堂本(どうもと)
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福井県大飯郡おおい町名田庄堂本 福井県遠敷郡名田庄村堂本 福井県遠敷郡知三村堂本 |
堂本の概要《堂本の概要》 国道162号小倉トンネルそばの「名田庄あきない館」前から県道224号(染ヶ谷小倉線)を少し入った山村集落。 南川の中流域、同川支流堂本川流域に位置する。古くは知見郷に属して、井上・塚本・坂尻・笹尾などの小村を合わせ堂本村と呼んだ。南に八嶺(八ヶ峰)と呼ばれる高山があり、山を越えて丹波から京都に通じる道が早くから開け、血坂(千坂とも、現知井坂)越えといった。険しい坂道で、婦女子がこの坂を越えるとき、苦しさに堪えかね血涙を流したことから血坂と呼ばれたという。 当集落から槇谷への途中「小松谷橋」↑ここから知井坂に登るようだが、もうすぐそこにフェンスが張られていて通行止めになっている。スゴイ山脈、まるで壁だ。八ヶ峰は下道からではどこからも見えない。 東側にある仁吾谷は古来栃や欅の生い茂る深い谷で木地師たちの集落があったという。 堂本村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。村内を知井坂越の丹波道が通じ、往来が盛んであったと思われる。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年南名田村の大字となる。 ]堂本は、明治22年~現在の大字名。はじめ南名田村、明治24年知三村、昭和30年から名田庄村、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北13町、戸数28、人口は男72・女79。 《堂本の人口・世帯数》 91・32 《堂本の主な社寺など》 曹洞宗見性寺 見性寺は大永元年の創建といわれ、集落より少し高く、正面に仁吾谷を見下す絶景の地。仁吾谷を2. 5kmほど入ったところに杓子屋敷と呼ばれる木地師たちの定住跡があるという。 『名田庄村誌』 見性寺 宗 派 曹洞宗 所在地 堂本区第十九号字山道一番地 本尊は木造子守地蔵尊の坐像である。 開創は大永元年(一五二一)といわれる。この年は、当寺の本寺である小浜市妙徳寺の第五世天恰悦の死亡した年である。 明治三十年妙徳寺住職山内梅岑が法地起立、寺格昇級をした。よって梅岑を第一世とし、第二世道樹となっている。 境内は五百五十一平方メートルあって、当地には珍らしく禅堂形式の阿弥陀堂が残っている。眼下に仁吾谷を見降し絶景の境内である。弘化三年頃、宝珠庵があったが現在はない。 『遠敷郡誌』 見性寺 曹洞宗妙徳寺末にして本尊は子安地蔵菩薩なり、知三村堂本字山道に在り永正五年妙徳寺第五世怡山和尚建立す。 木地師集落址 松上げ(8月23日) 『名田庄村誌』 松上げの行事 火の神の愛宕山へ供える松上げの行事は、ほとんどの部落で行なわれているが、堂本のものを主として書くことにした。 日時は愛宕山の日の二十四日が多い。他の日にも数回行なう部落もある。三重方面・小倉・下・井上等も割合大規模に行なっている。堂本は昔は仁吾谷の入口附近で行なった。旧七月二十四日、当日になると橋の所へ縄を張り、他所の者と、女は、その繩より中へ入れなかった。万一、穢れた者がいるとその松がもえないといわれている。この行事は愛宕山信仰からきているが、当然、火の災のないように祈るものである。後には一切の災難を免れるためのものとなった。神様は火を喜ばれるという昔からのいい伝えにより火を捧げることになったものと考えられる。松上げの日になると、トロ木と袮する高さ二十メートルもある二段式の杉の柱の頂上に、麻木と竹で作ったモジという漏斗状のものを取りつける。その中へ大麻木・ワラ・籾ガラ等をつめ込んでおく。やがて夜となると、参詣者によってタイマツといって松のジンをくくったものに火をつけて、これを高くほり上げてこのモジの中へ入れる。この火種は知井坂の登り口にある愛宕山から移されてくる。こうして聖火の祭典となるわけである。なかなか中へ入らないので、自然競争となる。第一番に入れた人は誰であると誇りを持ったものである。タイマツが中へ入ると、モジの中の物か燃え出スす。夜空に、高い所から、火の粉が降る姿は実に美しい。見物人のヤンヤの声が響く。今も各部落に続けられているが、原料の関係で幾分回数を減らしたところもある。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 堂本の主な歴史記録『名田庄村誌』 堂本 南川の支流の堂本川に沿って細長く散在する人家のつきあたりから、山道となる。峠を越えて丹波に通じる知井坂がある。別名血坂ともいわれる。附近一帯には古跡とされるものも多く、駒立・馬崩・死人谷等の地名がある。 字山道口に曹洞宗見性寺がある。古くは専ら製炭と農耕を主としてきた。近年次第に第二・第三次産業に転向する人が多く、製炭産業は全廃に近い状態である。 昭和二十八年の大水害により、染ヶ谷川や槇谷川の氾濫をこうむった当区は、耕地の殆んどを流出した。住民の生業ひいては人口動熊にまで大きく影響した。 大正三年の戸数二十四戸、人口百六十一人、昭和四十三年の戸数三十八戸、人口百三十九人であった。 堂本の伝説『越前若狭の伝説』 弘法大師 (堂本) 弘法(こうぼう)大師は京都府の方から血坂を越えて若狭へはいって来られた。八(やつ)が峰の山下の道で所持していたつえで大地を二三度つき、じゅもん(呪文)を唱えると、山腹の穴から清らかな水がわき出た。その消水は今もあり、かたわらに一体の石像がまつってある。 大師はそれから小松谷をおり、槙谷(まきだに)の部落を通って堂本へ来られた。ここのある家でお茶を求め、しばらく休んだ。その縁故でこの家の姓を植茶という。 植茶家で仁吾谷(にごたに)のことをいろいろ尋ねてから、大師は谷を登られた。途中で昼食をとった小谷を今も昼場(ひるば)という。そこで小便をして、この谷を苦谷でなく甘谷にしようといわれた。それでこの谷とその山の裏側の染(そめ)が谷には甘茶がはえるようになった。 大師は、仁吾谷川をさらにさかのぼって足谷という谷に来られた。ここへ堂を建てる計両をされたが、堂を建てるのには百谷なければならないのに、よく数えてみると、この谷は九十九谷しかないので、断念した。そのとき大師が休んだ所を今も弘法屋敷という。(名田庄村の歴史) 堂本の仁吾(にご)谷川を三キロメートルほどさかのぽって行くと足谷という山がある。その足谷山の頂上近くに弘法(こうぼう)屋敷と呼ばれる場所がある。むかし弘法大師がここに屋敷を開こうとして登られたといい、そこには今もその時のこめ石(土台石)といわれる大きな石が残っている。ところが弘法大師は百谷のある所でなければ屋敷は開かぬといわれたが、この仁吾谷には九十九谷しかないという人があったので、ついにここに屋敷を開くことを中止して、高野山(こうやさん)へ行き、そこに屋敷(道場)を開かれた。(永江秀雄) 参照 弘法大師(名田庄村槙谷) ぬすっと屋敷 (堂本) 仁吾(にご)谷の川口から八百メートルほど奥の山に、ぬすっと屋敷と呼ばれる少しばかりの平地があり、大きな石が幾百個も集まっている。これはむかし山賊が住んでいた所で、この石は取り手が来たとき、これをころがし落として撃退するために集めていたものであるという。 (永江秀雄) 藤本弥助 (堂本) 堂木の南から京都府の美山町へ越える知井坂が通じているが、昔そのふもとに藤本弥助という豪農が住んでいた。その邸宅は城かと思うばかり豪壮なものであり。同氏の一建立(いっこんりゅう)(一人で寄附をして建てたもの)である見性寺には今もりっばな墓が残っている。弥助は堂本一帯の田地をほとんどすべて占有していたといわれ、田の出来ぐわいや仕事ぶりを常に馬に乗って見回っていた。ところがあるとき堂本川の近くのいもね山のふもとにある温泉で、馬の足を洗おうとしてそこへ馬を引き入れたため、温泉の湯が止まってしまったともいう。なおこの付近には今も湯上(ゆがみ)河原という地名が残っている。(永江秀雄) 堂本の小字一覧『名田庄村誌』 堂本地区 下須田 上須田 石橋 左近谷 山鼻 上ノ口 宮前 姥塚 知見田 西下 漆谷口 芋根 財森 畦地 下広畑 上広畑 竹越 塚下 山道 尾道 堂田 笹尾 曵尾口 梅木谷 堂ノ谷口 中島 牛岩 樽見口 蛭子谷 辻堂谷 中山 槙谷口 染ヶ谷口 仁吾谷 イラ谷 芋根 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『名田庄村誌』 その他たくさん |
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