丹後の地名 若狭版

若狭

長井(ながい)
福井県大飯郡おおい町長井


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福井県大飯郡おおい町長井

福井県大飯郡大飯町長井

福井県大飯郡本郷村長井


長井の概要




《長井の概要》

大飯町の東部で、東は小浜市と接する所。JR小浜線と国道27号が並行して走る。本郷氏系図によれば「永藺保」という保があり、本郷氏は同保の地頭であったという。
中世の長井村。戦国期に見える村で、弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百文 長井村」と見える。

長井村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年加斗村の大字となる。
長井は、明治22年~現在の大字名。はじめ加斗村、昭和30年1月10日本郷村、同年同月15日からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北3町余、戸数29、人口は男89・女84、学校1、小船6。


《長井の人口・世帯数》 119・42


《長井の主な社寺など》

古墳
尾内との境界八ヶ崎に経塚と古墳2基(1基は国道改修工事時に破壊)が確認されている。

黒駒神社
黒駒神社
『大飯町誌』
黒駒神社(元村社)
祭神 素盞嗚尊
所在地 長井字宮(一一の一)
境内地その他 九八三・四平方㍍、山林八、四〇二・四平方㍍
氏子 長井三〇戸
例祭日 十月十八日、三月五日
宮司 松田忠夫
主な建造物 本殿、上屋、熊野社上屋、舞台、社務所、手水舎
特殊神事 宮当祭、子供持立行事
由緒・系統『若州管内社寺由緒記』に嘉暦三年(一三二八)造営とある。黒駒系
[末社]
船穂神社
祭神 不詳
例祭日 九月十日
由緒『若狭国神名帳』所載の古社 九四四年以前
恵美須神社
祭神 事代主命、大国主命
由緒・系統 慶長十年(一六〇五)創建 恵美須系
山神神社
祭神 大山祗命
系統 山神神仰
熊野神社
祭神 事解男命、伊奘冉命、遠玉男命
系統 熊野系


黒駒神社
字宮にある。祭神は素盞嗚尊、明細帳には「長享二戊申年(一四八八)建立と伝う」とあるが、「若州管内社寺由緒記」では、「嘉暦三年(一三二八)……神主右馬太夫、其子孫只今も神主仕候」とあって、後醍醐天皇の朝である。当時足利尊氏が飯盛寺上ノ坊などを支援して黒駒神社を加斗庄の各村に、建立させたらしい。神主右馬太夫もその一派かと考えられる。末社船穂神社はその祭神が明らかでない。これも嘉暦三年(一三二八)建立とある。「神階記」(九四四) に載っているから更に古いはずである。恵美須神社、熊野神社もある。


『大飯郡誌』
村社黒駒神社 祭神不詳 長井字宮に在り 社地二百六十二坪 氏子三十戸 社殿〔〕神樂殿〔〕長床〔〕鳥居一基 由緒〔明細帳〕長享二戊申年建立と傳ふ。
〔寛永四年國中高附〕二月九日九月九日三寸御供備岡津尾内三ヶ村立合 〔郡縣志〕 岡津長井兩村土人産神…境内社 三神 船穂神社 祭神不詳社殿〔〕由緒〔明細帳〕文明三辛卯年建立と申傳〔郡縣志〕船穂明神社 未詳所祭之神土人爲産神九月十日有祭礼若狭神階記大飯郡正五位船穂明神云々〔國中高附〕船府大明神 恵美須神社同惠美須神社殿〔〕由緒〔明細帳〕慶長十乙巳年建立と申傳 能野神社〔國中高附〕三月酒御供備申候



黒駒はどう読むのか不明だが、元々同郡であった小浜市飯盛の黒駒神社はクルマ神社と呼んでいる。その飯盛から勧請した社であるからクルマと読むのでなかろうか。


臨済宗相国寺派大岩山龍虎寺

『大飯町誌』
大岩山龍虎寺
宗派 臨済宗(相国寺派)
本尊 阿弥陀如来
所在地 長井字上の山(二六の九)
主な建物 本堂、庫裡、毘沙門堂、倉庫、本堂は安政五年(一八五八)再建
境内地その他 境内四二三平方㍍、田三八三平方㍍、畑七七〇平方㍍、山林六、三五三平方㍍、墓地二、五二八平方㍍
住職 田村周山
檀徒数 三〇戸
創建年代 文亀三年(一五〇三)慶長十九年(一六一四)再建
開山 喜山宗慶和尚
寺宝 本尊阿弥陀如来坐像(県重文指定)、写経承元二年(一
二〇八)等、ほかに古仏像数体あり


龍虎寺
字上山所在、臨済宗相国寺派本尊阿弥陀如来(天正ごろは地蔵尊であった)。由緒は明細帳によると、「文亀三年癸亥年(一五〇三)喜山宗慶和尚創立、中絶、慶長十九年、甲寅年(一六一四)九月八日與?周峯和尚再興」となっている。なお『若州管内社寺由緒記』では、「……□室善公座元禅師九十五年以前(延宝三年起算)天正九年喜山宗慶士本願也……」とある。喜山宗慶を開基とする点は合致しているが、元禄五年(一六九二)改帳に、「開基喜山宗慶慶長年中寂……」とあって天正九年(一五八一)説が有力である。
 このとき、古寺実仙庵を合併して龍虎庵を開いたというのが真相であろう。この寺には本尊のほかに古仏像の残欠が七体ある。


『大飯郡誌』
龍虎庵 臨済宗相國寺派 長井字上ノ山
に在り 寺地百二十八坪 檀徒百七十七人
本尊地蔵尊 堂宇〔〕 由緒〔明細帳〕文龜三癸亥年喜山宗慶和尚創立中絶慶長十九甲寅年九月八日與?周峯和尚再興。
〔元禄五年〕 開基喜山宗慶々長年中示寂 建立者諸櫨那中 名寄三斗五升年貢地也。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


長井の主な歴史記録


『大飯町誌』
長井
 旧国道時代は尾内から八ヶ崎を回って長井へ出たが、新国道は鉄道に並行して長井の集落へ連なる。役場から二キロメートルである。この八ヶ崎に三基の古墳があり、また、山頂に一基の経塚があった。うち二基の古墳は工事のために破砕されてしまった。鯉川境の伏見地籍にも一基の古墳が確認されており、後期古墳時代のものと推定され長井の古さを証する遺跡である。
 現在龍虎寺の本堂に祀られている阿弥陀如来の座像(藤原時代)作、県重文)は元この集落の奥の実仙庵にあったという。古老の口碑には山門もあって、その仁王像は今飯盛寺(小浜市飯盛寺)に祀ってあるものだという。
 『若州管内社寺由緒記』には龍虎庵の由緒の中に、「……当村実仙庵と申寺此の寺地へ引き開基なり」とあって、天正九年(一五八一)に龍虎庵に合併されたのである。また、長井の寺の古文書に古い写経が数巻あり(承元二年(一二〇八)正月二十九日の奥書)、もしこの写経を実仙庵が蔵していたのならば、長井は鎌倉時代から寺があり阿弥陀仏の大像を祀っていたということも考えられる。
 ところで更に長井には重大な記録が残されている。それは正平七年(北朝文和元年=一三五二)に本郷家泰が功によって越前春近庄と、若狭の三方郷三方保と、この永藺保を加増されていることである。これによると永藺(長井)は当時保という下部組織であったことが分かる。郷、里、保、名など集落の大小成り立ちによって名付けられていた。これは南北朝時代にも襲用していた名称である。長井保になったのはいつのころか分からないけれども、こうして有力武士に与えられたり取り上げられたりする一単位になっていた。
 本郷氏が長井を領したのは南北朝時代であるが、それより前平安時代にも領主があったと考えられる。すなわち荘園の一つであり、永藺保という時代には尾内地区をも含んでいた。それ故、当時は尾内の大字名ができていなかったのであろう。
妙荷谷の堤
天保のころ(一八三〇~四四)村人が総出してこの堤を改修していると、たまたまそこを通りあわせた巡礼の定八親子が、堤にハガネ(ねば土)を入れて不透水性の部分を作って堤を直すことを教えた。村人たちは定八の勧めに従って堤を改修したので、それ以来堤の水もちが大変よくなった。その後定八は徳をたたえられて村内に留まるようになった。
 定八らの死後の身柄は龍虎寺に手厚く葬られ後世までの語り草として伝えられている。今も寺の過去帳や無縁墓碑に定八一家のものを確認することができる。法名ほか次のとおりである。
秋雲禅定門    嘉永三年(一八五〇)七月七日  定八
窓月禅定尼    嘉永四年十一月十五日       妻
華岳信士     文政七年(一七九五)三月十七日  子
朝翁明天信士   文政九年八月二十三日       父


長井の伝説





長井の小字一覧


長井  西谷 坂尻 中谷 奥神子谷 神子谷 馬場 上添柿 堂田 奥堂奥 堂ノ奥 宮 妙荷谷 奥差小谷 差子谷 美濃谷 西山 小屋敷 下沖田 上沖田 上村中 若宮 上ノ山 門口 神田 奥ノ奥 伏見道上 井根 下々 下村中 西縄手下 千谷 鉢ケ崎 下鉢ケ崎 大浜 鳥浜 鯊川 風ケ浜 伏見

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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