丹後の地名 若狭版

若狭

犬見(いぬみ)
福井県大飯郡おおい町犬見


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福井県大飯郡おおい町犬見

福井県大飯郡大飯町犬見

福井県大飯郡本郷村犬見

犬見の概要




《犬見の概要》
青戸大橋を渡った大島側、橋の西側にある集落。大島半島南部に位置し、南は青戸入江に面する。地名の由来は、字牧で牧畜が盛んであった頃、山犬の被害が多く番人を付けていたことによるという(郷土誌大飯など)。たぶんそうではなく、マキねイヌミも鉱山に関する地名と想われる。

犬見村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。村内には下車持村の式内社香山神社の社家屋敷があったと伝える。。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年本郷村の大字となる。
犬見は、明治22年~現在の大字名。はじめ本郷村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町、戸数29、人口は男94・女77、小船26。


《犬見の人口・世帯数》 90・58


《犬見の主な社寺など》

古墳
地内に3基の古墳が確認されている。
またニソの杜も存在する。

八幡神社

『大飯町誌』
八幡神社(元村社)
祭神 応神天皇
所在地 犬見字宮の坪(二二の三)
境内地その他 一、〇五七・七平方㍍、飛地八四一二平方㍍、山林三、三二九・八平方㍍
氏子 犬見二四戸
例祭日 一月十九日、三月二日
宮司 松田忠夫
主な建造物 本殿、上屋、稲荷上屋、神楽舎、手水舎
特殊神事 宮当祭、豊年祭、三者舞、神楽
由緒・系統 延宝六年(一六七八)の社殿再建時の棟札によると古く山城男山八幡宮を勧請したものである。八幡系
〔末社〕
稲荷神社
祭神 倉稲魂命、大田命、大宮姫命
系統 稲荷系
恵美須神社
祭神 事代主命、大国主命
由緒・系統 棟札に宝永六年(一七〇九)造営とある。恵毘須系
山神神社
祭神 大山祗命
由緒・系統 棟札に万延元年(一八六〇)造営とある。山神信仰



曹洞宗北嶋山海印寺

『大飯町誌』
北嶋山海印寺
宗派 曹洞宗(海元寺末)
本尊 延命地蔵菩薩
所在地 犬見字寺の坪(三〇の二)
主な建物 本堂、庫裡、観音堂
境内地その他 境内六六七平方㍍
住職 瀧川一翁
檀徒数 二五戸
創建年代 延徳四年(一四九二)又は元和元年(一六一五)
開基 惟舜首座
開山 端翁祖的大和尚


海印寺
 字寺の坪にある。本尊延命地蔵菩薩、宗派曹洞宗永平寺派海元寺末、由緒として明細帳には「元和元丁卯年端翁和尚創建」となっているが、『若州管内社寺由緒記』には、「惟舜首坐百八十四年以前(延宝三年起算)延徳四壬子年(一四九二)開基と申伝候」とある。
 しかしこれは、海元寺末となるより以前のことであるから。その時代の宗派は不詳である。海元寺端翁が犬見に海印寺を創建したいわれについて次のような言い伝えがある。「父子海元寺六世端翁和尚の実母ミサが慶長十年(一六〇五)三月病名不明の大病に罹り、薬効は上がらず医者から見離され死を待つばかりの状態であったとき、日頃信仰する延命地蔵菩薩に心願を立てて身を投げ打っておすがりしたところ、ある夜菩薩が夢枕に立たれ『吾が姿を紙に押して清水にて飲め、病はたちどころに平癒すべし』とお告げになった。和尚は直ちにお告げの通り菩薩の姿を紙にしたため、ミサに飲ませたところ、日がたつにつれ病気が快方に向かって、日成らずして全快した。家族一同大変喜んで何とかお礼して恩に報いたいと、以前に倍して信仰し供養していると、また、夢で、『汝等の報恩心をかなえさすであろう、汝此れより北東の地に吾が御堂を作り住民に信仰させよ』というお告げがあった。そうして、和尚の両親が開基となり、和尚が開山となって、元和元年(一六一五)北嶋山海印寺が開創された」。
 開基の法名は、海容通印禅定門海屋良印禅定尼である。


『大飯郡誌』
海印寺 曹洞宗永平寺派海元寺末 犬見字寺ノ坪に在り 寺地百六十五坪 境外所有地四畝二十三歩 檀徒三十三戸 本尊地蔵尊 堂宇〔〕 由緒〔明細帳〕元和元丁卯年端翁和尚創建。


案内板がある。
雪門玄松禅師の墓
雪門玄松は、嘉永三年(一八五O)、和歌山市に出生。
 明治十七年(一八八四)、三十四歳の頃、高岡の臨済宗国泰寺派総本山である国泰寺管長に就任、同寺の再建に尽力した。明治二十六年(一八九三)のある日、突然下山し、金沢の仰辰山の洗心庵に入り座禅三昧の日々を過ごす。
 その間に若き日の哲学者西田幾多郎が参禅し、大いにその感化を受けた。その後、放浪の旅に出て、大正二年(一九一三)、高浜町の真乗寺に駐錫、高浜から小浜間において参禅会を開き、衆生に法を説いて回った。
 その後、犬見海印寺住職粟谷一如和尚と親交を深め、同寺の客となった。
 雪門は大島出身の大拙和尚の孫弟子にあたり、師の独園を通じて大拙和尚の教えは雪門にも脈々と受け継がれていたものと思われる。
 大正四年(一九一五)八月四日に六十六歳で遷化した。真乗寺住職越宗和尚は遺骨を国泰寺に送り、分骨を真乗寺と海印寺に埋葬した。現在海印寺には、小さな五輪塔が置かれている。
 海印寺には雪門の筆による一幅の軸が唯一の形見として大切に伝えられている。
おおい町教育委員会
おおい町文化財保護委員会



《交通》


《産業》
犬見漁港
『角川地名大辞典』
犬見漁港〈大飯町〉
大飯郡大飯町犬見にある第1種漁港。大島半島の付け根近く、小浜湾内の青戸入江に臨む。水域面積1万5,700㎡。北西の卓越風を背後の山地に守られた天然の小泊地に桟橋(長さ12m ・ 水深2 m) 1基が突出し、20t漁船2隻の係留能力をもつ。4t以下の地元漁船30隻が根拠地とし、大島・本郷の5t未満船も時々利用する。昭和61年の陸揚量28tのうち27tは真珠母貝で、,波静かな前面の入江で養殖したもの。玉出し作業に最盛時22人が従事する。ほかは小型底引船(ナマコ)1t。


植え込みの根元に真珠貝。真珠の光沢をしているからたぶんそうであろう。出た所に販売店があるよう、ワタシには無縁なのでのぞかなかった。



犬見鉱山
『大飯町誌』
犬見鉱山
丹波の高地大江山方面から東北走して本郡に入り、高浜、和田を経て、ここにその北端を表している蛇紋岩の風化土がある。犬見鉱山は、これを主原料としている企業であった。
 この風化土は中に二ッケル、鉄、その他を含むので、戦時軍需資源として認められ、昭和十五年(一九四〇)一月から日本火工株式会社(社長森暁)の経営で、最初はその若狭工場として発足し、多額の国費補助を受けて各般の施設が施され、一時は犬見の移住問題まで考慮される有様であった。
 同区民はほとんど鉱山関係の業務に従うし、山林耕地等も大部分その用地に充てられるに至った。鉱山要員は犬見、本郷をはじめ各方面から採用されたばかりでなく、朝鮮半島の労働者の大量雇用も行われて、その最盛時には、二、六〇五人(昭和二十年二月現在、家族をも含む)に及んだ。和田駅から鉄道の支線が現場まで引き入れられ、電線も引き込まれた。住宅や飯場が犬見、本郷、尾内の各所に数十棟も出来ていた。
 最初は溶鉱炉の計画もあったが、これはついに実現せず、船舶又は鉄道で七尾方面や九州方面へ輸送されていた。この輸送船が帝国海軍と誤認されたのか、二十年七月三十日には本郷港頭も米機の機銃掃射や爆弾投下に見舞われた。
 敗戦後は一時この土が肥鉄土として老朽田の回復に施用された。石灰製造と製材事業も取り入れられていたが、漸次縮小され、昭和二十四、五年ごろに両事業は休止され、その施設は売却処分されてしまった。推定埋蔵量二、〇〇〇万トンと言われている。


『角川地名大辞典』
犬見鉱山(大飯町)
若狭鉱山ともいう。大飯郡大飯町大島半島の犬見にあった含ニッケル鉄鉱山。昭和10年頃カンラン岩・蛇紋岩に伴う鉱床を発見、同15年1月、日本火工がニッケルを採取。鉱石を運び出すため若狭和田駅から半島のつけ根を回り、青戸入江の北側へ4.7kmの鉄道(軌間1,067mm)を敷いた。大戦後は同22年以降犬見興業が鉱床上部の風化土壌から褐鉄鉱を肥鉄土(耕土培養剤)として採取した。運鉱鉄道も1. 7kmに短縮して利用された。同24~25年頃に閉山。



《姓氏・人物》


犬見の主な歴史記録



『大飯町誌』
犬見
 大島半島最南に位置するやや平坦な山裾のひとくぼみを占めて、東西に二小川をもち、北は犬見山(安土山・大山)を盾とし南面は一葦帯水の青戸の入り江で暖流と陽光に恵まれている。陸路というほどのものはなかったが、太平洋戦争の末期一時開発された犬見鉱山用の軌道の跡を利用すれば、約四キロメートル海岸沿いに高浜町和田へ出ることはできたが、日常の交通は本郷・犬見・大島間を往復する町営の連絡船に頼っていた。昭和四十八年(一九七三)県道赤礁崎公園線の開通によって「青戸の大橋」を経て国道二七号線に通じるようになった。
名馬磨墨の産地
 陸地は南向きの高燥な緩傾斜地で、東北西は山に囲まれているので比較的に暖かく、昔は牧場として注目され、良牛・名馬を産出したと言い伝えている。源頼朝の名馬磨墨(するすみ)はこの地の産だといわれ磨墨の名に因んで青戸の入り江を、一名「硯の海」と称している。牧畜の盛んであったころ山犬の被害が多く、番人をつけていたので犬見という村名が生まれたのだとも伝えられている。この集落と和田との間に牧という地籍がある。これはその名残であろう。今は牧畜は廃れているけれども、明治末年ごろまではほとんど全戸に牛を飼っていた。
 この集落の住民は元下薗村や大島から移り住んだものであるとの言い伝えがある。この地に古墳三基が確認されている。また、たくさんの古墓が散在し、地の神の森とか祖神を祀る拝所(大島のニソの杜に似たもの)が多く残っている。
 集落の奥に、隠れ谷という所があり、乱世の時浪士がここに隠れ住んだのだともいい、また、人買い船や海賊船に襲われたときに村人がここへ隠れたのだとも言い伝えている。
 白石という所に「高森屋敷」というのがある。香山神社(式内社)の摂社牛尾神社の元屋敷であったという。何かの理由で対岸の地に移されたのであろうか。氏子を捨てて他に移ったという例は異例であって何か深い理由がなければならない。
 今の氏神は宮の坪にある八幡神社で、山城の国(京都府)男山八幡の御分霊を祀っている。延宝六年(一六七八)、社殿再建の時の棟札に次のように記してある。
   「そもそも当社の由来は山城国男山正八幡大菩薩の御流神なる由古より申伝え候。然りと雖も縁起あることなし。昔時の如く失却するか。祭礼は孟春十九日と弥生三日なり。此時にあたって社壇零落に及ぶ。氏子感歎の恩をなし一心清浄をいたし実に再興を励むの志深からんとす。巧匠を招き吉日良辰を選び謹んで以て建立し奉り畢んぬ。書に曰く神は人の敬に依って威を増し、人は神の徳に依って運を添うと、然れば則ち利生済度自ら出ずべきものなり。時に延宝六戊午歳仲夏念七月、氏子敬曰。(裏面省略、原漢文)」
 延宝六年再建のずっと以前から祀られていて、神祠も由緒も分からなくなっていたが、祭礼の習慣は旧来どおり継がれていたことが明らかに分かるのである。末社として山神神社(万延元年=一八六○年六月再建)、『若州管内社寺由緒記』に「山王由来知れ申さず」とあるのが山神となったらしい。すると延宝三年(右の由緒記編集年)よりもずっと古いわけである。蛭子神社(宝永六年(一七〇九)仲秋下旬吉日)、稲荷神社(飛地境内として背後の山上に祀ってある。由緒不明)の三社がある。
大火
 この集落に二回大火があった。元禄十三年(一七〇○)四月に一九戸焼失、明治四十年(一九〇七)二月十日に一九戸と土蔵一二棟焼失という壊滅に近いものであった。
 同じ寺の坪地籍の境外に仏堂が一宇ある。本尊は阿弥陀如来と薬師如来で、さらに右側に弘法大師を祀り左側に三十三所観音を祀ってある。創建等一切不明である。
 また、墓地の一隅に高岡国泰寺の元管長であった雪門玄松の墓がある。ありふれた小さな五輪墓であるが、同和尚の分骨が埋葬されている(第八編第一章郷土の人参照)。
赤崎区
 太平洋戦争前鉱山のため一時戸口が急増したことがある。昭和二十五年(一九五〇)の国勢調査では世帯数四九、人ロー、七七九になっていた。休山後平常に帰ったが、赤崎にできた住宅区はその後も残り、真珠養殖の基地のようになった。犬見集落と離れていたので連絡の都合から一時ここを赤崎区として認められていたことがある。

犬見の伝説


『大飯郡誌』
牧場の趾 和田山の南麓入江に瀕する地に、牧磯牧灘と稱するあり、往古牧畜の遺趾ならむ。犬見の大字名は此牧畜に害ある野犬山犬を監視せしに原づくと傳ふ。

『越前若狭の伝説』
すずりの海 (犬見)
 本郷の対岸犬見は、むかし牧場で、良牛名馬を産した。宇治川の先陣で梶原源太景季が乘った名馬するすみ(磨墨)はこの地の産であるという。このあたりの海をすずりの海とよんでいたことから、馬の名をするすみと名づけたといわれている。
 狂犬が海を泳いでやってくるので、その見張りをしたところを犬見といった。(本郷湊)

 犬見山のゆるやかな傾斜地に、むかし牧場があった。ここに牧という地名も残っている。この牧場へ野犬やおおかみが襲ってきたので、その見張りをする所があった。これがいま犬見という村の名前になっている。むかし頼朝の名馬するすみをこの牧場に放し飼いにしていた。この馬は性質が荒かったので、番人が油断しているうちに海に飛び込み向こう岸へ逃げようとした。
 この海(青戸の入江)をすずりの海と呼んだのは、名馬するすみを墨にたとえ、その墨を入れたすずりから、海の名が生れたという。(山口久三)

隠れ谷 (犬見)
 戦国時代に浪人の武士がこの村に来るたびに、人買いが来たといって、村人が恐れ隠れた所であるので、この名がある。(本郷湊)






犬見の小字一覧


犬見  赤崎 鴉谷 棚田 東赤崎 小赤崎 藤ケ野 慶智川 大左近 川向 引迫 前山 片平 下向路 上向路 向路 滝ノ上 藪ノ腰 登り尻 下琴場 上琴場 宮ノ上 宮ノ坪 村内 上川原 下川原 長畑 西畑 西田 前田 寺ノ坪 東畑 青柳 森ケ浜 赤崎奥 小赤谷 藤ケ野谷 白岩 登り尾 宮尾 東山 小崎 廉手 大山西側

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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