大飯郡(おおいぐん)
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大飯郡の概要《大飯郡の概要》 古代から現在まで、現行の郡名で若狭国・福井県に属すする一番西側部分である。東は遠敷郡、南は近江国、西は丹後国に接し、北は日本海(若狭湾)に臨んでいる。 現在世界的によく知られている若狭原発銀座の西側中核部分で、当郡には大飯原発と高浜原発があり、原発銀座の中心地となっているが、ワイロに小判が使われるという世界文化の最先端地なのか最末端地なのか不思議なミックスの地である。 [縄文-古墳時代] 縄文遺跡は海岸部に分布し、大島日角浜の寺内川遺跡は前期、同吉見浜に晩期、立石・神野浦に後期の遺跡がある。弥生前期の遺跡が大島宮留・吉見浜にみられ、中期では高浜町小和田遺跡があげられる。古墳は佐分利川流域に集中して20ヵ所を数え、大島半島にも多く分布する。高浜町では各村々の山裾に点在するが、青郷地区にもっとも多い。また海岸線には4世紀末から11世紀にかけての18ヵ所の製塩遺跡が確認されている。 [古代] 『日本後紀』の時代になるが、同書は全巻が残っておらず、後の『日本紀略』にその逸文がある。 卷卅三逸文(『日本紀略』)天長二年(825)七月辛亥【十】 ○辛亥。若狭國割遠敷、建大飯郡。 天長2年7月10日に、遠敷郡の一部を割いて当郡が成立した。「和名抄」刊本郡部は「於保伊太」、「延喜式」神名帳は「オホヒ」「ヲホヒタ」と訓ずる。 「和名抄」には、大飯・佐文・木津・阿遠の4郷が属すとある。当郡成立以前の年紀を有する平城宮出土木簡には、遠敷郡内として木ツ・佐分のほか、青里がみえる。 同書刊本は遠敷郡にも佐文・木津・阿桑の3郷を載せるが、大飯郡に入れるべきものの重出であろうとされる。 「延喜式」神名帳は大飯郡7座として「青海神社・伊射奈伎神社・香山神社・静志神社・日置神社・大飯神社・佐伎治神社」をあげる。 [中世] 大飯郡が豊かな文化を持っていたことは、大島に平安期のすぐれた仏像がいくつも伝わっていることからも推定されるが文献的にはほとんど知られていない。 郡内の荘園は、文永2年11月の若狭国惣田数帳案によれば園城寺領加斗荘、九条家(のち一条家、さらに二条家)領立石荘は11世紀末までに成立した「本庄」に属しており、くから荘園化が進んでいた。そのほか鎌倉期には和田荘が知られるが、大飯郡の荘園の比率は若狭3郡のなかでも最も小さく、文永2年11月の若狭国惣田数帳案によれば、推定郡田数542町のうち荘園の田数は161町余で30%に達していない。佐分郷・本郷・青郷や別名・保・浦などの国領が大きな比重を占めたと考えられる。 平安期~鎌倉期には大飯郡と隣国丹後国加佐郡の境は明確でなく、田井浦(舞鶴市田井)は大飯郡青郷に属していたが、中世の国境が定まるとともに、田井浦は丹後国加佐郡志楽荘に「押領」されている。 建久7年6月の若狭国源平両家祗候輩交名注進状案によれば、大飯郡の土着御家人として青六郎兼長・同七郎兼綱・同九郎盛時・佐分四郎時家・木津平七則高・薗部次郎久綱・和田次郎実員らが知られる。しかし他の若狭の土着御家人と同様に、これら国御家人は鎌倉幕府から地頭に任じられることがなかった。むしろ彼らは東国御家人で地頭に任じられた者や領家の圧迫を受けており、青・木津・佐分・薗部氏あるいは同氏の子孫かと考えられる大島氏は地頭・領家によって所領を奪われている。 こうした初期の土豪にかわり、東国御家人で本郷の地頭に任じられた源朝親はやがてこの本郷を本拠地として本郷氏を称するようになる。南北朝期において遠敷郡や三方郡の土着武士のなかには幕府や守護に叛く者があったが、大飯郡の武士は幕府・守護方として行動する者が多く、応安4年の若狭国人一揆の時も本郷・青・佐分・河崎氏らは守護一色氏に従って一揆方を討っている。このうち河崎氏は一色氏の重臣となったため、永享12年の守護一色氏の改替とともに勢力を失うが本郷氏や佐分氏は鎌倉期以来の勢力を保って、守護の家臣とならず室町期には将軍直結の奉公衆となっている。これと関連して青郷・木津荘・本郷半分が幕府の料所となっており、戦国期に青郷の代官であった大草氏も奉公衆となっている。戦国期には武田氏の支配も強まり、本郷・佐分・大草氏に対抗して高浜に逸見氏、和田に粟屋氏、佐分利川上流の石山に武藤氏という武田氏配下の有力部将が配置されていた。 大飯郡は丹後国と接するため、丹後勢侵入に備えなければならず高浜の逸見氏がその任にあったが、永正14年と永禄4年にはこの逸見氏が武田氏に背くという事件が起こっており、武田氏の大飯郡支配は安定していたとはいい難い。 武田氏末期には逸見氏や本郷氏は織田信長と結び、逸見昌経は高浜城主としての地位を信長から認められている。天正9年に昌経死亡のあとには丹羽長秀組下の溝口定勝が高浜城に入り、その後天正11年に堀尾吉直が、天正15年~文禄2年には浅野長吉(長政)の代官浅野久三郎が、文禄2年~慶長5年には木下勝俊代官の木下宮内少輔が高浜城主として支配に当たっている。 戦国期には当郡を「にしかた」と称したことが、享禄4年と推定される若狭国中惣百姓触状から知られる。 〔近世〕 慶長5年京極氏、寛永11年酒井氏が入封して以来の小浜藩領。浅野時代には「京升二して」高1万9、742石余、物成1万2、603石余と伝える。 「正保郷帳」74村1万9、870石余(田1万7、160石余・畑2、710石余)で、日置村に3石余の大成寺領があり、寛文4年の領知目録でも村数・石高ともに変わらず、貞享元年領知目録、「元禄郷帳」では1万9、970石余、以後領知目録の高は変わらないが、「雲浜鑑」では1万9、870石余(田1万6、908石余・畑2、887石余、他 「天保郷帳」では新田も含めて74村2万320石余、「旧高旧領」で72村1浦(神野)2万404石余、明治2年74村1万9、970石余、ほかに改出新田218石余。組別に村を示すと、加斗組は東勢・西勢・飯盛・本所・岡津・鯉川・長井・大島の8村、本郷組が尾内・上下・市場・下園・山田・芝崎・岡田・小堀・下薗村之内犬見・犬見の10村、佐分利組が野尻・父子・万願寺・広岡・神崎・岡安・笹谷・鹿野・小車田・佐畑・石山・福谷・川関・安井・久保・三森・川上の17村、高浜組が下車持・上車持・馬居寺・和田・岩神・園部・笠原・子生・坂田・高浜・立石・畑・鐘寄・中津海・三松の15村、青郷組が日置・青・横津海・関屋・・蒜畠・六路谷・上津・今寺・高野・小和田・高屋・中山の12村、内浦組に難波江・小黒飯・神野(村)・神野(浦)・音海・上瀬・日引・宮尾・下・下鎌倉・上鎌倉・山中の12村。 村高は「正保郷帳」では、 1、000石以上1村、 500石以上11村、 100石以上42村、 100石未満20村。寛文6年寺社分を除いて家数2、762 ・ 人数1万4、917(若狭郡県志)、延宝7年1万5、055人、寛保元年1万6、629人(拾椎雑記)、文化4年家数3、286軒・寺89軒・社47所、人数1万7、063人(雲浜鑑)。明治2年3、354軒・1万6、652人(男8、292 ・ 女8、360)、出家など104、馬48・牛759 (公文録)。 [近代] 明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年「改正敦賀県区分表」で、第1大区となり、小区12・組数27・町数5・村数69・戸数2、 900、会所は和田村にあった。 同11年郡区町村編制法により郡役所が高浜に置かれたが、この頃5町71村、 3、601戸・1万7、531人、田畑宅地2、131町6反余。同22年市制町村制施行により高浜・青郷・内浦・和田・大島・佐分利・本郷・加斗の8村となり、戸数3、440。その後同41年3、645戸・1万9、695人、大正9年3、933世帯・1万8、527人。明治45年高浜が町制施行し、昭和30年青郷・内浦・和田の3村を合併。大島・佐分利・本郷の3村と加斗村の残部が昭和30年合併して大飯町となるが、加斗村の残部は小浜市に編入された。 2006年(平成18年)3月3日、 大飯郡大飯町・遠敷郡名田庄村の合併により、おおい町が大飯郡の自治体として発足した。 大飯郡の主な歴史記録『大飯郡誌』 郡名の始〔日本紀略〕 天長二年七月壬寅朔辛亥割若狭遠敷郡建大飯郡 〔拾芥抄〕大飯郡分遠敷郡置之。 郡名の訓 オホイはオホイヒの約なるべし。 〔和名類聚抄〕 大飯郡〔於保伊太〕 〔若狭舊事考〕 大飯と書で於保伊太と云ふ…大飯田…田字を截て大飯と書で口語には於保伊太と唱へるなり、然るに近世になりては於保伊とのみ呼ぶ事となりてまことの名…は國人すら…知らざる…もはら大飯の字に泥みたる俗の訛なり。 〔地名辞書〕 太は比の謬ならん高山寺本郷名大飯を於保比と訓む。 郡名の義 飯豊皇女は因めるとの説、郷名大飯田に原づぐとの説等あむり、或は昔時大炊寮領なりし故乎〔次の條参照〕 〔稚狹考〕 飯豐〔イヒトヨ〕の訓何とやら解し難し大和国飯豐の郷を多と書いておふと呼なり…飯をおたい鷹の餌をおし飯富(オフか)飯留郷飯肥いづれも(飯を)おと訓ずその上顕宗天皇の弘計〔ヲケ〕仁賢天皇を億計〔オケ〕と号す二音替れども兄弟三人御名の音使おなし事ならんにやと思はる大碓小碓も此趣相同じ昔も飯豊も飯富も大も響く所通音同じければ、後世(オフを)唱へ誤りで大飯郡とよび青の山大井川〔能因哥枕〕青葉山青の郷など轉せるにや青尊飯豊取合せて考へ見るべし、又云大飯の名は遠敷郡より分別の謂なるべき歟…飯盛小黒飯の村名も是(郡名)に據ある歟。 (若狭舊亊考) 大飯田なり其は大飯神社を大飯の鍬立神社とも云ひて…其わたりの地名となり、郷名にも著られたる郡名にもおよぼされたるなるべし。 〔地名辞書〕 名義は郷名に拠れど詳ならず、大飯神社あり又飯盛山あり山名を本とするにや一説(皇女)飯豐の御名も大飯郡に關係するやに述べたれど探り難し。 大炊郡 の文字古文書に見ゆ、大炊寮領なりし故なる可し。 〔大田文〕 大炊寮領田井保 〔中山寺文書〕 康安元年七月四日寄進状-青保…赤井溝副大炊田 (天正十五年十月二十日淺野長政布令七絛-大炊郡上下村、安井村) 按に、大飯郡の用字に復舊せしは徳川時代の初よりならむ。 郡名の私稱 戰國時代より藩制時代に渉りて西方郡の私稱行はる。 〔大昔文書〕 〔戦国時代〕にしかた 、中郡、北郡。 〔宝暦四年改国中高附〕 大飯郡世人西方トモ言。 郡域 中世略々現今の境域と定まりしものならむ、藩制時代以後は變り無きが如し。 国郡境の變更 若狭は古来割きも分ちもせられたる事史上に見えねど、國郡境は變更せしもの丶如し。 (一)隣國 上掲の二圖に據れば、初めは山城に接して丹波には接せざりしが、中比丹波に接し、次で山城には接せざることなれり、其時代は明かならざれど、信友の説にては正暦の後丹波に接し、豊臣氏の時より此國の南の一部近江に屬し、山城に接せざる事となれりとせり。 〔若狭舊事考〕 今國體を案るに延暦の後に丹波の地廣ごり丹後に食で當國に隣れるなりかくて今の境界は…山城とは相接かず其際に近江の山の畝尾入間れり、なほ地勢をも案るに其地古は當國の内なりけるを後に近江に隷られたるなるべし。 〔若狭國志補注〕 今世…山城本國ノ間ニ近江國針畑等ノ地アタり一説豊臣氏ノ時改メラレテ如此云ヘリ何レノ地マテトサシテハ云ヒ傳ハラズ 並河氏ノ五畿内志ヲ見ル二久多越舊名若狭路一ニ小川越トアリシカバ本國云傳フル處ノ一説拠ナキニアラズ久多針畑ヲ昔道トモ云傳へテ葛川ノ街道ヨリハ古キ道トキコユ東照宮ヲ蓮光寺供奉教導シ奉レルモ此道ナリ…名田ノ庄ナル久多ノ河内卜云フ處ヨリ山城本國相去戸コト二十町ニ過ギズト云ヘリ〔雍州府志〕大悲山鞍馬北六里此地始属丹波豊臣秀吉公時自斯山一里爲山城堺又山城北至若狭又山城州東北鐶近江若狭又(京)堀川…相傳源流自若狭故在洛北若狭川又若狭川在鷹峰麓源出自若狭国又高野川水出自若コレ等ノ文ヲ考フレバ久田ヨリ大悲山ヘカケテ昔ハ本國ナリシヲ豊臣氏改革シ玉フヨシ古老ノ説アリナホ考フベシ 〔国花萬葉集〕ニモ高野川…水源若狭ヨリ流出し宗祗ノ著卜云ノ〔諸国名所記〕ニモ若狭国…鞍馬山マタ加茂ヨり長坂小野ト云フマデ若狭國ナリ (二)国境 も亦變更の迹あり、丹後國加佐郡の一部田井浦より南一帯の地大飯郡に属したるに、鎌倉時代諸所の押領行はれし頃、先づ田井の浦彼同志樂庄に抑領せられし事〔大田文〕の書入に見え、松尾観音堂附近も亦本郡に属しなるに、近世遂に彼國に属せしもの丶如し。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 その他たくさん |
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