丹後の地名 若狭版

若狭

井上(いがみ)
福井県大飯郡おおい町名田庄井上


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福井県大飯郡おおい町名田庄井上

福井県遠敷郡名田庄村井上

福井県遠敷郡奥名田村井上


井上の概要




《井上の概要》
名田庄のなかほど、南川の両岸に開けた地域で、左岸井上と右岸佐野の両集落からなる。南川沿いに国道162号が走る。
「若狭郡県志」では井上村は「佐野村・岡村等を合すものなり」とある。
井上村は、鎌倉期~戦国期に見える村で、若狭国遠敷郡名田荘のうち。弘安3年中村内則重名検注帳案に、中村の「巌淵」の地はほとんど「井上内」にあると見るのが初見で、この頃中村より分立しはじめていた。鎌倉末期からは村名となり、坂本村と中村の間に位置し上荘に属する別納の地であった。戦国期に入り弘治2年6月22日明通寺鐘鋳勧進算用状には「三百文 いかミ村」と見える。
中世には名田庄上庄に属したが、建保3年(1215)12月16日付大姫御前譲状案に「わかさの名田の庄上下、少将さねたゝにゆつりたてまつる也。そのうちすゑの・いかみと申所ハ、せんし御前にわかちゆつり候ぬ」とあって、他の名田庄の村々とは別相伝された。しかし最終的には京都大徳寺塔頭徳禅寺領となっている。なお中世の井上村は江戸時代の西谷村の地をも含んだとされるが史料的には確認できない。
近世の井上村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。一ッ谷国有林がある。江戸期には井上・口坂本・中村の入会山であったが、明治5年地租改正の際谷の所有権をめぐって争いとなり、井上村の総持と決まった。しかし口坂本村から裁定不服の申請があり、たまたま官民有区別処分の調査時とこの争いが重なったために官有地に編入された。明治22年奥名田村の大字となる。
井上は、明治22年~現在の大字名。はじめ奥名田村、昭和30年からは名田庄村の大字。平成18年からきおおい町の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北10間、戸数52、人口は男125 ・女121。明治34年村役場が当地に移され、昭和30年に名田庄村が発足するまで、奥名田村の行政の中心であった。


《井上の人口・世帯数》 190・56


《井上の主な社寺など》

伊津伎神社

集落のなかほど、鳥居の神額には「齋神社」とある。、別当は谷田寺(小浜市)が勤めたという。

『名田庄村誌』
伊津伎神社
所在地 井上字中道
創 建 慶安二年(一六五○)
祭 神 伊弉諾尊
 若狭郡県志には斎明神社としてみえる。稚狭考などの諸書も同一。郡県志によれば、二月六口・三月三日・九月六日・十一月六日を祭日とする。若狭神階記に、遠敷郡正五位伊津伎明神とあるのに当るかも知れないとする。恐らく妥当であろう。


『遠敷郡誌』
伊津伎神社 村社にして同村井上字中道にあり、舊稱齊大明神又は齊明神社或は齊神社と云ひ産神たり、祭神不詳にして慶安二年建立と傳ふ、本国神階記に正五位伊津伎明神あり。


曹洞宗霊水山曹源寺

齋神社の少し奥。
『名田庄村誌』
曹源寺
宗 派 曹洞宗
所在地 井上字角第二十号十番地
 慶安(一六四八~一六五二)の頃、井上助左エ門が、小庵を造り、寛永十年(一六三四)現在の小浜市相生、興禅寺二世長翁正鎮が開山となった。
 本尊は釈迦如来坐像金箔塗り、像高六十センチで、製作は比較的新しい。明治九年の夏、類焼のうきめを見た。明治十年杉本丈四郎が京都府北桑田郡美山町江和万昌寺住職巻渕天瑞を請し、再建し現在にいたっている。
 本堂三百四十七平方メートルトタンぶきで庫裡は別に建てられている。


『遠敷郡誌』
曹源寺 曹洞宗興禪寺末にして本尊ば釋迦如来なり、同村井上字角に在り、文祿二年真言宗林蔵主所住寛永十一年興禪寺第二世長翁正鎮和尚始めて清僧を置き今の寺を建立す。

佐野薬師堂

佐野の薬師堂の薬師如来立像は町文化財。薬師如来は寅薬師と称して、12年目ごと、寅年に開扉される。目の病気に効くといわれ、近在からの参詣者が多かったという。


戸祝い
『名田庄村誌』
戸祝い(狐狩りといしよになったもの)
 狐狩りの行事は、昔は、たくさんの部落にあったといわれている。さいきんは大部分すたれている。井上・久坂・三重方面など、割合近くまで残されていた所を尋ねてみよう。
 正月二日に山へ行ってユツダの木を二本切ってきてアマ(イロリの空)へ上げておく。正月十四日の昼の間に、大人が、その木をけずって美しくし、それに目出度い神さんの名や金袋の絵、そして正月の祝いの料理など書きならべる。
 ワリや何すりやい、ウラ狐狩りするわ、狐のスシは七桶半ら、八桶に足そとて狐狩りするわいや、ヤーイヤーイ(またはガンヤリガンヤリ)
となえながら部落を廻る。
終ると、お宮さんへ詣って
福をもらうという。下三重ではこの時、糸の川という川で手足を浄めて、お宮さんへ詣る「福をもらいます」といって鳥居で、次の文句を唱える。
 今年は初めて、よい年で、明きの方よりエビス、大黒、福の神、マ
ーズ、目出度う、戸祝う、女戸には銭倉、門には金倉、中には不動
の小金倉、レツテイデもう一つ返して、シテテノテン
そして、戸毎に廻る。各家へつくと「福を入れましょう」といって、祝い言葉を唱える。井上では、十五日の朝ドンドの時、親の方の木を割り、年俵の十二のもちの中の二つをとり。この木にはさみ、ドンドの火で焼いて食べる。





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


井上の主な歴史記録


『名田庄村誌』
井上
 古くから、川向いの佐野小区と、一つの集落体をなしている。
 明治三十四年村役場がこの地に移されてから昭和三十年知三村との令併に至るまで、奥名田村の行政の中心となっていた。広大な国有山林(一ッ谷)があり、産業上極めて重要な位置を占めている。川向いの佐野部落には、古くから薬師堂がある。
 藩政時代はこの地を境に、東は下村に属していた。明治六年、敦賀県第二大区に包含され、第一小区として西の坂本・納田終と合併し、その後市町村制実施に伴い(明治二十二年)、旧奥名田村となり、その中心地となった。
 大正三年の戸数は五十六戸、人口二百七十二人、昭和四十三年の戸数六十八戸、人口二百七十九人であった。

井上の伝説


『越前若狭の伝説』
朝比奈の滝  (井上)
 井上の一つ谷に朝日の滝という滝がある。むかし朝比奈三郎が戦いに敗れ。丹波を越して落ちのびて来た。茂みの中に身を隠していたが、追手の馬のいななきに応じて、朝比奈の馬もいなないたため、敵に見つけられた。朝比奈は、今はこれまでと、馬もろとも滝つぼに身をおどらせて終った。故にこの滝を朝日の滝または朝比奈の滝という。
 正月元日の朝早くこの滝つぼをのぞくと、三郎の金の馬のくらが浮かぶという。滝の付近の岩にも馬のひずめの跡が残っている。村の人はひずめの跡をつたって、くりやとちを拾いに行く。井上区の隣の小あざ朝日も、やはり朝比奈三郎にちなんで名づけられた。朝日には三郎が祭られている。 (福井県の伝説)

薬師如来 (井上)
 井上の佐野の薬師如来の上の山にむかし湯がわいて出て、みな喜んでいた。あるときひとりのばあさんが、知らずしてそこで腰巻きを洗った。するとにわかに洪水となり、ばあさんはその勢で流されてしまった。苦しみながらドンドン流れて行くのを、薬師如来が見ておられて、自分の小指をばあさんの帯の間へはさんで助けあげた。それで今もこの薬師さまには小指がない。 (名田庄村の歴史)



井上の小字一覧


『名田庄村誌』
井上地域
 岡谷口 小平谷口 船ケ左近 佐近田 中畠 岡畑ケ 南畑ケ 射矢田 枢ノ木 森ノ下 鷺踏 野瀬 大久保瀬 四ツ田河原 小橋 糸田 宮の下 四方田 中道 角 奥ノ谷 風呂ノ下 岸ノ下 摺ノ下 大将軍 杉木前 沢 長立 地獄淵 棚山下 大藪 柳河原 小福谷口 中島 佐野下 岩淵 伍明 馳出 中野 藤輔口 於乳ノ山 棗 小谷口 袋川 杵左近 黒茂知 山ヶ鼻 調淵 一ッ谷口 三段半

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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