良庄)
 享保二十年(一七三五)太良庄の庄屋高鳥甚兵衛が、小浜片原町(今の酒井)の仏具屋の前を通りかゝると、「甚兵衛、甚兵衛。」と呼ぶので、ふりかえったが、それらしい人もいない。甚兵衛は、不思議に思い、近くの仏具屋をのぞきこむと、八年前に盗まれたはずの正林庵の観音さんが、店にかざられていた。
 京都の山伏が、太良庄の正林庵から盗み出し、この仏具屋へあずけていたのである。これ以後、この如意輪観音のことを甚兵衛観音と呼ぶようになった。大正七年国宝に指定され、現在は国の重要文化財として正林庵に保存されている。   (若狭の伝説)

 太良庄の正林庵に国宝の如意輪観育かある。あるとき泥棒がはいってこの観音を盗み出し、京都の古道具屋へ売ってしまった。しかし村の人は観音さまが盗まれていることをだれも知らなかった。
 太良庄の高島甚兵衛という人が、用事があって京都へ行った。町を歩いていろと。「甚兵衛さん、甚兵衛さん。」と呼ぶ者がある。振り返えって見ると、若い娘であった。娘は近くの店の中へはいったので、甚兵衛もそのあとについて店へはいった。しかし娘の姿がない。店の人にきくと、うちには娘なんかいないとのことであった。ふしぎに思ってあたりを見ると、太良庄の観音さまとそっくりの観音像があった。
 甚兵衛は驚いて村へ帰り、村の人にこの話をした。それでお寺の世話人が観音堂のズシをあけてみたら、中はからっぽであった。世話人はさっそく京都へ行き、五両の金で観音さまを買いもどして来た。それからはこの観音を甚兵衛観音と呼ぶようになった。
 その後同じ太良庄村の小野(おの)寺にいた山伏が、また観音さまを盗みに来た。観音さまを背負って村はずれまで来て、そこの広場をぐるぐる一晩中回っていた。自分では相当に遠くまで逃げているつもりであった。夜が明けて、同じ所にいるのに気づき、山伏は観音さまをそこにほりっ放しにして逃げて行った。
 それからも何回も盗み出されたが、そのつど必ず無事にもどって来た。昭和二十二年に盗まれ県外に売られたときも、無事に帰って来られた。村じゅうが総出で警察署までお迎えに行き、そのふしぎさ、ありがたさにうれし泣きをした。    (永江秀雄)


 観音さまは三十三センチの金銅仏である。この仏像を京都へ受け取りに行った人の名簿が、高島家に保存されている。(小畑昭八郎)






太良庄の小字一覧


太良庄  森前 森口 依田 小原 小原口 ?谷 畦崎 太良谷 寺谷口 堅山口 補陀洛 経焼 姥作 鐘撞田 薬師前 南薬師 向畑 下姥作 河東 口太良 高岸 丹生森 宮ノ前 小柳 大柳 堀口 清水出 太奈胡 町田 深田 西ノ下 口鳴滝 長尾 鳴滝 成堂 奥鳴滝 泰雲口 泰雲 大江勝 定国 寺川 立井 東立井 円通 東谷 師ノ谷口 黄谷 谷田 下黄谷 中谷 上合取口 合取口 五反畑 前田 下前田 蔭稲葉 東蔭稲葉 福ケ谷 里山 北口ノ田 口ノ田 池ノ尻 下登岸 西馬渡 馬渡 尻腐 西前田 上高田 下高田 込田 赤目 中込田 流谷 下込田 下中島 光岩 検当橋 中島 樋ノロ 上中島 下鴈田 鴈田 上 田 下鹿ノ子 小河 茶ノ木原 上茶ノ木原 下滝ケ瀬 上河原 鹿ノ子 下閑居 中閑居 中水戸 上滝ケ瀬 北小芝原 小芝原 上小芝原 上閑居 川向 稲葉山 立井谷 泰雲谷 丹生谷 寺谷 明石

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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