若狭

泊(とまり)
福井県小浜市泊


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福井県小浜市泊

福井県遠敷郡内外海村泊

泊の概要




《泊の概要》
内外海半島先端部に位置し、南は小浜湾に面する。地名の由来は小浜湾内の湊へ向かう船が外海から小浜湾へ入る最初の停泊地であったことによると考えられている。外海に面した海岸線は外面(そとも)(蘇洞門)と呼ばれ、「内外海村誌」には「此海岸一里余奇岩怪石或は千仗の絶壁」とあり、若狭湾国定公園最大の名勝となっている。
泊浦は、戦国期に見える浦名。天文9年(天文1540)3月11日に武田信豊より安堵を受けた飯盛寺上坊乗寛の所職・買得等目録に「泊浦薬師堂并堅海村観音堂別当職、田畠山林等之事」とあるのが初見。弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「七十三文 とまり」と見える。天正16年(1588)7月15日の堅海・泊・仏谷検地帳写では、「泊外面山畑之事」とあり、村内の田畠以外に4町3反余の山畑が開かれていたことが知られる。
近世の泊浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。山では桐油の実の栽培が広く行われた。慶長7年の若狭国浦々漁師船等取調帳では、船数は4人乗7、1人乗8の計15で所有者14人、水夫36人と記される。「雲浜鑑」によれば、小名として西町・東町があり、家数25・人数188。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
伝承ではかつて100戸の集落だったが、出漁中嵐で遭難して家が絶え、現戸数になったという。村の申合せで分家はいっさい認めず、長男以外はすべて村を出ることになっていたという。
近代の泊は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北1町余、戸数24、人口は男96・女95、小船33。

《泊の人口・世帯数》 9126


《泊の主な社寺など》

久須夜(くすや)
内外海(うちとみ)半島にある山。標高619.1m。山名は南麓の堅海に式内久須夜神社が鎮座する(古くは山そのものが御神体か)ことによる。小浜湾を内にして、小浜市街の北にそびえ、若狭湾の海上からも好目標となる。山頂から西に延びる尾根に泊山、東に於禰(おね)ケ岳(468m)がある。昭和40年に有料自動車道路エンゼルラインが開通して頂上直下まで登れ、容易に若狭湾の展望を楽しむことができる。また、展望台のやや下手から、県が整備した自然歩道の急坂を蘇洞門の棧橋へ下りることもできる。山体は主に千枚岩質の粘板岩とチャートが細かく重なった古生層でてきているが、蘇洞門のある海岸は新期の花崗岩からなっている。内外海半島一帯には約150匹の野生ザルが生息している。

蘇洞門(そとも)
古くは外面とも書く。内外海半島の北岸にある海食洞・海食崖の景勝地。昭和9年国名勝に指定された。外面は内外海半島の若狭湾に面する外側の意で、海食による岩門のイメージから優雅なあて字に変わった。内外海半島西端の松ケ崎から外湾側の約6kmの海岸には古生層に貫入した新期花崗岩が露出し、青い海に白い海食崖が壮大に連なる。その東部3分の1ほどが洞門に奇岩・怪石の集中する蘇洞門である。景勝の第一は大門・小門と呼ばれる海食洞門で、大門は小舟を通じ、洞門の裏側から大島半島を望見できる。花崗岩に板状・柱状の節理が入り、日本海の荒波が節理に沿って浸食し、貫通したものである。ほかにも地獄門・華洞門などの洞門があり、付近には昔唐船をつないだといわれる唐船島、岩の形が似ているところから命名された親子亀岩・獅子岩・網掛岩・碁石浜・千畳敷などの奇岩がある。いずれも花崗岩に発達した節理と波食が織りなした自然の芸術。また、その間には白糸の滝・吹雪の滝が海食崖にかかる。若狭湾国定公園第一の名所で、県外からの観光客が多い。海の荒れる冬季を除いて(3月~11月)フィッシャーマンズ・ワーフから高速遊覧船が出ており、約60分で周遊することができる。また久須夜ケ岳に通じるエンゼルライン(無料)の展望台のやや下から蘇洞門の桟橋へ、自然歩道が通じる。約1時間半を要する急な坂道。

古墳
堅海村との境付近の日暮(ひぐらし)山には3基の古墳があり、開口する石室は平家の落人が隠れ住んだとの伝説がある。

若狭彦姫神社
若狭彦姫神社
毎年9月に、若狭一宮(若狭彦神社)を勧請したと伝える日之宮(ひのみや)明神(若狭彦姫神社)境内で豊作・豊漁を祈る酒事神事がある。境内は女人禁制で、各家の当主と長老のみで酒盛をする。という。
『内外海誌』
若狭彦姫神社
所在 小浜市泊7号27番地。
祭神 若狭彦神 若狭姫神。例祭 4月10日及9月10日
本殿 神明造2.25坪及向拝3坪計5.25坪。鳥居石造一基。長床 7.1坪
境内社 諏訪神社(建御名方神)荒神社(興津彦神)相殿にて鎮座
境内地 296.49坪(被譲与国有地)
境外地 山林7町3反
貞観元年遠敷上下宮より勧請したと伝えられる。往古若狭彦姫二神当国巡行の砌当津(泊の津)に一泊され更に遠敷に向はれたが故にこの里を泊の里と云い、依って上記勧請のことがあったと伝える。古来上下大明神と尊称した。故は若狭国一宮若狭彦神社若狭姫神社を上下宮と尊称したのに依ったわけである。氏子数 25世帯。泊の氏神。
「古米上下大明神、又は日ノ宮大神宮とも尊称し貞観元年遠敷より勧請と伝ふ」福井県神社誌。
「上下大明神社 泊浦にあり、遠敷上下の神を奉祀し又日宮と称す、産神にして九月十六日祭礼を行ふ」若狭郡県志。
「若狭彦姫神社 村社にして内外海村泊字盆ノ川にあり、古来上下大明神と称し祭神は若狭彦神若狭姫神にして貞観元年遠敷村より勧請すと伝ふ、元袮宜に高橋氏あり、遠敷の牟久氏よりも古く遠敷上下宮に仕へたりとの伝説あり、又此神社を日の宮大明神と称せし事同家延宝三年の記録に見ゆ、其文に泊浦日之宮大明神者養老年中の建立也、然則遠敷下宮大明神従二竜宮一御影向之刻一日休二此処一而後彼地有飛行縁其由来即当所謂泊浦右如記之彼此一日之日之学執之号日宮古老伝云々、文化五年の若狭一円村高等の記に、日吉大明神山神荒神の三社ありて若狭彦姫神社の記載なし、現今此の日吉大明神に相当するもの他になし、日の宮と称せし所より考ふるに、此間何等かの習合ありしか、又は遠敷に憚る所ありて藩に書き上げの際日吉大明神と記せしものなるべし」云々。若狭遠敷郡誌。
「同村(註泊浦)日之宮大明神 日之宮は養老年中の建立と也 則遠敷下ノ宮大明神従二竜宮一御影向の刻一日休二此所一而後彼地へ有二向行一縁二其由来一 当所を謂二 泊浦一由 依レ之彼以二一日の宇一 執レ之 号日之宮と古老共申伝候 自二往古一二九の月十日を為二当社の祭日一 此宮従二建立一当年迄凡九百五十余年と云爾
 延宝三乙卯九月廿一日 泊浦 日之宮大明神祢宜 刀称」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
若狹彦姫神社 村社にして内外海村泊字盆ノ川にあり、古来上下大明神と稱し祭神は若狹彦神若狹姫神にして貞觀元年遠敷村より勧請すと傳ふ。元禰宜に高橋氏あり、遠敷の牟久氏よりも古く遠敷上下宮に仕へたりとの慱説あり、又此神社を日の宮大明神と稱せし事同家延寶三年の記録に見ゆ、其文に泊浦日之宮大明神者養老年中の建立也、然則遠敷下宮大明神徒龍宮御影向之刻一日休此處而後彼地有飛行緑其由来印當所謂泊浦右如記之彼此一日之日之學執之號日宮古老傳云々、文化五年の若狹一圓村高等の記に、日吉大明神山神荒神の三社ありて若狹彦姫神社の記載なし、現今此の日吉大明神に相當するもの他になし、日の宮と稱せし所より考ふるに、此間に何等かの習合ありしか、又は遠敷に憚る所ありて藩に書き上げの際日吉大明神と記せしものなるべし、明治四十年本社に合併されたるもの荒神社祭神興津彦命搴保二年字中大谷に勘請、諏訪神社祭神建御名方神同上年中字諏訪に勘請の二社あり。


臨済宗南禅寺派海照院


『内外海誌』
海照院
所在 小浜市泊11号6番地
本尊 聖観世音菩薩
臨済宗南禅寺派
本堂 20.91坪。庫裡 16.24坪他
境内地 200坪。山林 7畝7歩。墓地 4畝16歩
堂内仏像 木尊仏像ノ他薬師如来(1)子安観音(1)韋駄天(1)誕生仏(1)
檀徒 泊22戸
木寺院ハ二百七十八年前ノ創建ニシテ高成寺十八世梅隠真和尚ヲ請シテ開山トナス当時ハ茅屋ノ小院ナリシモ逐次面目ヲ改丿亨保三年ニ再建シ明治三十九年全焼同年再建爾来今日ニ至ル
 「泊浦 海照院 禅宗高成寺末
海照院は従レ昔在来寺にて御座候へ共往古建立の儀不二申伝一候
    九月廿一口 海照院」若州竹内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
海照院 臨済宗南禪寺派高成寺来にして本尊は聖観世音なり、同村泊浦字中ノ町に在り、高成寺梅隱の中興にして境内仏堂に薬師堂あり。


韓国遭難船救助の碑

海岸に「海は人をつなぐ 母の如し」の碑がある。
裏面に
1900年1月12日、厳冬の海、ウラジオストックを出航して威鏡北道明川沙浦に帰途の大韓国籍の船「四仁伴載」が暴風のため遭難、極寒と飢え、半月余の漂流の末、泊村に漂着。区民は総出で救護に当たり誠心誠意保護をした。結果、93名の朝鮮人全員が無事で本国へ帰還出来た。1月19日、浜で別れるとき、朝鮮人は涙を流し、村の衆も袖を絞るほどに泣き、親子兄弟の様に別れをした。
この美談を日韓交流の礎にしたいと、韓国の鄭在吉教授の提唱で、2000年1月、当地で百周年記念事業を行う。祖先の偶然な出合いは、100年後の必然の再開となる。海は人をつなぐ母の如し、21世紀の日韓の友情と平和を祈念し、ここに記念碑を建立する。 2000年1月12日  韓国船遭難救護百周年記念事業実行委員会

と、大韓国の崔卿汝 李致白 と崔卿瑞 金致範 の謝礼文が刻まれている(漢文)。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


泊の主な歴史記録


『内外海誌』
泊区の韓人漂着について
日韓合併は、明治43年8月であるが、それより10年前、明治33年1月12日、内外海村泊に、韓国の船が漂着した事件がある。「韓国人水難救護ニ関スル書類」により、その大要を述べておく。
明治33年1月12日午前9時頃、泊の宮城長太夫が泊の海岸凡そ150間沖合で外国船の漂流するのを認めて、山崎豊蔵、山崎仲太夫、岸本兼松、品川清蔵らを呼び集め、海岸に出てみると、船の甲板に数名出て来て手を挙げ救助を求める様であった。それで、波濤孫右衛門、高橋藤蔵、玉置岩吉、富田岩蔵、汐見岩蔵、清水三蔵、大谷駒蔵、鶴田三蔵、深田虎蔵、池田岩蔵、波濤虎蔵、大谷音蔵、大森友吉、松見万蔵、高垣幸吉、宮城銀蔵、山崎久蔵、山川三蔵、波濤与太夫等19名らに救護方を通知し、順次舟を出して救護に着手上陸させた。焚火をなし、食を与え、泊の深田虎蔵他5棟を借受けて人員を配置し、後一棟を増し、6棟の家に収容保護した。そうして小浜警察署へ報告した。その時人名数は「朝鮮人百名ばかり」とあったが、後正確には93名であった。
 時の内外海村長は倉谷善右衛門。
小浜警察署から松永、国友両部長及び高鳥、河辺、興津計5名、役場から倉谷村長、林、大宮の書記、遠敷郡役所から山田郡長を始め、加納、新谷、藤田、長谷川、検疫医松本医師が現場に到着した。本県から広瀬保安課長が、新潟関税敦賀出張所から金田哲万が荷物取調べに出張した。若越新聞社からは特派員伊藤百助も来た。海照院を事務所として取調べ、或は問答した。救護の方法を講じ非常の尽力をした。泊区長は昼は炊事の世話をし、夜間は一ヶ所に三名宛不寝番を置いて教護に従事した。救護米等代金の請求書内外海村長宛があるので、それを抄出する。
○ 米6石982。此代金87円27錢5厘 1月12日から19日まで、93人分の米代。
高藤蔵取扱分
○ 野菜物(漬物、菜、大根、その他味噌、醤油、塩等)一式、此代金68円
81銭 同じく12日から19日まで93人分。波濤与太夫取扱分
○ 炭51貫500匁代金3円60錢5厘  山崎豊蔵取扱分
〇 石油8升4合代金1円60錢 波濤孫右衛門取扱分
○ 焚出し賄方雇人夫96人分代金33円60錢 深田虎蔵取扱分
 この他に「該人ノ如キハ巨食ノ方ニテ途中間食ヲ求ム状アリ 或ハ甘藷其他種々ノ食物ヲ与ヘタルニ概算一日甘藷25貫目位ヲ或ハ蒸シ或ハ焼キ与ヘタリ」と公文書(村長より知事宛)には珍らしい内容が出て来る。

   船難報告書
l 船舶1種類及名称 商船 四仁伴載
2 総噸数又ハ積石数 不詳
3 船籍港 無
4 船舶所有者ノ氏名又ハ名称
    韓国威鏡道明川鄭在官
5 発航港 俄国海三威
  寄航港 無
  到達港 福井県遠敷郡内外海村泊
  遭難の場所 不詳
6 遭難及救護の顛末
 大韓国暦十一月二十七日海三巌行船則日遇悪風不知子午従風掛席過数日波水?湧幾船伏處無数船載物件投海中四方望之無涯人皆流涕又況清水尽飢渇極甚乾米療飢或飲海水或自咾尿止渇不分昼夜十二月十二日到貴国泊浦只今保命(本文朝人自筆)
7 船舶ノ損害 席破他處未有
8 死傷者ノ氏名 無
9 滅失若クハ毀損シタル積荷ノ種類、重量若シクハ容積、其荷造ノ種類
箇数 記号及傭船者若シクハ荷送人ノ氏名若シクハ名称
  唐木三拾九封四疋 達里四十五封十四疋右報告也
 大韓光武三年己亥十二月十六日 船長許希一
  韓人漂着ニ付救護顛末書
1 労役ノ種類 船難救護ニ従事 1焚出不寝番従事
1 救護中ノ時間 33年1月12日より同19日マデ
  水難救護法第14条第1項ノ規定ニ依リ中出タル金額左ノ如シ
1 金185円29銭2厘
1 徴用シタル物件 米麦 野菜 塩 味噌 醤油 石油 木炭及謳人夫
1 土地及所有者 宅地家屋
  深田虎蔵  山崎仲太夫  高橋藤蔵  大谷駒蔵  波濤孫右衛門 汐見岩蔵
1 村長ノ定メタル救護費用 ナシ
1 船員11名 旅客82名 死傷ナシ
1 救上ゲタル物件 商船 四仁伴載
1 船体容積 長12間梁3間ノ者一艘
  達里44封五疋 唐木17封48疋
  支那米若干(食用ニ不堪) 1公売ニ附シタル者 ナシ
1 物件運搬並保管ニ要スル費 金50円
  右之通ニ候也 内外海村長
                倉谷善右衛門
    福井県知事 岩男三郎殿
 参考 年令20才39人、30才24人、40才19人、50才以上11人。
    職業、軍人23人、商人44人、船員14人。庶業13人であった。
 尚、本記録を特に記したのは、内外海地区が海と関係が深く、古くは、「つるべ亅の漂着、秦氏の祖の漂着、矢代の漂着、西小川の難破船漂着等があり、この泊の漂着は、内外海漂着物語の最も新しい実録である。



『新わかさ探訪』
*泊の若狭彦姫神社   若狭のふれあい第67号掲載(平成2年9月29日発行)
*山幸彦と豊玉姫が竜宮から来て泊まった所
 若狭彦神社(上宮または上社と呼ぶ)は小浜市竜前に、若狭姫神社(下宮または下社)はそこから1.5㎞ほど離れた同市遠敷にあり、両社を合わせて若狭一の宮、または遠敷明神と呼ばれています。彦神社は彦火火出見尊(神話の「海幸山幸物語」で名高い山幸彦)、姫神社は豊玉姫命(山幸彦が竜宮でめとった海神の娘)をまっっており、両神社は夫婦の間柄にあります。
 一方、蘇洞門で知られる内外海半島の先端に近い同市泊にも、地元の人たちが「若狭彦姫神社」とか「日吉大明神」と呼ぶ社があります。この神社は、かつては「日之宮大明神」と呼ばれ、『社寺由緒記』には奈良時代の養老年間(717~724)の建立と記されています。「彦火火出見尊が竜宮から帰られたとき、この浦に泊まった。ゆえに浦の名を泊といい、遠敷上下大明神をまつる」(若狭国一宮御縁起)、「遠敷の下の宮の大明神(豊玉姫)が、竜宮からこの国へ出現されたとき、ここで一日休まれて後、かの地へ行かれた。よってここを泊浦というようになった。また一日おられたので、その字をとって当浦の社を日の宮と号した」(社寺由緒記)とあり、山幸彦と豊玉姫は、どちらもこの泊を竜宮からの経由地としています。
 泊の人たちは、「明治の初めまで一の宮の祭りには、泊からお宮さんのカギを運んだ。そのカギがないと扉が開かなかったため、一の宮は祭りを始めることができなかった」と言います。また、泊には、子供が生まれると2月10日前後にその子と両親が地元の彦姫神社に参ってから遠敷明神に参る「成子参り」というしきたりがあります。
 秋には豊作を祈願する「酒事」という行事が泊の彦姫神社の境内で行われます。村じゅうの人たちが神社にお参りし、各家の世帯主と隠居衆が境内の広場を囲んで酒を酌み交わします。その真ん中では若者が棒振り太鼓を演じ、大勢の人が見物に集まります。
 竜前、遠敷の若狭一の宮と異なり、夫婦神が同居している泊の彦姫神社-地元の人たちは、古くからのしきたりを守り、この歴史探い社を大切に守り継いでいます。


泊の伝説


『越前若狭の伝説』
日の宮明神             (泊)
 遠敷の下の宮大明神が、竜宮からこの国へ出現されたとき、ここで一日休まれて後、かの地へ行がれた。よってここを泊浦というようになった。また一日おられたので、その字をとって当浦の社を日の宮と号した。  (社寺由緒記)

 彦火火出見尊か竜宮から帰られたとき、この浦に泊った。故に浦の名を泊といい、遠敷上下大明神を祭る。     (若狭国一宮御縁起)

 お帰りのとき、まず外面(そとも)の千畳岩の上に着き、ついでこの浦に泊られた。よって村の名を泊という。      (福井県の伝説)




唐船島                (泊)
 外面(そとも)に朝鮮島という島がある。岩が直立して天にそびえている。むかし異国の船がこの島に漂流して来て船をつないだので、唐船島という。それからは来船ごとにこの島に船をつないだ。       (福井県の伝説)

六大地蔵            (泊)
 外面(そとも)の大門小門の近くの島に六大地蔵尊がある。そこに置いてある手洗いばちとしゃくは伊勢から流れて来たもので、伊勢皇大神宮のものと同じ大きさである。   (福井県の伝説)





泊の小字一覧


泊  倉崎 大崎 新田 上抜戸 下抜戸 諏訪 盆ノ川 焼野 尻無 樋ノ口 中ノ町 下ノ町 西大谷町 中大谷町 東大谷町 日暮 下和田 上和田 前田 清水 風呂ノ下 野元 大堤 上丁田 丁田 松ノ前 薮原 梅ノ木坂 深田 尾々田 石田 六石 大坪 這上里 高森 山崎 梶田 大窪 白石 勝ノ坂 大門 大滝 脇ノ坂 滝ノ染 白瀬 大粟 小山 地蔵

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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