岡田(おかた)
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福井県大飯郡おおい町岡田 福井県大飯郡大飯町岡田 福井県大飯郡本郷村岡田 |
岡田の概要《岡田の概要》 岡田はオカダではなく、オカタと読む、「お方」といったイントネーションである。地名の由来は、開発領主のおやかた(おかた)様が転訛したものという。本郷のすぐ南にある集落である。 岡田は古く飛鳥期に見える里名で、若狭国小丹生評のうちであった。藤原宮出土の調塩付札木簡に「丁酉年若狭国小丹生評岡田里三家人三成」と墨書したものがある(藤原宮木簡1)。丁酉年は文武天皇元年にあたり、三家人は屯倉の経営に従事したと考えられる。 西・北は山で囲まれ、東・南は開かれ日照時間が長く、当町の最良田を持つ農業地域で、兼業農家が中心。 岡田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年本郷村の大字となる。 岡田は、明治22年~現在の大字名。はじめ本郷村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北2町、戸数68、人口は男183 ・ 女190。 《岡田の人口・世帯数》 292・92 《岡田の主な社寺など》 古墳 岡田古墳群4基が存在し、そのうち若宮神社裏の1基は石室が露出している。 若宮神社 伝説の「若宮千軒」にあった若宮神社だが、今は当地に鎮座している。 『大飯町誌』 若宮神社(元無格社) 祭神 仁徳天皇 所在地 岡田字北谷丁(八の一三) 境内地 一〇五一・六平方㍍ 氏子 岡田五七戸 例祭日 四月一日 宮司 松田忠夫 主な建造物 本殿、上屋、拝所、社務所 由緒 松宮後戸(せど)が地所を提供して元若宮千軒にあった若宮権現を奉祀したと伝えられる。元応二年(一三二〇)の創建(『若州管内社寺由緒記』・棟札) [合祀社] 八幡神社 祭神 応神天皇 由緒・系統 一三二〇年以前の創建 八幡系 大将軍神社 祭神 素盞鳴尊 由緒・系統 一三三四年以前の創建 暦神信仰 [末社] 皇大神宮 祭神 天照大神 系統 伊勢系 若宮神社 字北谷丁所在。元は無格社で祭神不詳であったが、今日は仁徳天皇を祭神とし、合祀した応神天皇と、素盞鳴尊を祀る大将軍神社を加えることとなったのである。 『若州管内社寺由緒記』によると「元応二年(一三二〇)建立の由申伝え侯。神主は三塚の太夫と申伝え、則ち脇立に祝い申す由申伝え候」とある。そして、宝物の中の掛仏(最大のもの)に元応二年七月十七日の銘が録してある。 慶安五年(一六五二) の棟札にも、「それ当社は昔年元応年中此の所に飛来し給い、人民崇敬し則ち御宝殿を造営し奉り、祭祠を致すに専事怠ること無し。茲に依って威光自ら眼前に在り。今より以降二百余歳の星霜を経たり。然りと雖も慶安五壬辰八月十日風雨競い来りて、既に御宝殿破壊さる。当氏子の勢を以って再興し奉るものなり。願くは二世の所願成就せしめ給うのみ。時に慶安五龍集壬辰九月二十八日、遷宮僧高浜龍蔵院、本願施主伊藤中斉、大工渡辺吉兵衛(以下略)」とある。 元応二年は後醍醐天皇の朝の初期で、慶安五年は以降二百余歳とあるが、三百余歳の誤写ではなかろうか。なお、その他の宝物の主なものに伎楽面(口ぼそ面、鬼面)二面がある。 末社として皇大神宮が本社と同じ仮屋中にあり、合祀社として八幡神社(祭神応神天皇)大将軍神社の二社がある。同一の仮屋中に並べて祀られている。社前に杉の大木が二株あったが、一株は昭和十年(一九三五)ごろ風害を受け伐採し、残る一株は周囲二・八三㍍高さ枝下一八㍍余りで、社の古さを示している。 『大飯郡誌』 無格社若宮神社 祭神不詳外一神(合祀) 岡田字北谷丁に在り 境内二百九十二坪 信徒三百四十八人 社殿〔〕鳥居一基 〔若狭郡縣志〕 若宮権現三月朔九月七日祭之。 大正九年二月十八日左の二社を合併せり。 無格社 八幡神社祭神應神天皇 岡田 上町 同 大将軍神社同不詳 同 松ノ下 臨済宗相国寺派岡田山西安寺 集落の一番奥にある。「若州管内社寺由緒記」は永禄2年(1559)京都相国寺七八世玉諸の開基とする。寺伝では天正初年頃火災にあい、玉諸が再建したという。 「若狭国志」は「治部少輔本郷泰栄造立」と記し、また本郷泰栄墓について「在二岡田村西安寺一泰栄或作二泰茂一、初名新三郎蓋此也、嘗居二本郷達城一官治部少輔卒二西安寺鉄山道剛一、とあり、本郷氏最後の本郷泰栄供養のために再建された寺と考えられてきた。 その供養塔は五重層塔で、高さ2.25メートル、基壇石の幅1.07メートル。大飯郡唯一の層塔で、第一層塔身四面に四方仏を刻している。 『大飯町誌』 岡田山西安寺 宗派 臨済宗(相国寺派) 本尊 千手観世音菩薩 所在地 岡田字上町(三の三二) 主な建物 本堂、庫裡、土蔵、鐘楼、本堂は文政八年(一八二五)再建 境内地その他 境内九二八平方㍍、田二四七平方㍍、畑五、二一六平方㍍、山林二、六七七平方㍍ 住職 木下正堂 檀徒数 六五戸 創建年代 長享元年(一四八七) 開山 玉諸承祖禅師 寺宝 千手観音像、聖観音像、地蔵像 西安寺 岡田山西安寺は字上町の高みにある。臨済宗相国寺派に属し、本尊は千手観世音菩薩を祀る。長享元年(一四八七)開山癡絶道半禅師(『明細帳』には至道大和尚創立とある)という。『若州管内社寺由緒記』には永禄二年(一五五九)に相国寺七八代玉諸和尚が開基となったとある。 寺伝では天正の初期に火事に遭い、書類等焼失五世玉諸承祖禅師が再建したとある。『大飯郡誌』には「天正八年(一五八〇)二月に焼失天正十年に五世玉諸和尚再建」とある。また、元禄五年(一六九二)改帳には「岡田山西安寺開基玉諸和尚元亀年中示寂……」とあっていずれとも決し難い(寺伝では玉諸和尚は天正九年四月八日示寂とある)。ともかく火災によって再建されたことは事実である。 その後、寛文十一年(一六七一)一一世の的宗宜端禅師が改築、文政八年(一八二五)には一五世仁峯恵寛禅師が改築して現在に及んでいるのである。明治二十五年(一八九二)四月武田玄隆和尚が大鐘を鋳造して鐘楼堂を新築したが、太平洋戦争に供出して、現在のものは昭和五十五年(一九八〇)八月、水上六左衛門家兄妹が、同家先祖代々の霊位追善供養のため、新しく寄進したもので、大鐘は高岡市老子次右ヱ門作総浮彫の逸品である。 『若狭郡県志』西安寺の条に、「相伝う、本郷治部少輔泰栄これを建立す、寺中に一墓あり、これ則ち泰栄を葬る処なり」とある。また、同書墳墓の部には、「本郷泰栄墓、岡田村西安寺中にあり、斯寺建立の檀越にして治部少輔と称す……泰栄死して西安寺鉄山道剛と号す」とある。 また、『若狭国志』には、「本郷泰栄墓、岡田村西安寺に在り泰栄或は泰茂に作る。初名は新三郎。蓋し此ならん。嘗て本郷達城に居る……」とある、泰茂は泰栄の前代である。口碑には天正六年ごろ泰栄の菩提所とあり、それで墓所に五重の石塔を置いたと伝えている。しかし、泰栄は当地では死亡しなかったから、泰茂説が有力なように思われるが、最近発見された村松喜太夫家文書(寛永七年十二月記述)に、「本郷扶泰公之墳岡田村今ノ西安寺之寺内ニアリ」 左 家老村松氏墓 号高獄道光 本郷扶泰公墳墓 号西安寺殿鉄山道剛 右 家老荒木氏墓号寿月養晴 とあることから、昔から問題になってきた本郷泰栄の墳墓は、信富や泰茂のものではなく、一四代本郷扶泰のものである(関連記事第二編第二章第三節地頭本郷氏の歴史参照)。 姿のよい五重の塔で両側に板碑が二基添えて立ててある。丈量高さ二・二五㍍、最下台の幅一・〇七㍍、一階の各面に仏の座像が刻まれてある。背面下方と向かって左側に板碑形の碑に南無阿弥陀仏と彫ってあるのが二面添えてある。 境外仏堂四宇、松の下の阿弥陀堂(阿弥陀如来外に仁王等の破損した仏像がある)、北谷町の観音堂(公民館の一部、聖観音)、また、境内にボダイジュがあり、町指定天然記念物であったが、昭和六十二年(一九八七)枯死した。今は、その二世が芽生えている。同町因幡堂(延命地蔵菩薩)、字雁戸鼻の地蔵堂(延命地蔵菩薩、この堂を大幡山地福寺ともいう。廃寺となったのでその本尊を祀ったものか)である。阿弥陀堂には「阿弥陀の前」という岡田の古さを匂わす行事が行われている。 観音堂には元如意輪観音(円仁寺慈覚大師作と伝える仏像)を祀っていた。昔滝水梵王寺などの住民離散後寛正年中(一四六〇~六)夢想によって村民評議の上ここに移したものだと言い伝えている(『本郷中古伝説記』)。年代に錯誤があるようだが、若宮移転と幾らか相関連する伝承である。 なお、この集落には昔天台六力寺があったが、天文ごろから永禄年中までに絶え、一力寺だけ残っていたのを天正年中(一五七三~九二)に禅宗に改宗した。これが今の西安寺であるという伝説がある(『本郷中古伝説記』)。阿弥陀堂に残っている仁王像などはその名残であろうか。 『大飯郡誌』 西安寺 同(臨済宗) 相國寺派岡田字上ノ町に在り 寺地百一坪 境外所有地四反四畝十二歩 檀徒七十戸 本尊千手観音 堂宇〔〕鐘堂〔〕 由緒〔明細帳〕長享元年至道大和尚創立口碑云天王六年頃本郷治部少輔泰榮の菩提所なりと(境内墓地に其墓と傳ふる物あり墓碑條参照)同八年祝融に罹り同十年五世玉諸大和尚再建寛文十一辛亥年十一世的宗和尚建立文政八乙酉年十五世仁峰和尚建立境外堂、四箇あり阿彌陀堂、觀音堂、因幡堂、及地藏堂是なり。 〔元禄五年改帳〕 岡田山西安寺開基玉諧和尚元亀年中示寂建立諸檀那中名寄二石二斗三升年貢地也。 〔若狭郡縣志〕 「相傳本郷治兵少輔泰榮建立之寺中有一墓是則葬泰榮之處也」。 一四代本郷扶泰 『大飯町誌』 一四代本郷扶泰(すけやす)は、系図上では政泰の惣領で、光泰という弟がある。扶泰は童名を与三郎といって治部少輔に任ぜられている。ここで「源本郷氏系図」にある扶泰と、「将軍家譜」の政泰の初の名扶泰との別を、どう解したらよいか大きな問題となる。「源本郷氏系図」では政泰と扶泰は親子であり、「将軍家譜」では同一人物であることになる。 とにかく永正七年四月将軍義尹によって若狭国の本領を安堵されている。「村松喜太夫家文書」には、本郷因幡守扶泰と見え、扶泰は永正八年に金龍山長谷寺(長覚寺)の庫裏・方丈・禅堂・物門・三門・鎮守を建立して寺領五〇石を与えている。また、寛永七年(一六三〇)十二月に記した同家文書には、 「本郷扶泰公之墳岡田村今ノ西安寺之寺内ニアリ。」 左家老 村松氏墓 号高嶽道光 本郷扶泰公墳墓号西安寺殿鉄山道剛 と見える。 右家老 荒木氏墓 号寿月養晴 これによって昔から問題とされた本郷泰栄の墳墓は扶泰の墓で、『若狭郡県志』のいう「泰栄を葬る処」すなわち一六代信富のものではないことが明らかとなる。 『若狭国志』本郷信富の項に「今按里民所レ称有二本郷城主扶泰及泰栄者一其或支族乎、然以二泰栄一呼曰二治部少輔一則難レ為二支族一。」と見え、扶泰は本郷城主を継いでないようにもうかがえることから、あるいは庶子家に当たり、高田城でなく、岡田の西安寺に住し、「西安寺殿鉄山道剛」の法名を受けたのではなかろうか。墳墓は花崗岩の五重石塔で傷みがひどく文字等は判読できない。 弟光泰は、童名を新三郎と呼び大蔵少輔に任ぜられ、山田村姥ケ渓の山城を固めて、本郷兵衛頭扶種といった。山城は天文年中に落城している。 作家水上勉家も当寺の檀家で、勉クン11歳の時、当寺の住職に連れられ本寺の小僧になるため上洛したという。 私事になるが、ワタシはこのお寺にお盆になると墓参りにやってきた記憶がある。子供の頃で親に連れられて熱いさなかにバス停でパスを降りて歩いてやってきたのだろう。その当時はご住職さんが居られたが、今は無住なのか、誰か居られるような様子はない。 当地に斎藤さんが何軒かあるが、ワタシの斎藤は当地の斎藤である。おそらく江戸期ころに当地を出て小浜で家業(鍜冶屋)をやっていたそうで、当地との繋がりはもう何もない。当地の斎藤さんとはたぶん遠い昔は親類だったのだろうが、お互いに何も記憶がない。墓参りに来たことと、実際に当寺に先祖の墓があったことは間違いない。 その墓を舞鶴へひくとき、オヤジはご住職などに調べて貰ったそうだが、何も手ががりはなかったという。おそらく小浜に住みながら、先祖の地に墓を持っていたのではなかろうか。本堂裏の墓地は当時はもっと小さな墓石しかなかったが、今は立派な大きな墓石が建ち並んでいた。 若州一滴文庫 昭和60年郷土出身作家水上勉氏が私財を投じて若州一滴文庫を建設し、約2万冊の蔵書、現代画家の絵画・挿絵、竹細工師による文楽型竹人形、人形劇場が公開されている。 「若州一滴文庫」 「水上勉を歩く」 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 岡田の主な歴史記録『大飯町誌』 岡田 岡田という地名は民俗学的に考えると、岡の田で、水漬きにならない良田を意味するのだという。集落開拓の草分けなど勢力のあった者が、一番良い所を選んで所有した。 それでおかた様は岡田様にも通ずる語だという。この集落は西から北へかけて山で囲まれ東南は開けている。毎日早くから朝日を受ける日当たりのよい集落である。したがって、岡田の田んぼは日照時間が長くかんがい・排水もよく、当町はもちろん本郡中の最良田である。 集落成立の伝説 北谷という人が初めてここに住みついて、この集落の草分けとなったという言い伝えは、ここではだれ一人疑う者もいない。 そして北谷という地域には、古墳が沢山あった。現在クロカ古墳一基、岡田古墳群三基(若宮神社周辺)があって、若宮神社裏の一基は石室の規模が極めて大である。そこから一〇〇㍍くらい奥の古墳跡から出土した土器は、当町の古墳出土品中一番古い時代のものだと鑑定されている。そして北谷家とこれらの古墳とは深い関係があったように思われるのである。 その後、若宮千軒からの転住者が加わって、集落はますます発展したのであろう。若宮から移った人の一人に松宮後戸(せど)という人があった。この人が自分の屋敷の地続きの一部を提供して若宮権現(今の若宮神社で、元若宮千軒に在った)をここに奉祀したと言い伝えている。また同じく移住した赤松家がある。これは南北朝時代から戦国時代にかけての著名の豪族赤松氏の系統の人で、一浪士として若宮にいたのだという(以上三家の話は『本郷中古伝説記』による)。現在これら三家の子孫は共に岡田にあって健在である。 …ほか通称白地蔵という所の路傍に、花崗岩で作った地蔵が祀られている。その左側に、昭和十年ごろにこの少し上から下ろしたという板碑があり、扶泰の五重の塔と同じ石質と時代で、中央二行に経文(一切有爲法如夢幻泡影 一如露如電応作如是観)が彫ってある(高さ九〇センチメートル、幅三六センチメートル、厚さ一〇センチメートル)。 年号は「永禄七甲子八月□□正日功徳主敬白」とある。正面両側の添書の文は「泰読誦金剛経五千四十八巻造立 奉修□岳宗鶴記室褝修」となっている。 ここから高浜町車持へ出る坂道(車持坂)があって、峠には堂や石仏などもある。昔は通行者も相当あったが、今は全く利用されていない。 学僧 なお学僧として青松素信魯仲和尚がある。堀口助左衛門家出身である。父は堀口家五代目法巌恵実居士(天保七・二・二死亡)母は天哉智輪大姉(天保一四・一二・二一死亡)の二男で、幼少の時に出家して、苦行精進の後江戸芝の青松寺に住持となっていた。晩年に曹洞宗の管長に当選したが、不幸にも就任しないうちに入寂したという。明治二年(一八六九)五月のことである。 岡田の伝説岡田の小字一覧岡田 石畠 高坂 上町 大門町 松ノ下 仲ノ町 奥町 北谷町 宮ノ上 東町 下町 居尻 三祖 今造 雁戸 雁戸谷 大幡 下柏原 柏原 下川原 下間原 無頭 土用ノ下 前川 仲野 仲ノ尻 堤谷 谷田 下谷田 薦池 居山 黒岡 小近谷 坂ノ谷 金子谷 山ノ神 小近谷奥 黒岡奥 黒岡前 大道 四ツ汢 上川原 南川岸 間原 鷹ノ手 寺川原 下境 子尻 下川 狐塚 浮橋 下高ノ手 二反田 一丁坪 雁渡山 敷北端 乞食谷 北端 茲賀谷 高面 桧谷 栗木谷 高畠 滝ケ谷 椿 柏ノ木 咽垣 奥高坂 家戸ノ奥 阿弥陀谷 上ノ坂 下ノ坂 三本松 奥金子谷 小近谷 黒岡山 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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『大飯町誌』 その他たくさん |
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