丹後の地名 若狭版

若狭

三森(みつもり)
福井県大飯郡おおい町三森


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福井県大飯郡おおい町三森

福井県大飯郡大飯町三森

福井県大飯郡佐分利村三森

三森の概要




《三森の概要》
佐分利川上流左岸の山すそに点在する集落。兼業農家中心の農業地域。川上の新鞍神社の氏子である。

村名は、新鞍(あたくら)・日尻(ひじり)・奥居恵野(おくいえの)の3つの森があったことに由来するという。
三森村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年佐分利村の大字となる。
三森は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐分利村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北12町余、戸数14、人口は男38・女45。


《三森の人口・世帯数》 29・12


《三森の主な社寺など》




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


三森の主な歴史記録


『大飯町誌』
三森
 三森は川上・久保・安川の三区に境する小集落で、役場から一一・五キロメートル、佐分利川左岸の山裾にある。新鞍の森、日尻の森、奥居恵野の森と三つの森があったので、三森というと伝えられている。
検地帳
 集落には寛永二十一年(一六四四)卯月十一日の検地帳が保存してあった。本文は行方不明になったが、『大飯郡誌』に総計の部が採録してあるので、最後尾の田畑宅地の比較反別だけをここに掲げておく。
   町数合計 拾三町六反四畝三歩 (分米合計 百六拾五石弐斗四升七合  毛付高)
   内田方  九町七反九畝十四歩
    (分米 百四拾弐石八斗八升五合)
   畠方   三町六反壱畝六歩
    (分米 弐拾壱石壱斗九合)
   屋敷   二反三畝拾壱歩
    (分米 弐石三斗三升四合)
   外に荒畠 四畝九歩
    (分米 壱斗二升九合)
   永川成
    (分米 参拾壱石弐斗七升四合)
   惣高合斗百九拾六石六斗五升 元高也  以上
   寛永弐拾壱甲申卯月十一日
                  沢田善兵衛  沢田八郎兵衛
               代官 内藤四郎右衛門
               竿取 作右衛門 次郎助」
生活の実態
 また、宝暦四年(一七五四)戌の三月吉日付、「宗門御改ニ付五人組証文」があり、これに五人組の氏名が全部挙がっている。
 五人組頭源右衛門、長助、久助、仁右衛門、平左衛門 五人組頭左近、六兵衛、五右衛門後家、六重郎、甚助 五人組頭甚左衛門、五左衛門、仁左衛門、九郎左衛門
 このときは一四戸あったらしい。後家や隠居、かじけ(貧窮者)は省く例があるから、後家一戸を除けば一三戸となる。一三戸もあるのに屋敷が二反三畝一一歩と少ない。農山村であるが一戸平均五四坪である。そのころの庶民生活の一端が分かる。ずっと下って慶応三年(一八六七)卯二月禅宗長福寺大改扣大飯郡三森村という文書の中に「惣〆七拾弐人内男三十六人女三十六人、家数十六軒内五軒長百姓、六軒小百姓、五軒かじけ、牛馬数九疋内四疋牛五疋馬」とある。
 集落内の貧富状況は上、中、下ほぼ同数で、中が一軒多く、集落の経済状況は割合によい方であったらしい。ただ、かじけの比率が多過ぎる。
水争い
 当町としては珍しい文書、「寛永三年井水出入に関する御書下」一通がある。「今度河上村三森村井水の出入これあるに付て、此五人の者共さし出で、則ち隣郷五ヶ村の庄屋共に申渡し曖い申候、河上村よりは今迄番にて井水遣し申さず候由申候、三森よりは番にいたし河上村へは二日一夜先規より取来り申す由に候へ共、皆共曖い申すに付、其村の者共迷惑ながら、向後者一日半夜取り申し相済し候て、皆共に於て満足申し候。以来河上村より何角申候共、此折紙もち候て罷り出で相すまし申すべく、其のため此の如くに候者なり。(原文を読み下しとした)
 寛永三年五月廿八日 岡部小左衛門(花押)
 木村太右衛門(花押) 土屋四郎左衛門(花押) 中井権兵衛(花押) 内藤三右衛門(花押) 三森百姓中 以上」
 川上と三森との間にかんがい用の水争いが起こり、川上方は番水でないと言い、三森方は二日に一晩の間は自分の村へもらうのが先例であると言い合って折り合いがつかなかった。それで奉行へ訴えたところ、五人の役人が来て、両村の言い分を聞き調停を行った。
 双方の言い分の間をとって、今後は一日に半夜水を取ることにして、隣村五力村の庄屋を証人とした。今後また出入りが起こった場合この書下書を証拠として裁決するというのである。水争いは方々でよくあることである。これは村と村との争いであり、京極忠高が若狭の領主であった時代のもので、当時の裁き方の様子も分かり、農民の「水あて」の慣習もうかがわれるのである(岩崎左近家文書)。
永代川成り
 三森分の永代川成りが分米三一石二斗七升四合に当たる全耕地の五分の一が川成りとなっていたということである。佐分利川上流の水害の様子、また、その復旧方策も立たず永代川成りとして見捨てられていたことが分かる。京極氏は小浜城の城普請でそこまで手がのびなかったので、みすみす三一石余の年貢を見捨てていたのである。
 また、農民にすればせっかく汗を流して田普請をしても、大部分を税に取られるので、水害を受けやすい土地に苦労して復旧する意欲を燃やさなかったのであろう。
三森の大火
 天保四年(一八三三)巳五月集落の大半が被災するという大火のあったことが、類焼してその年九月再建した岩崎左近家の棟札にょって明らかになった。


三森の伝説





三森の小字一覧


三森  西ノ上 下代田 上代田 奥長瀬 中長七 口長七 向ヒ 上居恵野 奥居恵野 下居恵野 上百合 中百合 百合 下百合 下ヒ尻 上ヒ尻 中ヒ尻 王仁田 堂田 口大谷 奥大谷 宮谷 上畔高 下畔高 中田 北鼻

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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