丹後の地名 若狭版

若狭

若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)
福井県小浜市龍前


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福井県小浜市龍前

若狭彦神社の概要




《若狭彦神社の概要》





本殿前の四角の敷地には、かつて拝殿があったという。

竜前集落の南側山麓、字彦野の深い鎮守の杜に鎮座。「延喜式」神名帳の「若狭比古神社二座名神大」の一座。他の一座は若狭姫神社とされ若狭国鎮守二宮(下社・下宮)であるのに対し、当社は若狭国鎮守一宮(上社・上宮)とされる。また両社を合わせても若狭比古(彦)神社とよばれ、若狭国鎮守一二宮と通称された。
「三代実録」貞観元年(859)1月27日条に神階が従二位勲八等より正二位に進んだとあり、享禄5年(1532)の神名帳写には「正一位勲三等 若狭彦大明神」とある。祭神天津彦火火出見尊。旧国幣中社。
境内は静かで誰もいない、現在は社務いっさいは若狭姫神社の方で行われている。

創祀は若狭国鎮守一二宮縁起には、
 一ノ宮(号上宮)元正天皇御宇霊亀元年乙卯九月十日、当国遠敷郡西郷内霊河之源白石之上始て垂レ跡坐、其形俗体而如二唐人一、乗二白馬一居二白雲一、今若狭彦大明神是也、眷族八人之内有下持二御剣一童子一人上、謂二節文一、於二当郷多田嶽艮麓一架二草宿一、蓋二椙葉一為二仮御在所一、是而暦二七箇日一遂促二竜駕一、遍覧二郡県一択二神館之地一計二霊廟(テウ)之堺一、然而帰二本所一以二為勝区一、奇瑞粤甄(アラハレ)一暮生二数千株之杉木一、正殿始祐永代奉レ安二大明神之霊体一、於二最初仮殿跡一建二立精舎一今号二神宮寺一矣、
と記す。同縁起は続けて二宮の垂迹について述べたのち、「彼二神盟約曰、以二節文子孫一永為二社務、神主一一代為レ神一代為レ凡、以二笠字一可レ為二氏姓一、迄二于後世一罔レ改二此儀一云云、然後節文天平神護二年柄忽彰二神霊一、号二黒童子神一、子孫奕世為二社務官一」と記す。
若狭国鎮守一二宮社務代々系図の初代、節文の項にも右縁起と同様の記載がみられる。節文は黒童子神として境内に祀られた。若狭彦大明神の本地は薬師如来で、神宮寺が祀った。
「続日本紀」宝亀元年(770)8月1日条に「遣二若狭国目従七位下伊勢朝臣諸人、内舎人大初位下佐伯宿禰老一、奉二鹿毛馬於若狭彦神、(中略)各一疋一」とあり、「新抄格勅符抄」に引く大同元年牒に「若狭比古神 十戸若狭」とみえる。当社には乾元2年(1303)成立の「詔戸次第」が伝わり、建暦2年(1212)正月2日の国庁御神拝、大介藤原朝臣奉幣のことが記される。また建長七年(1255)2月10日の例祭の詔戸には「当国ニハ大介目在ー庁官人郡ー郷官々万民百姓等心-中所-願悉令二円満一給へ」の文言がみられ、当社と国衙・在庁官人との深いかかわりを示し、鎌倉初期には若狭国一宮として成立していたことがうかがわれる。
文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写は「当国上下宮」として「常満保御祈祷供料十九町二百五十歩」を記し、さらに「上下宮廿四町一反二百六十歩 不検注」とあって、若狭国分寺を上回る社領を有していた。とくに常満保は国祈祷料所として国衙の支配下にあったが、当社神官牟久氏一族にかかわる人々が同保供僧職をもち、国衙との強いつながりが社領形成に大きな役割を果したと考えられる。神官牟久氏は多田氏・和久利氏・木崎氏などの有力国人層と血縁を結び、本郷氏・和田氏などとも婚姻関係をもつなど、つながりは広範囲に及び、また国分寺大別当・多田薬師堂との関係もあった。加えて、一二代景継の妻は太良庄開発にかかわる長田下野守師季の曾孫進士刑部允頼忠の母で(一二宮社務代々系図)、当社神官が若狭国中枢部の在地勢力と融合を図りながら、勢力を拡大していったことが推定される。
応永14年(1407)には若狭守護一色満範が大鳥居を建て、同26年には一色義範が社殿を造営している。一色氏に代わった武田氏も上葺をするなど歴代守護の庇護が厚かった。天正元年(1573)には丹羽長秀が禁制状を発給し、同16年浅野長政判物に「遠敷村之内一宮領高頭拾壱石之所令寄進候、全可有領知候、(下略)」とある。以後木下氏・京極氏・酒井氏など近世を通して藩主の安堵・禁制状が出されている。寛政7年(1795)には酒井忠為が伝三条小鍛冶宗近の太刀を奉納した。
本殿は三間社流造で文化10年(1813)の造営、神門(中門)は切妻平入で天保元年(1830)の造営、随神門は江戸末期の造営で、それぞれ檜皮葺で県指定文化財。なお本地仏の薬師如来(重要文化財)は明治の廃仏毀釈で竜前村へ譲渡された。当社の東側に宮ノ腰・宮ノ原、北側に宮ノ下の小字があり、もと境内地に含まれていたらしい。
随神門の神像

随神門にはその左右に8躯の神像が祀られている。格子戸の中に納まっていて暗いため見えにくい。彦神の随神「眷族八人」なのであろうか。姫社の随神門にも同じように祀られている。「八人」というのは「多い」ということだろうから、多人数で渡来してきたということであろうか。
『郷土誌遠敷』
若狭彦、姫神社の随神門の神像群
若狭彦神社(上社)、若狭姫神社(下社)の各随神門には左右に四体づつ計十六体の神像が安置してある。この神像は京都国立博物館の文部技官の景山春樹氏が 昭和四十二年(一九六七)に調査していずれも鎌倉時代(約七百年前)の作品であると認定している。
この神像群は、同神社から東京国立博物館へ移された、「神人絵系図」(国の重要文化財)にも“吉祥”の名で掲載されており、若狭の国を開いた若狭彦神、若狭姫神のお供をしてついてきた“眷族”と云われている。高さ約一メートル、ヒノキづくりで極彩色のあとが残り、奈良朝時代の装束で手に剣、ホコ、弓、矢などの武器を持ついかめしいものである。
景山氏はわが国神道美術の権威者で「神像群にはどれも鎌倉彫刻の特徴がよく出ている」と折り紙をつけた。ひとつの神社にこれほどたくさんあるのは、珍しいということである。当時の高木宮司は「若狭彦、姫神の随身であることは延宝三年(一六七九)にあらわされた『若州管内社寺由緒記』に出ている。全国でも珍しい神像群で若狭の国の起こりと関係があるということだから大切に保存したい。」と話していた。(昭和四二・一二・一六 中日)



境内末社・若宮神社
本殿の向かって左に鎮座。境内にはこの社しか見当たらない。

蟻通神社
元々は中西の「かねつき堂」があるあたりにあったという。
『遠敷郡誌』
龍前 …、蟻遠明神は合併されて其址存す、

蟻通神社 同村龍前字中西にあり、祭神不詳。


『郷土誌遠敷』
蟻通神社と一本松
蟻通神社は竜前字中西(現竜前区集落センター前梵鐘の南側)一本松(平成十一年九月十五日松喰い虫による被害で伐採)のそばに鎮座。
大正十一年(一九二二)七月二四日国幣中社若狭彦神社境内末社若宮神社へ合併(合祀)された。蟻通神社または蟻通明神(蟻通の神)は正式名が大名持命。例祭は九月二日で「知恵の神様」ともいわれている。この祭神大名持命については次のような話が伝わっている。すなわち昔棄老の習慣を無視して老父母をたいせつにした中将がいた。唐の国から日本の才を試そうと幾重にも曲がった玉に緒を通すようにとの難問が出されたとき老人の指し図に従い、蟻に糸を結びつけて通し解決した。以後棄老の習慣をやめ、この老人を神としてまつったと。


大和国吉野郡の名神大社丹生川上神社の比定は、同地にあった蟻通明神になされていて、その比定が正しいかはよくわからないが、蟻通神社は丹生神社の別称と見られている。蟻通伝説には紀貫之が現れて(和泉国の蟻通神社)、枕草子に記されていて古くから有名な社だが、紀氏≒丹生氏の関係からも丹生氏を感じさせる。本来の祭神は丹生都比売だろうか。
しかし古い記録には当地に蟻通神社も丹生神社も見られない、比較的新しく(明治以降くらいに)勧請された社かも知れないが、しかしまたまったく何も関係がない社を誰かが勧請することも考えにくいし、それを村が受け入れることも、まして彦社の境内に祀られるということもなさそうに思われる。古くから当地に由縁ある社として小さく祀られていたが外へは報告しなかったホコラであったのかも知れない、そのあたりの事情は記されたものが見当たらず不明であるが、丹生は遠敷(小丹生)の母体と思われるし名神大社の境内社であるので一応は重く見なければなるまい。

『若狭郡県志』は延宝年間(1673~81)のものだが、今はない次の2社の記載がある。
黒童子社
彦社の鳥居の傍にあって、黒戸ノ神社とも称する、祭彦は五瀬命で、摂社であった。五瀬命は社家の牟久家の祖先である。
比古神社
神宮寺境長尾山ノ麓にある。白石に彦火火出見尊が降臨した時の仮宮。今の上宮の地に一夜にして杉樹繁茂し霊地だとして神殿を移し社を建てた。若狭彦神の本社と称する。その後若狭姫も祀った。という。あるいは今の神宮寺の奥宮、遠敷明神であろうか。


社家の和朝臣、笠朝臣、牟久氏
若狭彦神社には12世紀初頭に作られた若狭国鎮守一二ノ宮縁起が伝えられていた。また、現存の一二宮社務代々系図は最初の部分が14世紀中頃に記された古系図で、霊亀元年(715)に若狭彦神がこの地に垂跡して以来の代々の社務を記した貴重な資料という。
社家は初めは和朝臣と名乗っていた。
「天長六年(829)三月乙未、若狹國比古神、和朝臣宅継を以つて神主と爲す」とある。宅継の曾祖は赤彦呂といい、神願寺を建てたという。
ヤマト朝臣と読めば、大和国造系だろうから椎根津彦、志理都彦命などの裔で、丹後にも多い渡来系かかった海人族が初めは祀っていたということになろうか。その和朝臣氏はどうなったのかわからないが、社家は笠朝臣と称するようになる、その変遷の事情はわからない。簡単に言えば、元々は海人族が祀っていたが、後に新羅人が祀るようになったということだろうか。
「霊龜元年(715)乙卯九月十日、當國遠敷郡西郷内霊河の源、白石の上に始めて跡を垂れ坐す。其形・俗體にして、唐人の白馬に乘れるが如し、今若狭彦大明神是れ也。眷屬八人の内に御劔を持つ童子一人あり、節文と云ふ」
節文を黒童子といい、その裔が笠朝臣と称し、また牟久氏と称して、現在まで続くという。
笠朝臣というのは外向き上向きもので、地元向けフツーには牟久氏と称している。
舞鶴の浦入遺跡から「笠百私印」の刻印がある製塩土器の脚が出土している、この「笠」を、この笠氏に当てる見方もある。舞鶴にも牟久さんがあるが、当時製塩にも拘わっていたものか、舞鶴では笠と称したかは不明である。遺跡地の地名が大丹生、裏丹生なので、あるいは当地と関係があるのかも知れない。

『遠敷郷土誌』
若狭彦神社(竜前)
小浜市竜前にある神社。旧国幣中社、
○祭神 上社 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)
    下社 豊玉姫命  (トヨタマヒメノミコト)
○創建 上社 霊亀元年(七一五)九月十日 鎮座
    下社 養老五年(七二一) 二月十日 鎮座
 小浜市下根来白石に鵜の瀬というところがある。遠敷川の清流が巨巌に突き当たって淵をなしている。この巨巌の上に、先ず若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝える。
 この南方百五十メートルのところに創紀の社と伝える白石神社がある。その後、永久鎮座の地を求めて若狭国内を巡歴なされた末、霊亀元年(七一五)九月十日竜前に若狭彦神社、六年の後即ち、養老五年(七二一)二月十日遠敷に若狭姫神社が鎮座されている。
 祭日 上社 十月十日
    下社 三月十日
 明治初年(一八六八)までは、上社が九月十日、下社が二十日の鎮座の日が例祭であったが、太陰暦が太陽暦に改まったとき、一ヵ月下げて一月と三月の十日に変更された。
 「延喜式」神名帳に載る「若狭比古神社二座名神大」の一座で、他の一座若狭姫神社が若狭国鎮守二宮(下社・下宮)であるのに対し、若狭国鎮守一宮(若狭彦神社、上社・上宮)とされる。また、両社合わせても若狭比古(彦)神社、または若狭国鎮守一二宮と呼んだ。草創は不明だが、若狭国鎮守一二宮縁起(若州管内社寺由緒記)では、当社(一宮)の創建を霊亀元年(七一五)とする。なお、当社の本地は薬師如来で神宮寺がこれを祀った。
特殊信仰 御神徳は広大無辺にして、古来、上皇室の御崇敬をはじめ、庶民一般の信仰が篤いが、とりわけ農業、漁業、安産育児、又、畳、敷物商工業の守護神としての信仰が深い。奈良二月堂のお水取りは名高い行事であるが、このお水取りは東大寺の実忠和尚と遠敷明神との神約にもとづくものであって、この遠敷明神は遠敷神社即ち若狭姫神社の祭神-豊玉姫命である。東大寺には、二月堂の右裏手に遠敷神社が奉祀してある。
境内社 上社境内 若宮神社 祭神 鷦鷯草葺不合尊
            相殿    大山祇神 蟻通神
     下社境内 中宮神社 祭神 玉依姫命
            日枝神社 祭神 大山咋神
            相殿 宗像神 稲荷神 愛宕神 金比羅神 夢彦神 夢姫神
            玉守神社 祭神 玉守神
境外社       白石神社 小浜市下根来白石鎮座
               祭神は若狭彦神、若狭姫神を白石大神、または鵜の瀬大神とたたえて奉祀。若狭彦神社の創祀の社と伝えるが年代不詳。境内に椿が群生し、目通二・一四メートルの大木は、市の天然記念物に指定。
この社の北方百五十メートル遠敷川をはさんで、若狭彦神社の飛境内がある。鵜の瀬という霊域にして、清流が巨巌に突き当たるところの深淵を、奈良二月堂の若狭井の水源と伝えている。この巨厳は若狭彦神、若狭姫神の降臨ましましたところ。この鵜の瀬は、若狭彦神社の送水神事(豊作を祈願する神事)の斎場でもある。
 「瀬にしみて奈良までとどく蝉の声」山口誓子 この句碑が白石神社の境内にある。
      小浴神社 小浜市金屋鎮座
      祭神 若狭彦神 若狭姫神または小南神社ともたたえる。
建造物 上社 本殿 神門 楼門 福井県有形文化財に指定、江戸時代の改築。
    下社 本殿 神門 楼門 社叢 福井県有形文化財に指定、江戸時代の改築。
    社叢は、社殿裏山に広がり若狭地方を代表する暖地性広葉樹林であり、建物とみごとに調和、太古からの荘巌な様相をよくとどめている。
社宝  太刀一振 宗近作 国の重要文化財に指定、小浜藩主酒井忠為の寄進。東京国立博物館に出陳中。
    随身 上社及び下社の楼門に八柱づつ安置してある。鎌倉時代の作。
       全国唯一独特の様式で極めて貴重な存在である。若狭彦神、若狭姫神がこの地にご鎮座になったとき、お供をした眷族〔随身〕の方々である。
詔戸次第一巻 国の重要文化財に指定 乾元二年(一三〇三)の奥書がある。
       鎌倉時代に使用されていた全国的にも貴重な祝詞集。
神木 千年杉 下社瑞垣内にある。目通六メートル、樹高四十メートル。遠敷の千年杉として名高い。秀麗この上なく、古来不老長寿の象徴として篤く信仰される。
   乳の木 下社境内にある。銀杏の木。目通三・五メートル、樹高四十メートル。枝の下から瘤が垂れさかって、あたかも乳の如き形をしている。
   夫婦杉 上社境内楼門前にある。二本が根本においてぴったり密着している。
        夫の木、目通三・五メートル、樹高四十メートル。
        婦の木 目通三メートル、樹高三十メートル。
   招霊の木 下社境内能舞殿前にある。目通二・三メートル、樹高十八メートル。明治の中頃に京都御所より拝受、植栽されたといわれる。小浜市指定天然記念物。
若狭彦大明神の御神託
 みな人の 直き心ぞ そのまゝに
      神の 神にて 神の 神なり
 この御歌は、宇多帝の御子敦実親王に夢中に告げ給ひしとなり、四神の御歌と云ふ是なり。 後鳥羽院勅撰「和論語」
      (延喜式内名神大社  若狭国一宮若狭彦神社由緒記)
○歴史
「延喜式」神名帳に載る「若狭比古神社二座名神大」の一座で、他の一座若狭姫神社が若狭国鎮守二宮(下社・下宮)であるのに対し、若狭国鎮守一宮(若狭彦神社、上社・上宮)とされる。また両社合わせても若狭比古(彦)神社、または若狭国鎮守一二宮と呼んだ。草創は不明だが、若狭国鎮守一二宮縁起(若州管内社寺由緒記)では、当社(一宮)の創建を霊亀元年(七一五)とする。なお、当社の本地は薬師如来で神宮寺がこれを祀った。
 「三代実録」貞観元年(八五九)一月二七日条に従二位勲八等により正二位に昇進したとあり、享禄五年(一五三二)の神名帳写(小野寺文書)には「正一位勲三等若狭大明神」とみえる。「続日本記」宝亀元年(七七〇)八月一日条によれば、当社に鹿毛の馬が奉納されたことがみえ、「新抄格勅符抄」に引く大同元年(八〇六)牒に「若狭比古神十戸」とある。当社には乾元二年(一三〇三)成立の詔戸次第(国重文)が伝わり、建暦二年(一二一二)正月二日の国丁御神拝、大介藤原朝臣奉幣のことが記されている。
 また、建長七年(一二五五)二月十日の例祭の詔戸では、当社と国衙(役所など)・在庁官人との深いかかわりが知られ、鎌倉初期には若狭国一宮として成立していたことが窺われる。
 文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写は「当国上下宮」として「常満保御祈祷供料十九町二百五十歩」を記し、さらに「上下宮二十四四町一反二百六十歩不検注」とあり、かなりの神田を有していた。応永十四年(一四〇七)守護一色満範か大鳥居を建て、同二六年(一四一九)には一色義範が社殿を造営、武田氏も社殿の上葺をするなど歴代の守護の保護が厚かった。
 近世に入ると丹羽長秀・浅野長政を始め、京極氏・酒井氏は安堵・禁制を下した。寛政七年(一七九五)に酒井忠為が奉納した伝三条小鍛治宗近の太刀は現在国重文。文化十年(一八一三)に造営された三間社流造の本殿、天保元年造営の神門(中門)、江戸末期造営の随神門はそれぞれ槍皮葺で県文化財である。なお、本地仏の薬師如来は明治の廃仏毀釈の際、竜前村(小浜市)へ譲渡された。


『遠敷郡誌』
若狭彦神社 若狭姫神社 國幣中社
若狭彦神社は若狭比古神社とも記し、古来一宮又は上宮と稱す、祭神は天津日高彦火々出見尊なり、和銅七年九月十日、下根来村の白石なる所に影向あり、鵜瀬河の邊に假に社殿を營みしが靈龜元年九月十日、今の地に遷せりと傳ふ、遠敷村龍前に在り。.


毎年10月10日に若狭彦神社・若狭姫神社の祭りとして、五穀豊穣を祈願し棒振り太鼓や神楽が練り歩く遠敷まつりが行われる。

以前日本一といわれた大きな相撲場があった
『郷土誌遠敷』
相撲道場の建設と賑わい
昭和十六年(一九四一)五月頃、若狭彦神社の元宮司小野村胤常氏心子息の胤俊氏が同神社の神苑に相撲場を寄付したいという申し出があった。そこで高木倉司と地元井崎村長、区長らが敷地選定にあたった。場所は彦神社外苑に隣接して工費一万円で二万人収容の大相撲場を建設することになった。
この相撲場は選手宿泊所、入浴場などを完備し、相撲による鍛錬道場とし若狭地方の青少年に開放、毎年十月十日の例大祭に相撲大会を開催する計画を持つていた。この相撲道場建設には竜前・神宮寺・忠野の各区民が特に協力した。
 《昭和十六年八月二七日、彦神社外相撲場ノ奉仕ニテ、朝七時二上ノ宮二集合、神前二、三列トナリ、宮司(高木好次)ノ祈祷有リ、玉クシ奉奠鍬入レノ式有リ、終リテ仕事二付ク、午前十一時三十分中食、午后二時仕事、五時二終リテー同神前二列ヲツクリー日無事ナルヲ御礼ヲ申シ帰宅二付、竜前、神宮寺、中野の三ケ区。(竜前古文書録より原文のまま)
 昭和一六年十一月三十日に上棟祭を行った。入母屋作り桧皮葺き、摺り鉢型五千人収容の道場が完成した。


若狭彦神社の主な歴史記録


『風土記』
若狹國號(参考)
風土記に云はく、昔、此の國に男女ありて夫婦と爲り、共に長壽にして、人、其の年齢を知らず。容貌の壯若きこと少年の如し。後、神と爲る。今、一の宮の神、是なり。因りて若狹の國と稱ふ。云々

『続日本紀』
769若狭国の目・従七位下の伊勢朝臣諸人と、内舎人・大初位下の佐伯宿禰老を遣わして、鹿毛の馬を若狭彦神と宇佐八幡の神宮にそれぞれ一匹ずつ奉納した

『大日本地名辞書』
若狭遠敷神社。遠敷村に在り、国幣中社に列す、上下の二宮に分れ、下宮は遠敷駅に在り、即延喜式若狭比売神社、名神大とあるに当る、上宮は東南八町大字龍前に在り、即延喜式若狭比古神、名神大とあるに当る。
遠敷大明神は、若狭国神階記に二座并に正一位勲三等とありて、康暦四年、法眼円海上宮の鳧鐘を懸奉り、応永十二年守護一色詮範臨時祭を行ひ、流鏑馬を観る税所代安倍忠俊勅使の事を行ふ、同廿九年造営遷宮、安倍稚楽助勅使代たる事若狭守護次第記に見ゆ、祭日には浦の海人魚味を献ずるを例とす。〔郡県志旧事考〕
○神祇志料云、遠敷神は伝へ云ふ彦火火出見命豊玉媛也、〔一宮縁起、諸神記、神名帳頭注〕と、按に古事記新撰姓氏録に大和国造大和宿禰は椎根津彦の孫裔也、又旧事本紀に、火火出見尊海神の女玉依姫を娶て生み坐せる子、武位起命は大和国造等の祖とあるに依て考ふるに、武位起命は即椎根津彦の父にして、火火出見尊は即其御祖に坐を以て、此国に住る大和氏其祖神を祭りし者なる事著く、且一宮縁起等の説又拠あり、天長中和朝臣を本社の神王とせるも亦此故也、唯豊玉媛は玉依姫の誤に似たり、然れども今?く改めず、姑く旧文に従ふ、即当国一宮也、神護景雲四年、若狭目伊勢諸人を遣して鹿毛馬一匹を若狭彦神に奉らしめ、〔続日本紀〕大同元年神封十戸を充給ひ、〔新抄格勅符〕天長六年和朝臣宅継を神主とす、〔類聚国史〕即彦火火出見尊の神孫也、〔旧事本紀、参取続後紀〕貞観元年、従二位勲八等若狭比古神に従二位、正三位若狭比(口編に羊)神に従二位を授け、〔三代実録〕延喜の制名神大に列り、〔延喜式〕後一条天皇寛仁元年、一代一度奉幣使を遣して、紫綾蓋、野剣、乙箭、鉾桶、線柱等の神宝を奉る、〔左経紀〕文永五年、将軍久明親王教書を下して異族を降伏コトムケしむる事を祈り、〔当時文書〕正平元年御卜に神事を穢し奉れる御祟ありと云を以て、使を遣して社司に中祓を科せしめき、〔宮主秘事口伝〕凡毎年上宮祭五月十日、海人贄を捧げ、卯月臨時祭を行ふ、下宮二月九月十日を例祭とす、此日西津郷堅海荘の海人鮮魚を奉り、酉日臨時祭を修む。〔官社私考〕○按に此遠敷神は海人(海人の事は若狭国の条の和加佐を参考すべし)の崇敬せる由、東大寺要録にも見え、実に当国在住の和ヤマト氏の氏神にまししならん、当国又青海神社ありて、和氏同族青海首の氏神なりと思はるれば也、其和氏も青海氏も海人を統べて朝廷に奉仕し、後世在庁税所を海部(安倍にも作る)と云ふも、疑ふらくは本社の氏子にして国府衰へけるより勅使代を勤めしごとし。
続紀、神護景雲四年若狭彦神に馬を献ぜられしは、平城京東大寺二月堂の祠の事なれど、彼祠は此なる神をば当時実忠和尚が迎祭したる也。古人云、実忠和尚被始六時行法時、二月修中初夜之終、読神名帳、勧請諸神、由茲諸神悉影嚮、或競興福祐、或諍為守護、而遠敷明神恒喜猟漁、精進是希、臨行法之末、晩以参会、聞其行法、随喜感慶、堂辺可奉献閼伽水之由、所示告也、時有黒白二鵜、忽穿磐石、従地中出、飛居榜樹、従其二迹、甘泉湧出、香水充滴、則畳作石、為閼伽井、其水澄映、世旱無涸、彼大明神、在若狭国遠敷郡、国人崇敬、具大威勢、前大川、川水平良、奔波湧流、由献其水、河末湯尽、俄無流水、是故俗人号無音オトナシ河云々、然則二月十二日夜、至後夜時、練行衆等、下集井辺、向彼明神在所、加持井水、以加持故、其水盈満、于時汲取入香瓶、不令断絶、自爾相承遂為故事、従天平勝宝之此、至于今時及四百歳、雖経数百年、其瓶内香水、清浄澄潔、飲者除患、身心無悩、猶如無熱池八功徳水矣。○又按に、蝦夷語に水をワッカと云ふ、実忠が閼伽(梵語、水の義)をば若狭神より獲たりとあるに偶合する所あり、奇と謂ふべし、国名は神名より起るなれば、猶一考を要す。





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京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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