和久里(わくり)
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福井県小浜市和久里 福井県遠敷郡今富村和久里 |
和久里の概要《和久里の概要》 南川の下流右岸側。古い集落は東西を多田川と若狭道インターアクセス道(267号)、南北を鉄道と県道24号に挟まれた平らな所にある。 舞鶴若狭道建設に伴う発掘調査で今の集落の東側になる木崎遺跡(弥生集落遺跡)から、「乃井村」「若栗」と判読できる墨書土器が出土しているという。木簡も出土しているというから、文字は弥生のものではなかろう。たぶん何か国府か郡家か古代の官衙があったものか、その時代の文字かと思われる。「若栗」は今の和久里のことであろうか。 建久7年(1196)6月日の若狭国源平両家祗候輩交名案に見える国衙在庁官人で、御家人でもあった「和久里四郎兵衛尉時継」は、当地を本貫としたかと思われる。 鎌倉時代、若狭一二宮(若狭彦神社)神官牟久氏と血縁をもった在地豪族和久利氏の本貫地と考えられる。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写によれば、富田(とみた)郷給主塩飽修理進と是光(これみつ)名・利枝(としえだ)名名主の和久利又太郎との間で、富田郷散在分の正行名をめぐる相論があった。和久利氏が富田郷一町二反・西郷二町二反余・志万郷一反を分離して正行名をたてたことによるものだが、和久利氏が別名を設置する力をもつ有力御家人であったことを示している。 「若狭国守護職次第」は建武3年(1336)7月25日のこととして「尾張式部大夫殿小浜へ入部、彼時脇袋又三宅、和久利、多田又川崎等焼払了」と、南朝方にくみした若狭の国人衆本貫の地へ北朝方斯波家兼の軍勢が押入ったことを記す。右によればこの頃集落があったと考えられる。和久利氏は応安4年(1371)の国一揆で敗退没落した。 永正14年(1517)4月19日の湯浅高政田地寄進状に「和久里保温科元親知行之内」とあり、湯浅高政が温科元親から買得した和久里保内の田地2反を春の彼岸勤行料として神宮寺へ寄進している。弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「弐百七十五文 わくり村」と見える。和久里の辻という小字があり、そこに建てられた時宗寺院は辻道場西方寺と称したことが享禄4年12月27日の西方寺良阿寄進状から知られ、さらに天正10年の富田郷柄在家名坪付にも「在所わくり辻堂前」とある。 近世の和久里村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数94 ・ 人数456。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。 和久里は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北2町余、戸数79、人口は男212・女218、学校1。 ワクリの意味 『和名抄』に尾張国葉栗郡和栗郷が見える。和栗は和久利とかワクリとも書かれている。羽栗郡式内社の和栗神社も同地にある。現在の愛知県一宮市内である。 羽栗・葉栗といえば、遣唐使の葉栗吉麻呂が唐の女性と結婚して翼・翔の兄弟があったという。また山城国久世郡羽栗郷がある。 このハクリ、ワクリのクリは栗の木のことでなく、高句麗のクリであろう。クリはクフルで大きな中心的な村の意味と思われる。ワは何かわからないが、若、別かも知れないしあるいはひっとするとワニのワかも。 古くは遠賀川式土器の出土地(丸山河床遺跡)、古代中世の府中、ワカサ国の中心を担った村であったのではなかろうか。このあたりがハクリ、ワクリの発祥地かも。。 《和久里の人口・世帯数》 786・323 《和久里の主な社寺など》 遺跡 何とも無防備な村で環濠があるのではなかろうか。 木崎遺跡 八幡神社 『今富村誌』 八幡神社は寶亀元年豊前の國宇佐郡より勧請す。今より一千百四十餘年前なり応永二年八月守護一色左京太夫詮範鳥居を再造す。往古祭禮には流鏑馬を行ふと或書に『八幡社は下中郡和久里村にあり八月十五日祭礼あり斯の社中大将軍を?せ祭る又別に若王子社あり二月十八日之れを祭る』と 和久里は弥生からの村かと思われるが、それにしては古い神社仏閣はない。 市の塔と和久里狂言 西方寺の裏境内には「市の塔」と呼ばれる総高3.4mの大きな宝篋印塔がある。若狭最大の石造遺物で、南北朝争乱での戦没者の供養のため南朝方代官長井雅楽介が建立したもの、「大願主朝阿弥」「延文三年七月二十二日」の銘文が見られる。この塔は江戸初期に小浜市場(現・小浜今宮)の象徴となり、のち永三小路(現・小浜住吉)に移されたが、明治6年当地に返還され、現在は市文化財に指定されている。この前で「和久里狂言」が7年目ごと(十二支の子と午の年)の供養会に3日間にわたって奉納される、今年(2020子年)4月がその予定日であったが、コロナで中止されている。残念無念で見ることはできなかった。 臨済宗妙心寺派霊石山西方寺 もとは時宗。本尊阿弥陀如来。延元2年(1337)に南朝方代官の長井雅楽介(号朝阿弥)が建立したと伝える。 境内の市の塔とよばれる宝篋印塔は総高3・46メートルの花崗岩製で若狭地方最大の石造品(市指定文化財)。基礎銘文に「大願主沙弥朝阿」「延文三年戊戌七月廿二日」と記され、長井氏が北朝の進攻で没落後、遁世して西方寺を創建、塔も造立したという。当寺境内には老松があって、小浜藩米札に描かれたという。 『今富村誌』 西方寺(和久里にあり) 西方寺は延元二年朝阿彌なる者(傳へ曰ふ朝阿彌俗姓長井雅楽介往昔當国公家領の時代官となりて此の地を領す)の創建にかゝると雖も火災に逢ひ舊記の存するものなし、元時宗なりしが今は臨濟宗に屬す。境内に一老松あり唐崎の松に似たり、蓋し数百年を経しものならん、又一佳景たり。樹下に市塔あり之れ延文三年(古文書に延文元年とあり)朝阿彌が今の小濱の地に建てしものなりしが(後八幡神社前に移す云々舊記に見ゆ)明洽六年の春茲に移す。其の供養をなすや洛西壬生の狂言を演ずるを以て有名なり郡縣誌に『八幡小路一基の大石塔あり石面延文三年戊戌七月廿三日大願主沙彌朝阿の字を雕る毎月二匕の日雑物売買の男女斯處に來つて市をなす此の塔始め市場に在り寛永三年正月十三日上市場に於て始めて市祭の能あり同十七年(或曰十五)塔を斯地に移す爾より今に至るまで毎歳正月十三日八幡社地に於て市祭の能あり国主禄米四石餘を賜ふと』あるは此の塔なり。延久四年四月五日朝阿彌羽賀寺を修造し供養を勤む云々古記に見ゆ 『遠敷郡誌』 西方寺 臨済宗常高寺末にして本尊は阿彌陀佛なり、同村和久里字辻井に在り、延元二年朝阿彌の創建と傳ふ。 真宗大谷派常福寺 『今富村誌』 常福寺(和久里にあり) 常福寺は真宗大谷派に属し、今より三百五十餘年前常福なるもの蓮如土人に歸依し創立する所なれども嘉永年間類焼の災に罹り舊記の存するものなし。同七年八月朔日第十九世知道再建す 『遠敷郡誌』 常福寺 真宗大谷派にして本尊は阿彌陀佛なり、同村和久里字町に在り、文明七年蓮如此地に到りし時、猪原平右衛門尉和久なる者教を受けて弟子となり此寺を建つと傳ふ。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 和久里の主な歴史記録『新わかさ探訪』 市の塔と和久里狂言 若狭のふれあい第62号掲載(平成元年12月20日発行) 南北朝時代の石塔供養会で 6年ごとに無言劇を奉納 小浜市和久里の西方寺境内に「市の塔」と呼ばれている総高3・4mの石塔(宝篋印塔)があります。 その由来は南北朝時代にさかのぼります。当時、小浜港は、船で運ばれてきた北陸や山陰の物資を陸揚げして、京都に運ぶ重要な港でした。そのため南北両朝の勢力争いの場となり、南朝の代官長井雅楽介は北軍によって所領を没収されたあと、出家して僧「朝阿弥」となり西方寺を創建。延文3年(1358)には南北両軍の戦で死んだ者たちの霊を弔うため、宝篋印塔を建てました。その最初の建立場所は不明ですが、江戸初期にこの石塔が置かれていた港に近い上市場(現在の小浜市今宮)で、毎月2回市が開かれて繁盛したことから、「市の塔」と呼ばれるようになりました。 江戸寛永年間(1624~44)、八幡神社前の辻で市が立つようになると、市の塔もそれに伴い永三小路(現在の住吉)に移動。明治6年(1873)には、道路改修のため朝阿弥ゆかりの和久里西方寺に”里帰り”して現在に至っています。 おそらく市の塔が縁で、明治45年(1912)に永三小路の狂言師木崎氏から和久里の青年たちが狂言を習い、それ以後、市の塔の七年供養会に西方寺の境内で奉納されるようになりました。 この和久里狂言は、身振りだけの無言劇で、京都壬生寺の大念仏狂言の流れをくむもののようですが、いつ若狭に伝えられたのかは、はっきりしません。狂言の道具や諸記録は、昭和28年の13号台風による大水害で失われています。 戦後は、昭和35年に上演され、以後中断していましたが、地区の長老の指導を受けて昭和53年に復活。以後6年ごとの4月に仮設舞台を西方寺境内に設けて、地元の壮年グループ「甚六会」のみなさんによって上演されています。昭和59年には、福岡市の平野春枝女史の指導により、30余りの木面を自分たちで作りました。昭和61年には、福井県無形民俗文化財に指定されています。 掲載写真は、平成8年4月に撮影したもの。桜が咲く春らんまんの陽気のなか、淡々とした笛の音や鰐口、太鼓に合わせて、大きな身振りでユーモラスに演じられました。だましてばかりでは世の中を渡れないという教訓を織り込んだ「狐釣り」、慈悲深いお地蔵さんには閻魔さんもかなわないという「餓鬼角力」、いたずらばかりしていると本当の悪人になってしまうぞという戒めの「庄川の川渡り」など、見物人を笑わせながら道理を説く9つの演目を奉納。素人ばなれした演技は熱心な稽古の賜物で、狂言役者ぶりも板についています。 建立から約650年、市の塔は、港町小浜の繁栄と人々の信仰心とを、雨風とともに刻みこんできたタイムカプセルといえます。 『今富村誌』 和久里區 和久里區は府中區の南に接して戸數七十二、人口四百田畑段別七十六町歩山林を有せず。舊時の草高一千七石六升 郡縣誌に『昔此の國の府は遠敷郷にありて中世府中西を今富庄といひ今富の海汀を小濱とす共頃より小濱には権勢の人々居守せしならん富國守護職次第に自建武三年七月尾張式部大輔家憲殿小濱へ入部彼時脇袋亦又三宅和久里多田又河崎等燒払之了とあれば守護は小濱に居り兵馬の權を執れるを知る』云々とあれば此の時和久里多田の大部は兵火の災に罹り僅に一部の存せしものならん 西方寺の松は藩政時代の松札の松の繪は此の松を寫せしものなり。寺内に有名なる一塔あり。 八幡神社は寶亀元年豊前の國宇佐郡より勧請す。今より一千百四十餘年前なり応永二年八月守護一色左京太夫詮範鳥居を再造す。往古祭禮には流鏑馬を行ふと或書に『八幡社は下中郡和久里村にあり八月十五日祭礼あり斯の社中大将軍を?せ祭る又別に若王子社あり二月十八日之れを祭る』と 浄福寺あり真宗寺院なり 本村小学校は本區地籍字鴨ヶ淵にあり。其の湯岡に近きを以で湯岡學校といふもの多し 學校の東約一町和久里區第九號才向田の地は藩政時代刑塲のありし地にして、後久しく荒廢にふせられしが近年本村小学校此の地五畝四歩を借入れ職員児童之れを開墾して農業實習地となせり 又藩政時代今の小学校附近に(生守地籍堤防中にも一箇所)『水越し』(俗に亀の甲)ありしが維新後堤防を築き護岸工事を施旛したり 和久里の伝説『越前若狭の伝説』 和久里 (和久里) 応永二十一年(一四一四)近江国(滋賀県)赤尾村猪原平右金吾和久(まさひさ)なる者がこの地に来たり、郡司の許可を得て田畑を開いた。よってこの村は元祖の名をとって和久里と称した。 (社寺由緒記) 和久里の小字一覧和久里 桟敷場 奥保瀬 辻ノ下 荒 鴨田 開 柳下 川向 才向田 金ケ原 石塔前 鴨ケ渕 橋ノ本 生守口 経田 中経田 上経田 塚ノ間 小橋ノ本 風呂向 辻井 三才畑 宮ノ本 笠屋前 茶塚田 四ツ谷 竹鼻 内町 中筋 小西部 上風呂向 平田 上平田 踏通 上化知場 化知場 山ケ崎 森 茶屋前 江田 馬測 石ノ木 島田 鎧田 上縄手 茶ノ木 神明講田 六反田 的場 三栗 新井溝 五反田 金堂 中辻堂 藪田 四反田 鐘撞田 水入 竹原田 流田 高田 角田 鳥 柳原 一丁田 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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