佐文(佐分)郷(さぶりごう)
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佐文(佐分)郷の概要《佐文(佐分)郷の概要》 佐分利は、佐分利川上・中流域に位置する地域で「佐分利小学校」とか今も使われている地名である。その起源は古墳時代か弥生時代にまで遡り、当地を拓いた祖たちが名付けたものと思われる。「佐文」「佐分」は両本とも訓を欠くが、今もそう呼ぶようにサブリと読むものと思われる。 意味はソフルのことであろう。一番上流の集落・川上に小字・左分利があり、新鞍神社がある。シンクラ、シクラは新羅を意味し、ソフルも新羅国の一名でもある。天日槍などの新羅伽耶系の渡来人たちによって拓かれた地とみられる。 地名の文字よる記録としては、ずっと下るが奈良期~平安期に見える郷名で、「和名抄」若狭国大飯郡4郷の1つ。高山寺本は「佐文」、東急本は「佐分」につくる。東急本は遠敷郡にも「佐文」郷を記すが誤りか。大飯郡は天長2年(825)までは遠敷郡のうちであった。 平城宮跡出土木簡の貢進物付札で、当佐分利郷に関する木簡が5枚知られている。 (1)若狭国遠敷郡〔佐分郷三家人石万呂戸口 三家人衣万呂御調塩三斗〕 慶雲四年九月二十九日□(石カ)古万呂 (2)若狭国遠敷郡 佐文里戸主三宅大人 天平□(勝)宝二年□…… (3)若狭国遠敷郡佐分郷〔戸三家人□□戸 □□三戸〕 十一月九日□□□志 (4)佐分郷〔戸主道公嶋守戸 三家人阿都目□塩三斗〕 九月二十一日□□ 人 遠敷郡 (5)若狭国遠敷郡〔佐分郷式多里 三家人牧田〕御調塩三斗 塩だけ、三家人氏と道公氏だけではないか。神社や地名から見れば新羅や天日槍のはずが、それは見えない。木簡世界の、これはどうしたことであろうか。 『姓氏録抄』右京皇別上。 道公。 同氏(伊賀臣)。大彦命孫彦屋主田心命之後也。 『姓氏録抄』摂津国皇別。 三宅人。 大彦命男波多武日子命之後也。 三宅連は日槍系だが、三宅人はその系統ではないようである。皇別とか中央権力系の系列に入れて何か何だかわからないようなことであるが、懐柔策か強力な勢力があったのか、しかし彼らは元々は東北の蝦夷の系統の人々であろうかと思われる。彼らを東北から強制連行してきて、浜で塩を作らせ、都へ納入させていたのではなかろうか、の疑念が湧いてくる。若狭の塩は実は地元の人ではなく、東北蝦夷や渡来系の奴婢的立場に置かれていた人々によって作られた、そんな風にワタシには感じられるのである。潮汲む安寿姫の古代版が実際にあったのでなかろうか。 土器製塩は若狭よりも東北がずっと古くそのノーハウに長けていたかも知れない。 青丹よし奈良の都が遠い未開地から拉致ってこられた奴隷たちによって支えられていたの、おぞましい実態が垣間見えているのかも知れない。 秦人、三家人の「人」「大人」というカバネのようなものも気になる、奴婢の中から選んだ上納責任者の下級役人のような立場の者につくのだろうか。岡安遺跡が知られるが郷内にそうした三宅施設が設けられていたのかも知れない。 『小浜市史』 食見の里謡 今立郡粟田部出身で、昭和四年(一九二四)より、二十二年まで旧小浜高等女学校教諭であった辻市郎の「若狭における製塩業」は、近代の若狭の塩田による製塩業を足で歩いて調査された名著である(『若狭における製塩業(再版)』)。 辻の前述の研究報告に採録されている三方町食見の里謡は、今となってはどのような節をつけたのか不明のようであるが興味深いものがある。 「片食食わえども 片袖着でも 嫌ぞや 食見の塩垂れは」、「嫁にやるまい 海辺の村へ 夏は塩垂れ 冬は苧の根を叩く」 この里謡は食見のみならず、若狭各地の塩作りの苦しみを歌っており、古代における土器製塩にも、この里謡は通ずるものがある。 古代の塩作りにも男性と女性それに子供の作業分担というものが充分に考えられ、海水を汲む作業は、女性と子供の作業であった。 塩汲み女 昭和四十四年(一九六九)に、阿納海岸で船小屋建設作業中に、スコップで穴を掘っていた地元民が人間の頭骨を掘り出し、市教育委員会に通報があり、埋葬の可能性を考え調査を実施した。 その結果明らかに人為的に埋葬されたもので、その方法は身体の左側を下にして、足をおりまげた屈葬を示していた。腹部には六文銭が重なって残存し、これだけが唯一の副葬品であった。角釘が検出され、木棺が使われたことも判明した。 六枚の銅銭は、元豊通宝三枚、至和元宝二枚、皇宋通宝一枚であり、いずれも北宋銭である。従って埋葬の推定年代は、鎌倉時代を考えている。 人骨については、京都大学名誉教授池田次郎の鑑定を受けた。推定年齢三四・五歳前後、身長一四五センチの女性であるとの結果が出された。池田次郎博士の人骨についての所見で興味深いのは、人骨の腕の前後骨などに筋肉付着物が認められ、かなり肉体労働に従事していたことが伺える。調査に従事した者からは、博士の人骨の所見を聞いて反射的に「塩汲み女」だという声がおこったものである。 万葉の塩作りの時にも体験したことでもあり、前述の食見の里謡にもある塩汲み作業の過酷さは、言葉ではいい尽せぬ重労働であった。恐らく、女性や子供の分担だったのであろう、山椒大夫の話を思い出す。阿納の中世の女性は、三四・五歳でかなりの重労働に従事していたことが指摘されたが、多分塩作りに加わっていた女性で、真夏の炎天下、天びん棒に桶をかついで、塩汲みに従事していた女性であろう。 食見では浜禰ⅡA、ⅡB。阿納では浜禰Ⅰ式の製塩土器が出土している。 中世も佐分郷で、鎌倉期~戦国期に見える郷名。佐分利とも書く。建久7年6月の若狭国御家人交名案に佐分四郎時家の名が見える。建長2年6月10日の若狭国旧御家人跡注文案には彼の知行していた「佐分郷内恒国名田畠」は寛喜年間以後に守護方に押領されたと記されている。文永7年3月24日遠敷郡多烏浦の秦守高の記した多烏浦立始次第注進状によれば、多烏浦は開発者成重が平安末期から鎌倉初期の若狭の最有力在庁官人稲葉(庭)時定から与えられた「さふりのかう」の家を移建して開かれたとしており、稲葉時定没落後に佐分郷は守護領とされたのであろう。 文永2年11月の若狭国惣田数帳案に見える佐分郷は田数120町3反300歩で、除田のうちには岡安名・満願寺・福谷宮・野後宮・極楽寺(安養寺と明王寺に分かれている)・雑(新か)城寺・若宮の寺社田がある。元亨年間頃の朱注には、「国領」「地頭得宗領」と記されている。 鎌倉末期~南北朝期に若狭一宮・二宮社務の牟久氏一族の女性が「佐分下村明王寺別当伊勢房妻」になったと系図にある。この明王寺は若狭国惣田数帳案にも見え佐分利川上流の川上にあった寺と推定されているが、川上を「佐分下村」と称するのは通常の地名のあり方とは逆であるから「佐分下村」の位置もなお未詳とすべきであろう。 郷内福谷の伊射奈伎神社所蔵の大般若経奥書に「于時応永十三年〈丙戌〉閠六月七日、於若州大飯郡佐分□乎岡善楽寺書焉、大願主比丘周文」とある。嘉吉元年10月前守護一色義貫の残党が守護武田氏を攻撃したため、安芸国の守護でもある武田信賢の命を受けて参陣した安芸山県郡の国人吉川経信は同月22日佐分郷の戦いに勝利したという。 戦国期の明応元年8月24日の熊野那智大社御師禅長坊良有の檀那場売券には「サフリ」が見え、弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状にも「さふり谷村中」が560文を奉加したことが見える。 室町期~戦国期の室町将軍家奉公衆を記した番帳内に一番衆として「佐分彦六郎」「若州佐分右京亮、同彦六郎」があり、,佐分氏が当郷の支配を続けていたが、戦国期には郷内の石山城に拠った武田氏家臣武藤上野介が「佐分利殿」と称し郷を支配したと伝える。 近代の佐分利村は、明治22年~昭和30年の大飯郡の自治体名。村名は中世の佐分郷に由来する。川上・三森・安川・久保・石山・福谷・佐畑・小車田・鹿野・笹谷・神崎・広岡・岡安・万願寺の14か村が合併して成立。旧村名を継承した14大字を編成。役場を石山に設置。同30年大飯町の一部となり、当村の14大字は同町の大字に継承された。 『大飯郡誌』 佐分郷 [諸本缺訓〔高山寺本〕作佐文 諸本遠敷郡亦載佐文郷] 現今の佐分利村及本郷村の一部(野尻・父子)にして、明治時代まで變動無し。 〔大田文〕佐分郷…岡安…満願寺…福谷宮…野後(ノシリ?)宮… 〔若狭國守護職次第〕佐分郷又佐分利。 〔稚挟考〕 佐分は佐分里ならん。 〔若狭舊事考〕 又佐分利郷とも呼ぶ…十七村あり。○佐文佐分…ともに夫音に用ひるたる…地名には…をりをりある例佐分に利を助へて佐分利とも呼ぶ… 〔天文本見聞家紋帳〕攝州…佐分(サブリ)…川上村…長谷…の山路に佐布(サブ)峠と呼へる處もありかく土人のサブともサブリとも二さまに呼なれたるなどおもひ合するに猶字のまゝにサブと唱ふるぞ古なるべき さて佐文の名義考なし…天平七年讃岐…境田圖に、佐布田…此郷名も佐布より出たる一区の地名より出たるにあらざるか。 〔地名辞書〕 佐分は本文佐分利の利字を省略したるものなり。. 佐文(佐分)郷の主な歴史記録『大日本地名辞書』 佐分(サブリ)郷。大飯郡佐分郷、一本佐文。今佐分利村是なり、佐分は本来佐分利の利字を省略したるもの也、木津郷の南、本郷川の源にして、頭巾岳(丹波に跨る)の麓とす。 若狭国守護職次第、陸奥守重時朝臣、六波羅北殿、自寛喜三年御拝領之、御代官原小次郎兵衛尉広家、但守護領佐分郷西津開発斗也。(また同書に武藤上野介知行所、佐分利七ケ村とあり)吉川木、嘉吉元年十月廿二日、若州佐分郷に合戦、十一月に至りて敵陣(一色の党)小浜落居の由、文書に証すべし。○佐分利村大字石山イシヤマに佐分利殿の城址あり、俗説国主武田信賢の臣武藤上野介友益の居れる所とす、佐分利の奥より丹波何鹿郡に通ふ山道あり、逆谷(サカサマダニ)と名づく。太平記、康安元年十月、仁木三郎山陰道の軍兵を率ゐて、此谷より若州へ討入りしとぞ。〔若狭志〕 補【佐分郷】大飯郡○和名抄郡郷考、佐支の誤にて共にサキリとよむにはあらぬか、三方郡に佐支神社あり、神名式に見ゆ、また考べし。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『大飯町誌』 その他たくさん |
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