丹後の地名 若狭版

若狭

神崎(こうざき)
福井県大飯郡おおい町神崎


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福井県大飯郡おおい町神崎

福井県大飯郡大飯町神前

福井県大飯郡佐分利村神崎


神崎の概要




《神崎の概要》
佐分利川右岸の谷あいの集落、父子の一つ上側である。兼業農家中心の農業地域。「若狭国志」に「河崎嶽在河崎村佐分利郷第一高山」とあり、「河崎」とも記している。
中世の河崎荘で、南北朝期に見える荘園。若狭国大飯郡のうち。
「若狭国守護職次第」は建武3年(1336)7月25日のこととして「尾張式部大夫殿小浜へ入部、彼時脇袋又三宅和久利多田又河崎等焼払之了」と記す。足利尊氏が足利時家を若狭守護として入部させたことにより、河崎をはじめ遠敷郡脇袋・三宅、和久里・多田各村が焼かれた。それに対して、文和2年(1353)河崎庄を本拠にもつ河崎日向守信成が反逆している。ここにみえる河崎は当地のことと考えられている。
観応3年(1352)4月2日足利尊氏が延暦寺山徒一揆中に与えた所領のうちに「若狭国河崎庄〈河崎大蔵左衛門尉・同庶子等跡〉」がある。河崎氏はこの河崎荘を苗字の地とする武士であったが、観応の擾乱に際し尊氏に敵対したため所領を奪われたのであろうか。河崎荘に関する史料はこれだけであるが、河崎氏については、文和年間に遠敷郡太良荘の代官となって手荒な支配を行い荘民から「国一悪党」と称された河崎日向守信成が知られ、南北朝末期から室町期には守護一色氏の有力家臣として河崎肥前守光信が見える。
神崎村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。
神社は字堂の前に熊野神社がある。寺院はなく、字西上にある薬師堂には僧行基作と伝える薬師如来があったが明治7年焼失した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年佐分利村の大字となる。
神崎は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐分利村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北4町余、戸数14、人口は男47・女40。同52年堀口家のサザンカが県天然記念物に指定されている。


《神崎の人口・世帯数》 67・21


《神崎の主な社寺など》

古墳
『大飯町誌』
古墳
 『若狭大飯』では神崎一号墳、同二号墳の二基だけが確認されている。未調査のもの破壊されたものを加えると、このほかにまだ五基があり、また、集落入口の山鼻から二〇〇㍍ばかり山裾道を奥へ行った所、柳谷に円墳一基(石残存)がある。これだけの古墳があることは、千三、四百年前に幾人かの勢力家が部族をつれてこの付近に住んでいたことを証するものである。


熊野神社

左は薬師堂、右が熊野神社。
『大飯町誌』
熊野神社(元村社)
祭神 事解男命、伊弉冉尊、速玉男命
所在地 神崎字宮の前(一の一)
境内地 五九〇・七平方㍍
氏子 神崎一二戸
例祭日 十月十五日
宮司 赤坂 寿
主な建造物 本殿、上屋
特殊神事 神事能
由緒・系統 『神社明細帳』に弘治三年(一五五七)勧請とある。  熊野系
〔末社〕
畑中神社
祭神 大国主命
由緒・系統 寛政三年(一七九一)勧請 出雲系


熊野神社
 当集落の氏神も熊野神社で、字宮の前にある。祭神は万願寺のと同じで、西谷にあり中世元薬師に移り、変遷があったらしいが、「神社明細帳」には「弘治三丁巳年勧請、寛政三辛亥年再建」とある。神崎の歴史から見て少し新しすぎる感がある。「時代由緒共知れ申さず候」と、時の庄屋甚介が正直に報告している方が真実であったかもしれない。境内社の畑中明神(祭神大国主命)は本社再建の寛政三年(一七九一)の時に勧請したと記されている。
 この集落には薬師堂がある関係であろうか、寺院はなく、岡安の実相寺の檀家となっている。平常の仏事等は薬師堂を中心として運営されている。


『大飯郡誌』
同(村社)熊野神社 同 事解男命伊奘冊尊速玉男命 神崎字宮前に在り 社地三百二坪二分 氏子十四戸 社殿〔〕本殿上假屋〔〕由緒〔明細帳〕弘治三丁巳年勧請寛政三辛亥年再建(全郡誌神社章幸山明神参照)
〔寛永四年國中高附〕能野権現九月八日翁面當申候 〔若狭郡縣志〕 …爲産神…境内社畑中明神祭神大國主命 社殿〔〕由緒〔明細帳〕寛政辛癸三勧請。

正位五幸山明神 (按にサキ山と訓み芝崎神崎と關係無き乎



薬師堂
『大飯町誌』
薬師堂
 この古墳時代から百三、四十年後の天平四年(七三二)、神崎西上にある薬師堂が創建されて、寺領三〇石七堂伽藍の規模であったと縁起にある。本尊薬師如来は古墳文化の後に連なる我が国仏教文化の初期の信仰形態で、当集落としては大切な施設と考えられる。
 元の尊像は僧行基一刀三礼の木彫だと言い伝えたが、明治七年(一八七四)十月十日の失火で仏体を焼損し、形体も崩れていたので、新しく求めた三尊が信仰の当体となった。ところが毎夜元の像が光って留守居の者が襲われるようになった。村人は留守居の要求に従って、古い像をも新仏像の後ろに寄せかけて祀ることにした。
この本尊も昔からの秘仏で二一年目ごとに開帳される。その信仰的な伝統は今もかたく守り続けられている。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


神崎の主な歴史記録



『大飯町誌』
神崎
 役場から佐分利川沿いをさかのぼること六キロメートル、左手の谷合いが神崎の集落である。東南西の三方を山で囲み北の一面が開け、その間を神崎川が流れて佐分利川本流に合している。『若狭国志』に「河崎嶽、在二河崎村一佐分利郷第一高山」とあるように、この集落はもと河崎村と記していた。
 文永二年(一二六五)の大田文には挙がっていないが、建武三年 (一三三六)七月二十五日足利時家(尾張家憲)の若狭派遣に際しては、その別働隊によってこの集落は焼き払われた。その事件を記述した『若狭国守護職次第』にも河崎の文字が出ている。当時、後醍醐天皇方の何者かの荘園であったからであろう。
 その後、文和二年(一三五三)河崎荘(神崎)を本拠とした河崎日向守信成は玉置荘(上中町)にも所領をもって(「神宮寺文書」)、太良荘で活動していた。その代官世木与一宗家が太良荘の預所賀茂定夏を殺害したので、信成は「国一の悪党」といわれたという。応安二~四年(一三六九~七一)の国一揆は河崎信成の足場であった玉置荘で大決戦があり、一揆を掃討したのであったが、その後の河崎氏の動きが一切分からなくなっている。
鏡岩・夫婦岩
 字大藤谷に鏡岩がある。扁平の焼け石で、光沢があり顔が映るといって鏡岩の名がついた。この岩を少しでも傷つけると必ず身に血を見ると言い伝えている。
 また、同じ大藤谷に夫婦岩があって、形は切り立てたようで、男岩の方は高さ五㍍、女岩の方は四㍍ぐらいである。両岩の間は一・二㍍ばかりの洞穴のように見える。昔神崎の嶽に火事があった時に、嶽の骨があらわれたのだと言い伝えている(『佐分利村小誌』)。
堀口四郎行義
 前記の河崎日向守信成と相前後して来住したものに、堀口四郎行義という武士があった。どちらも資料が乏しく、いずれを先とも決めかねるのであるが、しばらく河崎氏を先とし、堀口氏はどこかに潜んでいて、河崎氏の跡を継いだものと仮定しておく。四郎行義は南北朝時代の勇士で、新田義貞の配下にあって元弘の戦には鎌倉攻めに加わり、朝廷方のために死闘を尽くしている。詳細は『若狭国志』の伴信友補註と『太平記』巻一〇とに出ている。今その要領だけをかいつまんで記すと、およそ次のようになる。
  『太平記』抜書(巻一〇、義貞挙兵)
   ……同五月八日の卯の刻に、生品(いくしな)の明神の御前に旗を挙げ、綸旨を披きて三度是を拝し、笠懸野へ打ち出でらる。相随ふ人々氏族には……堀口三郎貞満、舎弟四郎行義……脇屋次郎義助……是等を宗徒の兵として百五十騎には過ぎざりけり。義貞大に悦びて……
 同巻(鎌倉合戦)
   軍勢の着到を記られけるに、六十万七千余騎とぞ注せらる。ここに此勢を三手に分けて、各二人の大将を差し副へ、其一方には……。一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大島讃岐守守之を裨将軍として、其勢都合十万余騎巨福呂坂へ指し向けられ……

 何故に佐分利谷へ隠棲したかということは分からないが、伴信友註には、「住昔ユヱアリテ佐分利谷へ来ラレタルナルベシ。今佐分利谷ノ内神崎村ニ堀口氏ノ百姓アリテ、藩士堀口氏ノ祖ノ家也。旧記タエテシレズ。古キ鎗二本アリト云。村中大方同姓ナリ。紋ハ丸ニ五本骨ノ扇也。ト堀口彦九郎語ル」とある。彦九郎は小浜藩士で、その先祖が神崎村にあったことを語ったというのである。
 以上の資料から考えると、敦賀の金ケ崎の戦で四郎の末弟貞政とその子民家が討ち死にしていて、長兄貞満の子貞祐は江州堅田に隠れていて兵を起こした。四郎行義もいずれはこの戦に従軍していたに相違あるまい。それでいてその消息が明らかになっていないのは、貞祐のようにどこかへ行方をくらましたのであろう。
 金ケ崎と佐分利谷とを連ねて見ると、これは隠れるにそう不自然な所ではない。おいは江州堅田へ伯父は佐分利の神崎へ隠れた。これは有り得る行程である。しかも神崎には鎌倉時代以来若狭国守護
  系図(・符ハ大系図、・符ハ太平記ノ略符号デアル)


領(稲葉氏~若狭氏)があったらしく、その若狭氏は堀口氏(四郎行義)と同じく公家方の人物である。それ故に足利時家の入部に際して、ここが焼き払われたのだとも考えられる。堀口行義がこれらの縁を伝って、ここに身を潜めたという仮説を立ててみたい。今後これを証する資料の発見されることを待つものである。
 その後応安三年(一三七〇)の国一揆掃討軍に佐分、本郷、青氏と共に神崎(河崎)からも何氏かが従軍している。河崎氏でなければ堀口氏であっただろう。四郎行義の子孫が今に神崎に残っているのは、こうした経路があったからである。堀口儀兵衛家がその直系ということである。
 先祖の家紋は新田氏の(一)の紋であったが、その後五本骨の扇に変えたと伝えている。古い提灯や石碑の紋は(一)であるという。儀兵衛家から長右衛門家が分かれる時、二間柄の槍一振りを譲り受け現在も保存してあるが、太平洋戦争後刀剣類供出の時その柄を短く切ったという。柄は割竹を幾本か合して束ね漆塗りに堅めたものと聞く。ただし、『佐分利村小誌』には、「槍の如きも今は存せざるものの如し」とし、また「紋もいつの程にか義貞公の紋所に改め居る家多数なり」としてある。果たしていずれであろうか。

神崎の伝説


『越前若狭の伝説』
足踏み岩 (神崎)
 神崎の山奥に大きな岩がひとつある。それに人間の足跡が大きくついている。これはむかし朝比奈三郎がこの地を通ったときに、この岩の上に立ったのでこのような足跡がついたのであるという。(福井県の伝説)

鏡岩  (神崎)
 鏡岩は神崎の大藤谷にある。形は平たくて四メートルもある大岩である。厚さは一・三メートル、焼石で光沢がある。顔をうつすここができるので鏡岩の名がある。もしこの岩に少しでも傷をつけると、必ず自分の体に血を見るという。(福井県の伝説)

夫婦岩  (神崎)
夫婦岩は神崎の大藤谷にある。形は切りたてたような石で、男石は五メートルほど、女岩は四メートルほどである。
 二石の間は一・三メートルばかりで、その間が洞くつのように見える。これはむかし神崎岳が火事にあったとき、山の骨が現われたものである。 (福井県の伝説)



神崎の小字一覧


神崎  堂前 西上 西谷 西谷口 上竹腰 西竹腰 上道田 下道田 広岡前 神崎下 柴原 道柴原 祭神 下竹腰 中ノ坪 下黒田 上黒田 奥山口 奥山鼻 奥山 丸山 柳谷 清水ケ谷 大藤谷 稲葉山 竹腰 黒田

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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