芝崎(しばさき)
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福井県大飯郡おおい町芝崎 福井県大飯郡大飯町芝崎 福井県大飯郡本郷村芝崎 |
芝崎の概要《芝崎の概要》 佐分利川下流域右岸の農地が広がる一帯。農地と言っても方向感覚を失うほどに広い、大きな農業機械を使って農業しようとするための耕地整理ができている。 岡田の対岸、山田の間。町農協ライスセンター↑がある(地籍は本郷という)が、そのあたりである。「滝水千軒」の古い村の面影はもうない。 芝崎村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。寺院は元和元年創建と伝える地蔵庵があったが廃絶。字墓前に八幡神社があったが大正9年大飯神社に合祀された。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年本郷村の大字となる。 芝崎は、明治22年~現在の大字名。はじめ本郷村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北1町、戸数12、人口は男43・女32。 《芝崎の人口・世帯数》 46・17 《芝崎の主な社寺など》 古墳 滝見古墳群(野尻) 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 芝崎の主な歴史記録『大飯町誌』 芝崎 役場から二・六キロメートルの所にある。滝水千軒の名残の集落と考えられるが、千軒集落の大部分は野尻へ行き、一部分がこの集落に残ったようである。野尻は元佐分利郷であり、芝崎は大飯郷に属していたから、武藤上野介と本郷泰茂との勢力争いの結果領分が決められたものであろう。 『若狭郡県志』には芝崎村と野尻村の間が半里もあるようになっているが何か事情があったのであろう。 芝崎の区域中に古墳が幾つかあったと伝えているが、今は塚本家の邸内に取り込まれているものだけになっている。相当な規模の横穴式円墳のようであるが、外郭がかなり変形され、石室も物置に利用されていて、詳細な測定はできないが、この集落の古い面影がしのばれる。 滝水地区にある多数の古墳は、今野尻地籍になるのでここには省略するが、芝崎と無関係ではない。殊に地籍中に滝水千軒の五力村の地名(貝谷村、滝水村、茶屋本村、円廻り村、梵王寺村)にちなんだ字名が残っていることはその一つの証拠である。 寺堂 寺は元地蔵庵(元和元年(一六一五)創建)、本尊は延命地蔵菩薩(木造立像丈二尺五寸くらい)で高野の聖が回国の途中ここで滞在したところ、たまたま病にかかって死亡した(聖の塚があったが度々崩されたという)。よってその背負って来た地蔵を本尊として一宇を建立したのだとの伝説がある。 また、野尻・西広寺の周珍和尚の退隠地として建てたともいう。代々老尼が住んでいたが今は無住である。堂は安永二年(一七七三)に村の信徒によって再建されたが、傷みがひどく昭和五十七年(一九八二)改築された。ちなみに芝崎区の全戸は野尻・西広寺の檀徒である。 神社跡 字墓前という所に八幡神社の跡がある。大正九年(一九二〇)五月二十四日に大飯神社に合祀した。この社の由来は不明である。区民は昔から大飯神社の氏子であった。 芝崎の伝説芝崎の小字一覧芝崎 緑廻 堂山 墓前 狐塚 洲崎 村中 細田 棚田 塚本 東竹見 東開谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『大飯町誌』 その他たくさん |
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