丹後の地名 若狭版

若狭

槙谷(まきだに)
福井県大飯郡おおい町名田庄槙谷


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福井県大飯郡おおい町名田庄槙谷

福井県遠敷郡名田庄村槙谷

福井県遠敷郡知三村槙谷


槙谷の概要




《槙谷の概要》

堂本集落の先から槇谷川に沿って入る。周辺はすべて山地。
「まきだん」とも呼ぶ。住民は木曽義仲の末孫であるという伝承を受け継ぎ、左近・刑部・治郎太夫の3家を村の草分けとしているという。
槙谷は、室町期に見える地名で、応永17年10月5日足利義持袖判御教書に、名田荘内の中村・葦谷・深谷名とともに泉涌寺領として「槙」とあるのが初見。諸公事・臨時課役・段銭・守護役が免除され、守護使の入部も停止された地であったという。
槙谷村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。
「若狭国志」には深山幽谷のこの村へ入る路は1つで、村内に入れば100有余の谷があると記す、,耕地は少なく村民は山に生業を求めていた。特に小浜藩の特命を受け木太刀や槍の柄の製造を主業とした。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年南名田村の大字となる。
槙谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ南名田村、明治24年知三村、昭和30年名田庄村、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北4町、戸数17、人口は男41・女43。江戸期に行われていた木太刀・槍柄の製造は明治以後鍬柄の製造に変わり、さらに明治末年には製炭業に従事するようになった。
材木は筏に組んで南川を流して小浜へ出していたという。

きれいな川。筏を流せるほどの水量はない。


《槙谷の人口・世帯数》 11・6


《槙谷の主な社寺など》

八幡神社

立派な神木がある。知井八幡を勧請したと伝説にある。
『名田庄村誌』
八幡神社
所在地 槇谷
創 建 正徳元年(一七一一)
祭 神 応神天皇
若州管内社寺由緒記によれば、草創不明としている。文化九年(一八一二)に再建されたことが、棟札によりわかる。


『遠敷郡誌』
八幡神社 村社にして同村槇谷字谷ノ下にあり、祭神は応神天皇にして延長年間建立すと謂ふ、又一説に丹波知井村より近世移祠せりと傳ふ。


曹洞宗瑞龍山慶雲寺

『名田庄村誌』
慶雲寺
宗派 曹洞宗
所在地 槇谷第二十五号六番地
 本尊は木造聖観世音菩薩立像金箔塗で、高さ七十センチ江戸時代の作と推定される。
 現在小浜市妙徳寺四世柏栄成邦が開山としてまつられており、同和尚は明応四年(一四九五)六月廿八日死亡(同寺過去帳)とある。なお妙徳寺六世怡山門悦が、当寺開祖であるが、同和尚は元亀元年(一五七〇)五月十五日死亡(同寺過去帳)している。
 当寺は享保二十年(一七三五)、洪水のため堂宇悉く漂流し、元文三年(一七三八)現在の所に再建されたとされる。通称「天ノ御」と称する山の奥より流れ下る政谷川が、本谷川と合する所にあるが、昭和二十八年の台風により、この谷の水により本堂が流失、昭和三十三年現在の堂宇を建立した。
 なお槇谷区は、現在過疎化の波にあおられており、その点からも、寺の経営は仲々困難との話であった。


『遠敷郡誌』
慶雲寺 右同寺(見性寺)末同本尊にして同村槇谷字天ノ御下に在り、永正五年妙徳寺第五世怡山和尚開創し、第四世柏榮を開山とす。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


槙谷の主な歴史記録


『名田庄村誌』
槇谷
 久坂より約四キロの山間、標高百四十メートルの位置にある。耕地少なく古くから山稼ぎ製炭を業とし、農耕は副業としての生活をしていた。現在戸数・人口ともに年々減少の傾向にあるが、地理的環境から生業には大きな変化はない。
 古くから当区の住民は木曾義仲の系統と称している。その元祖は、左近・刑部・治郎太夫の三家よりはじまり、あるいは分家し、あるいは友をあつめて戸数を増したという。藩政時代以来木太刀・槍の柄をつくることを本業としてきたが、明治維新後鍬の柄づくりに転じ、さらに明治の末期に及んで炭焼きに再転したといわれる。
 大正三年の戸数は十七戸、人口八十一人、昭和四十三年の戸数十三戸、人口五十七人であった。

槙谷の伝説


『名田庄のむかしばなし』
八幡神社の由来  -槙谷・八幡神社-
 応神天皇を祭る槙谷八幡神社は、丹波北桑田郡知井村の八幡神社より神霊をおむかえしたといわれる。
 時は今から三百五十年ものむかしのこと、知井村では毎年八月十五日に氏神八幡神社の例祭が行われ、氏子はもとより、遠近の老若男女こぞってこの神社に集まり各自が思い思い、見本なまでの工夫で変装し、深夜はおろか夜の明けるまで踊り興じたという。
 当時槙谷区の血気盛んな若者達は、この祭礼踊の盛大で華かなことに強く心を惹かれ、あでやかな衣裳を互いに工夫して踊着とし、縮緬三尺手拭で頬被り、腰に印籠をつけるという装いで、染ヶ谷の坂道を越えて知井村に至り、多くの踊り子の中にまじって終夜踊りとおすことを毎年の楽しみの一つにしていたのである。
 ところがこの若者達は、いつの頃からか、このように盛大な踊りがこんなにも永く続けられ、しかも年とともに盛んになるというのは、つまりは八幡さまのご神霊がそうさせるのであろうと思い、このような神霊を自分達の在所にもお祭りしたいと考えるようになった。
 そうしたねがいを年々強めていくうちに、やがてはそのご神霊を奪い帰り、我が村にお祭りしようというはかりごとに発展した。ある年のお祭りに、その夜の明け方早々、人びとは踊り疲れて床につき、あるいは朝食の仕度に忙しい時をえらんで秘かに神殿に入り、ご神体と思われるものを奪って帰ったという。
 その後は、そのことが発覚してとがめられるのを恐れて知井村へ行くことを止めるとともに、奪いかえされることを警戒して、あちらの山裾、こちらの樹陰にと人目をさける場を選んで転々と移しかえたという。そのため社殿も極めてお粗末なままでひそかに祭り続けてきたという。
 幾年かをすごした頃、小浜の材木商、枡屋安左ヱ門という人が槙谷に来て、余りにも粗末な社殿を嘆き、率先して造営を発意し、氏子中を励まして正徳元年、現在の地に社殿を奉築したといわれる。但し現在の社殿はその後の文化九年に氏子の総力で再建したものである。

『越前若狭の伝説』
弘法大師  (槙谷)
 弘法大師が諸国巡回のときこの村へ来た。子どもたちが桃をもいでいるのを見て、一つくれといった。子どもたちは、大師がぼろぼろの衣を着ていたので、あなどって石を投げた。大師は「この村にはもうよい桃はできない。」といって麻畑へ隠れた。子どもたちはさらに麻畑の中へ石を投げこんだ。大師は「あまりいたずらをすると、よい麻ができなくなる。」といって槙谷を去った。それでこの地にはよい桃やよい麻ができない。  (福井県の伝説)

 大師が、桃をもいでいる子どもに「一つくれ。」といわれたところ、子どもが長い竹ざおで追っぱらったので、あわ畑に逃げこみ、「桃がなったらヤニになれ、あわには虫がつけ。」といい、槙谷で桃とあわを作ることを封じた。
 大師は、松原の奥の川べりの岩にカラウスツボを彫った。今もそのあたりをカラウスツボという。  (名田庄村の歴史)
参照 弘法大師(名田庄村堂本)

馬くずし (槙谷)
 むかし戦いがあり、多数の人馬がくずれ落ちた所を馬くずしという。また馬が勇んで、ひずめの跡を残した所を立駒(こま)という。今もひずめの跡がある。そのとき多くの人が死に、死人で埋まった所を死人谷という。この三つの場所は知井坂(血坂)側にある。 (名田庄村の歴史)



槙谷の小字一覧


『名田庄村誌』
槇谷地区
 辻堂谷 上辻堂谷 窪瀬 苗田 竹ノ越 森ノ下 畦地谷 小松口 広谷口 上広谷口 道堂 姥ヶ下 切込 船ヶ谷口 揚石 上ヶ谷 坊ノ元 上坊ノ元 宮ノ下 庵ノ谷口 栃左近 小谷口 岡ノ上 政谷口 天ノ御下 広谷 政谷 一ノ谷 足谷 庵ヶ谷奥 小松谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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