西谷(にしだに)
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福井県大飯郡おおい町名田庄西谷 福井県遠敷郡名田庄村西谷 福井県遠敷郡奥名田村西谷 |
西谷の概要《西谷の概要》 井上の後ろ側。南川支流西谷川の小扇状地に開けた集落。「にしだん」ともいう。中世には井上村に含まれていたと思われる。中世城跡としては西谷城址があり、武田義統の家臣土屋氏の居城で、名田庄谷を支配していたという。 西谷村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年奥名田村の大字となる。 西谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ奥名田村、昭和30年からは名田庄村の大字、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西50間・南北20間、戸数17、人口は男49 ・ 女48。 《西谷の人口・世帯数》 45・17 《西谷の主な社寺など》 日枝神社 当社は安産の神といわれ、境内の銀杏の大木には多数の突起があることから乳銀杏と呼ばれ、乳の出ない人の信仰の対象でもあったという。左手前のホコラのある樹でなかろうか。 『名田庄村誌』 日枝神社 所在地 西谷字村下 創 建 延長年間(九二三~九三〇) 祭 神 大山昨命 稚狹考には西谷に山王権現(祭、二月十二日・九月十二日)があるとみえ、若州管内社寺由緒記には、西谷村の氏神として山王・若宮二社がみえるので、山王社といわれたらしい。 『遠敷郡誌』 日枝神社 村社にして同村西谷字村下にあり、舊時山王宮と稱し祭神は大山咋命にして延長年間建立と傳ふ。 曹洞宗興福寺 公民館の後の建物がそれのよう、以前真言宗円通庵と称して、武田義統家臣土屋氏の菩提寺であった。のち寛永11年曹洞宗に改宗したという。鎌倉期の写本である大般若経を伝える。 『名田庄村誌』 興福寺 宗 派 曹洞宗 所在地 西谷第二号十番地の二 本尊観世音菩薩を安置する。以前真言宗円通庵という寺であったが、寛永十一年口名田村興禅寺第二世長翁正鎮が、曹洞宗興福寺と改宗したと伝えられている。 当寺は、井上の曹源寺と大体同じ頃、改宗したらしい。現在は、住職はなく曹源寺住職が、兼務している。鎌倉時代の大般若経五百九十六帖が保存されている。 『遠敷郡誌』 興福寺 右同寺(興禪寺)末にして本尊は観世音なり、同村西谷字村中に在り、寛永二年真言宗圓通庵あり、同十一年興禪寺第二世正鎮今の寺に改む、所蔵大般若經五百二卷中文治五年三月寄進の文字あり。 西谷城 『名田庄村誌』 西谷城跡 西谷城は土屋六郎左衛門の居城である。はじめにかれの略歴にふれておこう。 土屋六郎左衛門の主君武田信栄が、若狭を領有するに至った由来からのべよう。将軍義教は諸国の大名等の跋扈を抑えようとした。義教は若狭の一色義貫(義範)と土岐の一族世保持頼に命じて大和の越智氏を征伐させたが、さらに義貫や持頼は、義教に忌まれた。義教は越智氏征伐に従軍していた武田信栄・細川成之等に命じて、義貫・持頼を人和三輪の陣中に誘殺させ、若狭を信栄に与えた(渡辺世祐著室町時代史)。信栄の四家老の一人に土屋六郎左衛門があり、世々名田庄を支配していた。西谷に住しており、家臣の曽我氏を三重城に拠らせ、知見出雲(和泉)守を小倉に、渋谷氏を坂本城に配して、それぞれその附近の部落を支配させていた。 武田氏は武田信栄より、信賢・国信・信親・元信・元光・信豊・義統・元明までの九代百四十一年間(織田信長時代に至るまで)世襲した。元明は、永禄十一年(一五六八)八月、朝倉義景のため、後瀬城を包囲され降参するに至った。さらに元明は天正十年(一五八二)七月豊臣秀吉に近江の海津で誘殺され、若狭大名武田氏は滅亡し、若狭の大名には丹波五郎左衛門長秀が任ぜられた。 天文二年(一五三三)の頃から土屋氏はその臣知見氏・曽我氏と不和となり、相争って互に勝敗があった。当時谷小屋(五十谷山上城)に、寺井兵部少輔が居城して、五十谷・窪谷・桂木・飛川および大飯郡飯盛・三方郡藤井・前川等を領有して威勢を拝っていた。その娘は青井右京亮の室であった。寺井は武田屋形において土屋氏と恨を生じたことがあったのみか、その家臣曽我氏と境界を争っていたので、天文六年(一五三七)頃、女婿青井右京亮および松宮玄蕃(瓜生に居城)の後援を得て土屋氏と戦った。 土屋氏の家臣であった渋谷氏はよしみを寺井氏に通じてこれを挟撃し、土屋・知見の二氏を敗走させ、曾我氏を攻め殺した。このようにして名田庄は全く寺井・青井・松宮の領有に帰した。寺井右京亮は、小村城(下中郡田村谷、小村の山上)に移り、和多田・小屋・出村・深谷・三重・知見・虫野(虫鹿野)・木谷・出合・挙原・長谷・堂本・志見谷・槇谷・小倉・下村・中村等を領有するに至った。寺井兵部少輔の子源左衛門は谷小屋より窪谷城に移住した。松宮玄蕃は、孫弥助をして坂本城に居らしめ、その附近を領有させたらしい。 なお出合の無量山福寿寺の開創については、奥坂本蛇頭の円明寺の位牌に明応八年(一四九九)正月武田氏の家臣土屋氏の一族の霞払霊巌和尚(沙門寺門弟)が川合に結庵すとあり、かれが福寿寺の開基である。 西谷区の古老のいい伝えによると、土屋六郎左衛門の城(あるいは庭敷)は現在の西谷区部落の奥地にあった。西谷区入口左手山の山麓に殿墓があり、相当に立派なもので三基からなる。これは土屋氏の墓であるといい伝えている。宝篋印塔のうち中央のものが大きく、右のものがやや小さい。さらにその右側にはしゅじゅの形の石塔が多く並べられている。二基の石塔には、正面に風化してさだかに読みとれないが梵字ようの文字が刻まれている。一見中世の武士の墓らしい様相が感じられる。 西谷区の左手奥に岡谷あり。そり左手山の中腹に小台地がある。昭和二十八年の十三号台風の水害で、その場所が崩壊し、陶器片が出てきたといわれる。土屋氏の城(あるいは屋敷)は、古老の伝承による、部落の奥地か、あるいは、この小台地ではなかったかと思う。 しかし、この台地は名田庄各地に見られる木地師の屋敷かとも考えられるし、平家の落武者の屋敷跡とも考えられ、もし土屋氏としても、その手孫のものであったと推論することもできる。城跡と伝承されている山城跡は、城ほどのものではなくて見張所または砦の類ではなかろうかと思う。その場所としては、日枝神社の裏山山上、そしてさらに向いの山、佐野・中の境の突出た山頂、今一つ殿墓の山上の三個所にあったらしい。 今日この地を訪れても、何れの場所にもその跡と思われるものは発見されない。名田庄の他の地点の山城跡と同様である。それは見張所同様のものであったかららしい。この三個所は、ちょうど三角形に結ばれる見張所である。この三地点から見張り、何かの方法で屋形に合図すれば速刻に達し得られるであろう。 土屋氏の菩提寺の西谷区興福寺は、その建立寛永元年(一六二四)で、興禅寺(小浜市相生)二世の正鎮の開基となっている。土屋氏の年代より相当後代となる。興福寺開基円通道院殿歓翁善喜大居上(表)の木牌の裏面には次の如く記されている。 大居士者武田氏之家臣、当所古城主姓名号二土屋六郎左衛門一、君臣同時落城、故無二寺産一、茲歳修補寄附之般若、因造二立是霊牌一、以資二厳冥福一者也 祠堂料 金貳百疋 新添焉矣 宝宝六丙四月仏生日般若転読供養当寺中興祖要門叟誌 位碑に君臣同時落城というのは、君土屋六郎左衛門・臣曽我又六郎および知見和泉守をさすものであろう。したがって中央の大きな位牌は土屋氏、左右のものが曾我氏と知見和泉守の位牌であろう。 ところで寄附された大般若経六百巻(折本)は現在も興福寺に、保存されているが、内二巻欠失している。鎌倉時代の写本で貴重であるが、二巻の欠巻がありかつ奥書の西谷住の西谷の部分が二巻書き改められている。寄附の時が江戸時代であり、作が鎌倉時代とすると、何処からか移入したものであろう。 荘園時代には(徳禅寺文書による)西谷村の村名は見出されなく、井上村に含まれていた。井上村は、井上・佐野・岡村から構成されており、おそらく岡村とされていたのではなかろうか。ただし荘園時代の後期徳禅寺文書に、西村の文字が見える。土屋氏在住の頃は、名田庄もなお存在してはいたが、相当混乱していたと考えられる。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 西谷の主な歴史記録『名田庄村誌』 西谷 戦国時代、小浜城主武田氏の家臣土屋六郎左ヱ門が居城し、この地一帯を領していたという。その城跡がある西谷部落の入り口には、老杉繁茂し、村内の日枝神社は由緒が長い。 西谷川の造成による小扇状地が開けるあたりから、曹洞宗興福寺を中心に二十数戸の集落がある。静かな山林地帯である。 扇状地が開けたところに、昭和二十八年災害復旧後、部落総力によりブドウの栽培が始められ、現在は本村特産の一つにあげられるようになった。大正三年の戸数二十戸、人口百四人、昭和四十三年の戸数二十一戸、人口九十人であった。 西谷の伝説『越前若狭の伝説』 日枝神社 (西谷) 当社の東の方二百メートルばかりの所に琴の浦谷と称する平な小谷がある。むかしここにある姫さまが滞留し、つねに琴をひいていた。お産のとき苦しんだのを村の人が助けて安産させた。そのとき姫さまは「今後この村の産婦には難産をさせない。」と誓った。よって今に至るまでこの村に難産者はない。そのため蔵王大権現、若宮八幡ともいう。境内にいちょうの大木がある。大きな乳ぷさが多数たれさがっているので、乳いちょうといい、近郷の乳のない産婦がお参りする。(福井県神社誌) 西谷の小字一覧『名田庄村誌』 西谷地区 村上 魔ノ上 菖蒲左近 岡 船左近田 左近田 中畠 村中 東 村下 岡畠 南畠 森ノ下 平田 荒河原 蓼谷口 由里ノ下 中河原 川尻 井ノロ 小渕 野瀬 大久保瀬 中三田 妙神谷 東側 西側 岡谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『名田庄村誌』 その他たくさん |
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