大島(おおしま)
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福井県大飯郡おおい町大島 福井県大飯郡大飯町大島 福井県大飯郡佐分利村大島 |
大島の概要《大島の概要》 大島は若狭湾に突出した陸繋島で、小浜湾を抱く西側の半島である。平坦地は少なく半島先側の小浜湾側に、西から浦底・西村・河村・日角浜・畑村・脇今安・宮留区の集落があり、景勝地も多い。大飯原発が立地することで知られるが、誰も住んでいなかった土地ではなく、当地の歴史は若狭でも最も古く、遺跡や文化財がビッシリである。 古代信仰の原形とされるニソの杜と呼ばれる森が30か所余ある。このニソとは御祖であろうかとされる、現在も毎年旧暦11月22日の夜縁者が集いニソ講を結ぶ。3日間の物忌ののち、ニソ田によって得た収穫物を集めて、主人と家族が杜の前で供物を供えて祭を行い、翌日に直会の式をするという。 地内宮留には神田古墳群として15基、脇今安にはヒガンジョ古墳群として16基の古墳があり、考古遺跡として縄文前期の寺内川遺跡のほか宮留遺跡・浜禰遺跡・吉見浜遺跡などの製塩遺跡がある。6点の国重文(仏像)ほか多くの仏像が文化財に指定されれている。 古代は、「和名抄」遠敷郡志麻郷の郷域内にあり、天平19年(747)の大安寺伽藍縁起并流記資財帳に「若狭国乎入郡嶋山佰町、四至、四面海、(中略)右、飛鳥浄御原宮御宇天皇歳次二癸酉一納賜者」とあり、当大島をさすものと考えられている。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に「志万郷」がみえ、「領主御家人和久里兵衛大夫跡同又三郎伝領之也」とある。 中世は、大島荘で、室町期に見える荘園名。若狭国大飯郡のうち。「醍醐枝葉抄」に摂津国金竜寺縁起が載せられていて、その中に「若狭ノ加斗加納大島荘ハ彼門主(円満院門主、仁悟法親王か)ノ御母儀別相伝ノ地也」とある。 近世の大島村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。小名として東村・畑・宮留・河村・脇・中村・今安・西村・浦底・日角浜。寺院は真言宗宝楽寺・長楽寺、禅宗海岩庵・境林庵・禅源庵・東源庵・清雲庵・常禅庵の8か寺、神社は六所大明神・天神・八幡宮などが書き上げられている。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年市制町村制施行による大島村となる。 近代の大島村は、明治22年~昭和30年の大飯郡の自治体名。大字は編成せず。村名は、古代以来の郷名に由来する。役場を西村の長楽寺内に設置。地内の大半は漁業に従事していた。同30年大飯町の大字となる。 大島は、昭和30年~現在の大飯町の大字名。もとは大島村域。 《大島の人口・世帯数》 719・256 《大島の主な社寺など》 遺蹟など 「大島の考古遺跡」 島山神社 集落のなかほど、漁協関係の建物が建っているところに鎮座する。古い社叢の中にある。参道を通り抜けると大島小学校や長楽寺がある。六社というのは総社のような社で東西南北天地の神々をここに集めて祀ったものと思われる。大島の総氏神で、このあたりに政治的な中心があったものか。 『大飯町誌』 島山神社(旧社号・六所(社)大明神・元村社) 祭神 天照大神、天児屋根神、応神天皇、伊弉冉尊、住吉大神、若狭彦姫神 所在地 大島字宮(八三の一) 境内地その他 三、八七〇・九平方㍍ 氏子 大島一六五戸 例祭日 十月二十日 宮司 赤坂 寿 主な建造物 本殿、拝所、摂社社殿、舞台、神饌所、社務所 特殊神事 七新祭、王の舞、神事踊り、神事能 由緒・系統 賢海文書に延暦年中(七八二~八〇六)の創建とある。『若狭国神名帳』記載の九四四年以前の古社 祭神は、前から順に伊勢系、春日系、八幡系、熊野系、海神信仰、一の宮系である。 〔合祀社〕 八幡宮(旧社号・宮留八幡宮) 祭神 応神天皇 元地 大島字宮留 由緒・系統 『扶桑略記』に延喜十九年(九一九)若狭守藤原尹衡(ただつぐ)が大島宮留(赤礁島)に八幡宮を勧請したとある。 「賢海文書」には用明天皇の御宇(五八六~八)の創建とある。明治四十四年島山神社に合祀 八幡系 〔末社〕 恵美須神社 祭神 事代主命、大国主命 由緒・系統 七八二年以降の勧請 恵毘須系 稲荷神社 祭神 倉稲魂命、大田命、大宮姫命 由緒・系統 七八二年以降の勧請 稲荷系 余永神社 祭神 神座二十四座に分かれて各々に神霊がある。ニソの杜の総本社と考えられる。 所在地 元赤礁島から不老の渓に移り島山神社境内に移る。 由緒・系統 以上三社は『長楽寺年中行事記』に聖徳太子のころ、七八二年以降勧請とある。祖神信仰) 島山神社 永享十一年(一四三九)の長楽寺賢海文書によると、島山神社は桓武天皇の御宇(七八一~八〇六)創建とし、宮留八幡宮は用明天皇の御宇(五八六~七)創建としていて、宮留八幡宮の方が古い。延喜十九年(九一九)若狭守藤原尹衡大島八幡宮創建説もあるが、これは誤伝と思われる(賢海文書、今は所在不明)。 延宝五年(一六七七)の「慶松山長楽寺西光院縁起」に、「……就中桓武天皇勅して鎮守六所神を置き玉ふ。所謂天照太神宮、熊野大権現、春日大明神、住吉大明神、八幡大菩薩、上下大明神是れなり。祭祀毎歳七新の民をして今に至る迄これを受けしむ……」とある。 「七新の饗祀」については、文久二年(一八六二)長楽寺住職諦真によって書かれた『長楽寺年中行事記』に、「元旦辰の刻の鐘が鳴ると、社僧が社殿に出勤する。祝子、清水、大屋、忠太夫の四家の巫覡が膳夫となって、布衣を着して献備の品物を外陣で調える。白木の膳の中に熊笹をしく、緑の竹を細く割って節を削り曲げて藁でくくる。之れに若和布、鏡餅一重、小魚を盛る。三膳ずつ七社分である。予め離の方の扉を開いて翠簾をかかげ、外陣から禰宜が膳部を捧げ、社僧が之をうけて内内陣に入り、中央から順次之を献ずか。散米二升麹を水で一夜醸したもの(一夜の甘醴(ざけ))、樽酒二升、この三品は神壇のあたりに献ずる。それから身を正して御本地供を修する。次で巫女が鈴を振って踏舞する……」とあり、また、「桓武天皇六社を鎮守して宝祚を万世に祈り玉う。其証果して斯に在るが、世遷り事異り、天変地蘗(げつ)に遭い、乱賊の回禄に罹り、千有余歳の星霜を経たりと雖も、神徳儼然として誠に在すが如し。信ずべし仰ぐべし。七新の饗祀今以て輟(や)まず、世を歴て弥々光らん」とあって、祭りの由来と順序について詳しく述べられている(天満宮は長楽寺の境内の鎮守であって、今は神社としては公認されていないが、明治以前は社僧の関係であろうか、相当重く取り扱われ、社殿建立については藩主から後援も受けていた)。 次に天元元年(九七八)宍人(ししど)氏影平が島山神社をはじめ大島の神祠仏閣を再興したということが「長楽寺縁起」及び『大日本地名辞典』に載っている。宍人氏がどんな地位の人か。大島との関係などは分からないが、これより二〇四年前の宝亀五年(七七四)四月に従五位宍人継磨という大が若狭守となっていることが『続日本紀』に出ているから、この人の子孫ではなかろうかと思う。 大島の社寺のすべてを再興するからには、相当な地位の人でありかつ大島と深い関係があったはずである。それからまた一八〇余年後の永万元年(一二六五)に再興(『若州管内社寺由緒記』による)したのであるが、このときはだれがしたのか詳記がない。慶松山長楽寺西光院縁起によれば(原文略)、四〇年間は兵乱で荒らされ、後源氏の世となったが六〇年間は顧みられなかったとある。 文永十一年(一二七四)浦人や客人が力を合わせて神社仏閣を修理して、元の有様に復した。その建物の数は一一ヵ所であった。これらは神社の棟札に記録されて後世に伝えられた。南北朝時代は乱世で道義が乱れていたけれど、このとき若狭の守護職となった相模守細川清氏は神社・寺院を復興してそれぞれに寄進をした。その寄進状がわずかではあるが残っている。 その後七〇年、永享元年(一四二九)に三方若狭守惟宗範次が大島の社寺を修補し山林寺領を寄附し、小浜明王院の賢海和尚を長楽寺の住職とし六所神社(島山神社の別号)の別当ともした。このことは六所神社の棟札に記録してあったという。長楽寺だけは再建されたけれど、天満宮、弁才天社、赤礁の影長(よなが)神社、八幡宮は修繕であった(「賢海文書」に詳しい)。このとき以来長楽寺が大島の神社仏閣を皆支配する例になったのである。それからまた一〇〇余年間は社寺に浮沈はあったが、細々ながら命脈は続いていた。 ところが天文十五年(一五四六)賊兵が大島を襲い、財物をかすめ、寺院等に火をつけた。そのため長楽寺は丸焼けとなり、縁起、宝物、綸旨、御教書、僧の私物までことごとく焼失したのであった。別当寺が焼かれて書類・什物がなくなったが、古記によるとあるから、どこかに多少の古記録はあったらしい。 天文の末に越中から栄雅法師が来て、浦人とともに草の庵を建てて社寺の再興を期していた。ところが太閤検地で寺社領が没収されてたちまち窮地に陥った。そのため、みじめな有様で四十余年間を空費せねばならなかった。 承応元年(一六五二)に僧栄住が長楽寺の住職となってまた社寺の再興を志して奔走すること十数年、寛文四年(一六六四)に初めて藩主酒井忠直の命によって、酒井忠末が大島の島山神社をはじめ各社寺(阿弥陀堂と天満宮を除く)を再興したのである。その後安政六年(一八五九)に現社殿が、文久元年(一八六一)に天満宮が建てられて今日に至ったのである。 『郷土誌大飯』 余永神社 大島の島山神社の摂社に余永(よなが)神社という社がある。元は赤礁島にあって影長神社(永享十一年正月十五日賢海文書)と書記した。その後長楽寺の近くの不老(ふろ)の渓影長屋敷に移り、更に島山神社の境内に移った(年代不明)。御祭神は明記したものはないが、伝うるところでは大島の二十四名(みょう)の各々の始祖を祀ったもので、島民はこの社が氏神で、島山神社は産土の神だともいっている。従っておのおのの名(みょう)にある「ニソの杜」の祖神を集合した社と考えられる。むかし大島に二十四の開拓区があって、その各々が草分の神を祀った森が「ニソの杜」で、今日は三十箇所にふえているが(それは永年の間に地神、山神、荒神などという森がまぎれ込んできたものであろう)。その惣社が余永神社であるとして御神座が二十四坐に分れ。、各々に神霊が祀られている。こうした特殊な神社であるため、摂社としてあがめ、民俗研究家によく知られることとなったのである。お祭りを担当する株がある。後壁屋(加部家)と糀屋(糀谷家)の二旧家がそれである。神田二ヵ所を夫々耕作してお祭りの調物一切をそれで賄うのである。祭日は霜月の午の日(二度あれは初の午、三度あれは中の午)であったが今は二十二~三日になっている。 『大飯郡誌』 村社 島山神社 創立年代詳ならず。 祭神 伊勢皇大神宮の、天照大御神。大和の春日神社の天ノ兒屋根命。山城の男山の春田天皇。熊野神社は紀伊ならば伊邪那美神。出雲ならば神速進雄神。(両柱神何れを判明し難ければ疑を残して)攝津の住吉神社の表筒筒男命、底筒男命。若狭の若狭彦姫神社の彦火火出見尊豊玉姫尊元當村宮富に奉祀せし八幡宮の應神天皇仲哀天皇神功皇后。但八幡宮を合祀せしは明治四十四年六月一日にして官制に據りてなり。 神社の位置は日角濱と畑の中間なる字宮に在り 社地千百七十三坪 氏子百三十二戸 社殿〔〕拝殿〔〕神樂殿〔〕神樂所〔〕 鳥居二基〔〕(神社の名称) 島山神社は島山明神と称へ奉りて村民に今尚明神樣と尊称し居れり中古六所大明神又は六社大明神とも称へ奉りしを明治四十四年十月舊称に復し島山明神と改称し奉る。 (六所名神社) 大島村の中東村に在り六所とは所謂伊勢、石清水、春日、熊野、住吉、遠敷等にて産神と爲すなり九月中旬神事の能(能舞のこと)あり當社の勧請何れの事なるを詳にせず嘗て此の邉の領主三方若狭守範次之を再興し社殿を營み永享二年十二月三日遷宮あり小濱妙玉院の権大僧都賢海なゐものをして別當職と爲し兼て長樂寺の事を知せしむ範次姓は惟宗未だ其の出自を知らず(若狭郡縣誌原漢文)。 (若狭國神社私考) 正五位島山明神此の社は大島村の内東村と云處に坐し大島の明神又六所大明神とも稱ふ是なるべし云々 又此神社は舊に間所の大山といふ山の麓にありしを今の所に遷しなりと里人云へり云々゛ 考證二(若狭國神社調帳) 「島山明神は大島東村に在り今六所明神と稱す祭神は神明宮、熊野、春日、住吉、八幡宮、遠敷明神、祭日は九月十九日廿日末社五座とあり。 〔合祀せる八幡宮 若狭志に「八幡宮祠は大島宮富の邑に在り延喜十九年冬十一月渤海國の使若狭丹生浦に到る時若狭守藤原尹衡勧請」(藤原尹衡を奏することは扶桑略記にも見ゆ)とあり永享十一年正月十五日長樂寺住職賢海の書寫せる古文書に八幡宮者用明天皇御宇ノ勧請又三方若狭守修覆せらるゝ由記せり。 (祭紳) 應神天皇仲哀天皇神功皇后。 長樂寺年中行事に當社八幡宮丁後醍醐天皇末當国刺史細川相棒守清氏有志願而所再建之神社也其寄進状に曰く。 奉寄進大島八幡宮 若狭図税所今富内 弔問在之 別紙 右爲天下太平仏法興隆王法再建武運長久家門繁奉寄進如件。 文和四年九月廿一日 相模守源朝臣花押 原文尚在 若狭郡縣志に八幡社は同村の内宮富に在り九月十日祭有り細川清氏若狭國守護職の時たり社領を寄す其の證状に曰くとして前記の寄進状を舉げたり・又同郡縣志に曰く義幸有所與之状義幸有清氏之家臣乎其状曰く。 大島八幡宮寄進状一通遣之以入船馬足料毎年參貫文爲小濱刀禰沙汰可取進之状如件。 文和四年十月九日 右術門尉義幸花押 (島山神社再建寺) 天元元年戊寅宍人影甼再建それより百八十七年を歴て永萬元年乙丙の歳再建亦二百六十四年を經て正長二年巳酉歳三方若狭守範次位營亦二百三十六年を歴て寛文四年甲辰當國の大守酒井忠直公は忠末公に課して造營せしむ安政四年丁巳歳先規に任せ再造を願ひ時體に応じて領内 大飯遠敷三方敦賀 四郡三筒年間家別勧化を免許(酒井家より四郡の各庄屋へ申し附))され又浦人の別寄附か合せて結構造營 此の一項に長樂寺年中行事に據る (境内末社) 四社あり。 一 餘永神社 祭神 不詳(口碑志摩の宗家二十四家の祖神を祀るといふ) 二 恵美須神社 祭神 蛭子命 三 稲荷神社 祭神 倉稲魂命 四 巌島神社 祭神 市杵島姫命 臨済宗相国寺派如意山清雲寺 『大飯町誌』 如意山清雲寺 宗派 臨済宗(相国寺派) 本尊 阿弥陀如来 所在地 大島字(一二三の一三) 主な建物 本堂、庫裡、毘沙門堂、本堂は大正十三年(一九二四)末建築 境内地その他 境内九四二平方㍍、田四、〇三八平方㍍、畑二、九六八平方㍍、山林一一、○○八平方㍍、その他九二五平方㍍ 住職(兼務)角野永宗 檀徒数 一五戸 創建年代 永長元年(一〇九六)、転禅は永正十年(一五一三) 開山 自耕善公和尚 寺宝 毘沙門天立像、善膩師童子立像、吉祥天立像(重文) 清雲寺 如意山清雲寺は西村第一二三号一三番地通称浦底といっている所にある。臨済宗相国寺派に所属する寺で、本尊は阿弥陀如来である。創建は永長元年(一〇九六)とも同年間とも伝えている。開山は自耕善光和尚で当時天台宗であったという。永正十年(一五一三)に春江永公和尚が入寺して中興し、臨済宗相国派に転宗した。『若州管内社寺由緒記』によると、大永元年(一五二一)と大正十三年(一九二四)七月に類焼、同十二月大典玄碩和尚が再建して今日に至っている。 境内に毘沙門堂がある。本尊は毘沙門天、脇仏は吉祥天、善膩師 童子である。安阿弥快慶の作と伝えられており、昭和十六年(一九 四一)十一月国宝に指定され、現在は国の重要文化財、棟札の裏書きに、「夫当寺毘沙門天は昔後鳥羽院の時に、安阿弥此尊像並に脇士とも刻彫し、三間四面の堂場を建立し、本尊を移し奉る。其後歳月を送る事幾く、有時は堂舎すたれ有時は堂舎おこり、栄枯地を替る事手をかえすがごとし、文禄年中(一五九二~六)寺院堂閣回禄すといえども、本尊脇立共に林樹の間にうつり給う。爰に平氏草庵を結びて暫く雨露のかげを成し奉る。後又寛永年中(一六二四~四四)小堂を再興致すといえども、天和第二(一六八二)晩冬下旬に大雪上につもり、棟木を折って地におとし、板を破って風を通し、本尊脇立共雪霜の思と成る時に、沙門某大望有るといえども微力かないがたし、爰に少施衆力を求めて小堂を再興するものなり。後代のために裏書して焉を識す時に天和第三癸亥歳三月吉日、本願如意輪山栖雲寺吉祥院哲首坐同浦谷平氏敬白」とある。 『大飯郡誌』 清雲寺は浦底に在り臨済宗相同寺派なり。 本尊は彌陀(観音 地蔵)創立は永長元年にして開山は自耕善光和尚中興は春江永公和尚なり同寺過去帳による 境内二百八十五坪()庫裏兼方丈一棟〔〕境内に毘沙門堂一宇あり本尊は毘沙門尊天 脇佛は(吉祥天女 禅尼子童子)にて後鳥羽院の御世安阿彌の作なりとあり。 (棟札の裏書) 夫當時毘沙門天は昔于後鳥羽院時に安阿彌此尊像並脇士とも刻彫し三門(間か)四面の堂場を建立し本尊を移し奉る其後歳月を送る事幾く有時は堂舎すたれ有時は堂舎をこり榮枯地を替ろ事手をかへすがごとし文祿年中寺院堂閣囘祿すといへども本尊脇子共に林樹の間にうつり給ふ爰に平民草庵を結びて暫く雨露のかけを成奉る後又寛永年中小堂再興致すといへども天和第二晩冬下旬に大雲上につもり棟木をおつて地におとし板か破て風を通し本尊脇立共雲霜の思と成時に沙門某大望有といへども微力かないがたし爰に少施衆力を求め小堂再興するものなり後代のために裏書識焉 于時天和第三癸巳歳三月吉日 本願如意輪山栖雲寺吉祥院 哲首座 同 浦谷平氏敬白。 大島の寺院はどこもスゴイ、重文の仏像がゴロゴロある。当寺には3体もあり、こうした宝物庫に収納されている。ちょっとみせてくれ、というわけにもいかない、せめて写真くらいは貼っておいてくれぬものだろうか。 こうした気の利かぬ案内でなく、写真をつけて案内してもらえればありがたい。 大島円山城 当寺の境内にある案内板。とても同じ町教委、町文化財保護委員会製とは思えぬ出来のいいものである。 当寺の向いの山が大島円山城である。 大島円山城跡(正面の山頂) 海抜135.3mの山頂に築かれ、南北に200m、最大輻60mを測る。永正年中(1504~1521)に山城国久世郡より逸見貞長がこの地に入り、円山に城郭を築き、その後高浜に移ったと伝えられている。 大水7年(1527) 、 丹後の海賊衆が若狭湾沿岸の集落を襲撃するなど、海にかかわる攻防戦はしばしば起こったとみられ、大島半島もその影響を受けている。本城の西側は若狭湾に面し、和田・高浜を一望にし、遠くは丹後半鳥まで望見でき、対丹後海賊衆の見張所としては最適の場所で、若狭の西辺を守る逸見氏が円山に城を築き一族を配して、小浜湾の繋ぎの城としたものと考えられる。 ニソの杜 宝物庫の奥の山裾に何かホコラのようなものがある、ニソの杜だそう。小さいホコラがそれである。 案内板が立っている。 国選択無形民俗文化財 名称 大島半島のニソの杜の習俗 ニソの杜は森神信仰の聖地であり、大島半島全域に三十二ヵ所ある。大島では「モリさん」「ニンソー」と呼ばれている。 霜月二十二・二十三日の祭日以外は決して近づいてはならない禁足地とされ、タモや椎の巨木、椿・ヤブニッケイなどの照葉樹が生い茂り、神さびた社叢を形成する。神木の下に小祠が安置されているものが多いが、照葉樹林だけの原初的な形をとどめているものもある。大島の二十四名(苗)の島の開拓先祖を祀るとされ、古墳や墓地に隣接する杜も多い。 毎年、ニソ講・モリ講などと呼ばれる霜月祭が行われ、神田のニソ田から収穫した新米の小豆飯やタガネ(粢)を藁づとにのせて杜の神に供え、豊作を感謝する。杜の一角にカラス口と呼ばれる烏勧請の場をもつものもあり、烏が御供を食べると「オトがあがった」といい安心する。「オト」とは「お当」であり、当屋輪番制の名残であろう。小祠の中には「奉勧請大聖権現」「大上宮」と記した神札があり、若狭に普遍的に点在するダイジョコ(大将軍)信仰の波及が認められる。 『日本民俗大辞典』より引用 平成二十二年三月十一日指定 おおい町教育委員会 おおい町文化財保護委員会 『郷土誌大飯』 にそ講祭 大島の諸所ににその杜という森が三十ケ所あまりもある(浦底の杜、博士谷の杜、瓜生(うりよ)の杜、西口の杜、中口の杜、さぐちの杜、脇城の杜、だいじくの杜、一の谷の杜、窪の壮、清水(すす)の前の杜、はぜの杜、おんじょうの杜、日角浜(ひつはま)の杜、大谷の杜、畑村の杜、またの杜、今安(います)の杜、おたけの壮、脇村の杜、井上の杜(二)、上野の杜(二)、浜上の杜、新保の杜(二)、神田の杜、つかねの杜、大坪の小森、山の神の杜(四) そう大きな森ではないが、自生林で昔は一切斧を入れないことにしていた(近頃は伐採するものも出来てくる傾向にある)。小祠様のものを祀っている所もある。 云伝えに依ると、この大島に元二十四の名(開拓区)があって夫々の草分けがだんだん分れて今日の大島に発展したのであり、その各々の草分けを杞った処が此のにその杜であるという……一説 新谷満蔵家にある古文書(長楽寺縁起)にも「…御一代の御帝……当地に御座なされ、其時御慰の為廿四名(みょう)の百姓等に庄官位を御許し遊ばされ、此島の御物成大形寺社領に下し置かれ、御内裡へは御年貢を紙袋にて指上げ申候由云伝……」とある。この文書は二九四年前のもので廿四名説が既にその頃伝えられていたことが分る。 この森が二十四でなくて三十ヶ所にもふえているわけは、其の後に入植した草分けとか、大将軍の杜、山の神の森と云うような異質のものが混入して同様に取扱われるようになった為であろうと思う。 この各々の杜に祀る草分けを先祖とする家々又縁故者が集ってにそ講を結び、にそ田の収穫を経費として毎年旧暦の霜月廿二日夜、三日間の物忌の上、主人と家族の人が既定の古風なお供物(小豆入強飯と白絣…タガネ……)を供えて杜の前でお祭りをし、翌二十三日にお直会の式をするのである。之は正しく我国の古俗で、一地区にこれだけ多く其風を守り続けているのは珍らしいと、近時民俗研究者の間では有名な問題となっているのである。 併しこれと同様又は似通った風は当町の内にも、各所で認められ(犬見森本家の地の神その他数ヶ所、小堀や本郷の大じょこ森、岡田の大将軍神社元地、万願寺大神宮森二ヶ所、川上の地の神(し゜のしさん)十数ケ所)その中には、同じく霜月十三日頃に同一族によって祀られているものがある。大島のように講まで組織はされていないけれども、同一類型に属するものであろうとの一説も表われている。にその杜については「若狭の民俗」に直江広治(東京教育大教授)福田アジオ(掛川東高校教諭)その他諸氏の調査報告が出ているからそれ等を参照されたい。 臨済宗相国寺派潮音山常禅寺 『大飯町誌』 潮音山常禅寺 宗派 臨済宗(相国寺派) 本尊 観世音菩薩 所在地 大島字(一一四の一一) 主な建物 本堂、庫裡、観音堂、不動堂、本堂は昭和五十四年(一九七九)改築、収蔵庫は六十二年(一九八七)新設 境内地その他 境内七〇四平方㍍、田二、七〇四平方㍍、山林一一、〇七四平方㍍、畑三七〇平方㍍ 住職 角野永宗 檀徒数 二二戸 創建年代 不詳 転禅は延文元年(一三五六) 開基 無極志玄禅師 開山 勧請開山、岳陽玄卓和尚 寺宝 不動明王坐像(元腰倉山に安置のもの)(重文) 常禅寺 相国寺派臨済宗で潮音山常禅寺と号し西村一一四号一番地にある。本尊は観世音菩薩、観音堂は別棟になっている。中興改宗の開基は無極志玄禅師、観請関山岳陽玄卓和尚創建不詳であるが、岳陽玄卓和尚は永禄元年(一五五八)十一月示寂だからそのころと思われる。 元は天台宗であったが、延文年中(一三五六~六一)に第二世義英古伯禅師(応永十七年(一四一〇)十月示寂)が入寺して臨済宗相国寺派末寺となった。中興改宗開基無極志玄禅師は延文四年四月示寂とあるから、延文の改宗は確かであろうが、義英古伯禅師の示寂と少し時代が違いすぎている。若いころに入寺したのであろう。 安政三年(一八五六)春荘祖譲和尚のときに現在の本堂を再建した。観音堂の聖観音は、元添浦に安置してあったのを享保元年(一七六一)当境内に移転した、と『大飯郡誌』は録している。これによると添浦の集落は享保を離れること遠がらぬころに離散したものであろう。 境外仏堂として腰倉山に不動堂があった。昭和四十年(一九六五)九月の台風で山津波が発生し、堂が危険となったので、同四十二年十一月境内へ移転再建した。本尊は不動明王で、大正十年(一九二一)四月三十日当時の国宝に編入された(現在国の重要文化財)。「腰倉山不動寺由来略縁起」(寛政二年(一七九〇)住職周禅作)と「不動堂由緒」がある。 「略縁起」の抜粋、「抑当山開基の歳号仁寿二壬申年(八五二)、当寺へ適々智証大師御来光遊ばされ、此大山の景台を御上覧成させられ、暫く御逗留にて此の御山の名を改め輿車(こしくら)山と名づけて、一宇を御造営遊ばせられ候。則ち不動明王の御尊像を彫刻し、後光火煙、台座は七重の枕座、大仏の座像なり。脇立金加羅勢高作物に御座候……」。「不動堂由緒」には、輿車は輿信とも書くと註があり、脇仏も本尊と同作とし、「此の山は長享二年(一四八八)六月拝領、正保元年(一六四四)酒井公中興せられ、延宝五年(一六七七)九月青山一学秀明公鰐口を寄付せられ天明八年(一七八八)酒井備後守堂宇を造営せらる」とある。 『若狭郡県志』には、「……伝え言う昔高雄山の僧此の像を奪い取り神護寺に置く。然るに祟を為し且つ警告ある故に幾ばくもなくして復此所に安置す、始此像所持の剣小鍛冶宗近の真剣なり。中世奥の院権現社の下に埋むと云い伝う。今は木剣を造りて之を持せしむ、現今の堂宇は酒井備後守忠朝公の造営する所なり」としている。 『大飯郡誌』 (常禪寺) 相国寺派臨済宗 堂宇〔〕 境内二百十二坪 所在地は西村 境内に二間に三間の観音堂あり 聖觸音大士分安置す此の聖観音の尊像は古は添浦に安置せしが享保元年(紀元二三七六年)に當境内に移轉す。 (境外仏堂) 不動堂は今は常禪寺の支院となれり梁に間桁三間 本尊 不動明王座像 脇仏四天王像。 不動堂由緒 (縁起) に依るに昔時三井寺の開祖智證大師適々此地に來りて逗留し大山を望み此の山を輿車山(今は腰信とも書す)と命名し一宇造営し不動明王の木像を彫刻して之を安置す木像の後光火炎台座は七重の座像なり脇仏も同作なり此の山は長享二年六月(或は正保二年頃かとの説あり)(紀元二千百四十八年)拝領正保元年酒井公中興せられ延寳玉年九月青山一學秀明公鰐口か寄附せられ天明八年酒井備後守堂宇を造營せらる。 (若狭郡縣志) 腰倉山不動堂は大島村に在り傳へ言ふ昔高雄山の僧此の像を奪ひ取り神護寺に置く然るに祟を爲し且つ警告がある故に幾はくもなくして復此所に安置す始此像所持の劍小鍛冶宗近の真劍なり中世奥の院権現社の下に埋むと言ひ傅ふ今は木劍を造りて之を持せしむ現今の堂宇は酒井備後守忠朝公(忠勝の男)の造營する所なりとあり。 (腰倉山不動寺由来略縁記)(寛政二年住職周禅作)柳當山開基の歳號仁壽二(壬申)年當寺へ適々智證大師御來光被爲遊此人山の景臺を御上覽被爲 成暫く御逗留にて、此御山の名を改め與車山と名づけて一宇を御造營被爲遊候則不動明王の御尊像を彫刻し、後光火煙、台坐は七重の枕坐大仏の坐像なり。則脇立金加羅勢高作物に御座候(下略) (常禪紳過去帳) 當山開山岳陽元卓大和尚(永禄元年十一月)中興改宗開基無極志玄大和尚(延文四年四月)第二世義英古泊大和尚(応永十七年十月)第十五世春荘祖譲大和尚(明治四十三年舊二三月) (元禄五年改帳) 大島四村常禅庵開基岳陽元卓大和尚延徳年中示寂。 大正十年四月三十日文部省第三五三號を以て不動堂の木造不動明王坐像壹躯は國賓に編入せらる。 真言宗谿長山尊覚院宝楽寺 宝楽寺観音堂、左の樹は「くろがねもち」(町天然記念物)日本海側での自生の北限とされる。 『大飯町誌』 谿長山尊覚院宝楽寺 宗派 真言宗(高野山末) 本尊 阿弥陀如来 所在地 大島字(九四の四五) 主な建物 本堂、観音堂、本堂は昭和四十年(一九六五)改築 境内地その他 境内一、一七六平方㍍、山林一九、八一七平方㍍ 住職(兼務)杉本隆演 檀徒数 八戸 創建年代 七一五~(行基説)弘仁十年(八一九)(伝教説) 開基 伝教大師説、行基説 寺宝 聖観音立像 宝楽寺 法楽寺とも書き河村にある。山号は谿長山(また渓長山)院号は尊覚院真言宗(口碑では天台から改宗という)、本尊は阿弥陀如来元正天皇御宇創建行基尊像を刻むという(「明細帳」には弘仁十年(八一九)伝教大師創立とある)。 境内に一段高く観音堂がある。昭和二十八年(一九五三)の台風で堂が破壊されたが、その後再建した。本尊は聖観音の立像で、行基または湛慶の作と伝えられたが、昭和五十七年盗難に遭い、その後写真を基に京都仏師により複製安置されている。この前にクロガネモチの大木がある。この地がこの木の北限となっている。寺の庭に紅梅の老木がある。伝えて菅公手植えの飛梅と称している。 『若州管内社寺由緒記』には、「……天神帰参の時、当所吉見と申す処へ御上り(上陸の意)、則ち当寺に御腰かけさせられ、梅を御指置き、夫より飛梅と申伝え候梅の木御座候……」と延宝三年(一六七五)に書いている。『縁起』には、「村上天皇の御宇天暦二年(九四八)梅樹あり一夜の中に飛び来り当寺境内に生繁れり、因て人これを呼で飛梅と称せり、想に夫れ菅相亟大宰府に坐せし日、常に観音を尊崇し給ふ。因て薨去の後、観世音寺を建立せり、されば当寺本尊霊瑞を感じ給うて飛梅の奇瑞有し者か……」とある。 『大飯郡誌』 (寶樂寺 法楽寺とも云ふ) 河村に在り 宗旨は真言宗(口碑に依れば創めは天台宗なりしが改宗したりたりと) 本尊に阿彌陀如来建物壹棟〔〕 草葺 境内坪數三百五十七坪(民有地第一種)境外所有地田一ヶ所畑五ヶ所山二ヶ所墓地一ケ所 境内に觀音堂あり三間半に三間半の建物なり此の本尊の観音像は行基菩薩の自作なりと云ひ傳ふ檀徒五十人内外。 (由緒) 若狭郡縣志に法樂寺は河村に在り眞言宗なり山を溪長と號し院か尊覺と名づく觀昔像を安んじて本尊と爲す寺庭に老梅あり傳言ふ嘗て菅丞相斯の地に偶し第宅庭上に栽うる所なりと筑紫の大宰府の梅と同種なれば飛梅と云ふなと言ひ傳ふ。當時縁起に夫當山は人皇四十四代元正天皇の御宇(中略)行基菩薩自ら聚觀音の尊像を刻み給ふ茲に村民心を同ふし力を合せて堂宇を建立して安置し奉なりとあり社寺明細帳には弘仁十年傳教大師の創立也と記せり境内に鎭守あり天満宮を祭ると言ひ傳ふ。 臨済宗相国寺派龍宝山東源寺 『大飯町誌』 龍宝山東源寺 宗派 臨済宗(相国寺派) 本尊 阿弥陀如来 所在地 大島字(九四の四五) 主な建物 本堂、庫裡、経蔵、土蔵小屋、本堂は寛政三年(一七九回再建 境内地その他 境内四八九平方㍍、田四九五平方㍍、畑一、六九五平方㍍、山林三、四一一平方㍍、その他三八六平方㍍ 住職 角野元保 檀徒数 三六戸 創建年代 永正五年(一五〇八) 開基 藤原氏 開山 養覚慶全和尚 寺宝 大般若経六〇〇巻(桐箱入)仏像七体、出山仏画像一幅、涅槃像、十六善神各一幅、天文二年の過去帳あり 東源寺 龍宝山、東源は藤原、藤元、藤源などの文字が使ってある。河村九四号四五番地にある臨済宗相国寺派の末寺である。本尊は三尊の阿弥陀如来(阿弥陀、聖観音、大勢至をいう)である。境内に八尺×九尺の経蔵が建っている。文化八年(一八一一)に住職実尚和尚が大般若経六百巻(経本桐箱入り)をここに納め、釈迦如来を安置したのである。 永正五年(一五〇八)十月養覚慶全和尚が開山創建。ただし当時、前身とも言うべき別号の小庵があったと伝えている。元文元年(一七三六)六月、林覚慶雄和尚が火災を受けて現位置に移転再建したのである。下って寛政三年(一七九一)に梅峰慶林和尚がまた堂宇を再建して宗風を揚げ、仏祖の命脈を相伝えて現在に及んでいるのである(明治十三年(一八八〇)四月「上申書及寺伝」による)。『若州管内社寺由緒記』によると、「藤原庵は養春覚慶前首座が天文三甲午年に開基と申伝」としている。当寺には天文二年(一五三三)四月八日の過去帳がある。 『大飯郡誌』 (東源寺) 〔時々文字を替へ、藤原、藤元、藤源、等を書せしことありと云ふ〕河村に在り。宗旨は臨済宗相国寺派。本尊は三尊阿彌陀如来 (阿弥陀、聖観音、大勢至)庫裏兼方丈壹棟〔〕境内百四十八坪 境内に経藏一棟あり文化八年住職実堂和尚大般若經六百卷を納め釋迦如来を安置す()の建物なり境外所有地田五ケ所畑二ヶ所山七ケ所あり檀徒百九十五人。 (由緒) 永正五年(紀元二千百六十八年) 十月養覺和尚開山創建し元文元年(紀元二千三百九十六年)六月林覚和尚再建せしと(明治十三年四月上申書)に依る。 高野山真言宗慶松山西光院長楽寺 大島小学校の隣りというか校内のような所だが、長楽寺阿弥陀堂がある。なかは重文はじめ宝物がぎっしりである。当地のスパ抜けた高い文化力を象徴しているような光景である。これは文化最先端とかの地の学校でもマネできない。 奥が阿弥陀堂で江戸後期の建物という。長楽寺といってもこれしか残っていない、今は学校になっている所に寺院があったのであろうか。 右は最新の宝物庫、特別にデカイ。なかみは→ 『大飯町誌』 慶松山西光院長楽寺 宗派 真言宗(古義派、高野山末) 本尊 阿弥陀如来 所在地 大島字長良(六〇の二) 主な建物 阿弥陀堂、収蔵庫は昭和五十一年(一九七六)新設 境内地その他 境内一、二五九平方㍍ 住職 杉本明紀 創建年代 用明天皇御宇(五八六~五八七) 開基 聖徳太子説 寺宝 阿弥陀如来坐像、多聞天立像(重文) 長楽寺 慶松山西光院長楽寺、所在は長良であるが現在は本堂も庫裡もなくなって、阿弥陀堂がわずかに昔の名残をとどめている。本尊阿弥陀如来座像並びに多聞天像は昭和三年(一九二八)八月十七日国宝に編入された(重要文化財)。真言宗の寺院で、寺伝によると用明天皇の御宇(五八六~七)に聖徳太子が創建されたという。 七間四面の堂で丈長七尺の弥陀を安置し、田戸を納め僧坊を置き西光院の号を勅賜されたとある。勅願寺であったらしい。本尊仏の作が藤原時代も中期より末が真であれば、伝承に多少の作為があったかもしれない。現阿弥陀堂の再建されたのは、延宝六年(一六七八)らしい。 当時天文十五年(一五四六)兵火の後を受けて来任した栄任が、非常な熱心さをもってこれを復興したことは、「阿弥陀堂勧進状」にあふれ出ている。 『大飯郡誌』 長樂寺は真言宗なり慶松山西光院長樂寺と稱し長良に在り (建物)庫裏兼方丈一棟〔〕(境内)三百八十一坪〔〕境内佛堂としては阿彌陀如来堂あり本堂は阿彌陀如来坐像は昭和三年八月十七日國賓に編入 該堂に四天王を併祭す其内の多聞天は昭和三年八月十七日國賓に編入尚又境内に鎮守三社あり。 一、天滿宮 前に紳吐の部に記載せり。 二、金毘羅宮 (祭神) 金毘羅大椎現 創立年代不詳。 三、船玉神社 (祭神) 船玉大神 明治十二年創建。 (由来沿革) 舊記に天元元年頗主宍人氏影弔朝平之を建立す云云傳へ言ふ菅丞相此の地に寓する時自像を刻し其長さ八寸其像を寺物となす今世別に社を建てて之を安んず正長元年此の處の領主三方若狭守範次は小濱明王院の僧権大僧都賢海をして斯の寺の事を兼ね知せしむ今明王院は絶ゆ(若狭郡縣志)新撰姓氏錣に據れば左京皇別上宍人朝臣阿部朝臣同祖大彦命界彦背立大稲腰命之後也(日本記寫)とあり。また長樂寺縁起によれば夫れ當時は用明天皇の御宇上宮太子の創建也然して太子偶々此島に遊び七間四面の堂を造り長さ七尺の彌陀を刻してこれを安んず天皇大に之を嘉みし田戸を納め僧坊を置き勅して號を西光院と賜ふ」とあり若狭郡縣志に記する所と大差あり何れが真なりや知らずと雖も當時の國賓に編入せられたる二佛體は技師の鑑定に依れば藤原時代の中頃寧ろ末期頃の製作なりとのことなれば當寺も或は天元年間の創立にあらざるか暫く疑を殘し置く。 (附記) 元に天台宗なりしが其の本山たる叡山は織田氏に滅ぼされ當寺も其の餘殃か受け叡山との連絡全く杜絶し真言に改宗せしならんと言ひ傳ふ。 天文十五年賊兵来襲し(宝物か奪ひ火か放ちて寺院か燒く此の時縁起靈宝倫旨御教書烏有に歸す。 永萬年間より文永年間に至るの間は衰頽に陷りしが文和年間細川清氏若狭國を領する時に及んで神社を復し仏守を興す其後永享元年三方若狭守範次堂閣を修し廟祠を繕ひ寺領として山林を寄附す。 天正年間豐臣秀吉悉く寺領を沒收す。 延寶三年若狭守酒井忠直寺領な兔許す(以上の記事は多く當寺の古文書に依ゐ)。 阿彌陀堂のみの所在地にして今尚ほ其附近に其の俤か殘せり。 臨済宗相国寺派青島山海岸寺 これは宝物庫、寺院はこの裏側奥にある。漁師町なので道が狭い上にグニャグニャである。 『大飯町誌』 青島山海岸寺 宗派 臨済宗(相国寺派) 本尊 阿弥陀如来 所在地 大島字(五〇の二四) 主な建物 本堂、庫裡、地蔵堂、土蔵、なお、昭和五十年(一九七五)本堂改築 境内地その他 境内六四七平方㍍、畑一、〇七七平方㍍、墓地一、〇一一平方㍍、山林一三、〇一八平方㍍ 住職 松林良岳 檀徒数 五六戸 創建年代 承保元年(一〇七四)宝徳元年(一四四九)ともあり 開基 宗源(宮留住人) 開山 大宝ギン(門かまえに言)公禅師 寺宝 妙法蓮華経四巻(永禄十三年) 海岸寺 青島山海岸寺は大島脇五〇号二四番にある。臨済宗相国寺派の末寺である。元は天台宗であったのを改宗したのだと伝えている。本尊阿弥陀如来、脇仏釈迦牟尼如来、観音菩薩、承保元年(一〇七四)の創建で開基は宮留にいた宗源、開山は大宝闇公禅師、当時は小院であったが、弘長二年(一二六二)に再興して面目を改めた。 第十三世謄道和尚の時に再建して今に及んでいる。なお、元禄五年の(一六九二)『改帳』には、「承保元甲寅正月十六日大宝創建、中絶後応永二十癸巳年(一四一三)本山塔頭光源院永音法嗣再建也」とあり、『若州管内社寺由緒記』には宝徳元年(一四四九)に大宝□大和尚が開基のように記してある。承保元年創建は『若州管内社寺由緒記』を除き一致している。 当寺には永禄十三年(一五七〇)の妙法蓮華経四巻がある。境内仏堂に子安地蔵が祀ってある。元禅源寺は畑村にあり。本尊阿弥陀如来、創建は「明細帳」によると建久七年(一一九六)、再興は延文二年(一三五七)で宝跡和尚の代である。明治二十四年(一八九一)二月畑村の大火に類焼し、住職は奥の堂で仮住居をしていたが同三十年逝去、以後海岸寺がすべてを支配している。 『大飯郡誌』 (海岸寺) 脇村に在り庫裏兼方丈一棟〔〕境内百九十六坪宗旨は臨済宗相国寺派古は天台宗なリしも改宗せしものなるべし境内小宇あり子安地蔵を安置す 檀徒二百名内外。 (由緒) 過去帳に開山は大寳ギン公和尚承保元年とあり社寺明細帳には承保元年同村字宮留村に住宗源創立其後弘長二年大寳和尚の再興也と記せり元禄五年改帳には承保元(申寅)正月十六日大大寶創建中絶後應永二十(癸巳)年本山塔頭光源院永音法嗣再建也と録せり。 臨済宗禅源寺 『大飯郡誌』 (禪源寺) 畑村に在り境内地百五十一坪境外所有地三反二畝三歩檀徒百二十人堂宇〔〕土藏一棟地蔵堂〔〕あり本尊は阿彌陀如来 宗旨は今は臨済宗なれども元は天台宗なり。 (由緒) 過去帳には「開基寳跡和尚寛正元年四月六日遠寂」とあり社寺明細帳には「建久七年同所字畑村中志願によつて創建す中世延文二年寳跡和尚再興」と記載す何れが眞なるか不詳なり明治二十四年十二月畑村大火の際全部類焼し住職は奥の堂に假居して寺務に従事せしが明治三十年逝去し其後に檀徒悉皆海岸寺に附けり今は只空名を存するのみ。 小浜藩台場跡 松ヶ瀨台場跡 今は「赤礁崎オートキャンプ場」になっているが、その中に台場跡が残されている。 キャンプ場入口にこんな案内板がある。 18世紀後半から日本近海に異国船がしばしば現れるようになり、江戸幕府の命を受けた小浜藩が京都の北方に位置する若狭湾沿岸を防御するため、小浜湾口の当地に築いたのが松ヶ瀬台場です。 なお、平成16年9月30日に鋸崎台場跡も国の史跡に追加指定され、名称「史跡小浜台場跡 松ヶ瀨台場跡 鋸崎台場跡」と名称変更されました。 1号台場 松ヶ瀬1号台場跡 1号台場跡は海に向かって横一文字に並ぶ高さ約0.8~1.2m、長さ約6~8m、幅約7~8.5mの土塁6基と、土塁に挟まれた5ヵ所の砲眼(大砲の砲口部)があります。 全長は約50m、砲眼の砲口幅約1m、開口幅3~4mです。土塁の内部には堀跡があり、外周には排水等のための溝が配置されています。 2号台場 松ヶ瀬2号台場跡 2号台場跡は、直径約80m、高さ約2.2~2.4m、幅約14mの半円形の土塁で構築されています。その土塁の内側中央部には、回転式の大砲を設置したと思われる半円形の砲座1基。その両側には固定式の大砲を設置したと思われる方形砲座が2基づつ配置されています。又、土塁両端部には、火薬庫として便用されたと思われる焼紅弾室跡が良好な形で残っています。 半円形・方形砲座 逆半円形状をした砲座の直径は約16mあり、砲座周囲に土留め用の2~3段(高さ約40cm)からなる石積みが発掘調査で検出されました。 砲座中央部は半円形をした帯状の幅約90cm、長さ約8mに亘る板石(約30cm角)列が同じレベル状に敷き詰められています(右写真)。土塁中央直下部からは、直径約35cm、落ち込み約14cmの小ピットを検出しました。砲座に接する土塁上部に砲眼は存在せす、左右両側に2ヵ所ずつ位置する方形砲座とは異なる構造であることから、固定式のカノン砲ではなく回転式大砲が設置されていたと思われます。 土塁に接する砲座付け根部からは、人頭大石の平石列が検出され、両端からそれぞれ中央に向かって約6.5m延び、土塁上から砲座への流水を防ぐ側溝として構築されたもので、溝底には敷石等は施されていません。 方形砲座は、半円形砲座を挟む形で両側に各2基、計4基配置され、長さ約6m、幅5mの形状をなしています。 展示されている立派なレプリカの砲は佐賀藩式の当時最新最強のものという。 カノン砲(回転式) 回転式(有効回転範囲120度)カノン砲の複製です。 江戸時代、若狭湾沿岸に出没していた露国(ロシア)船の脅威から京都の北方小浜湾口を防禦するために、小浜藩によりこの2号台場中央部の半円形砲座上に備え付けられました。 佐賀藩の33ポンド砲を参考にし、当砲座上に整合するよう砲身の高さ等を調整しました。 (部材) 砲身 青銅製 梨地肌 濃い茶色 台座 ケヤキ(福井県産) (寸法) 全長 534.0㎝ 全幡 157.0㎝ 全高 210.0㎝ ,砲膺長 318.1㎝ 砲尾幅 56.2cm 口径 26.0㎝ 注1 カノン(和蘭語でK A N O N)砲 ①英語でキャノン(CANNON)砲 旧日本軍で「加農砲」ともいう。 ②小径口で弾丸発射速度が速く、平射弾道のため、軍艦や戦車の主砲等によく使われている。 ③弾丸装てんが後装式のため、弾丸発射後の清掃並びに次弾丸装てん作業が容易である。 前装式の大砲に比べ、安全度は極めて高いとされている。 注2 佐賀藩 幕末時、軍備は他藩を大きくリードし、世界的レベルの大砲、銃等の武器を輸入・鋳造していた。 しかしこの時代、普通のサムライが鉄砲すらまともに撃てたものかどうかアヤシイが、こんなスゴイ大筒を実際に製作配置装備し発射できたものかどうか。せめて鉄砲鍛冶がたくさんいて鉄砲を作る技術はあったというならまだしも、小口径の小さな砲ならまだしも、本物の巨砲がそんな簡単につくれたりはすまい、佐賀藩から引っ張ってくるわけにも行くまいし、近くのお寺の鐘を鋳つぶして作った地元鋳物師のいわばシロート製作のお寺の鐘の延長線上の「大筒」では、「大筒ウテー」でもしや本当に発射すれば砲身が割れて避けて砕けてバンラバンラで大恥物かも…、上が作れ作れ言いよりますのでまあカッコだけの飾りですワ、発射はヤバイですよ絶対にしませんの程度かと思う。 敵艦までの距離を測り、砲の仰角を調整しないと命中はしない、かなりの熟練兵が必要で、その兵舎もなければなるまいが、それはどこにあるのだろうか。 『大飯町誌』 嘉永六年(一八五三)八月に小浜藩は、野尻銅山の銅五ヵ年分をもって大砲を増鋳したいと出願したけれど、なぜか幕府はこれを許さなかったと『福井県史』に書いてある。安政元年(一八五四)十二月に勅命を受けて、幕府は諸藩にこれを伝え、釣鐘などを鋳直して大砲を造るようにさせた。これから小浜藩も台場を築造し始め、同三年四月になって領内寺院の梵鐘を調べ、漸次大砲を造って各砲台に備えた。 安政五年(一八五八)の外国奉行湊見覚には、「一大筒台場御城浜とも六ヶ所、但筒数玉目百目より十六〆目迄五十五挺」(『福井県史』)とあるという。これらから考えると、当町大島の鋸崎、松ヶ瀬両台場は安政以後の築造であろうかと思われる。 焼紅弾室 焼紅弾室(しょうこうだんしつ)跡 焼紅弾室とは、火薬等を保管していた倉庫のことです。土塁北端の一段高い丘状崩落部の内部は、逆L字からL字状に続く前室・奥室の2室構造になってます。北西側壁では、腰巻き状に石積がされていますが、その反対側壁の南東側にはそのような痕跡は見られません。前室の入口幅は約90cm、奥行き約3.2m、左側壁は高さ約1m・幅約2.3mの範囲内に割石が横積みにされ(右写真)、右側壁は口部に約10㎝割石が2段2列横積みされ、上部は土壁となっていました。奥室中心部の幅は約2、2m、奥行きは約3.7mです。前室左側壁に続く壁面は、同様に高さ約1m・幅約1.8mの範囲内に割石が横積みされており、その上部も高さ約1mの土壁となっています。 奥室左側壁中央部より約1m先に位置している丘状頂部から、直径約20cm、落ち込み約90㎝の通気口らしき竪穴を2箇所確認し、その内、西側の竪穴口周囲には、約10cmの割石が巻いています。これらの竪穴内には、遺物等は含まれておらす、竪穴につながる通気口等は奥室左側壁からは検出できませんでした。 また、木造構造物を形成した柱穴跡や桧皮等も確認できませんでしたが、現存している品川台場(東京湾)跡の焼紅弾室跡を参考に復元しています。 小浜藩お台場はもう一つこの先、鋸崎にもある。 鋸崎台場跡は、コの字形に並ぶ土塁と土塁に挟まれた5基の砲眼が構築され 、1番台場を中心に、正方形の単独砲座台場2基(無番台場・3番台場)、 焼紅弾室から成る和洋式台場跡だという。原発の敷地内というので、フツーでは見ることはできない。 コバンを持って行くと見せてくれるかも… 大飯原発 大飯原発入口の番犬小屋。後のトンネルを抜けるとそこが元々のゲートで、立派なゴッツイ門がある。今はもう一歩先まで出てこんな所で閉めているよう。何でこんなことをするのか、安全でケンコーによく、コロナに効いて、お得な電力を提供しているとかのご立派な発電所が、そのご宣伝通りならば、何をさほどに恐れるのか、テロから守るためでなかろう、関電とそれに連なるコバン利権集団を守るためであろうか。テメエらのヤシとウサンクサイ体質に自ら恐れおののいているのか、わらえる話だが、腐った者どもの番をする門衛も情けないことであろうが、そのコワイ顔も有名である。 チミらを責めているのではない、カメラ向けると横向いたところから見ればさすが恥ずかしいか。日本人の多くは(過半数は割っているが)いまだチミらと同類のコバン隠しもらいどものコワ~イ顔さらしたクソ番犬である、横向きもしない。そうした日本社会を問うているのである。 コワくて不親切でウソばっかりで、グローバル精神はカケラもなく、大金使い放題で観光名所になれるのなら、ワタシの町などは一番であろう。最悪の観光名所である。 「大飯原発」 あかぐり海釣公園 赤礁崎オートキャンプ場、ふるさと海浜公園、あちこちに海水浴場がある。 《交通》 《産業》 『大飯郡誌』 精錬業 大正元年より大庭氏及堀氏の経営に係る大浦精錬所ありて野尻鑛業及所々の残滓鑛を精錬せしが大正七年廃業し、今は其の遺骸を残すのみ。 《姓氏・人物》 大島の主な歴史記録『大飯町誌』 大島 大島半島の東北部二九四ヘクタールが旧大島村の領域であり、その大部分は山地で、耕地面積は八三・八ヘクタール(昭和三十三年)である。 世帯数二三八、人口八六八人(昭和六十三年)がこの地域に住み、西村、河村、日角浜、畑村、脇今安、宮留の六集落によって形成されている。 縄文遺跡、弥生遺跡、製塩遺跡及び神田、彼岸所、畑、日角浜、西村、赤礁等に所在する約四〇基の古墳等、数千年の歴史を物語る遺跡が発見されている。それらのことは『若狭大飯』に詳細な報告が記載されているから、ここではその他の記録から大島の古代に触れてみたい。 天平十九年(七四七)六月十七日「大倭国大安寺流記資財帳」に、「若狭国乎入郡島山陌町四至皆海、右飛鳥浄御原御宇天皇歳次癸酉納賜者」と出ている。浄御原天皇、すなわち天武天皇の二年(六七三)のことがらである。島山百町を大安寺の荘園として施入されたという記録である。四方の境界が皆海であるということから、大島全体を指すものと思われるが、鎌倉時代の「大田文」では、泊・勝見方面を含めて志万郷としている。『福井県史』では島山に泊、勝見を含めていたものとし、伴信友著『若狭旧事考』では島山とは大島を指すものと見ているようである。 『若狭国神名帳』(九四四)に島山明神と記載されているから、そのころにも島山の名が用いられていたようである。 伝説地 シビトガヅカ アズチ山の頂上で、昔ここで戦があって多くの戦死者が出た。移動させられないままそこへ犠牲者を埋葬したのだという。最近まで人骨が残っていて、それ故「死人が巓(づく)」(死人の頂)と言われてきた。また、一説には体の不自由な年老いた男を捨て置いた所とも言われてきた。 涙水(なみだみず) 「いにしへの命にかわる涙水、いまも流れてかわくまもなし」金崎の西にある小岬で、一年中降っても照っても変わりなく水滴が岩鼻から落ちている。昔高貴な姫君がここで泣き死にされた、その涙水が残って今に点々と落ちているのだと言う。 オンガリ山 西村の対岸にある「御狩山」という所で、昔御所人たちが狩りをされたと言い伝えている。この山ヘイノシシ・シカなどを追い込むと必ずとれるという。「宍人(ししびし)の君にささぐる鹿(しし)じものいつも捕獲(とらえ)しかりくらの山」。(読人不知) マトバ 添谷に的場という所がある。昔武士どもが弓を引いて技を習った所だといわれてきた。「物部の射技(いわざ)習ひし蹟なりと今にまとばの名ぞ残りける」と地名から出た伝説らしい。 ワキジョ城址 河村に「城山(じょうやま)」という山がある。その頂上は昔「スサキカモン」という者がいた城址だといい、城山の南麓・西村の入口を「門口(もんくち)」といって城の追手(表門)に当たるところで、河村の人家のあるところを脇城といっていた。御所の杜 畑村の坂田家所有の嗣地字第五五号二六番地四六坪を中心にしてその隣接する前本・糀谷両家の所有地を昔から「御所の杜」と言ってきた。宮様御住居の跡とか御公卿屋敷とも言って一切の不浄を忌みる地とされている。新谷(あたらしや)家(畑村)に伝わる「長楽寺縁起」の「元慶三年(八七九)御一代の仏帝が退位された後、この島に隠棲され、お慰役に二四名の百姓に荘官位を許された。」という言い伝えを裏付けする重要な根拠になる地で大事に伝承したいものである。 キツネヅカ 鋸岬の一部に、ピラミッド型の山が見られる。これが狐塚という伝説地で、昔、吉見狐という古狐がいて、藩士折井某がその狐を退治して懇ろに葬り、そこに塚を建てて祝いこめたと言い伝えられている。「よよ経ともつきせで今につきね塚、のこる昔の物語りかな」と詠まれている。 浦底 平家の落武者である池盛という者が住みついたので、浦底では今も「池」ということを忌み井戸を掘らず、盂蘭盆会にさえ墓所に花筒を立てず、花を供えない風習がある。また、浦底にある「円山」は、昔、逸見氏が城を築いたところで、後に故あって高浜の砕導山城に移ったと言い伝えられている。 オンジヨ城址 河村の「十王堂(じゅうど)山」の頂上に昔、城があったといわれているが、城主は明らかでない。御城・大城などの文字を当てている。この山の麓の小渓を「武者谷(むさだに)」といい、昔、武士の住んだという屋敷跡が散在するといわれている。 望楼の跡 明治三十七、八年の戦役(一九〇四~五)の際、海上見張りのために日本海側の要地には看視所が置かれた。大島では畑村の山の上「ハタオ」にあった。太平洋戦争のとき(一九四一~五)も、防空のため海軍の看視所が置かれていた。昭和十六年(一九四一)和田村から大島半島の内海を迂回して送電線が引かれ、大島では唯一の電灯と電信・電話の設備がなされていた。六月になって大島郵便局にも初めて電信・電話の取扱所が開局し、戦局が熾烈を極めると。陀古山の頂上にも民間の看視所が設けられるようになった。 奥の院 長楽寺に隣接する天満神社の境内に「奥の院」と彫刻した灯籠がある。新年の氏神参拝に、住民たちは島山神社に詣で、続いて天満神社に参詣して、奥の院の灯籠から東の方角(奥の堂のある方向)に向かって遥拝し、それが済むと長楽寺の阿弥陀堂へ参るのが習いとなっている。 余永神社 大島の島山神社の摂社に余永(よなが)神社という社がある。元は赤礁島にあって影長(よなが)神社(永享十一=一四三九)年正月十五日賢海文書)と書き記した。その後長楽寺の近くの不老の渓・影長屋敷に移り、更に島山神社の境内に移った(年代不明)。 御祭神は明記したものはないが、伝えるところでは大島の二四名の各々の始祖を祀ったもので、島民はこの社が氏神で島山神社は産土の神だともいっている。したがって、おのおのの名にある「ニソの杜」祖神を集合した社と考えられる。 昔、大島に二四の開拓区があって、その各々が草分けの神を祀った森が「ニソの杜」で、今日は三〇箇所に増えているが、それは永年の間に地神、山神、荒神などという森がまぎれ込んできたものであろう。その惣社が余永神社であるとして御神座が二四座に分かれ、各々に神霊が祀られている。こうした特殊な神社であるため、摂社としてあがめ、民俗研究家によく知られることとなったのである。 お祭りを担当する株がある。後壁屋(加部家)と糀屋(糀谷家)の二旧家がそれである。神田二ヵ所をそれぞれ耕作してお祭りの調物一切をそれで賄うのである。祭日は霜月の午の日(二度あれば初午、三度あれば中の午)であったが今は二十二~三日になっている。 宮留の八幡宮 今日は島山神社に令祀されて、宮留の元地には記念の石碑が一基建てられているばかりであるが、元は余永神社とともに赤礁にあり、その創建は古く賢海文書(一四三九年)には用明天皇御宇とし、また延喜十九年(九一九)十一月渤海の使者が若狭の丹生浦に着いた時、当時の国司藤原尹衡が大島に八幡宮を勧請したともいっている。しかし、前者はより所が薄弱であり、後者は『扶桑略記』の読み誤りのようである。 だが文和五年(一三五五)細川清氏等の文書によって相当の神社であったことが分かる。「寄せ奉る大嶋八幡宮、若狭国税所今富内(註文別紙にこれあり)、右天下太平仏法興隆王法再興武運長久家門繁昌のため寄進し奉る所件の如し。文和四年九月二十一日、相模守源朝臣(花押)」という若狭の守護細川清氏が武運長久等のために今富にある田を寄進したもので、この神社が重視されていた立派な証拠である。この寄進の後六年康安元年にもこの神社で武運長久等の御祈祷をつとめていることを褒めて次の書状を下している。 「祈祷巻数一枝到来候処、弥々精誠を致すべきの状、件の如し。康安元年(一三六一)十月十五日、清氏(花押)」 今一つの状は清氏の臣下の右衛門慰義幸の寄進状である。これは「大島八幡宮御奉寄状一通を遣す。入船馬足料を以て、毎年参貫文、小浜刀禰に沙汰させ、進めらるるの状、件の如し。文和四年十月九日、右衛門尉義幸(花押)」というもので、八幡宮へ毎年三貫文という銭貨が三、四年にわたって送られたことを示している。一石一貫の割でいえば三貫文は米三石に当たる。それほどの銭が大島へ入ったということで、当時大島における銭貨流通の状況を知ることのできる一資料で、今のところ当町での最初の資料としなければならない。 『郷土誌大飯』 添衆の話 大島西村の常禅寺に観音堂がある。この堂は享保元年(一、七一六)添浦から移転したものである(大飯郡誌)。添浦は大島の外海面にある円山裾の浜地である。いい伝えによると元ここに七軒の人家があった(それは右の観音堂で傍証される)。その人々のことを添衆といって村人が一枚上位においている感じがする。永正年中(一、五〇四~一〇)に円山には逸見貞長の居城があった。この両者の間に一筋の糸がつながれている感じがする。ただ不思議なことには観音堂の移転と永正年中との間が、ざっと二百年の隔りがあるということである。 以上のことを頭において、本題の添衆離散の伝説を検討していただきたい。 この七軒の添衆がある年、年寄や女子供を家に残して、屈強な者が揃って他国へ仕事を求めて出ていった。その留守の間に海賊のようなものが襲って来て、留守番の人々を皆殺して金銀財宝から日々の生活用具に至るまで、目ぼしいものをすっかりさらっていった。 他国から獲物やみやげを持って帰って来た壮者たちは、この惨胆たる有様を見て、すっかり希望を失ってしまい、もうこの土地に居る気がなくなって、何処ともなく離散していった。というのが伝説の梗概である。 この部落の離散は事実の上から推していったら、観音堂移転の年より以前でなければならない。しかもそれは十年とははなれてはいなかっただろう。添衆が逸見氏の家臣中の居残り組と仮定すると、、添の部落生活は二百年近く続いていたと想像される。 曽伊表とは大島のどこか 永禄九年(一、五六六)高浜城主逸見騎河守の軍が武田義統の軍と和田小浜間の海陸両方面で戦って敗れた。この時逸見河内守が曽伊表の戦において武田方桑村謙庵家の祖先桑村九郎エ門尉のために討取られたことは、義統の感状(若狭郡県志楽の巻中高浜城址の条)で明かな通りであるが、その曽伊表とはどこであるか。伴信友翁は大島の東海岸かと何かに書いておかれたが、逸見氏と大島とは切っても切れない因縁の地であるから、河内守が大島ヘ逃げただろうということは最もな考え方である。然らば曽伊は、逸見の旧城円山の山麓に続く添(そえ)のことではあるまいか。外海面まで逃れたか、内海を浦底へ入りこんで、添へ越えた処で討たれたかのどちらかではあるまいか。これも将来にのこる研究問題である。 添と曽伊が同一場所であれば永正から永禄まで、五六十年間民居があったことは推定できる。添衆の離散はその後の話になる。 大島の伝説『越前若狭の伝説』 腰倉不動堂 (大島) むかし京都高雄の僧が、この村の仏像をうばい、神護寺に安置したが、いろいろたたりがあったので、もとのところへ返した。 この仏像の持っている剣(つるぎ)は、三条宗近がきたえた剣であるといわれていたが、中世にこれを紛失してしまい、今は木剣を持っている。 (若狭郡県志) 三井寺を造った智証大師が、たまたまこの土地にきて滞在し、大山をなかめて、この山をこしくら山と名づけた。お堂を建て、不動明王の木像を彫刻して安置した。わき仏もこの人の作であるといわれている。 (大飯郡誌) 死人がづく (大島) 死人(しぶと)がづくは、あずち山(犬見山)の頂上にあって、むかしここで戦争があったとき、多くの戦死者の死体を埋葬したところである。 (大飯郡誌) 参照 死人が岳(高浜町和田) 平池盛 (大島) 浦底は、平家の落武者の池盛という人がきて住んだところである。浦底では、この池盛の池をはばかって、井戸を掘らない。うら盆でも、墓に花をそなえるとき、花筒をしない。 (大飯郡誌) 飛び梅 (大島) 天神(菅原道真)が京都へ帰られるとき、当所の吉見という所へ上がられた。法楽寺(宝楽寺とも書く。)に腰をかけられ、梅を植えておかれた。それより飛び梅という。寺内に観音堂があり、本尊の観音は弘法大師の作という。 (寺社由緒記) 法楽寺は真言宗の寺で、溪良山と呼び、観世音を安置している。この寺の庭に老いた梅の木がある。かつて道真がこの地に住み、邸宅の庭に植えたものである。 (若狭郡県志) 築紫の大宰府(だざいふ)の梅と同種であるから飛び梅という。観音堂の本尊の観音像は、行基菩薩の自作であるという。 (大飯郡誌) 菅原道真が九州の大宰府に流される途中、この大島に立寄って、宝楽寺の庭に紅梅を植えた。この飛び梅は、九州までの途上、とびとびに三か所に植えたものの一つである。よって飛び梅という。現在の梅の木は老木で大樹であるが、菅公が植えたものでなく、そのひこばえ(もとの株から出た枝)が大きくなったものである。 (永江秀雄) 天神社 (大島) 菅原道真の像が祭られている。この像は二十センチばかりの像で、道真がこの土地に来たときに、みずから彫刻したものと伝えられている。この像に酒を供えると、顔がほのかに赤らんでくるという。寛文年中(一六六一ころ)までは長楽寺にあったが、別に神社を建てて、この像を今のところに祭るようになった。 (若狭郡県志) 金のつえ (大島) 大島のある人が、九十センチばかりの長さの金のつえを、小浜の町へときどき売りにきた。これを買った者は、人もうけをしたという。 この金の棒は、大阪陣のとき大島の者が歩役にかり出されて行き、大阪城落城のさい持ち帰ったという。大閣秀吉が金を竹のように作らせ。竹なかしといっていたものである。(拾椎雑話) なみだ水 (大島) むかし高貴な人の姫がここに来て、泣き死んだ。その涙が泉に達した。四季を通じて水がわき出て、いつも水量は変らず、永久に恨みを流すように流れ出ているので、涙水といっている。 (大飯郡誌) むかし大島村で嫁いじめのしゅうとがいた。ヨモギつみに舟でここまできたが、嫁だけを残して帰ってしまった。嫁は舟がなく帰ることができず、悲しみのあまり、ここで身を投げて死んだ。そのときの嫁の涙が、そのまゝ清水となったといい、今もきれいな水がわき出ている。 (若狭の伝説) 大島の小字一覧大島 吉見 大谷口 陀羅 奥馬道 浜田 奥赤栗 赤栗 赤栗口 鯖引浦 白瀬 東小畔 西小畔 塩浜 東宮留 耕田 半明 奥神田 神田 大坪 諏訪前 浜称 塚本 常谷 岡ノ下山 堤本 堤下 池 樋口 町田 畠田 長浜 上野 峠口 井上 脇向 区通子 脇村 花田 今安 横道 堂奥 上ノ山 畑村 東長羅 西長羅 東宮上 小谷 谷口 道ノ上 上石原 石原 立尾 上立尾 新畑 奥垣 上奥垣 添谷 波瀾 森ノ奥 禿 小垣 下奥垣 甲良 東稲首 呵田 寺内 窪田 宮ノ上 宮 宮ノ浜 中田 中山 上中山 狭間 小紋崎 日角浜 大城 真田 葉勢 清水前 上窪 窪 奥上 一ノ谷 盆谷 二ノ谷 奥内 河谷 小迫 奥兵 中兵 山ノ谷 兵口 坊向 岡下 河谷口 小屋前 小屋 西村 奥山 中口 西浜 上小風呂 小風呂 瓜生添 瓜生 博士谷 東浦底 浦奥 常後 東奥 稲首 西奥 松平 浦底 浦口 堤 奥堤 円山 小添 小空 添空 小奥 添 上添 右佐近 岩佐近 大山 小山 青法 蝶ケ谷 稲山 赤道 橋ノ本 船磯 佐倉 赤崎 長路谷 浅 浅尻 中崎 不動尻 向田 片木山 清水倉 西葉原 葉原 朝倉 西葉夫 東葉夫 東大浦 大浦 西大浦 東浦 中浦 西浦 添浦 桂嶋 大山東側 南側 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『大飯町誌』 その他たくさん |
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