丹後の地名 若狭版

若狭

小倉畑(おぐらはた)
福井県大飯郡おおい町名田庄小倉畑


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福井県大飯郡おおい町名田庄小倉畑

福井県遠敷郡名田庄村小倉畑

福井県遠敷郡知三村小倉畑


小倉畑の概要




《小倉畑の概要》

南川とその支流久田川の合流域。県道35号(久坂中ノ畑小浜線・近江朽木に至る針畑越の道)が通る。三重の対岸。

小倉畑村は、江戸期~明治22年の村。挙野村・久坂村と合わせて知見村と総称された。小浜藩領。村民には川漁の利権(株)を持つ人も多く、延宝5年には15人が川漁株を持っていたという。明治4年小浜県、降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年南名田村の大字となる。
小倉畑は、明治22年~現在の大字名。はじめ南名田村、明治24年知三村、昭和30年名田庄村、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北7町、戸数31、人口は男88・女81。上・下の2小区より成り農業と炭焼きを本業とし、河川漁業を副業とした。


《小倉畑の人口・世帯数》 182・65


《小倉畑の主な社寺など》

真宗大谷派知見山光久寺

『名田庄村誌』
光久寺
宗 派 浄土真宗
所在地 小倉畑字村中
 本尊阿弥陀仏は木像で、八十五センチの立像である。室町時代後期の作と思われるが、明治初期に塗り変えられたあとが残っている。
 寛正二早(一四六一)俗名中野新二郎、正覚房の創建といわれる。その後文明七年(一四七五)蓮如上人が越前の国から巡錫にきて、当寺に数日滞在したといわれる。
 宝永年間・元文年間二度の火災にあい、現在の本堂は寛政九年(一七九七)の建立。
 寺宝として、親鸞上人画像があり、その裏書により、永正六年(一五○九)本願寺実如から与えられたものであることがわかる。この親鸞画像は、台座が後世、三角台座とされているが、当初の上畳は、裏からすかしてみればわかる。


『遠敷郡誌』
光久寺 右同派同本尊(真宗大谷派阿弥陀仏)にして同村小倉畑字村中に在り、寛正二年蓮如上人に歸依せし正覺坊(俗姓中野氏河内の人附近の諸村に勧化して建立せし其時迄は當地方に禪宗多かりしと云ふ。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


小倉畑の主な歴史記録


『名田庄村誌』
小倉畑
小倉畑は、久田川下流で南川に合流する地点にある。上・下の二小区にわかれ、古来から農耕・製炭を本業とし、河川漁業を営むものも多かった。植林は早くから盛んであり、今日その成果を高く認められている。
 部落の宗教としては、古くは真言宗であったが蓮如の教化で浄土真宗に変ったといわれる。蓮如布教の遺跡と伝えられる光久寺がある。
 大正三年の戸数三十四戸、人口は百七十人、昭和四十三年の戸数三十一戸、人口は百二十五人であった。

小倉畑の伝説


『名田庄のむかしばなし』
光久寺と蓮如上人  -小倉畑・知見山光久寺-
 光久寺が開かれたのは、寛正二年(一四六一)河内の国石川郡生れの、中野信次郎正覚によると伝えられる。
 即ち、中野信次郎という人は、若くして武道に励んだが一向に上達せず、志を変えて山城国鞍馬で商人として修業に入った。だがこの道もまた思わしくなく思い悩んだ末、鞍馬の毘沙門堂に籠ること十七日、満願の日の朝、きざはしを降りきたったところで「元結」を拾ったという。信次郎はこの元結に何か意義あると思ったがその意義を知ることができず、その足で再び稲荷大明神に籠ったのである。
 ここでも十七日間、満願の日を迎えて下向するとき、今度は一丁の鋏を拾ったという。ここで信次郎は、かねて不審に思った意義は「出家せよ」との神のお指図と悟り、仏門に入ることを心に定め、直ちに髪をおとして蓮如上人の門をたたき、許されて弟子となり修業に入ったという。
 きびしい修業を終えて草鞋をはき、毘沙門天にお礼参りをすませるとその足で丹波路に入り、行く先先で布教につとめ歩いて名田庄に入った。そこで、挙野から秋和、更に山田、兵瀬、深野と、それまでの禅宗徒を浄土真宗へと改宗に導いて、小倉畑の現在地に小さな一宇を建立したのが前記、寛正二年と伝えられている。
 その時本尊とあがめる仏像を本寺に願い出たところ、丹波の国上林谷の雉子の峯のふもとに、後向きに阿弥陀如来が立っておられる。その仏像は、聖徳太子がおつくりになった仏様であるから早く奉持するようにとの指示を受け、この仏像をお受けして安置したという。
 丁度この頃、蓮如上人が越前の吉崎にお寺を建てて布教にあたっておられたが、時は戦国の乱世であり、上人様にも難が及ぶ事態になったため、船で吉崎を脱出し小浜の港に着かれ、小浜の蓮興寺に滞留されたのであるが、その折に当光久寺にも幾日か滞留されて、名田庄谷一円の布教にあたられたという。
 上人がはじめて小倉畑の地に来られたとき、泊られた家のおかみさんが、水桶をもって出たまま長い間帰ってこないので上人は家の人に訳をたずねると、「近くに水が出ないので遠くまで水を汲みに行った。」とこたえた。
 上人は、それは気の毒だ、と言って、外へ出て自分の杖で大地を圧すと忽ちそこから水が湧いて出たという。その場を広げて大きくしたのが今のお寺の池であり、上人へのご恩を記念してお寺のとなりに石碑を建てた、それが今も存在する。またその水を「蓮如上人杖の水」といい伝えている。
 なおまた、知見山光久寺と称する山号について伝えることは、当時この地(知見郷七村)は、知見出雲の守の守領であって、寺屋敷一帯を知見出雲守自らが、中野真次郎正覚坊に寄付されたことにより、知見山の山号を冠したものといわれる。
 更にまた、蓮如上人のお姿を画いた軸物が寺宝の一つとして掲げまつられているが、これは、永正四年(一五〇八)本願寺第九世、実如上人の直筆によって下付されたものと伝えられ、本堂に掲げ尊厳の念で護りつがれている。


『越前若狭の伝説』
光久寺 (小倉畑)
 当寺の開基正覚坊は、河内国(大阪府)石川郡の人で俗姓を中野新二郎という。初め武道にはげんだが思うようにならない。次に山城国(京都府)鞍馬(くらま)で商人となったが、これもらちがあかなかった。よって鞍馬の毘沙門天に七日間こもったところ、願の満ちる朝、帰りに一の段の所でもとゆいを拾った。なんのことかがてんがいかないので、さらに稲荷(いなり)大明神に七日こもった。こんども下向の道ではさみを拾った。これはもとゆいを切って出家せよとのおさしずであるとわかった。
 ちょうど蓮如上人の時代であるので、上人に申して弟子となり、京都で修行し、鞍馬へ下って毘沙門天にお礼参りをし、それから丹波越えにて当国へ下り、一寺を建てた。時に寛正二年(一四六一)である。
 丹波国カンバヤシ谷の雉子(きじ)の峰のふもとにうしろ向けの阿弥陀というのがあった。聖徳太子の作である。人が牛馬に乘ってこの前を通ると、牛馬が倒れ、あるいは人が落ちたりするので、うしろを向けておくのでこの名がある。これを正覚坊がもらい受けて、当寺の本尊とした。
 文明七年(一四七五)蓮如上人が吉崎から小浜へ逃げて来られたとき、当寺にも四五日滞在された。そのときわき掛けとして、正信偈(げ)二幅と御文一通を書いて下さった。それを今安置している。(光久寺寺歴)

蓮如上人 (小倉畑)
 むかし蓮如上人が小倉畑へ来て、ある家に泊った。その家のおかみさんが水おけを持って外へ出たが、長い間帰って来ない。上人が家の者にわけを尋ねると、「近くに水がないので、遠くまでくみに行かねばならず、たいへん困っている。」とのことであった。
 上人は、それは気の毒だというので、外へ出て自分のつえマ大地を押すと、水がわいて出た。その池に手を加えて大きくしたのが、今の池である。上人のご恩を記念して、お寺のとなりに石碑を立てた。それも今なお存在する。  (福井県の伝説)

 これを蓮如上人のつえの水という。(若狭の伝説)



小倉畑の小字一覧


『名田庄村誌』
小倉畑地区
 鳥坂 小毛池 久曽部口 向畠 村中 片山 大将軍 滝ノ尻 西尻崎 後谷川 口手尻 平林 上山鼻 火ノ谷 山鼻 森ノ下 秋和 上秋和 丸山 中島 本田 竹ノ下 高見 中間 西ノ上 滝ノ上 アンノサコ 火ノ谷 矢淵谷 井根谷 下野 シヲゴ 姥ノ谷 久曽部谷 宮ノ谷 登り尾

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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