丹後の地名 若狭版

若狭

湯岡(ゆのおか)
福井県小浜市湯岡


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福井県小浜市湯岡

福井県遠敷郡今富村湯岡

湯岡の概要




《湯岡の概要》
国道27号でいえば、西から行けば、「湯岡橋」手前にある集落。地名の由来は、中世には稲岡と称したが、山下から温泉が湧いたため湯岡になったと伝える(若狭郡県志)。ワタシは伊吹系の地名でないかと考えるが、証明できるようなものはない、強いて言えば鍜冶人が多い、くらいか。。
「若狭国税所今富名領主代々次第」によれば、山名時氏の代官らが文和2年7月に「稲岡ノ城郭」に立て籠ったという。天正2年8月の地蔵米名米銭納帳案(妙楽寺文書)に「上稲岡」の三郎大夫が見え、戦国末期には上下の区分のあったことが知られる。また同16年7月21日の伏原村検地帳写(伏原区有文書)に「湯岡」が見え、戦国末期には湯岡の呼称も使われるようになったらしい。翌17年4月28日の井上三介書状にも「湯岡山」とある。集落南側の山頂には南北朝期から中世末期の湯岡城跡が残る。
近世の湯岡村は、江戸期~明治22年の村。「正保郷帳」では井岡村と見える。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数83・人数367。嘉永5年の宗門改諸色帳によれば、戸数76のうち公事人26・鍛冶人49・寺1とある。特産品として奉書紙の生産があり、杉原紙と同様の上質紙であるため贈答に用いられたという(若狭郡県志)。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。
近代の湯岡は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北2町余、戸数69、人口は男171 ・ 女168、小船3。昭和42年国道27号開通。同46年一部が南川町・駅前町となった。


《湯岡の人口・世帯数》 194・63


《湯岡の主な社寺など》

熊野神社

旧丹後街道に鳥居がある。社殿は奥の方にあるのか見えない。車を留める所がなく、行ってみることができない。その奥の山上に湯岡城があったそう。
『遠敷郡誌』
熊野神社 村社にして同村湯岡字宮前にあり、元若王子社と稱し祭神は伊邪那美命なり、境内神社三あり、秋葉神社・愛宕神社合祀、祭神は火霊魂命・伊弉冊命にして八幡神社祭神応神天皇・玉依姫命・神功皇后、稲荷神社祭神倉稲魂命・猿田彦命宮毘神あり。

曹洞宗萬徳山宝積寺

国道27号「湯岡橋」西詰から南川の左岸堤防上を南ヘ入る。
『今富村誌』
寳積寺(湯岡にあり)
寳積寺は南川の西岸湯岡橋を距る一町餘の山麓にあり、曹洞宗に属す。此の寺もと本村生守區洞源寺の隠居所にして元禄八年洞源四世誠祝創建す。明治二十年七月三十一目湖龍和尚法地開闢聖観音を安置す。傳へ曰ふ天正十六年池谷山の城主南部宮齋子なきを憂ひ日夜信仰せし守本尊にしで紀州和歌浦にありしものなりと


『遠敷郡誌』
寶積寺 曹洞宗洞源寺末にして本尊は釋迦如来なり、同村湯岡字南部麓に在り、天正十六年南部宮齋の志願にて建立す、境内佛堂に観音堂あり。


湯岡城
稲岡(いなおか)城・池谷山(いけたにやま)城ともいう。湯岡集落の南にある山筋の山上、池谷山稜線先端の山頂(74・3メートル)にある。丹後街道が北側山麓を通り、小浜市街地へ抜ける関門にあたる。国富・今富・小浜、上中方面まで望見でき、後瀬山城の東側見張台の役割も果したと考えられる。
「若狭国税所今富名領主代々次第」は文和2年(1353)7月のこととして「代官幡津次郎左衛門尉、三宅中村六郎左衛門尉二人、稲岡ノ城郭をかまへて楯籠る処に、国人等押寄合戦たひたひありて、同廿七日に二人ながら城中を落了」とあり、南北朝争乱期、南朝方の若狭守護山名時氏の代官が居城したが国人一揆により落城したことを記している。以後室町末期まで史料上から姿を消すが、弘治年中(1555-58)には城主は井上下総(若狭守護代記)。永禄5年(1562)5月20日には湯岡城主南部宮斉と田縄城主大塩長門守の合戦がある。廃城は天正12年丹羽長秀の破却によるか(若狭国伝記)という。

『今富村誌』
湯岡城趾 湯岡城趾は正平八年山名伊豆守時氏代官幡津治郎左衛門尉稲岡城廓を構ふとあり。天文の末井上下総守之れを池谷山上(俗に城山)に移し永禄二年淺野弾圧長政の臣南部宮齋之れを守る。城趾上下二段に分る、共に三百歩餘十数年前土砂採取の際古刀劔及び土器の出づる数多面積も大に縮少せり。蓋し城主の墓地なりしならん


《交通》
湯岡橋
南川に架かる橋。湯岡と和久里を結び、国道27号・162号が通る、京都・敦賀・舞鶴方面の分岐点となる重要な交通のポイント。

《産業》


《姓氏・人物》


湯岡の主な歴史記録


『今富村誌』
湯岡區
湯岡區は丹後街道に當り湯岡橋以西の地にして東北南川を以て界となす。昔温泉ありしを以て名づくと、今尚冷水噴出す舊記或は稻岡と書するあり戸数六十六、人口三百三十三、田畠段別二十四町歩山林十五町歩餘あり。舊時の草高百八十五石七斗二升五合なり。區内に本村役塲あり。
熊野神社、寶積寺、湯岡城趾あり。往事寳積寺附近の地桜樹数株あり川あり、橋あり風景絶佳詩人小嵐山と稱し来遊せしもの少からず。近時秋季に至れば山上の松林に茸を狩るものの多し 
稻岡村 或る書に『湯岡村稻岡村といふ中世山下温泉湧出故に改めて湯岡と號す俗に温泉を謂て湯と稱す』と、又曰く『湯川土橋の南の河崖に深淵あり観音淵と稱す』と。高成寺觀音縁起に『観音淵は谷田部十分一の上云々とあり』とあれど此の淵を謂ひたるならん
若王子社は下中郡湯岡村に在り産神たり。二月十八日江浦藻を供して之れを祭と古書に見ゆ


湯岡の伝説


『越前若狭の伝説』
甘露あめ           (湯 岡)
 小浜市湯岡の甘露あめは慶応年間に長谷川万右衛門という人が作り始めて、打出の小づちの大きなのを宣伝の道具として若狭各地に売りひろめたが、その評判を聞いて買いに来る人々の中に毎晩雨が降っても欠かさずやってくる女のあるのを主人か怪しみ、ひそかにあとをつけて行って見ると、意外や近くの墓場でその女(幽霊)がみどり子を抱いて甘露あめをしゃぶらせていたという。       (若狭の伝説)


湯岡                (湯  岡)
 ここはもと温泉か出たが、牛馬を浴させたのでわくのがやんだ。
      (若狭郡県志)


たもの庄兵衛              (湯  岡)
 若狭の殿さま浅野長政の家来南部宮斉が、湯岡村池谷山の城を守っていたころ、子なしの女が、子どもを授けてもらおうと、毎日観音さまにお祈りしていた。
 ある時あたりの山をながめていると、近くの山のふもとに紫雲がたちこめ、山すそを流れる川の中から光りがさしているのを見つけた。女は不思議に思い、その所をたずねてみると、光り輝く観音像かあった。持ち帰り、お堂を建ておまつりした。
 この像を夜昼となく拝んでいると、十七日目の夜あけ、夢の中に観音さまが、現われて、お告げかあった。「わたしは、むかし紀州和歌浦にいたが、この村の産土(うぶすな)神のみこかわたしに、子どもがほしいと祈っているので、子を授ける。わたしはまた、乳子婦(ちちこぶ)の神の分身となって、乳の出ない人に乳を授ける。
 わたしは、もと熊野神社のそばのたもの木のところにいたが、ある時大地震で山がくずれ、たもの木は、逆さになって茂っていた。このたもの木も、いつかの大火にあい、わたしも川の中へ沈んでしまった。あなたは、わたしを深く信心してくれているがら、願いをかなえる。」
 ひと月してご利やくがあり、その人の体に子どもがやどっだ。月日がたって、子どもか生まれたが、そのあとも母親にたくさんの乳が授けられた。この観音像の発見されたところを観音淵とよび、ここから五百メートルばかり下流に、たもの木が逆さに茂っていたといわれる。その木をさかたもの木といった。そのそばにたも(多母)の庄兵衛といって、子どもを授かった家があった。  (今富村誌)





湯岡の小字一覧


湯岡 下高前 上高前 高田 戸井 島 小島 河原田 羽在 杉木 長田 深田 小津田 扇谷 宮前 池ノ谷 中町 伊原 河原条 橋本 植条 山ノ神 下横瀬木 横瀬木 南部 麓 芋谷 小谷 上芋谷 樋口 城山 大屏 深谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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